宮中祭祀

宮中祭祀の主要祭儀一覧
四方拝歳旦祭
元始祭
奏事始
昭和天皇祭(先帝祭
孝明天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
祈年祭
天長祭(天長節祭)
春季皇霊祭・春季神殿祭
神武天皇祭皇霊殿御神楽
香淳皇后例祭(先后の例祭)
節折大祓
明治天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
秋季皇霊祭・秋季神殿祭
神嘗祭
新嘗祭
賢所御神楽
大正天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
節折・大祓

宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)は、天皇国家国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀皇室祭祀とも呼ばれる。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)が祭典を行い、天皇が親拝する小祭、毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い、原則として1日には天皇が親拝する旬祭がある。

歴史

先史時代

部族社会においては、祭祀の家系は部族の創始者、すなわちその社会=世界の創造者に由来し、その地位は種々の神話伝承によって権威化されるという[3]。天皇、皇室もこうした古代社会以来の祭司王の伝統を代々受け継いでいるのである[3]

古墳時代

神話学者の松前健は「記紀」等に見える初期大王の記録や古社の記録等から初期ヤマト王権では三輪山を斎場とした日神祭祀があった可能性を指摘している[4]。やがてヤマト王権の勢力が日本の東西に広まるにつれ古くから日神崇拝の聖地として中央にも知られていた伊勢の地を大王の聖地とし、皇祖アマテラス大神と信仰するようになっていったのである[5][注 1]。「遅くとも六世紀前半」、「どんなに遅く見積もっても六世紀末以前」には皇祖神天照大神として伊勢神宮に祭られていたという[7]。 また大王自身も「カミ」を祭るのが本来の主要な任務であったとされ、しばしば「ウツシイワイ」を行ったという神武天皇や自ら神床に通夜し夢告を受けたという崇神天皇の記事にその様子が伝えられている[8]。奈良県桜井市の纏向遺跡からは三世紀中ごろのものとみられる祭祀土坑から祭祀で使用された食物、伊勢製の土器が出土し大嘗祭神饌との共通点も多く大王、天皇祭祀の原型が見られるという[9]

飛鳥~奈良時代

天武天皇持統天皇の時代に多くの国家祭祀が整備、成立したことが多くの先行研究であきらかになっている[10]新嘗祭大嘗祭の祭祀としての形式確立はこの時代と思われる[注 2]

奈良時代になると当時の先進国であった中国のの国家体制を範として律令の制定が行われた。この時に祭祀についても従来行われていた「カミマツリ」を神祇官を中心に再編成した。これが律令祭祀であり、その規定が神祇令である[11]。神祇令では10の四時祭と二つの臨時祭、二季に行われる大祓が規定された。祈年祭は唐の「祈穀郊(きこくこう)」に倣ったものと思われ、鎮火祭や道饗(みちあえ)祭は都城成立後と思われるが、それ以外は伝統的祭祀に由来するという[12]。また神祇官より全国の主要諸社に定期的に幣帛を頒布することで地方神社の祭祀にも関与した[11]。特に伊勢神宮神嘗祭には宮中にて天皇自ら伊勢神宮を遥拝する勅使発遣の儀が行われ幣帛が毎年必ず送られるとされた(伊勢例幣使)(現在の神嘗祭賢所の儀)[13][14]

平安時代

平安時代には年始の「元旦四方拝」や宮中での天皇の毎朝の祈りの神事である「毎朝御拝」や宮中女官による内侍所祭祀が成立した[15]。また他にも天皇親祭の新嘗祭神今食神祇官による祈年祭御体御卜(おおみまのみうら)などが継承されている[16]

平安期には官社から名神が選ばれ、名神奉幣が行われるようになった。九世紀末にはさらに数が絞られて十六社奉幣の制が成立した。これは天皇守護神(伊勢、石清水、賀茂、平野)、王城守護神(賀茂、松尾、平野、稲荷)、対外関係守護神(住吉)、藤原氏氏神(春日、大原野)大和の名社(大神、石上、大和、広瀬、龍田)、祈雨神(丹生、貴布禰)である。その後、正歴二年に吉田、北野、広田が正歴五年に梅宮、長徳二年に祇園、長歴三年に日吉社が加わり、最終的には二十二社奉幣となった。二十二社には二月と七月の年二回、祈年穀奉幣が行われた[17]

病気疫病地震火災天災といった災い事は祟りなどが起こすものと考えられ、祟りを起こす神の存在をに例えたり、疫神として恐れていた[18][19][20]

疫神祭、鎮花祭、風神祭、大祓、宮城四隅疫神祭、防解火災祭、螢惑星祭[21][22]等の陰陽道が平安貴族社会を基盤にして呪術的に展開されており、律令制の神祇祭祀の中に、陰陽要素を含んでいた[21][23]

また日夜、天皇を密教修法により護持する護持僧が置かれ、御七日御修法大元帥法など密教による護国修法が宮中で行われるようになったのもこの頃からである[24]。他にも新嘗祭、月次祭、祈年祭、神今食、神社への勅使派遣などの祭祀が行われていた[25]

律令国家の成立以来、祭祀の法制化が進んだが、一応『延喜式』で纏まりを見せる[26]

鎌倉~戦国時代

豊臣秀吉による陰陽師弾圧迫害が始まり、祈祷占い生業とする陰陽師を地方に追いやり、一気に力を失っていき、当時陰陽寮にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた[27][28][29]戦国時代迫害で、筆頭の土御門家であっても陰陽道の相伝や法具などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「大法」の泰山府君祭(たいざんふくんさい)の祭壇も喪失し、京都吉田神社から法具を借用して御所の地鎮祭を行った。その影響が大きくあり、宮中祭祀は神道色を色濃くしていった[30][31][32][33]。一方陰陽道は、幕府からの認可のもと、土御門泰福垂加神道の影響を受けて天社神道として神道化させた[34]

鎌倉時代から戦国時代になると戦乱により多くの祭祀が中断することになった。特に応仁の乱の影響が大きく神嘗祭例幣使、祈年祭月次祭が中絶し神祇官も焼失してしまった。新嘗祭は乱以前の寛正四年(1463年)に中絶した。後奈良天皇は大嘗祭のできないことを伊勢神宮にお詫びした(天文14年8月)。朝廷の祭祀は内侍所祭祀、伊勢神宮への臨時奉幣、京近辺の神社への勅使派遣程度に縮小したが、内侍所では白川家による百度祓、千度祓、吉田家による清祓が文明頃から確認され、「内侍所法楽御楽」や「内侍所法楽和歌」なども室町時代から行われ、元日は廷臣の参拝も許され「内侍所御神楽」は貴賤の群衆が見物できたという[35]

近世、江戸時代

中世の順徳天皇は、『禁秘抄』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は肇国以来「神事」を最優先としている[36]

江戸時代の天皇は神事再興を第一の悲願とし[37]、幕府の援助を得て大嘗祭新嘗祭など戦乱により途絶えていた多くの神事を再興した[38]。また毎朝御拝四方拝など、江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事もある[39]

近世の宮中祭祀も中世より引き継がれた内侍所(現賢所)の祭祀を中心に行われた[40]。また節分の日には庶民にも内侍所の参詣が許され、内侍所の刀自(今の内掌典か)に鈴を上げてもらい(「御鈴上げ」)供米や煎り豆を賜ったりしたという[41]

江戸時代中・後期には国学水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり祭祀の再興が盛んになったという背景もあり[42]、幕末には孝明天皇により神武天皇祭が制定された[43]

明治期から戦前まで

今日行われている祭祀は、江戸時代後期から明治維新期に大宝令貞観儀式延喜式などを継承して再編された物も多い。

1871年明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令皇室令の一つとして制定された[44]

近代制度としての宮中祭祀が確立して以降の天皇では明治天皇大正天皇は帝国の元首としての多忙のため、侍従らが代拝するのが主であった[注 3]。一方で、貞明皇后昭和天皇香淳皇后は非常に熱心であった。

明治天皇は敬神の念篤く、賢所の御拝、新嘗祭の親祭もされていたことは側近の者が記録している。また年に2,3回、剣璽の間の奥で古くからの皇親の御霊位をかなり長い間非常に熱心に御拝されていたという(これは大正時代に中止され御霊位は賢所におさめられたという)[47]。また戦争には反対であった明治天皇は日清戦争の宣戦布告の報告のために伊勢神宮と孝明天皇陵に勅使を派遣することを拒否しており、宮中三殿での奉告祭にも出御しなかっという[48]

宮城内の水田では稲作が行われ、昭和天皇以降はみずから田植えをするようになった[注 4]。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている。

戦争中の1945年(昭和20年)の元旦には、B29爆撃機の襲来を知らせる空襲警報が鳴ったが、昭和天皇は防空壕としていた御文庫前を臨時の斎場として四方拝を執り行った[49][注 5]

戦後

1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省宮内府宮内庁へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった。

これに合わせて、皇室祭祀令など戦前の皇室令も、一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し、「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認している[51]

昭和天皇は昭和20年9月3日に宮中三殿に、警備もほとんどない状態で11月13日に伊勢神宮外宮内宮に、15日には多摩陵に行幸して終戦を自ら報告した[52]。また百二十三代の歴代天皇陵に高松宮三笠宮賀陽宮邦寿王閑院宮春仁王竹田宮恒徳王朝香宮鳩彦王東久邇宮盛厚王らを代拝に立て、終戦の報告と新日本建設の加護をお願いした[53]

日本国憲法下の位置付け

日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」と解釈する憲法学者もいる。

葦津珍彦は内廷における宮中祭祀は国家権力の及ぼざる範囲による『皇室の重儀』であるとした[54]小堀圭一郎は「宮中祭祀とは決して皇室の私事ではなく、日本人の敬神崇祖といふ精神伝統それ自体の代表であり、象徴である」と述べている[55]

宮内庁の公式HPでは、宮中祭祀を「宮中のご公務など」の項で説明している[56]

内閣総理大臣はじめ三権の長が、大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。佐藤栄作は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、NHKスペシャル『象徴天皇 素顔の記録』[57](2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の内閣総理大臣・麻生太郎ほか三権の長が、春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。

在位後期に侍従長であった入江相政は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から窺えるが、昭和天皇は1986年(昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。

第125代天皇明仁と皇后美智子も祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず親拝していた。

平成28年8月8日、当時の天皇明仁譲位し退位する意向を伝える国民に向けたビデオメッセージの中で「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々の深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と語っている[58]

黄櫨染御袍を召す上皇陛下(1990年) 御祭服姿の上皇陛下
黄櫨染御袍を召す上皇陛下(1990年)
御祭服姿の上皇陛下

祭祀に関しては、事前の潔斎と平安装束を召す事に加え、長時間の正座が必要であり、昭和天皇は祭祀が近づくと、正座にてテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。上皇も新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をしていたといわれていたが、在位20年を経た2009年平成21年)以降は、高齢の上皇の健康への配慮、負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画、実施されていた。


祭儀

太字のものは大祭

  • 1月1日 - 四方拝(しほうはい)、歳旦祭(さいたんさい)
  • 1月3日 - 元始祭(げんしさい)
  • 1月4日 - 奏事始(そうじはじめ)
  • 1月7日 - 昭和天皇祭(しょうわてんのうさい)
  • 1月30日 - 孝明天皇祭(こうめいてんのうさい)
  • 2月17日 - 祈年祭(きねんさい)
  • 2月23日 - 天長祭(てんちょうさい)
  • 春分の日 - 春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)、春季神殿祭(しゅんきしんでんさい)
  • 4月3日 - 神武天皇祭(じんむてんのうさい)、皇霊殿御神楽(こうれいでんみかぐら)
  • 6月16日 - 香淳皇后例祭(こうじゅんこうごうれいさい)
  • 6月30日 - 節折(よおり)、大祓(おおはらい)
  • 7月30日 - 明治天皇例祭(めいじてんのうれいさい)
  • 秋分の日 - 秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)、秋季神殿祭(しゅうきしんでんさい)
  • 10月17日 - 神嘗祭(かんなめさい)
  • 11月23日 - 新嘗祭(にいなめさい)
  • 12月中旬 - 賢所御神楽(かしこどころみかぐら)
  • 12月25日 -大正天皇祭(たいしょうてんのうさい)
  • 12月31日 - 節折、大祓

皇室祭祀令との差異

  • 2月11日 紀元節(きげんせつさい)の廃止。
    • ただし、廃止後も「臨時御拝」として、旬祭と同じ作法で祭祀の斎行が続けられた[59]。平成以降は「三殿御拝」に名称が改められ、同様に斎行されている[60]
  • 天長節祭から天長祭へ名称を変更。

服装

参列者の服装は、洋装の場合モーニングコート及びアフタヌーンドレス、和装の場合は白襟紋付及びそれに準ずるものとされている。冬期は、外套を着用する事ができる。

脚注

注釈

  1. ^ なおアマテラス大神以前の大王家の至高神はタカミムスビ神(高産霊神/高御産巣日神)であったと言われている[6]
  2. ^ 天武二年十二月には「大嘗」、天武五年九月、十一月と天武六年十一月には「新嘗」の記録が見られ、持統五年の十一月にも「大嘗」の記録が見られる[10]
  3. ^ 明治天皇の代拝が増加したのは日清戦争以降[45]、大正天皇の代拝が増加したのは病状が悪化して以降である[46]
  4. ^ 溥傑自伝は、満州国皇帝溥儀と昭和天皇の会話の後から天皇が親ら田に入るようになったとしている。
  5. ^ このように真摯に宮中祭祀に取り組まれていた昭和天皇であるが、じつは摂政宮時代の1922年の新嘗祭は出御せずビリヤードに興じていたという若かりし頃のエピソードもある[50]

出典

  1. ^ 神社本庁>神道>皇室祭祀 https://www.jinjahoncho.or.jp/en/publications/shinto/jp01.html 2023/12/20閲覧
  2. ^ 宮中祭祀”. 宮内庁. 2023年10月25日閲覧。
  3. ^ a b 佐々木宏幹 (1992), pp. 130–138.
  4. ^ 松前健 (2003), pp. 55–63.
  5. ^ 松前健 (2003), pp. 66–76.
  6. ^ 松前健 (2003), pp. 77–86.
  7. ^ 木村大樹 (2022), p. 22.
  8. ^ 伊藤聡 (2012), p. 24.
  9. ^ 木村大樹 (2022), pp. 93–94.
  10. ^ a b 木村大樹 (2022), p. 31.
  11. ^ a b 伊藤聡 (2012), pp. 33–37.
  12. ^ 伊藤聡 (2012), p. 35.
  13. ^ 木八束清貫 (1957), p. 20‐22.
  14. ^ 中澤伸弘 (2010), p. 78‐80.
  15. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), pp. 60–63.
  16. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), pp. 59–61.
  17. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), pp. 54–55.
  18. ^ 小池康寿 (2015), p. 36.
  19. ^ 斎藤英喜 (2007), p. 31.
  20. ^ 繁田信一 (2005), p. 129.
  21. ^ a b 小池康寿 (2015), p. 38.
  22. ^ 林淳 (2005), p. 53.
  23. ^ 林淳 (2005), p. 52.
  24. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), p. 81.
  25. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), pp. 56–63.
  26. ^ 榎村寛之 (2010), pp. 71–72.
  27. ^ 小池康寿 (2015), p. 33.
  28. ^ 林淳 (2005), pp. 44–48.
  29. ^ 圭室文雄 (2006), p. 279.
  30. ^ 小池康寿 (2015), p. 34.
  31. ^ 繁田信一 (2006), pp. 72–76.
  32. ^ 林淳 (2005), pp. 75–77.
  33. ^ 岡田荘司 (2010), pp. 136–137.
  34. ^ 木場明志 (1982), pp. 55–65.
  35. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), pp. 120–129.
  36. ^ 中澤伸弘 (2010), p. 15.
  37. ^ 藤田覚『江戸時代の天皇』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年5月10日、23‐24頁
  38. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), pp. 136–137.
  39. ^ 中澤伸弘 (2010), pp. 59–61.
  40. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), p. 133.
  41. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), pp. 133–138.
  42. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), pp. 165–170.
  43. ^ 武田秀章 (1996), pp. 79–82.
  44. ^ 西川誠 (2018), pp. 300–305.
  45. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), pp. 232–234.
  46. ^ 小倉慈司 & 山口輝臣 (2018), p. 235.
  47. ^ 坊城俊良 (2018), pp. 43–45.
  48. ^ 西川誠 (2018), pp. 255–256.
  49. ^ 藤田尚徳 (2015), pp. 9–11.
  50. ^ 原武史 (2008), p. 67.
  51. ^ 宮内省以命通牒(昭和22年5月3日宮内府長官官房文書課発第45号)
  52. ^ 木下道雄 (2017), pp. 545–548.
  53. ^ 木下道雄 (2017), pp. 554–556.
  54. ^ 「中外日報」昭和59年2月10日付・『小日本』昭和59年10月
  55. ^ 小堀圭一郎「象徴天皇考」明成社 2019‐4‐10 83頁
  56. ^ 宮中祭祀 宮内庁ホームページ 皇室のご公務
  57. ^ NHKスペシャル 象徴天皇 素顔の記録 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  58. ^ 茂木貞純 & 佐藤健二 (2019), p. 10.
  59. ^ 大岡弘 (2009), p. 113.
  60. ^ 宮中祭祀のお出まし”. 宮内庁. 2023年10月25日閲覧。

参考文献

図書
  • 八束清貫『皇室と神宮』神宮司廳教導部、1957年6月。
  • 高橋紘『象徴天皇』岩波書店岩波新書〉、1987年4月。 ISBN 4004203724
  • 佐々木宏幹『シャーマニズムの世界』講談社講談社学術文庫〉、1992年12月(原著1983年9月)。 ISBN 4061590553
  • 武田秀章『維新期天皇祭祀の研究』大明堂〈神道文化叢書〉、1996年12月。 ISBN 4470200441
  • 松前健『古代王権の神話学』雄山閣、2003年1月。 ISBN 4639017863
  • 繁田信一『平安貴族と陰陽師』吉川弘文館、2005年5月。 ISBN 9784642079426
  • 林淳『近世陰陽道の研究』吉川弘文館、2005年12月。 ISBN 9784642034074
  • 圭室文雄『日本人の宗教と庶民信仰』吉川弘文館、2006年3月。 ISBN 9784642013673
  • 斎藤英喜『陰陽道の神々』佛教大学通信教育部、2007年10月。 ISBN 9784784213665
  • 原武史『昭和天皇』岩波書店〈岩波新書〉、2008年1月。 ISBN 9784004311119
  • 岡田荘司『日本神道史』吉川弘文館、2010年6月。 ISBN 9784642080385
  • 中澤伸弘『宮中祭祀:連綿と続く天皇の祈り』展転社、2010年7月。 ISBN 9784886563460
  • 伊藤聡『神道とは何か:神と仏の日本史』中央公論新社中公新書〉、2012年4月。 ISBN 9784121021588
  • 藤田尚徳『侍従長の回想』講談社〈講談社学術文庫〉、2015年3月(原著1961年10月)。 ISBN 9784062922845
  • 小池康寿『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』プレジデント社、2015年11月。 ISBN 9784833421492
  • 木下道雄 著、高橋紘 編『側近日誌:侍従次長が見た終戦直後の天皇』中央公論新社〈中公文庫〉、2017年2月(原著1990年6月)。 ISBN 9784122063686
  • 西川誠『明治天皇の大日本帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年6月(原著2011年7月)。 ISBN 9784065118511
  • 小倉慈司、山口輝臣『天皇と宗教』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年8月(原著2011年9月)。 ISBN 9784065126714
  • 坊城俊良『宮中五十年』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年10月(原著1960年)。 ISBN 9784065133828
  • 茂木貞純、佐藤健二『時代を動かした天皇の言葉』グッドブックス、2019年9月。 ISBN 9784907461225
  • 木村大樹『古代天皇祭祀の研究』吉川弘文館、2022年1月。 ISBN 9784642046657
論文
辞書類
  • 安津素彦、梅田義彦 編『神道辭典』堀書店、1968年8月。
  • 國學院大學日本文化研究所 編『神道事典』(縮刷版)弘文堂、1999年5月(原著1994年7月)。 ISBN 433516033X
  • 薗田稔、橋本政宣 編『神道史大辞典』吉川弘文館、2004年7月。 ISBN 4642013407
その他
  • 八木秀次「宮中祭祀廃止論に反駁する」(「正論」、2008年6月5日付)[1]
  • NHKスペシャル「象徴天皇 素顔の記録」(NHK、2009年4月10日放送、のちDVD)

関連項目

外部リンク