日本とアフガニスタンの関係

日本とアフガニスタンの関係
AfghanistanとJapanの位置を示した地図

アフガニスタン

日本

日本アフガニスタンの関係(にほんとアフガニスタンのかんけい、パシュトー語: د افغانستان او جاپان اړیکېダリー語: روابط افغانستان و ژاپن英語: Afghanistan–Japan relations)は、1930年11月19日国交を樹立し、1931年7月26日に修好条約を締結したことで始まった。

歴史

アフガニスタンと日本との国交樹立の動きは遅くとも1920年に始まった[2]。この動きはアフガニスタン側から起こされた。1920年にアマーヌッラー・ハーン大正天皇に親書を送った。1922年4月には修好条約締結の呼びかけがなされ、8月には親善を目的とする使節の派遣をアフガニスタンが申し出たが、アフガニスタンの旧宗主国であるイギリスとの関係を憂慮した日本はそれらの申し出を断った[3]

1923年、日本のインド駐在武官であった谷寿夫がアフガニスタン外相であったマフムード・タルズィーから受け取った、両国間の親善関係の樹立を望む旨の書簡を日本に持ち帰った。これに対して日本の外務省は「日本もアフガニスタンに深い情誼をもっている」と回答した[3]

アフガニスタンと日本の国交は1930年11月に調印され、1931年7月に公布された日本アフガニスタン修好条約によって開かれた。1933年8月にはアフガニスタンが東京に公使館を開設し、ハビブッラー・ハーン・タルズィーが初代公使に就任した。1934年11月には日本がカーブルに公使館を開設し、北田正元が初代公使に就任した[4]

1934年1月には日本陸軍からアフガニスタン陸軍三八式歩兵銃などの銃火器が贈呈され、同年12月にはアフガニスタン陸軍省が日本から武器を購入することを決定した[5]

第二次世界大戦中および戦後数年間の閉鎖を経て、まず在アフガニスタン日本国公使館として再開され、1955年には日本国大使館へと昇格した。1971年皇太子明仁親王皇太子妃美智子(当時)がアフガニスタンを初訪問した[1]1979年に起きたソビエト連邦軍によるアフガニスタン侵攻の後、アフガニスタンの累次政権をアフガニスタンの正式な政府と認めず、臨時大使のみ置く状況となり、さらに1989年2月にはカーブルの大使館を閉鎖した[1]

アフガニスタンの駐日外国公館は1933年にまず公使館として設立され、1956年には大使館に昇格しているが、1997年のターリバーンによるカーブル制圧以降、事実上閉鎖状態となった。2001年12月22日、日本はアフガニスタンの暫定政権をアフガニスタンの正式な政府と認定[1]2002年、日本はカーブルの大使館業務を再開、アフガニスタンもまた東京の駐日アフガニスタン大使館の業務を再開した。以降、日本は様々な形でアフガニスタンに援助を行っている。

2021年8月15日、ターリバーンのカーブル進出を受けて、既に大統領が国外逃亡したアシュラフ・ガニー政権の流れを汲む旧政府がターリバーンへの権力の移行を認めた[6]日本政府はターリバーン新政権との国交樹立を表明しないまま、在アフガニスタン大使館職員を退避させる方針を固めた[7]。同年10月27日、カタールドーハで日本の駐アフガニスタン大使とターリバーン政権の外相が会談。日本側はアフガニスタンに残る日本人、現地職員の安全確保と出国の実現を働きかけるとともに、人道支援に関しアクセスの確保や女性らの人権保護を求めた[8]

また、ターリバーンによる暫定政権の樹立に伴いアフガニスタン本国から駐日大使館への送金が停止されたが、ガニー政権時代に任命された最後の駐日大使シャイダ・モハマド・アブダリ給料を受け取らずアフガニスタン全体を代表する大使として引き続き日本に駐在している[9]

支援活動

日本は1990年までに69.1億円(有償含む)の資金協力及び23億円の技術協力を行っていたが、1997年5月10日にアフガニスタンとの国境に近いイランホラーサーン付近でM7.3の地震が発生し死者2,000人の被害が出ると日本は7500億円の無償資金提供を行った[1]。また、ターリバーンがカーブルを制圧した1996年以降には隣国のイランやパキスタンに逃れたアフガニスタン難民を帰還させるため国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などの国際機関に対して資金を提供し、難民の自発的な帰還を支援する[10]アズラ計画を開始、拡大アズラ計画も含め561万USドルを拠出、5~6万人の難民の帰還支援に成功した[11]。この事業は2002年以降もUNHCRやWFPと連携し拡大・継続して行われており、2012年までに500万人以上のアフガニスタン難民が帰還している[12]

アメリカ同時多発テロ事件に引き続いてアフガニスタン紛争が起こった2001年以降、日本はアフガニスタンに対し継続的に支援活動を行ってきた。2012年までに約49.35億USドルの支援を行っており、2012年7月8日東京で55の国と25の国際機関が出席して行われた国際会議では、2012年以降の5カ年において教育医療、農村開発などのインフラ整備及び警察などの治安維持能力向上の分野に関して約30億USドルの支援を行うことを決定している[13]

治安維持能力強化の分野に関しては警察官の識字教育・訓練によりアフガニスタン国内の警察官の人数は2008年時点の7.2万人から2012年時点で15.7万人まで2倍以上に増加しており、治安維持能力強化支援はアメリカ合衆国連邦政府とアフガニスタン政府から高く評価されている[13]。さらに、地雷除去機や資金を提供することで地雷除去(英語版)を行っている[14]他、麻薬密売によりテロ組織の温床となる事態を回避する[15]ため、パキスタンイランタジキスタンなどの周辺国との国境の管理や麻薬対策に関する支援を行っている[16]。また旧軍閥などへの武装解除・動員解除・社会復帰においては主導的な役割を果たし、6万人の武装解除を達成している[17]

インフラ整備の分野では国際連合食糧農業機関(FAO)を通じ、コメコムギの収穫量増加のため灌漑用水路や農村道路の整備や人材育成などのインフラ整備を行っており、ナンガルハール州での灌漑事業[18]では医師の中村哲が代表を務めたペシャワール会が中心的な役割を果たした。また、アジア開発銀行を通じ、国内の幹線道路700kmの開発、カーブル国際空港のターミナル建設事業やカーブル市バスの提供、地方道路の整備事業なども行っている。

教育・福祉の分野では、国際連合児童基金(UNICEF)との連携により1000以上の学校の修復・建設を行った[19]ほか、JICAによる1万人以上の教師育成、15の職業訓練校建設により、アフガニスタン国内の就学児童数は2001年の100万人未満から2011年には800万人以上にまで増加した[13]。また、日本の中古のランドセルがアフガニスタンへと無償供与され、アフガニスタンの子供たちの間で使用されている[20]。人材育成の分野では、アフガニスタンの行政官大学教員などの人材を育成するため、2011年よりJICAと連携してアフガニスタン留学生の日本の大学院への就学支援を行う「未来への架け橋・中核人材育成プロジェクト(PEACE)」を行っている[21]。2001年以前も行っていた人道支援は継続して行われており、赤十字国際委員会(ICRC)との連携による医療支援、国際連合食糧農業機関(WFP)との連携による食糧支援や航空サービスなどが行われている。

また、日本以外の国との連携による支援活動も行っており、北大西洋条約機構(NATO)地方復興チームとの連携により、教育・医療・インフラ整備など様々な分野の支援活動を行っている[22][23][24][25][26]

アフガニスタンから日本への支援としては、2011年3月に起きた東日本大震災の際には、アフガニスタン政府から100万USドルの支援表明があった[27]ほか、バーミヤーンチャグチャラーンでは日本との連帯を示す住民集会が行われ、国際連合人間居住計画(UNHABITAT)には日本へのお見舞いを伝えてほしい旨の要望が数多く届いた[13]

貿易

対アフガニスタンの貿易輸出入額は2021年時点で以下のようになっている。

  • 対アフガニスタン輸出額: 33億1186万1千円(2021年)[28][29]
  • 対アフガニスタン輸入額: 3387万7千円(2021年)[30][29]

外交使節

駐アフガニスタン日本大使・公使

駐日アフガニスタン大使・臨時代理大使・代理公使

30代前半で駐日アフガニスタン大使に就任したハルン・アミン。正式な駐日大使としては17年ぶりとなる。2015年、45歳で逝去。
  • ハベブッラー・ハーン・タルズィー(パシュトー語版、英語版)(1933~1939年)
  • 臨時代理大使)アブデッラウフ・ハーン(1939年)
  • ゾルファカール・ハーン(1939~1945年)

※1945~1956年は、アフガニスタンから日本への駐箚なし

  • アブデルマジード・ハーン(1956~1963年)
  • (臨時代理大使)イード・モハンマド・モハッバト(1963~1965年)
  • アブデッラヒーム(パシュトー語版)(1965~1967年)
  • (臨時代理大使)アブデルアズィーズ・アリー(1967年)
  • アブデルハキーム・タビービー(ドイツ語版)(1967~1970年)
  • (臨時代理大使)アブデルアハド・ムーマンド(1970年)
  • サイイェド・カーセム・レシュトヤー(パシュトー語版)(1970~1973年)
  • (臨時代理大使)モハンマド・サルワル・ダルマーニー(1973~1974年)
  • アリー・アフマド・プーパル(ドイツ語版)(1974~1976年)
  • (臨時代理大使)サアブッラー・ガウスィー(1976~1977年)
  • モハンマド・ハサン・シャルク(パシュトー語版、英語版)(1977~1978年)
  • (臨時代理大使)サアブッラー・ガウスィー(1978年、再任)
  • アブデルハミード・モフタート(パシュトー語版、ロシア語版)(1978~1987年[31]
  • (代理公使[32])シール・ラフマーン(1987年)
  • (代理公使[32])モハンマド・ナイーム(1987~1990年)
  • (代理公使[32])モハンマド・ラヒーム・ルービン(1990~1992年)
  • (代理公使[32])モハンマド・アーセフ・ハサニー(1992~1993年)
  • (代理公使[32])モハンマド・サイカル(1993~1994年)
  • (代理公使[32])ドゥーラト・ハーン・アフマドザイ(1994年)
  • (代理公使[32])アミール・モハンマド・モハッバト(1994~1996年)
  • (代理公使[32])ラフマテッラー・アミール(1996~1997年)

※1997~2002年は、アフガニスタンから日本への駐箚なし

  • (臨時代理大使)モハンマド・ヌール・アクバリー(パシュトー語版)(2002~2004年)
  • ハルン・アミン(2004~2009年、信任状捧呈は4月30日[33]
  • エクリル・アハマドゥ・ハキミ(英語版)(2009~2010年、信任状捧呈は6月19日[34]
  • (臨時代理大使)バシール・モハバット(2010年)
  • セイエド・ムハンマド・アミーン・ファテミ(パシュトー語版、英語版)(2010~2017年、信任状捧呈は12月27日[35]
  • (臨時代理大使)バシール・モハバット(2017年)
  • バシール・モハバット(臨時代理大使と同一人物、2017~2021年、信任状捧呈は7月19日[36]
  • (臨時代理大使)ナジブラ・サフィ(2021年)
  • シャイダ・モハマド・アブダリ(2021年~、信任状捧呈は5月27日[37]

脚注

  1. ^ a b c d e アフガニスタン基礎データ - 二国間関係”. 外務省. 2016年11月3日閲覧。
  2. ^ 澤田 2019, p. 81.
  3. ^ a b 澤田 2019, p. 82.
  4. ^ 澤田 2019, p. 78.
  5. ^ 澤田 2019, p. 84.
  6. ^ タリバーンへの「権力移行」 アフガン政府が認める声明:朝日新聞デジタル
  7. ^ アフガンの日本大使館職員退避へ 政府、事態の推移を注視 | 共同通信
  8. ^ 駐アフガン大使がタリバン幹部と会談 外務省発表”. 日本経済新聞 (2021年10月28日). 2021年10月29日閲覧。
  9. ^ 「大使館はタリバン政権の出先機関ではない」本国から送金なし…スタッフ7割削減…それでも無給で働くアフガン駐日大使の思い【報道特集】 | TBS NEWS
  10. ^ GRIPS Development Forum Policy Minutes”. 政策研究大学院大学 (2002年12月). 2014年1月5日閲覧。
  11. ^ アフガニスタン ─ タリバーンを巡る情勢 ─”. 難民事業本部. 2014年1月5日閲覧。
  12. ^ アフガニスタン 日本からの支援で帰還民の村に「光」が”. 国際連合食糧農業機関 (2012年6月20日). 2014年1月5日閲覧。
  13. ^ a b c d 日本のアフガニスタンへの支援 - 自立したアフガニスタンに向けて-”. 外務省 (2013年11月). 2014年1月5日閲覧。
  14. ^ Japan Donates 1 Million USD for Demining Operations in Afghanistan”. Tolo news (2013年7月4日). 2014年1月5日閲覧。
  15. ^ 宮家邦彦 (2012年7月6日). “視点・論点 「アフガン支援と日本外交」”. NHK. 2014年1月5日閲覧。
  16. ^ 「犯罪に強い社会の実現のための行動計画 2008」(平成 20 年 12 月 22 日決定)における主要な取組について - 第6 テロの脅威等への対処”. 首相官邸ホームページ (2012年7月20日). 2014年1月5日閲覧。
  17. ^ 外務省: アフガニスタンにおける元兵士の武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)計画における武装解除完了について”. 外務省 (2005年7月7日). 2014年1月5日閲覧。
  18. ^ 日本経済新聞社・日経BP社. “世界が注目、水を治める江戸の知恵 福岡・山田堰|旅行・レジャー|NIKKEI STYLE” (日本語). NIKKEI STYLE. 2019年5月30日閲覧。
  19. ^ アフガニスタン: 日本の援助で「1000の教室」が完成”. UNICEF (2013年5月13日). 2014年1月5日閲覧。
  20. ^ Used Japanese backpacks find new home in the hands of Afghan children”. The Japan Daily Press (2013年6月7日). 2014年1月5日閲覧。
  21. ^ アフガニスタンと日本をつなぐ未来の架け橋へ -国際大学でアフガニスタン留学生が初めて卒業-”. JICA (2013年7月1日). 2014年1月5日閲覧。
  22. ^ VICTORIA TUKE (2013年4月10日). “Japan’s Crucial Role in Afghanistan”. eastwestcenter.org. 2014年1月5日閲覧。
  23. ^ Japan: a valued partner in Afghanistan”. 北大西洋条約機構 (2011年4月28日). 2014年1月5日閲覧。
  24. ^ NATO cooperation with Japan”. 北大西洋条約機構 (2013年4月13日). 2014年1月5日閲覧。
  25. ^ 佐渡紀子 (2008年). “アフガニスタンにおける平和構築と日本”. 日本国際問題研究所. 2014年1月5日閲覧。
  26. ^ NATO, Japan sign joint declaration on closer bilateral ties”. The Japan Daily Press (2013年4月16日). 2014年1月5日閲覧。
  27. ^ アフガニスタン政府からの義捐金の寄付”. 外務省 (2011年3月29日). 2014年1月5日閲覧。
  28. ^ 2021年12月分 国別総額表 (輸出 1-12月:確々報) Page white excel.png (Microsoft Excelの.xls)”. 財務省貿易統計 (2022年3月11日). 2022年6月11日閲覧。
  29. ^ a b 外国貿易等に関する統計基本通達 別紙第1 統計国名符号表”. 財務省貿易統計. 2022年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月11日閲覧。
  30. ^ 2021年12月分 国別総額表 (輸入 1-12月:確々報) Page white excel.png (Microsoft Excelの.xls)”. 財務省貿易統計 (2022年3月11日). 2022年6月11日閲覧。
  31. ^ 当時、日本政府は共産主義政党アフガニスタン人民民主党による一党独裁体制の政権樹立を歓迎せず、同政権を支援するための1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻を非難した。そのため、日本政府はアフガニスタンとの外交関係のレベルを落として、新任の駐日アフガニスタン大使候補者に大使資格を与えなかった(アグレマンの拒否)。その一方で、既に在任していたモフタートの大使資格を剥奪したり、ペルソナ・ノン・グラータ認定で彼の外交官待遇を取り消すこともなかった。そのため、モフタート大使が9年弱という異例の長期在任をすることになった。『わが政府 かく崩壊せり: アフガニスタン―外国軍隊撤退開始に寄せて日本と世界に訴える』<解説=野口壽一>本書を理解するために
  32. ^ a b c d e f g h アフガニスタン民主共和国(共産主義政権)の派遣する外交使節に対して、日本政府は一貫して大使資格を与えなかった(アグレマンの拒否)。但し、外交関係を完全には断絶させずに、代理公使資格は与えている。
  33. ^ 新任駐日アフガニスタン大使の信任状捧呈について | 外務省 - 2004年4月28日
  34. ^ 外務省: 新任駐日アフガニスタン大使の信任状捧呈 - 2009年6月19日
  35. ^ 外務省: 新任駐日アフガニスタン大使の信任状捧呈 - 2010年12月27日
  36. ^ 駐日アフガニスタン大使の信任状捧呈”. 外務省 (2017年7月19日). 2017年7月22日閲覧。
  37. ^ 駐日アフガニスタン大使の信任状捧呈 | 外務省 - 2021年5月27日

参考文献

関連項目

外部リンク