大東亜共栄圏

大東亜共栄圏
旧字体大東亞共榮圈
Greater East Asia Co-Prosperity Sphere
Manchukuo011.jpg
大東亜共栄圏のポスター
Greater East Asia Conference.JPG
大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ)、張景恵)、汪兆銘)、東條英機)、ワンワイタヤーコーン)、ホセ・ラウレル)、スバス・チャンドラ・ボース
Greater Asian Co-prosperity sphere.png
大東亜共栄圏
標語 八紘一宇
設立 1940年
設立者
解散 1945年
種類 集団安全保障
法的地位 地域グループ
目的 欧米植民地支配からのアジア諸国の独立
本部 東京
会員数
7ヶ国

大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん、旧字体大東亞共榮圈、Greater East Asia Coprosperity Sphere または Greater East Asia Prosperity Sphere)は、太平洋戦争(日本側呼称・大東亜戦争)を背景に、第2次近衛内閣1940年昭和15年〉)から日本の降伏1945年〈昭和20年〉)まで唱えられた日本の対アジア政策構想である。

太平洋戦争期、日本政府がアジア諸国と協力して提起し[1]東條英機の表現によれば、共栄圏建設の根本方針は「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」することにあった[2]。先立つ1938年9月の満州事変当時には「日満一体」[3]、11月に第1次近衛内閣が日中戦争の長期化を受けて「東亜新秩序」の建設を声明しており、大東亜(だいとうあ)とは「」に東南アジアインドオセアニアの一部も加えた範囲とされている[4][5]

概要

日本の10銭切手(1942年発行)。地図は切手の縦横比に収まるようにデフォルメされ、島や大陸の位置関係が実際より縮小気味に描かれている
インドネシア地図参照)。

大東亜共栄圏は、「日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想とそれに含まれる地域」を指す[6]第2次近衛文麿内閣の発足時の「基本国策要綱」(1940年7月26日)に「大東亜新秩序」の建設として掲げられ、国内の「新体制」確立と並ぶ基本方針とされた[6][7]。これはドイツ国の「生存圏(Lebensraum)」理論の影響を受けており、「共栄圏」の用語は外相松岡洋右に由来する[6][7]

アジア諸国が一致団結して欧米勢力をアジアから追い出し、日本満洲中国フィリピンタイビルマインドを中心とし、フランス領インドシナ(仏印)、イギリス領マラヤイギリス領北ボルネオオランダ領東インド(蘭印)、オーストラリア・経済的な共存共栄を図る政策だった[8]

「大東亜が日本の生存圏」

日本・満州国・中華民国を一つの経済共同体日満支経済ブロック)とし、東南アジア資源の供給地域に、南太平洋国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。但し、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義等は当初必ずしも明確にされていなかった。

用語としては陸軍岩畔豪雄堀場一雄が作ったものともいわれ、1940年昭和15年)7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話に使われてから流行語化した。公式文書としては1941年(昭和16年)1月30日の「対仏印、泰施策要綱」が初出とされる。但し、この語に先んじて1938年(昭和13年)には「東亜新秩序」の語が近衛文麿によって用いられている。

大東亜共同宣言

1941年(昭和16年)に日本がアメリカイギリス宣戦布告をして太平洋戦争が勃発し、アジアに本格的に進出すると、日本は大東亜共栄圏の建設を対外的な目標に掲げることになった[9]大東亜建設審議会も参照)。1943年(昭和18年)には日本の占領地域で欧米列強の植民地支配から「独立」させた大東亜共栄圏内各国首脳が東京に集まって大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言が採択された。

東条首相の説明

1941年(昭和16年)12月の開戦直後に開かれた第79回帝国議会の会期中、1942年(昭和17年)1月に行われた東條英機首相の施政方針演説で「大東亜共栄圏建設の根本方針」を「大東亜の各国家及各民族をして、各々其の処を得しめ、帝国を核心とする道義に基く共存共栄の秩序を確立せんとするに在る」[10][11]と説明した。 重要資源を取るための国は主に満州国中華民国フランス領インドシナ仏印)、タイイギリス領ビルマイギリス領マラヤオランダ領東インド(蘭印)、フィリピンからだった。

大東亜共栄圏の実態と評価

大東亜共栄圏の最大版図領域。大日本帝国の領域(南樺太、千島、朝鮮、台湾を含む)は濃い赤、その「同盟国」は暗赤色。 従属国・占領地は薄い赤で表示される。

大東亜共栄圏は、アジアの欧米列強植民地をその支配から独立させ、大日本帝国・満州国中華民国を中心とする国家連合を実現させるものであるとされた。大東亜共同宣言には、『相互協力・独立尊重』などの旨が明記されている。

しかしながら、大東亜共栄圏を構成していたフィリピン第二共和国ラオス王国ビルマ国満州国の各政府と汪兆銘政権中華民国)は、実際にはいずれも日本政府や日本軍の指導の下に置かれた傀儡政権または従属国であるとされる事もあり、「実質的には日本による植民地支配を目指したものに過ぎなかった」とする意見も中にはある。特に、フィリピンとビルマに関しては戦前には民選による自治政府が存在し、日本の影響下に置かれた大東亜共栄圏内にあっては選挙等の民主的手続きによらず、政府首脳には日本側が選任した人物(親日的、協力的な人物)が就任していたため、「実質的な独立からはむしろ遠ざかったのではないか」という批判もある。

1943年(昭和18年)5月31日御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」ではイギリス領マラヤオランダ領東インド(蘭印)は日本領に編入することとなっていた(但し、蘭印については、1944年(昭和19年)9月7日小磯声明で将来的な独立を約束した)。特にイギリス領マラヤの一部だったシンガポールは、日本への編入を見越して昭南特別市と改称された。この「大東亜政略指導大綱」にはこれらの地域を日本領とする理由が「重要資源ノ供給源」とするためと明確に謳われており(第二 六 (イ))、しかもこれについては「当分発表セス」とされていた。大東亜政略指導大綱による日本政府の意図としては、大東亜共栄圏はあくまで日本が戦争を遂行するためのものであった。また、当時の日本の知識人も「大東亜の民族解放は民族皇化運動である」[12]、「大東亜共栄圏の構想に於いては、個別国家の観念は許されるべきではない」[13]などと明言しており、大日本帝国を頂点としたヒエラルキー構造にアジア各国を組み込んでいく構想だったことが伺える。

フィリピンは1944年の独立がすでに約束されており、日本も1943年5月に御前会議でフィリピンを独立させた。1945年の日本の敗戦後、1946年のマニラ条約によりフィリピン第3共和国が独立した。

1941年にドイツの強い影響下にあったヴィシー・フランスの植民地インドシナ連邦(仏印)においては、日本軍はヴィシー政府と協定を結んでインドシナに駐留し(仏印進駐)、フランス植民地政府による支配を1945年(昭和20年)3月9日明号作戦発動まで承認した。日本の敗戦後、インドシナ支配を回復したフランスと独立を目指すベトミンの間で第一次インドシナ戦争が勃発し、長いインドシナ戦争の時代を迎えることになった。

日本軍は共栄圏内において日本語による皇民化教育宮城遥拝の推奨、神社造営、人物両面の資源の接収等をおこなった事もあり、実質的な独立を与えないまま敗戦したことから、日本もかつての宗主国と同じ加害者であるという見方がある一方で、日本が旧宗主国の支配を排除し、現地人からなる軍事力を創設したことが戦後の独立に繋がった、よって加害者ではなく解放者だったという評価や、基本的には日本はあまり良い事をしなかったとしつつも、大東亜共栄圏下で様々な施政の改善(学校教育の拡充、現地語の公用語化、在来民族の高官登用、華人インド人等の外来諸民族の権利の剥奪制限等)が行われたため、旧宗主国よりはずっとマシな統治者だったという見方もある。一方で1943年(昭和18年)7月1日の厚生省研究所人口民族部(現・国立社会保障・人口問題研究所)が作成した報告書では、日本人はアジア諸民族の家長として「永遠に」アジアを統治する使命があると記されていることから、結局大東亜共栄圏の構想は欧米の植民地主義にとって変わる新たなる植民地主義の到来にすぎなかったという意見もあり、その功罪と正否については今なお議論が続いている。

肯定的な評価としては、イギリスの歴史学者トインビーが1956年10月28日の英紙『オブザーバー』に発表した以下のような分析が知られている[14][15][16][17][18][19]

第二次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。 — アーノルド・J・トインビー 英紙『オブザーバー』11面、1956年10月28日[14][15][注釈 1]

崩壊とその後

日本の敗戦により大東亜共栄圏は崩壊した。その後、オランダイギリスフランスなどの旧宗主国が植民地支配の再開を図ったが、インドネシアインドシナ、更にはインドなどでも日本占領下で創設された民族軍等が独立勢力として旧宗主国と戦い独立を果たすことになる。日本軍による占領をきっかけとする各民族の独立機運の高まりにより旧宗主国による植民地支配の終焉へとつながったとする見解もしばしば主張される。一方でフィリピンのフクバラハップベトナムベトミンのような現地住民による抗日ゲリラもしばしば発生しており、これらが後の独立運動に与えた影響も大きい。

八紘一宇

大東亜共栄圏を語る上で重要な概念にこの語がある。この語は日本が大東亜共栄圏の建設を推進するための政策標語(スローガン)として広く掲げられた。

アジア主義との関係

大東亜共栄圏構想は、アジアが一体となって欧米に対抗すべきであるという汎アジア主義の影響を受けている。汎アジア主義を唱えた近代日本の思想家としては北一輝石原莞爾等があげられる。又、江戸時代後期の経世家佐藤信淵にその思想的ルーツを求める見解もある[20]

自民党議員で鹿島建設会長の鹿島守之助は外交官を務めていた戦前より「汎アジア」を提唱していた。その「汎アジア」を外交官時代の鹿島に熱心に説いたのは「汎欧州」を掲げる欧州連合の父クーデンホーフ=カレルギー伯爵である[21]。鹿島は第二次世界大戦中、「汎アジア」と大東亜共栄圏を同一視し始めた[22]。鹿島は『帝国の外交と大東亜共栄圏』(翼賛図書刊行会、1943年)において、クーデンホーフ=カレルギー伯爵は汎アジア主義を抱いていたと証言している[23]

大東亞共榮圏の建設は私の二十年来の持論であり又理想である。抑も之を實現せしむべく熱心に説いた者は日本人を母に持つ墺洪國貴族クーデンホーフカレルギー伯であつた。 — 鹿島守之助、『帝國の外交と大東亞共榮圏』(翼贊圖書刊行會、1943年)

脚注

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注釈

  1. ^ ちなみにヘンリー 2012, pp. 127–128での日本語訳では以下のように書かれている。
    日本は第二次世界大戦において、自国ではなく、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。それまでアジア・アフリカを200年の長きにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は実際にはそうではなかったことを、人類の面前で証明してしまった。これは、まさに歴史的な偉業であった。…日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人類差別に終止符を打つことをなしとげた。 — アーノルド・J・トインビー 英紙『オブザーバー』1956年10月28日[19]

出典

  1. ^ a b 長谷川啓之「大東亜共栄圏」『現代アジア事典』文眞堂、2009年7月20日 第1版第1刷発行、ISBN 978-4-8309-4649-3、624頁。
  2. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『リンク表示名(省略可)』 - コトバンク
  3. ^ 大東亜共栄圏 コトバンク
  4. ^ 世界大百科事典 第2版『リンク表示名(省略可)』 - コトバンク
  5. ^ 山本有造『「大東亜共栄圏」経済史研究』名古屋大学出版会、2011年 月9日30日 初版第1刷発行、ISBN 978-4-8158-0680-4、ii頁。
  6. ^ a b c 日立ソリューションズ・クリエイト 「大東亜共栄圏」『世界大百科事典 第2版』 日立ソリューションズ・クリエイト
  7. ^ a b アジ歴トピックス - I 戦争・事件 - 太平洋戦争/大東亜戦争 - 大東亜共栄圏”. www.jacar.go.jp. 2021年2月2日閲覧。
  8. ^ 日立ソリューションズ・クリエイト 「大東亜共栄圏」『百科事典マイペディア』 日立ソリューションズ・クリエイト
  9. ^ Akira Iriye (1999), Pearl Harbor and the Coming of the Pacific War: A Brief History with Documents and Essays, Boston and New York: Bedford/ St. Martins, p.6.
  10. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰(1959)『昭和史』[新版]、岩波書店 〈岩波新書355〉、216ページ
  11. ^ 大東亜宣言の世界史的意義、東京朝日新聞、1942年1月23日(神戸大学電子図書館システム)
  12. ^ 『大東亜皇化の理念 』国防科学研究叢書 富士書店 1942年
  13. ^ 『大東亜戦争の神話的意義』 大串兎代夫 文部省数学局 1942年
  14. ^ a b アーノルド・J・トインビー「Historian en Route The Shopkeepers From China」、英紙『オブザーバー』11面(1956年10月28日)
  15. ^ a b 水間 2013, p. 1
  16. ^ レファレンス共同データベースI160803181420
  17. ^ レファレンス共同データベースI140304191445
  18. ^ 【日本に魅せられた 西洋の知性】アーノルド・J・トインビー 西洋は無敵でないこと示した日本(zakzak、2015年3月18日)
  19. ^ a b ヘンリー 2012, pp. 127–128
  20. ^ ロバート・D・エルドリッヂ『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』、南方新社、31ページ
  21. ^ 平川, 均 (名古屋大学経済学研究科教授) (2011年2月15日), “鹿島守之助とパン・アジア論への一試論”, SGRAレポート 58 (公益財団法人 渥美国際交流財団 関口グローバル研究会): p. 5, https://web.archive.org/web/20141129012955/http://www.aisf.or.jp/sgra/member/gcitizen/report/SGRAreport58.pdf 2014年12月9日閲覧。 
  22. ^ 平川 2011, pp. 31–33
  23. ^ 平川 2011, p. 15

参考文献

  • ヘンリー・スコット・ストークス; 加瀬英明 著、藤田裕行 訳 『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社新書、2012年8月。 ISBN 978-4396112875 
  • 水間政憲 『ひと目でわかる「アジア解放」時代の日本精神』PHP研究所、2013年8月。 ISBN 978-4569813899 

関連文献

関連項目