明治天皇
| 明治天皇 | |
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| 即位礼 |
即位礼紫宸殿の儀 1868年10月12日 (慶応4年8月27日) 於 京都御所 |
| 大嘗祭 |
1871年12月28日 (明治4年11月17日) 於 東京府大嘗宮 |
| 元号 |
慶応: 1867年2月13日 - 1868年10月23日 明治: 1868年10月23日 - 1912年7月30日 |
| 時代 |
江戸時代 明治時代 |
| 摂政 | 二条斉敬 |
| 征夷大将軍 | 徳川慶喜 |
| 総裁 | 有栖川宮熾仁親王 |
| 輔相 | 三条実美・岩倉具視 |
| 左大臣 | 有栖川宮熾仁親王 |
| 右大臣 | 三条実美 |
| 太政大臣 | 三条実美 |
| 内閣総理大臣 | |
| 先代 | 孝明天皇 |
| 次代 | 大正天皇 |
| 誕生 |
1852年11月3日 (嘉永5年9月22日) 13時頃 中山忠能邸 (現:京都府京都市上京区京都御苑) |
| 崩御 |
1912年(明治45年)7月30日 午前0時43分(59歳没) 明治宮殿 (現:東京都千代田区) |
| 大喪儀 |
1912年(大正元年)9月13日 於 帝国陸軍青山練兵場 |
| 陵所 | 伏見桃山陵 |
| 追号 |
明治天皇 1912年(大正元年)8月27日追号勅定 |
| 諱 |
睦仁(むつひと) 万延元年9月28日命名 |
| 称号 | 祐宮(さちのみや) |
| 印 | 永 |
| 元服 |
1868年2月8日 (慶応4年1月15日) |
| 父親 | 孝明天皇 |
| 母親 | 中山慶子 |
| 皇后 |
昭憲皇太后(一条美子) 1869年2月9日 (明治元年12月28日)大婚 |
| 子女 | |
| 皇嗣 | 皇太子嘉仁親王 |
| 皇居 |
安政度内裏 青山御所 東京城・皇城・宮城 |
| 栄典 | 大勲位 |
| 親署 |
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明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや、旧字体: 祐󠄀宮)。お印は永(えい)。
倒幕および明治維新の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。国力を伸長させた英明な天皇として「大帝」と称えられる[2]。在位中に皇族以外の摂政(二条斉敬)[注釈 1]、太政大臣(三条実美)、左大臣(有栖川宮熾仁親王)、右大臣(岩倉具視)、征夷大将軍(徳川慶喜)が置かれた最後の天皇であり、また内閣総理大臣(伊藤博文)が置かれた最初の天皇。複都制としながらも東京府に皇居を置いた。皇后とともに和歌も多く残しており、その作品数は93,032首に及ぶ[3]。
生涯
生誕

嘉永5年9月22日(1852年11月3日)午の半刻(午後1時頃)に京都石薬師の中山邸の産殿において第121代天皇孝明天皇の第二皇子として生誕した。生母は当時権大納言だった公家中山忠能の娘で権典侍である中山慶子[5]。江戸時代、現在の京都御苑に当たる場所には皇居である禁裏御所を取り囲む形で、公家の屋敷が立ち並ぶ公家町が存在したが、その中の一つである中山邸は御所から北東300メートルほどに位置していた[6]。
生母中山慶子の父である中山忠能は孫の誕生を待ちわびており、娘の慶子が懐妊した時からお産の準備に大わらわとなった[7]。当時、産殿の建設には、総工費100両が必要とされたが、年収200石の公家だった中山家には過重にすぎたため[8]、忠能は朝廷に200両の拝借を願い出たが、関白鷹司政通から前例は100両として退けられ、忠能に100両、大叔母中山績子(孝明天皇の後宮の女官長格の「大典侍」)名義で50両の合計150両が中山家に貸し出され、その資金を使って六畳、十畳二間の産殿を建設した[9]。
慶子は妊娠5か月後の著帯を実家の中山邸で済ませた後、御世話卿として東坊城聡長[10]、御用掛として澤村出雲守[10]、他に侍医たちが付けられた[11]。6か月の時に慶子が高熱を出し[12]、流産しかけるも乗り切り[11]、9か月目の正式な著帯を8月27日(10月10日)に宮中において行った[11]。この日、孝明天皇は風邪で臥せっていたが、略式ながら天皇の部屋で祝の盃を交わし、天皇は「御手づから帯を結びたま」わった[11]。
当時は出産に血の穢れが発生すると考えられており、天皇の配偶者は実家に帰って出産する慣習であったため[13]、慶子も著帯後、中山邸に新設された産殿に入って出産に備えた[14]。忠能は9月に入ると賀茂川の出町橋の北まで産湯の水を汲みに行かせたり(賀茂の水の産湯は長命を保証すると信じられていた)[15]、大和国の永久寺生産社の神璽を祀るなど、たいそうな熱の入れようであった[16]。
邸内に新築された産殿には、七日船鉾町(新町綾小路南)と十四日船鉾町(新町四条南)の町年寄から献上された毎年の祇園会で船鉾に祀られる神功皇后の神面が飾られていた。神功皇后は妊娠中に三韓征伐を乗り切ったという伝説から京の町の人々から安産の守り神として信仰を集めていた[15]。また忠能は神功皇后の安産祈願を行ったことで知られる大阪の坐摩神社に依頼して皇子生誕にあたって安産祈願を執り行った[17]。
慶子の出産が迫ると陰陽頭の土御門晴雄が出産日の月日によって分娩が行われるべき方角を占うなど、出産に関する入念な指示を与えた[12]。
『明治天皇紀』は慶子が出産の兆候を見せた同日辰の刻(午前8時前後)からの動向を詳細に記している[5]。忠能は巳の刻(午前10時前後)に典薬寮医師3人と産婆1人を呼び寄せるとともに、関白鷹司政通、議奏、武家伝奏に書状を出して生誕が間近であることを伝えた[5]。そして午の半刻(午後1時頃)に慶子は無事皇子を出産した。忠能はこれを心底喜び[8]、生誕を知らせる新たな書状を回した[5]。
孝明天皇がその報告を受けたのは常御殿北庭の花壇の菊の花を愛でながら一献傾けていた時で、皇子生誕の吉報にことのほか喜び、さらに杯を重ねたという[5]。孝明天皇にはすでに二人の子が誕生していたが、明治天皇生誕時にはいずれもすでに薨去していた。当時の幼児死亡率は極めて高く、嘉永3年(1851年)11月に生まれた孝明天皇の第一皇女(生母は九条夙子〈英照皇太后〉)は一宮と名付けられるも嘉永5年6月(1852年8月)に3歳で薨去しており(孝明天皇は3日遡って一宮に内親王を追贈し順子の名を与えている)、順子内親王が生まれた直後の嘉永3年12月には第一皇子(生母は坊城伸子)も生まれているが、こちらは名づける前に即日生母ともども薨去している[11]。そのため、孝明天皇にとっては、待望の第二皇子誕生であった。
生誕直後に胞衣(胎盤など)とともに請衣に包まれる儀式を受けた[5]。ついで誕生の奏上の後に継入の湯に入れられた[18]。それが終わった後、中山邸にある火は全部廃棄され、禁裏御用を務める餅屋川端道喜から新たに火が取り寄せられた。火も出産の穢れとされていたためである[18]。川端道喜の家は室町時代後期から宮中のお出入りとなって代々朝廷から特別の待遇を受けていた商家で、その家で使われる火は「清火」とされて宮中釜殿でも使われていた[18]。
臍帯を切ってこれを縛り、創痕を焼灼する儀式が行われた後、賀茂の水の産湯に入れられた[18]。皇子生誕に当たって勧進のために陰陽頭土御門晴雄が中山邸に派遣されていたが、土御門邸は御所からかなり距離があったために晴雄が中山邸に到着した際にはすでに皇子は産湯を終えており、晴雄の占い結果の内容の大半はもう済んでいたが、胞衣の埋蔵場所の問題だけ残っており、晴雄の占いの結果に従って洛東吉田神社に埋蔵された[12]。
産衣を着るまでの数日間は襦袢と袖無し、御巻と呼ばれる請衣に似た白羽二重で包まれた[18]。皇子の寝室は産所正室の片高(厚畳を斜めに削いだもので、竹の高い方を枕にした)に設けられた。その身辺服飾調度品はほとんどが白一色で「色直しの儀」でこれらが彩色した物に替えられた[19]。
9月28日に「七夜の礼」が予定されていたが、その日は姉の順子内親王の百箇日にあたったため、その翌日に延期された[12]。9月29日に七夜の礼が行われ、父・孝明天皇から祐宮(さちのみや)という幼名を賜る。これは明治天皇の曽祖父である119代天皇光格天皇と同じ幼名であり、『周易』の「自天祐之、吉无不利」(「天佑があって、吉であり万事に有利」)に由来し[20][17]、孝明天皇が深慮あって選んだものである[21]。というのも、光格天皇は、在位中は諸朝儀・神事の再興復古による朝廷再興に邁進し、そのためには江戸幕府に強い姿勢をとり、時に軋轢を起こしながらも奮闘した天皇だったのである[22]。また、天皇が身に付けるべき諸芸能に励むことにより宮廷文化の振興にも努めた[23]。譲位して上皇となっても、朝廷の政務処理や意思決定に重要な役割を果たし続け、幕府から頼られる存在となった[24]。光格天皇の努力の結果、天皇・朝廷の権威は高まり、幕末になると、孫の孝明天皇は高い権威を帯び、幕府と反幕府勢力の双方から担がれて政治の頂点に浮上することになった[25]。孝明天皇にとって光格天皇は理想の天皇の一人だったのである[26]。
祐宮は、無事に育てば、将来、孝明天皇の後を継いで天皇になる可能性があったが、この時点では、それは確定したものではなかった。祐宮を産んだ中山慶子の実家中山家は羽林家であり、慶子は天皇の正室になれる五摂家の娘ではなかったからである[27]。すでに孝明天皇には正室・九条夙子(英照皇太后)があり、夙子は女御から准后、皇后へと昇格していくことになっていた。そのため、夙子に皇子が生まれ成長したなら、祐宮が将来に即位する可能性は低くなってしまう状況であった[28]。また、有栖川宮幟仁親王(男系で霊元天皇の4世孫)は、光格天皇の猶子(養子)として仁孝天皇から親王宣下を受け、有栖川宮熾仁親王(男系で霊元天皇の5世孫)・伏見宮貞教親王(男系で崇光天皇の15世孫、女系で霊元天皇の6世孫)は、仁孝天皇の猶子として、孝明天皇から親王宣下を受けていた[28]。これら三人の親王は、いずれも皇位継承の有力候補であった[29]。したがって、夙子に皇子が生まれなくとも、祐宮が親王になる以前に、孝明天皇が崩御した場合、三人の親王の一人が皇位を継承する可能性もあった[28]。以上のような事情があったものの、孝明天皇は、自身の祖父・光格天皇の幼名を与えるほど、唯一の皇子である祐宮に大きな期待を抱いていた[26]。
生後30日目の10月22日、参内始で、祐宮は初めて孝明天皇に会った[30]。この時、孝明天皇は祐宮に人形を与え、祐宮は生母の中山慶子の局(部屋)を宮中での在所とすることになった[26]。
もっとも、祐宮は四歳になるまで、中山邸で育てられた。これは、宮中では神事が多く、幼児の養育をする生母をはじめとする女性は、生理の関係で「穢れ」の原因となりがちで、その度に宮中から退出する必要があり、責任を持って幼児を育てることができないと考えられていたからである。そのため、皇子は生母の実家でしばらく育てられた後に御所に戻る慣習があった[31]。祐宮は中山邸に居所を構えながら折りにふれて御所に参内するという生活を4年間続けた[32]。
中山邸での日々

祐宮は安政3年9月29日に御所に移る4歳までを中山邸で過ごした。外祖父の中山忠能が父親代わりであり、母慶子は典侍として宮中にいたから、外祖母の中山愛子(肥前国平戸藩主松浦清の娘)が母親代わりであった[33]。中山家には新たに井戸が掘られ、「祐井」と名付けられた。この井戸は現代まで保存されている[17]。
忠能が祐宮に最初に与えた玩具は木剣、竹刀、木馬だった。祐宮が特に好きだったのは木馬だった。四足の下に箱車がついていて高さ一尺四、五寸の木馬であり、祐宮はこれにまたがってハイハイと声をかけ、侍女や忠能が引いて歩いた。木馬が壊れた時には侍女も忠能も馬になった[34]。
乳は乳母によって与えられた。当初は九条家の家臣の妻が乳母となったが、途中から学者・木村縫殿之助の妻ライに替わった[35][34]。乳母にも自身の赤子がいるので、赤子を伴っての中山邸入りとなった。この赤子たちと祐宮は幼友達になった[35]。祐宮は乳母のライのことを「ライ公」と呼び、殿之助とライの子で1歳年下の禎之介のことを「禎ボン」と呼んでいた[34]。
禎ボンが祐宮の金魚を握りつぶしてしまった時には祐宮はいきなり禎ボンを殴りつけるなど[34]、幼友達との喧嘩も多かったことから、祐宮の短気な性格とも伝えられてるが[35]、こうした喧嘩はごく普通の子供同士の喧嘩であり、むしろ微笑ましいといってよい[34]。乳母やその赤子のほかにも、中山邸には、中山忠光のような型破りな人間や、儒学者・田中河内介のような熱血漢もいた。このような中山家で養育されたことは、祐宮に大きな影響を与えた[36]。
ただ、当時の中山家は経済的に困窮しており、前述のように、産殿造営の際も朝廷に借財するなど家計に苦労していた。嘉永6年(1853年)2月には、女官が中山家の家計を心配して、祐宮の宮中帰還を提起するなど、実際にかなり援助を必要とする経済事情であった。そうした中で、祐宮は質実に育てられたと考えられる[37]。
祐宮は嘉永6年9月22日(1853年11月3日)の1歳の誕生日までは、比較的順調に育った。ところが、誕生日を過ぎて数日した頃、風邪にかかり、高熱が続いた。乳を吐いたり痙攣を発したりして、大騒ぎとなり、10月16日夜には、心配のあまり生母の中山慶子が気を失って倒れた[26]。祐宮が一応回復するまでに一ヶ月ほどかかり、その後も体調は思わしくなかった。慶子は、10月15日以来、中山家に泊まり込んで、祐宮の看病に努め、11月23日に、ようやく宮中に帰ることができた[26]。孝明天皇は祐宮の病気のことを心配していたと推察されるが、当時の慣行では、天皇が臣下の中山邸に行幸して祐宮を見舞うことは考えられないことであり、見舞いには行けなかった[38]。同年12月24日、祐宮はようやく全快した。孝明天皇は祐宮を看護した労をいたわり、中山忠能に銀15枚・絹・真綿を、忠能の母・中山綱子に銀3枚・絹・真綿を下賜し、以下乳人(めのと)代等に至るまで慰労の品を下賜した。中山綱子は曾孫にあたる祐宮の回復に歓喜して「吾命(わがいのち)いきかえるよりうれしきは 此日(このひ)の御子(みこ)の今日の御祝」と詠んだ。綱子らと祐宮の侍女は北野社に詣で、皇子回復に感謝の念を込めて、お百度参りを行った。こうして祐宮は、孝明天皇や中山家の人々の愛情を受けて、最初の病を乗り切った[38]。
その後、祐宮は1歳の間に、何度か10日以上にわたる病気にかかり、二歳の時には水痘(みずぼうそう)にかかった[39]。3歳になると、安政3年(1856年)1月15日夜から発熱した。高熱が続いたので、孝明天皇は心配し、17日に祇園社に使いを遣わして病の平癒を祈らせ、その神符を祐宮に与えた。18日には熱は下がったが、排尿が十分にできず、わずかの白湯を飲むだけであった。そこで孝明天皇は内侍所に祈願させた。19日には、天皇は北野社に命じて17日間の祈祷を行わせ、その後も三日間にわたって内侍所に祈願させた。祐宮は28日に完治した[39]。このように、祐宮は、時折体調を崩してまわりを心配させることがあった。しかし、この程度の発病は現代の幼児にも普通のことであり、医薬が未発達なために、祐宮の病気が現代より長引くのは当然で、乳幼児の死亡率が高かった当時においては、祐宮の体は特に弱かったわけではなかった[39]。
祐宮も3歳半になると、好き嫌いの感情をはっきり示すようになった。安政3年(1856年)3月25日の参内の時は輿(こし)に乗るのを嫌がったので乳人が抱いて参内した。また群衆の目や儀式を嫌ったため、中山邸から御所の北の朔平門に近い穴門までの間、道路を横断して幕を張り、一般の通行を止めて参内した。それ以降も同様の方法がとられた。このように自我の発達してきた祐宮に対して、孝明天皇の愛情は一層深まった[40]。
安政三年(1856年)5月下旬に祐宮が参内すると、孝明天皇は祐宮が可愛くてしかたがなく、宮中に泊まらせるように命じた。そこで、曽祖母の中山綱子と一緒に泊まった。滞在は三十数日にも及んだ[40]。9月22日(11月3日)、祐宮は4歳の誕生日を迎え、例年と同様に孝明天皇から祝いの品を与えられた。その翌日、中山忠能に、祐宮を宮中に戻すようにとの天皇の命が伝えられた。こうして9月29日、祐宮は中山邸から御所に移った。曽祖母の中山綱子は、皇子誕生以来、寝食を忘れて日夜養育に専念してきたので、涙があふれて祐宮と別れることができなかった。綱子はその後も祐宮に会うためにたびたび参内した[40]。祐宮は中山家の人々と屋敷に愛着を持った。宮中で暮らすようになっても、中山邸の杏の実を毎年届けて貰っていた[41]。また、明治天皇は、生涯にわたって、果物の中では杏をたいへん好んだ[42]。
御所での日々

祐宮は、御所にある生母の中山慶子の局(部屋)に、慶子と一緒に居住することになった[40]。中山邸から御所に移った4歳の祐宮は、二ヶ月ほど精神的に不安定な状態が続いた。生母も一緒に住むことになったとは言え、環境の大きな変化に適応するのには時間がかかったと考えられる[43]。
孝明天皇は、祐宮が御所に住むようになって半年ほど過ぎた安政4年(1857年)春頃から、自分が関わる宮中の行事をできるだけたくさん見せて、祐宮を宮中に慣れさせるとともに、父子の絆を強めていこうとした[43]。3月18日に石清水八幡宮の臨時祭が行われると、祐宮は清涼殿に行ってその儀式を観覧し、勅使以下が出発する服装を見て喜んだ。また4月2日には、天皇に付き従って参内殿の桜を花見し、9日には御所の庭園に天皇のために建築されつつあった茶亭の上棟式に参列し、16日には賀茂祭で天皇に付き従って、近衞使の進発を見た[43]。以降も様々な行事に参加した。祐宮が8歳で親王宣下するまでの3年半の間に、孝明天皇は自分の後継者として、祐宮の自覚を促すとともに、周囲にも認知させようとした[43]。
この間、5歳になった祐宮は、安政4年11月に初めて和歌を詠んだ[44]。
月見れは 雁 がとんて ゐる 水の中にも うつるなりけり
孝明天皇は、祐宮が自身の所に出向くたびに、祐宮に和歌5題を作らせて、それができるといつも菓子を与えた[45]。
権大納言正親町実徳による手習いを経て、安政6年(1859年)3月30日、孝明天皇の命により、有栖川宮幟仁親王が祐宮の習字の師範に就いた[46][44]。幟仁親王は毎月日を定めて参内して師範にあたった[47]。天皇は祐宮の習字の師範に親王を付けることで、祐宮を並の親王より上に位置づけたのである[44]。こうして、祐宮をいずれ親王として後継者とする方向がより強まった。その後、儀式の場にも、祐宮が准后(九条夙子。後の英照皇太后)とともに、天皇に付き従って出席する場面も増えていき、祐宮が親王宣下を受けて天皇の後を継ぐことは周知の事実になっていった[44]。4月27日、明経博士伏原宣明が読書師範となり、満7歳にも満たない年齢で四書五経の素読を始めた[48]。
この頃、祐宮は、同年代の公家の子どもと木太刀でチャンバラ遊びをしたり、女官に水鉄砲を掛けたり、万年青の葉を切ったりと、活発でいたずら好きであった[49]。中山邸でもそうだったが、御所でも祐宮が最も好んだ遊びは、箱車の付いた木馬に乗る木馬遊びだった。侍女らが祐宮を木馬に乗せて、御所の御花御殿の西にある局の対屋廊下をゴロゴロと引いていくと、祐宮は「ハイハイ」と声をかけた。祐宮は飽きると、遊び友達を木馬に乗せて、祐宮自ら手綱の紐を肩にかけ、「ホイホイ」と調子を取って引くのが常であった。このような木馬遊びで廊下は大いに賑わった[50]。公家や大名からおもちゃの献上があっても、祐宮は二度ほど遊ぶと、三度目からは投げつけて壊し、また木馬に乗った。孝明天皇にねだって貰った柿本人麻呂の土人形を、怒りにまかせて投げつけて真っ二つにしたこともあった。勝ち気で気が短く、気に入らないことがあると、誰でも小さな拳でぶっていた[50]。

万延元年閏3月16日(1860年5月6日)、御所の御三間において[52]、子供の頭髪の端を切って揃え、髪が長く成ることを祈る深曽木の儀を行った[53][54]。この儀は通常は3歳から8歳に行われ、明治天皇についても本来は安政5年(1858年)に行われることになっていたが、皇室と密接な関係にある泉涌寺が焼失したため儀式が延期されていた[53]。
万延元年5月11日、孝明天皇は関白九条尚忠や議奏・武家伝奏らを宮中に招き、祐宮を儲君とし、准后九条夙子の実子とし、同年9月に親王宣下を行いたいとの意向を示し、招かれた者は全員同意した[54]。7月10日(8月26日)に勅命により儲君に定められる[53][55]。同日より准后の実子とされる[53][55]。9月3日には先に勅命のあった式部大輔・文章博士の唐橋在光が諱を勧進し、「與仁」「履仁」「睦仁」の三号を選定して孝明天皇に奏上した。翌日に天皇はこれを関白九条尚忠、左大臣一条忠香ら重臣に示し、その中から最も適切な諱を選ぶよう命じた[53]。9月22日(11月3日)、祐宮は8歳の誕生日を迎えた[50]。9月28日(11月10日)、予定通り親王宣下の儀式が行われ、居並ぶ諸卿の前で孝明天皇の宸筆による「睦仁(むつひと)」の二字が示される[56]。祐宮は孝明天皇から「睦仁」の諱を賜った[50]。
祐宮から睦仁親王となった皇子であるが、いたずら好きは相変わらずであった。睦仁親王は年下の藪実休(藪篤麿の父)を伴って、しばしばいたずらをした。生母の中山慶子は、睦仁親王だけを叱ることができないので、睦仁親王を実休と一緒に、御所の御文庫にお仕置きとして閉じ込めたこともあった[57]。睦仁親王は、皇子御殿の築地の脇の溝でめだかを捕ったり、今宮社の祭りを見るために、長い廊下を走って行って朔平門からのぞいたりして楽しんでいた[57]。文久元年(1861年)、明治後期に2度にわたり内閣総理大臣を務めることになる西園寺公望は、この年から御所に出仕し、3歳年下の睦仁親王に近習として仕え、以来、両者は親交を結んだ[58]。同年12月には、前権中納言裏松恭光の孫良光(後の子爵)が親王附児に付けられ、御学友のような存在となった。良光は数え年で12歳、睦仁親王は10歳の時であった[48]。
親王宣下後、教育も進展した。万延元年(1860年)11月12日、8歳で「大学」の素読を終え、17日から「中庸」の学習に入った。文久元年(1861年)3月には、「中庸」をほぼ修了したので、伏原は孝明天皇に、続けて「論語」を君徳の養成と啓発のために講義する侍読を行いたいと提言し、天皇の許可を得て、学習に入った[59]。ここまでの教育は略式の教育であり、家庭教師が付けられているだけのようなものだったが、孝明天皇が陰陽頭土御門晴雄に勧進させた文久2年(1862年)5月27日に読書始の儀を受けたことから、これ以降正規の皇子教育が始まった[60]。輔育教養の任には外祖父の中山忠能があたった[61]。
習字は、有栖川宮幟仁親王が引き続き師範を務め、生母の中山慶子がそれに付いていた。慶子は睦仁親王の習字に関して極めて厳格で、明治天皇が後年(明治20年代頃)に自ら語ったところによれば、睦仁親王が決められた過程を達成できないと、昼になっても食事をさせてくれなかったという[60][62]。睦仁親王の方は、水を練習帳に塗って、日課を終わったと嘘をつくこともあった。睦仁親王は習字があまり好きではなかったため、上達せず、慶子は焦った[62]。文久元年(1861年)2月20日には、有栖川宮に加えて広橋胤保が四・九の日や当番で御所に参仕する日に習字を教えるようになった[59]。
和歌に関しては、孝明天皇が睦仁親王に直接指導した。たとえば睦仁親王が、
あけほの にかり かへ りてそ 春の日のこゑ をきくこそのとか なりけり
と詠んだものに対し、孝明天皇は自筆で、
春の日の 空あけほの にかり かへ るこゑ そ きこゆるのとか にそ な く
と添削した[45][63]。このように、添削を通して、孝明天皇は睦仁親王に和歌を指導した。元始元年(1864年)正月に、歌道師範家として名高い冷泉家の当主である冷泉為理が、睦仁親王に和歌を指導したいと孝明天皇に申し出たが、天皇は積極的に応じなかった。孝明天皇は和歌の指導を睦仁親王との父子のふれあいの場として楽しんでいた[45]。孝明天皇による和歌の直接指導は、孝明天皇の崩御まで続いた[63]。
幕末政治の動乱
睦仁親王がこのような日々を過ごしていた間、安政5年(1858年)6月に、江戸幕府はアメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約に調印し、その条約が天皇の勅許を得ていないことが大きな問題となった[64]。条約に反対だった孝明天皇は、幕府が独断でアメリカとの条約に調印したこと、さらにロシア・イギリス・フランスとも条約を結ぶ方針であることを聞いて激昂した[65]。8月5日、天皇は、幕府への政務委任と公武和融の枠組みを尊重しながらも、「厳重に申せば違勅、実意にて申せば不信の至り」「関東の横道」と、幕府への強い抗議と条約の撤回を求めた御趣意書を関白以下に提示した[66]。8月7日、天皇は御趣意書を幕府に下すように厳命したが、関白の九条尚忠は幕府との関係を慮って、文面を穏やかなものに変えることを望んだ。結局、左大臣の近衛忠煕が、薩長両藩をはじめとする有力諸藩に内密の勅命を伝えたらどうかという解決案を提示し、天皇は容認した。その後、これが実施され、近衛家から、尾張・薩摩・津藩へ、鷹司家から加賀・長州・阿波藩へ、勅命(ただし写し)が伝達される。そして、これらの決定と実行は、九条尚忠を排除したなかでなされ、結果的に水戸藩にも勅命がくだることになった(戊午の密勅)。勅命の降下を、名誉なことだと受け止めた諸藩(なかでも水戸藩)は、以後、政治行動を活発にすることになった[67]。これを危惧した幕府は、9月になると、条約に反対し天皇を中心として外国を日本から追い払うべきであると主張する尊王攘夷派を次々に逮捕していった(安政の大獄)[68]。それに憤った元水戸藩士・元薩摩藩士たちは、万延元年(1860年)3月3日、幕府の大老・井伊直弼を桜田門外の変で暗殺し、以降幕府の威信は弱体化していった[64]。幕府は権威を回復するため、公武合体の目的で、孝明天皇の異母妹和宮親子内親王を将軍徳川家茂と結婚させようと、働きかけるようになった[64]。孝明天皇は、これが幕府の露骨な政略であること、和宮が有栖川宮熾仁親王と婚約済みであったことから難色を示したが[69]、侍従・岩倉具視の献策を容れ、和宮の降嫁を条件に、攘夷を行って10年以内に条約を撤廃することを幕府に約束させた[64][70]。万延元年(1860年)8月、天皇は和宮の降嫁を斡旋させ、和宮も断りきれず天皇に同意。和宮降嫁が実現した[64]。岩倉の献策は、幕府が衰退しているとはいえ、一挙に朝権を回復しようとすれば、天下に大乱が起き、収拾することができなくなるので、公武の連携を天下に示し、幕府に少しずつ条約を止めさせ、朝廷が国政の主導権を掌握していくというものであった[71]。これは条約撤廃という強硬論を含んでいるが、それを直ちに実行させようとするものではなく、当時の日本の対外政策においては、それでも現実論とされた。孝明天皇は、自身が考える現実的な形で幕府に攘夷を実施させようとした[71]。しかし、このことで逆に幕府は追いつめられることになる。近い将来、天皇の意思を奉じて攘夷を行うことを公約させられる形となったからである。これ以降、攘夷を実行しない幕府に対し、朝廷・諸藩・志士の攻撃が様々な手段で開始されることになる。それとともに、水戸・薩摩・長州三藩による尊王攘夷をめぐる激しい主導権争いも影響して、有力諸藩の朝廷政治への介入が本格化することとなった[70]。そして、このような政治闘争において、孝明天皇は公武合体派と尊王攘夷派のどちらの勢力からも担がれており、天皇の政治的地位、権威はいやが上にも高まっていった[72]。
文久2年(1862年)12月25日、睦仁親王は准后とともに、孝明天皇にしたがって、はじめて三種の神器の一つである八咫鏡を奉安する内侍所を参拝した。内侍所は紫宸殿東方にある春興殿が充てられていた。宮中の神事への正式な参加である[73]。
この頃、睦仁親王の外祖父・中山忠能は差控(謹慎)を命じられていた[73]。文久以降、欧米列強との貿易開始によるマイナスの経済的影響が及ぶと、各藩や各地で尊王攘夷論が激化し、文久2年1月には、和宮降嫁による公武合体を推進した老中・安藤信正が、水戸藩浪士らに襲撃されていた(坂下門外の変)。その影響で、朝廷内部においても尊攘派が力を強めていき、朝廷を動かすほどの勢力になっていった[74]。そうした状況で、中山忠能は朝権の伸張を目的に、和宮降嫁による公武合体政策を推進していたことから、朝廷の尊攘強硬派のなかで批判の対象となっていた[73]。忠能は安政6年(1859年)正月に祐宮の御世話卿となり、その後も儲君御肝煎(おきもいり)・親王御肝煎として、睦仁親王の成長を見守っていたが、文久3年(1863年)2月1日には親王御肝煎も、尊攘強硬派の三条実美と交代するなど、政治の変動が睦仁親王にも直接影響を及ぼすようになった[73]。以後、忠能は睦仁親王に伺候することはなくなった。睦仁親王は寂しく思ったのか、4月5日には組肴四重を、7月3日には魚を、8月4日には草藤を手折り吸物・組肴を添えて贈った。屏居していた忠能は、睦仁親王の贈り物を受け取ると、「生を保つよすが」と涙をこぼした[73]。その後、朝廷は尊攘派の主導により、幕府に対して攘夷策と攘夷の実行期限を報告するように催促し、幕府は翌年に上洛して攘夷策を報告することを言明。徳川家光以来、230年ぶりの将軍上洛が決定された[75]。
文久3年(1863年)3月7日、上洛した将軍家茂は、朝廷から攘夷実行期日を迫られ、その意思もないのに5月10日と回答した[76]。3月11日、攘夷実行期日が決まると、孝明天皇は攘夷祈願のため、下鴨社と上賀茂社に行幸した。古代において、天皇が社寺に行幸して国土の平安を祈願したことはあった。中世以降多くは勅使によって代行されてきたが、国家の危機に際して、天皇自ら行幸し神に祈願したのであった[77]。また、天皇の行幸は、寛永3年(1626年)に後水尾天皇が二条城に行幸して以来のことであった。「外夷」への開国という危機の中で、天皇の行動慣行が大きく変化したのである[77]。雨の中、孝明天皇が両社への祈願を無事に終えて、禁裏御所にもどったことを祝い、睦仁親王は「寄肴(ごちそう)」を天皇に一折献じた[77]。その8日後、孝明天皇が将軍家茂に拝謁を許した際に、天皇は睦仁親王を同席させ、睦仁親王は初めて家茂を引見した[77]。
同じ文久3年(1863年)6月19日、老中・小笠原長行が生麦事件についてのイギリスとの交渉を朝廷に報告するとの名目で、幕兵千余人を率いて京都に入ろうとし、将軍家茂が淀に留めた[77]。京都では、小笠原長行が武力で朝廷に開国を迫り、聞き入れられなかったら都に火を放ち、公家を捕縛して京都を滅ぼそうとしている、幕府が天皇を彦根に連れ出そうとしている等の噂が流れた[77]。そのため、京都の情勢は騒然となり、朝廷も万一を考え、睦仁親王の側近の人数を増やし、家司らのうち三人を数夜にわたって交代で仕えさせた。軍事の緊迫感は、11歳に近づいた睦仁親王にも肌で感じられるようになってきた[77]。
このような中で、天皇・公家といえども軍事から目をそらしているわけには行かなくなった。同年7月19日、関白・鷹司輔煕が攘夷のために天皇自ら軍を率いて親征を行うことについて在京の各藩主に諮問したところ、鳥取藩主の池田慶徳が進言した。それは、天皇や公家が軍隊についてまず知る必要があるため、京都守護職として京の治安を担当している会津藩主松平容保や在京の諸藩主に命じて将兵を訓練させ、これを天皇・公家が見学し、軍事に慣れてから、親征について議論すべきであるというものであった[78]。そこで、孝明天皇は松平容保に命じて将兵の訓練を禁裏御所の建春門の外で行わせた。訓練日の7月30日はたまたま雨であったが、孝明天皇は建春門北穴門にある御覧所において、睦仁親王や准后とともに見学した。女官・公家・諸藩主も天皇に付き従った[79]。松平容保は自ら配下の兵三千余人を率いて、申の刻から訓練を開始し、暗くなるまで続けた[78]。天皇が軍事行事を見ることは江戸幕府成立以来なかったことであった[80]。孝明天皇や睦仁親王らは、同じ場所で8月5日にも、会津・鳥取・徳島・米沢・岡山五藩の訓練を見た。米沢藩兵は西洋式軍隊を擁しており、大砲や銃の音が轟き、その煙があたりを覆った。見学していた子どもや女たちは驚きのあまり血の気が失せたが、睦仁親王は泰然と見学していた[81]。
孝明天皇は、幕府と連携して、現実的な形で幕府に攘夷を実施させるという路線を、その後も取り続けた。しかし公家の中には、天皇の意を超えて、強硬な形で攘夷を行おうとする者も出てきた。その圧力で、文久3年4月11日(1863年5月28日)から翌日にかけて、孝明天皇は石清水八幡宮に攘夷祈願の行幸を行った[82]。尊皇攘夷強硬派は、この行幸のなかで、天皇が将軍へ攘夷実行の節刀を授与し、幕府に攘夷の決行を迫る計画であったが、将軍が病気を理由に参加せず、失敗に終わった[83]。睦仁親王は父の石清水行幸を准后と共に禁裏御所の道喜門の御見立所で見送り、翌12日の帰還に際しても、同様に迎え、祝賀の酒肴を一折、天皇に献じた[84]。
文久3年4月22日、孝明天皇は中川宮尊融親王に自筆の手紙を書き、石清水行幸は権中納言三条実美ら尊皇攘夷派の要請に抗しきれずに実施したのであり、自らの意思ではなかったことや、今後、薩摩藩の実権を握る島津久光らの協力で、尊王攘夷派の公家を反省させたいので、助力を頼むことを伝えた[84]。尊王攘夷運動は、朝権の伸張と幕権の衰退を背景に、この年最高潮に達していた。長州藩は、文久3年5月10日、すなわち攘夷の決行日とされた日に、下関海峡を通行中の外国船に対して砲撃を加えた(下関戦争)。そのため、尊皇攘夷派が主導していた朝廷では、長州藩の評価が一段と上昇し、長州藩主に征夷大将軍を命じる勅命がくだるとの噂が流れた[85]。8月13日、朝廷は尊皇攘夷派主導により、孝明天皇が神武天皇陵と春日社に攘夷を祈願するために大和に行幸し、ついで攘夷親征の軍議を行うと布告した。とうとう天皇が軍事指揮権を握って攘夷戦争を遂行する可能性もでてきた[86]。大和行幸の布告が出た翌日の8月14日、睦仁親王の叔父で、宮中で睦仁親王の学問や遊び相手も務めた中山忠光も天誅組を組織し、8月17日、大和において、天皇行幸の先鋒軍として幕府に対し挙兵している(天誅組の変)[87]。
文久3年(1863年)8月18日、孝明天皇と中川宮尊融親王は、会津藩・薩摩藩とともに政変を敢行、尊皇攘夷派の公家三条実美らを宮中から排除し、彼らと連携していた長州藩を京都より追放した(八月十八日の政変)[88]。20日と26日、孝明天皇は小御所に松平容保ら諸侯を招いて労をねぎらったが、両日とも睦仁親王は中段の間に着座した。政治の場への登場である。とはいえこの後の登場はない。孝明天皇は、強硬な攘夷論の放逐という決断を、睦仁親王に対して意識的に示したと考えられる[89]。政変の結果、中山忠能も議奏格に復帰し、睦仁親王は鯛など贈って喜んでいる。9月27日には、忠能・愛子夫妻が参内。親王宣下以後、睦仁親王に全く会っていなかった愛子は再会の感激に涙した[89]。しかし、公武合体派が復権した朝廷は中山忠能に疑いをもっていたらしく、12月に忠能が睦仁親王に会おうとした際には、参殿を憚れとの天皇の命があるとの理由で、会うことを認めなかった[89]。
翌年6月になると「八月十八日の政変」で失脚した三条実美ら尊皇攘夷派の公家や、彼らと連携していると見做され九門の一つの堺町御門の警備を止めさせられた長州藩が、巻き返しを図って、6月末までに二千名以上の兵力を京都近郊に結集させた[90]。彼らの要求は、三条や長州藩の処分を撤回することであった。これに対し、7月18日未明に、朝廷は撤兵を命じたが、長州藩側は京都守護職の松平容保を九門の外に退去させることを求めた。丑の半刻に参内した関白二条斉敬、中川宮朝彦親王、徳川慶喜らが参内し、小御所で引見した孝明天皇は、長州藩士討伐の勅を与えた[90]。これにより禁門の変(蛤御門の変)が始まると、普段はそれぞれ禁裏御所の北部の若宮御殿や皇后御殿で生活している睦仁親王や准后らは、孝明天皇が起居する御常御殿に集められた。危急の際に孝明天皇や睦仁親王らを乗せる板輿も御常御殿の東階下に据えられて、侍臣たちも襷をかけ、草履の紐をくくって待機し、緊急避難の準備がされた[90]。禁裏御所の中にはいたる所に甲冑をつけた将兵が詰めていた。うなりをあげて砲弾が飛んできて門の扉を突き破り、鮮血が飛び散った。また、禁裏御所の西の烏丸通で上がった火の手は勢いを増し、宮殿に燃え移るかに見えた。天皇らは他所へ避難すべきであるという議論が再三でたが、徳川慶喜や松平容保は反対した。容保は御常御殿の庭先まで来て、孝明天皇に、避難すべきではないと強く進言した。結局幕府と諸藩の兵が、数時間で長州藩兵を撃退したので、天皇らが避難することはなかった。睦仁親王も夜には御常御殿に連結した御三間に移って就寝し、女房らは徹夜で睦仁親王の近くに仕えた[91]。
翌20日夜には、禁裏付の守糟義明と十津川郷士らが禁裏御所の中に潜入し天皇を連れ出そうとしているとの情報があり、禁裏御守衛総督の徳川慶喜は驚いて参内した[91]。慶喜は御常御殿の内庭の暗がりに300人ほどの人影と、軒下に据えられた板輿の付近に麻の裃を着た数十人の一団を見つけ、直ちに退散を命じた。慶喜はそのことを、孝明天皇と同じ公武合体の立場をとる関白・二条斉敬と中川宮朝彦王に伝えた。二人は直ちに出仕し、孝明天皇を内庭からは少し遠くなる御三間に移したが、慶喜の申し出によって、内庭からさらに遠い紫宸殿に移した[91]。その際、女官たちの中には恐怖のあまり大声をあげて泣き出すものもあり、睦仁親王も驚いて、紫宸殿の中で気を失った。仕えている者が水を飲ませると、ようやく平静にもどったという逸話があるが、これは蜷川新および大宅壮一が最初に唱えた説である[92]。明治天皇のことを「大砲の爆音で気絶するような臆病で気の小さい性質だと理解される」と論評しているが、それについて飛鳥井雅道は『中山忠能日記』の読み違いから出ていることを指摘しており、少年睦仁が気絶したのは蛤御門の変の大砲の音ではなく(蛤御門の変は前日である)、真夜中にたたき起こされて、いきなり泣き叫ぶ女の中を紫宸殿に移されたからであろうとしている。女官たちが叫んでいたのは下女が主人に付き添っていた時、あやまってお歯黒の液の入った壺を落とし、その音が銃声に間違われ、匂いも強烈だったので騒ぎになったのだということを飛鳥井は指摘している。飛鳥井の『中山忠能日記』からの記述の説明は『明治天皇紀』の内容と一致する[93]。
21日の明け方に、孝明天皇は御常御殿に戻り、睦仁親王も従った。その後、睦仁親王は御三間の仮の寝床に入ったが休むことができず、外祖父の中山忠能を召し、絵本などを開いて読み聞かせてもらった。睦仁親王はここ2日間の緊張と疲労を癒すため、甘えられる存在の祖父に来てもらったのである[94]。睦仁親王が御三間から若宮御殿に帰ったのは、24日後の8月15日、京都もようやく平穏になってからであった。その間の7月27日、外祖父・中山忠能は、前関白の鷹司輔煕・有栖川宮幟仁親王・有栖川宮熾仁親王らとともに、禁門の変に関連し長州藩士と呼応したとの嫌疑で、参朝を停止させられ、他人との面会も禁じられてしまった[94]。その祖父に睦仁新王は、11月26日、徳川慶喜が献上したウナギを分け与えている。これについて伊藤之雄は、12歳になった睦仁親王は祖父が父・孝明天皇と異なる立場をとって謹慎を命じられたことに困惑し、慶喜からのウナギを祖父に分け与えることで、祖父が父と同様に、慶喜らと連携する公武合体路線を取るように願ったとのではないかと論じている[95]。
孝明天皇は禁門の変と前後して、祭祀の復興に熱意を傾け、内憂外患を祈祷した。元始元年(1864年)5月8日に神武天皇陵への奉幣が復活し、11月24日に北野臨時祭が再興。慶応元年(1865年)2月18日には春日祭の旧儀が復興し、4月24日に吉田祭再興、6月22日に祇園臨時祭再興、11月15日に大原野祭が再興した。そして、慶応2年(1866年)4月7日には松尾祭が復興した[96]。禁門の変後、幕府との関係が安定したとはいえ、孝明天皇には、対外政策への不安は高く、これまでにもまして神事を重視するようになった[97]。睦仁親王も復活したこれらの祭儀に参加した。孝明天皇の国難意識と神事意識は、睦仁親王にも受け継がれたと考えられる[97]。
このような中で、元治元年(1864年)9月22日、睦仁親王は誕生日を迎えて12歳となった際、孝明天皇から「重肴を以て盃(ごちそうと酒)」を賜った。祖父の中山忠能はこれまで鮮魚を献上していたが、今回は代わりに忠能の妻・愛子が三種の「寄肴(ごちそう)」を献じた[98]。睦仁親王は、翌年正月2日に孝明天皇に新年の祝いに拝謁した際、「天酌(天皇自らの酒のお酌)」を受けた。3月3日の節句には、天皇から「酒肴及び菓子」を与えられ、次の4日に天皇が雛人形を准后御殿に見物で行った際には、「酒盞の事(飲酒)」があって、睦仁親王も従った。7月11日には内延で祝い事があり、睦仁親王は天皇の酒盞に従い、天酌があった[99]。12歳になった睦仁親王は祝い事の際に、孝明天皇から酒を与えられたり、酒を一緒に飲んだりするようにもなってきた[100]。慶応元年11月11日(1866年1月27日)には若宮御殿の煤払いを行なった際、13歳の睦仁親王は皇太子になってから住む予定の花御殿に一時的に移った。これは睦仁親王が大人の扱いを受けつつあることを示している[100]。
学習も進んだ。睦仁親王(祐宮)は、文久元年6月、8歳の歳以来「論語」の素読を学んでいたが、4年後の慶応元年6月、12歳で終了し、18日にはそのお祝いを行なった[100]。また、その6月から「孟子」の素読を開始し、翌慶応2年7月2日に終了した。わずかに1年かかっただけであるということで、孝明天皇は睦仁親王の勉学を褒め、父をついで師範を務めていた伏原宣諭の熱心な教育を激賞した[100]。こうして、睦仁は中国の古典の基本である四書の素読を終わったので、孝明天皇は7月1日から「毛詩(詩経)」の素読に進ませ、19日、22日と進講が行われた。孝明天皇は、情勢が緊迫化する中でも、睦仁親王への配慮を怠らず、大枠の指示を行なっていた[101]。
この間、元治元年(1864年)の禁門の変の直後に、長州藩追討の命が朝廷より出され、幕府は諸藩に命じて第一次長州征討を行なった。同年、長州藩は降伏し、長州藩内では俗論派(幕府恭順派)が権力を握るようになったが、その後高杉晋作ら正義派(倒幕派)の功山寺挙兵を経て、俗論派が失脚し、高杉ら正義派が藩政を掌握し再び倒幕路線を強めた[102]、翌慶応元年になると将軍家茂が長州再征を孝明天皇に奏上し、同年9月21日に勅許を得、翌慶応2年(1866年)6月7日から再征が開始されたが、既に同年1月、薩長同盟の密約が成立していたので、薩摩藩は出兵せず、広島藩など出兵に応じない藩もあって幕府に勢いはなく、幕府の威信は著しく衰えた。そのような中で、7月20日、14代将軍徳川家茂が病気のため大阪城で死去し、12月5日に徳川慶喜が15代将軍に任じられた。父に習い、14歳の睦仁親王も慶喜の将軍宣下を祝し、使いの者に太刀一口を届けさせた。睦仁親王は天皇に次ぐ地位ある者として、将軍宣下にも関わりを持つようになった[103]。
慶応2年(1866年)5月には新たな読書伺候として参議阿野公誠が付けられ、7月には「孟子」の素読を終えたことを父帝より褒められたが、この時期、睦仁親王は皇子教育に当たる女官の影響を受けて攘夷思想を強めており、父帝が女官の影響を危惧する宸翰を朝彦親王に宛てて書いている[104]。
慶応2年12月11日(1867年1月16日)、孝明天皇は、風邪をおして内侍所御神楽に参列した。参拝をした後、和琴を弾いたが、神楽が終わる前に病状が悪化して退出した。その後、天皇の病勢は衰えず、13日には病床に就き、熱が急速に上がり、15日目には発疹が現れた。その日、侍医は天然痘と診断した[103]。睦仁親王は赤い綸子、赤い縮緬の服を着て、毎日病床で天皇を見守った。孝明天皇は睦仁親王に天然痘が感染しないよう、全快するまで自分の近くに来てはいけないと命じた。しかし、外祖父・中山忠能は睦仁親王を預かっていた間に、蘭学医・大村泰輔に頼んで睦仁親王に種痘を受けさせていた。そのことを孝明天皇に話すと、天皇は安心した[105]。その後天皇の病勢は少し落ち着いたかに見えたが、12月25日に悪化した。睦仁親王は正午その知らせを聞いて、急いで天皇のもとに駆けつけた。間も無く小康状態になったように見えたので退出したが、午後11時頃、天皇の病状は再び悪化した。睦仁親王が慌てて側に行ったのも束の間、慶応2年12月25日(1867年1月30日)午後11時15分に孝明天皇は崩御した[105]。12月29日、諸臣は睦仁親王に拝謁するため、若宮御殿を訪れ、剣璽は御三間に移され、上段に安置された。年が明け、慶応3年(1867年)正月、孝明天皇の山陵が泉涌寺境内に造営され、1月10日に御所の清涼殿で入棺の儀が行われた[106]。
父を失った睦仁親王の嘆きは深く、夜もあまり眠ることができず、食事も進まなかった[105]。
践祚と新政府樹立

慶応3年1月9日(1867年2月13日)、14歳で践祚して皇位継承した。元服前の践祚であったので、立太子礼を経ずに皇位継承している。光格天皇の童形践祚の先例にならって、髪型は総角、衣装は引直衣、衵、単、張袴、横目扇という童型践祚を行った[108]。父と同じく中沼了三を信頼し初の侍講にする。1月15日には大赦を出し、禁門の変の際に長州藩を支持して閉門蟄居させられていた有栖川宮熾仁親王や外祖父の中山忠能らに参朝を許した[109][106]。1月19日にはこの前年から行われ幕府軍が惨敗を喫していた第二次長州征討の解兵を命じる勅命を幕府に対して出した[109]。幕府もこれ以上征討を続けても勝利の見込みがないと認め、1月24日には征討諸藩に解兵と藩地へ戻るよう命じた。諸藩の兵から成る幕府連合軍がわずか一藩の長州藩に手も足も出せずに惨敗した事実は、幕府の権威を地まで落とすとともに天皇の権威を高めた[109]。
2月16日には亡き父帝に「孝明」の諡号を贈った[110]。
孝明天皇が崩御したことで、15代将軍徳川慶喜を中心とし、京都守護職・松平容保(会津藩主)、京都所司代・松平定敬(桑名藩主)の「一・会・桑」といわれるグループは大きな打撃を受けた[111]。彼らは、元始元年(1864年)頃から、公武合体派の孝明天皇の庇護によって、京都を中心に幕府や幕末の政治をリードしていたが、朝廷内最大の権力者の支援を、これからは受けられなくなったからである[111][112]。しかし、慶喜ら「一・会・桑」グループは、摂政二条斉敬、中川宮朝彦親王ら親幕派皇族、議奏、武家伝奏などに圧力をかけることで、引き続き朝廷をリードしていこうとした[111]。
2月13日、中山忠能は明治天皇の命により参内した。天皇は親しい外祖父に会いたかった[113]。忠能は、歴代天皇の責務である有職故実をまず学ぶように、天皇に進言した[114]。以後、中山忠能は、明治天皇の命に応じて有職故実進講のためにしばしば参内する[114]。6月1日は国書進講を命じられている[114]。明治天皇の生母・中山慶子も、薙髪(髪を剃り、仏門に入ること)をするつもりであったが、3月13日に典侍を命じられ、奥勤めをするようになり、引き続き明治天皇を支えた[114]。
5月23日、朝議が開かれ、将軍慶喜は松平定敬らと参加し、禁門の変における長州藩の処分を軽くすること、欧米列強との条約に従って兵庫を開港することの勅許を明治天皇に求めた[115]。これに対し、前福井藩主の松平慶永は、伊達宗城(前宇和島藩主)・島津久光・山内豊信(前土佐藩主)らとの協議をふまえ、四藩の意見として、長州藩への寛大な処分を先に決め、兵庫開港の勅許を後に決定すべきであるとの意見を述べた[115]。松平慶永の意見は多くの廷臣の賛成を得たが、議論は尽きなかった。そこで翌日は、昇殿を許されている公家のすべてに参内を求め、意見を具申させた。結局、慶喜の説が大勢を制し、長州藩を寛大に処分する方針と、兵庫開港の勅許が下された。伊藤之雄はまだ少年の明治天皇はこのような意思決定過程を眺め承認するだけであったろうと推測する[115]。
このような慶喜主導の流れに危機感を抱いた土佐藩士坂本龍馬・後藤象二郎と薩摩藩士西郷隆盛・大久保利通らが6月22日に会談し、両藩が王政復古に尽力するという盟約書を作った[115]。そこでは、将軍は政権を朝廷に返還、諸侯が会議し、議事院をつくり、選挙によって公家・諸侯・陪臣・庶民の間で人員を選ぶなどの制度改革が述べられていた[115]。すでに一年半前に、西郷隆盛と木戸孝允の間で幕府に対抗するための薩長同盟が結ばれており、旧体制のままで徳川幕府が政治を主導することの正当性に対する強い疑問が、西南雄藩の間で強まっていたのである[115]。
9月になると、薩摩藩の島津久光は倒幕を決意し、大久保らに長州藩と交渉させた。また同月には、明治天皇の外祖父である中山忠能を含め、反幕府派公家の三条実美・岩倉具視・正親町三条実愛・中御門経之らの連携ができ、薩摩藩士の西郷・大久保らとともに接触を深めた[116]。これに対して、10月3日、前土佐藩主・山内豊信は、将軍職を天皇に返上する大政奉還を将軍慶喜に勧めた。山内豊信ら土佐藩首脳は、体制変革を倒幕という政治的リスクや戦乱なしに実現しようとしていた[116]。さらに、この大政奉還は、慶喜が旧幕府の軍事力や経済力を背景に、政治の主導権を今後も維持できる可能性の強い方策であった[116]。10月3日、慶喜は、京都にいる10万石以上の諸藩の重臣を二条城に集め、大政奉還について審議させ、14日に大政奉還を明治天皇に申し出た。翌15日、御所内の小御所に、摂政二条・朝彦親王ら三人の親王、内大臣、議奏・武家伝奏らが集まった。その後、彼らは慶喜を召し、大政奉還を認めること、今後も天皇とともに同じ心で尽力して日本国を維持するように、との天皇からの沙汰書を与えられた[117]。少年の明治天皇は、この過程において、全く自分の意思を表していない。単に摂政の二条斉敬らの提言を受け入れただけと考えられる[118]。
この間、明治天皇は、外祖父の中山忠能と接することで、独り立ちの不安を慰めた[118]。慶応3年4月23日には、忠能を召して、囲碁を楽しんだり金魚を眺めたりし、金魚数尾を忠能に与えた。5月3日、明治天皇は体調を崩して寝ていたが、そこに忠能を召し、酒と肴を与え、女官に命じて酌をさせた。翌4日は、病後の運動として小さな弓で的を射て遊んだ。そこにも忠能が同席し、終わると忠能に酒と菓子を与えた。その後もしばしばこうしたことがあった[118]。
そして、明治天皇の外祖父・中山忠能は「討幕の密勅」に関して大きな役割を果たすことになった[119]。倒幕の密勅についての通説は次のようにまとめられる。慶応3年10月8日、薩摩藩、長州藩、安芸藩の代表者(小松帯刀、広沢真臣、辻将曹ら)が三藩盟約を締結し、大久保利通・広沢真臣・植田乙次郎の三名が、中山忠能・中御門経之に会見し、三藩盟約の要目と、「相応の宣旨」(倒幕の密勅)を下してくれるよう依頼する[119][120]。10月13日、中山は岩倉具視と相談し、密勅を薩長両藩に下すことを大久保・広沢ら両藩関係者に伝え、14日に密勅が両藩に下された。広島藩に下されなかったのは、同藩が倒幕に関して動揺していたからであった[119]。この密勅に関しては真贋の論争があり[121][120]、井上勲が天皇の裁可を得ていない「偽勅」説を唱える一方、原口清は「真勅である可能性はかなり強い」と主張している[120]。いずれにしても、この密勅は公表はされなかった。公表されれば、摂政二条斉敬ら朝廷中枢の親幕派の重臣から密勅が批判されるし、そもそも薩長両藩を倒幕に立ち上がらせるには、この密勅で十分であった[119]。
しかし10月13日には機先を制するように徳川慶喜が二条城で在京の10万石以上の50余藩を集めて天皇に政権を奉還する大政奉還を宣言し、翌10月14日に慶喜はその勅許を願い出[122]、「討幕の密勅」に基づいた大義名分は消滅した形となったため[123]、天皇は密勅を取り消さねばらなくなり、岩倉具視によれば天皇は密勅に署名した3人の公家に慶喜が政権を奉還すると明言した以上成り行きを見守るよう指示したという(多田好問編『岩倉公実記』)[124]。ついで10月21日には天皇は同3人の公家に勅して薩摩長州2藩に御沙汰書を授け、しばらく倒幕の実行を見合わせるよう命じた[125]。
この急速な情勢変化に接して薩摩藩は密勅に依拠した挙兵策から朝廷内における王政復古のクーデタに路線を切り替えることになる。11月25日には大久保利通がその路線変更を藩主に報告しており、その中で慶喜について「尾越ニ命せられ十分反正謝罪之道ヲ御内諭有之、官一等ヲ降領地返上侯列ニ下、罪ヲ閥下二奉待」、会津・桑名両藩について「反正之廉無之…守護職所司代ヲ被廃候付、早々帰国御沙汰奉待様御達…反命する者は直二御追討」という処置を取るべきことを進言している[126]。つまり挙兵策は幕府が慶喜の辞官納地、および会津・桑名両藩主の免職・帰国を拒否した場合のみの策であって、クーデタ当日の出兵は宮門警備に限定し、全面的挙兵は意図しない計画である。この案は倒幕派公卿や土佐藩の後藤象二郎などによって修正が加えられながらも12月5日に策定された[127]。12月8日に大久保利通、西郷隆盛らは岩倉具視と会談し、あくまでも王政復古之御基礎を立てるのが目的であり、今後は太政官代三職之公論をもって大政を議定することや、現在の危難に至る大罪は幕府に帰するので、慶喜に反正を求めて辞官納地を実行させることを説いた[127]。岩倉は薩摩藩、土佐藩、越前藩、尾張藩の藩士たちを自邸に招待するとこのクーデタ計画を披露し、明日付(12月9日)の藩主参内の御書付を渡した[128]。
薩摩藩以外の4藩は「公議政体派」と呼ばれていて、とりわけその中心人物である土佐藩藩主山内容堂と同藩藩士の後藤象二郎は、幕府の存続は否定するが、慶喜が幕府の解体を認めるなら大大名として存続することは認めるという方針をもっていたので、「公議政体派」の間では大政奉還によって慶喜の評価が上がっており、慶喜に辞官納地を求める立場になかったが、クーデタには「公議政体派」4藩も参加することになった[129]。翌9日午前10時に薩摩藩、尾張藩、安芸藩、越前藩、土佐藩の5藩軍の兵が出動して御所を制圧[130]。御所の門のうち公家門は桑名藩、蛤門は会津藩が警備していたが、いずれも戦闘を回避して撤収していったため無血制圧となった[131]。
岩倉具視が御所に参内し、中山忠能・正親町三条実愛らが迎えた。彼らは先に承認を得た王政復古の改革の実行を求める上奏を天皇に行い、小御所に入った[132]。その後、明治天皇は、御学問所に出て、有栖川宮熾仁親王ら三親王や、参議の大原重徳・万里小路博房、前土佐藩主の山内豊信や薩摩藩主の島津忠義らを前に、王政復古の大号令を発した[132]。これにより、幕府や摂関・議奏・武家伝奏・京都守護職・京都所司代等の旧制は廃止となり、総裁・議定・参与からなる新政府が創設された。総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には仁和寺宮純仁親王、中山忠能、松平慶永、島津茂久、徳川慶勝、山内豊信、山階宮晃親王、正親町三条実愛、中御門経之、浅野長勲の10名が任じられ、参与には岩倉具視以下の公卿に加え、尾張藩、越前藩、広島藩、土佐藩、薩摩藩の5藩の藩士らが着任した[132][133]。これにより慶喜と連携して朝廷を主導していた摂政二条斉敬と中川宮朝彦親王は失脚し朝廷の体制が一新された。また、王政復古の大号令は「諸事神武創業の始」に基づくことを方針とした[134]。大政奉還後の政治状況を打破するためには、幕府だけでなく、五摂家が主導する朝廷体制も廃止する必要があった。幕府の否定では摂関政治の復活にしかならず、より昔が望まれた。復古に対する当時の好印象もあり、「神武創業」にまで遡った[134]。そして、このことは誰も知らない「創業」であるから、革新的な改革を行うことができるという効果をも生んだのである[134]。

慶応3年(1867年)12月9日夜、明治天皇は小御所に出御し、総裁・議定・参与および尾張・越前・広島・土佐・薩摩の五藩の重臣を召し、小御所会議が行われた[136]。外祖父の中山忠能が議長となり、王政の基礎を確定し、更始一新の経倫を施すため、公儀を尽くすべしと開会を宣言した[137]、最初に口火を切ったのは前土佐藩主の山内容堂で、会議の冒頭で、慶喜を召して朝議に出席させるべきではないかと提案した。さらに「二、三の公家がどんな考えでこのような陰険な行動をしたのかは分からない、おそらくは『幼冲』の天皇を利用して、権力を奪おうとしているのではないか」と岩倉らを批判したが[136][137]、これに対して岩倉は、聖上(天皇)は不世出の英傑であり、王政復古はその天皇の裁断により行われたものである。しかるに幼い天子を祭り上げて権柄を密かに盗まんとするとはいかなる意味か。天皇に対する侮辱以外の何物でもないと述べ、容堂を叱責した。容堂は岩倉の反撃に不意を突かれて失言を謝罪した[137]。しかしこれだけで直ちに参列諸侯が岩倉支持に傾いたわけではなく、前越前藩主・松平慶永(春嶽)も慶喜を擁護する発言を行った[137]。慶永の発言に対して岩倉は、もし慶喜に反省自責の念があるのなら、速やかに官位を辞し、土地人民を還納し、以て王政維新の大業を翼賛すべきである。慶喜にその誠意があれば然るべき席次を与えてもよい。しかし慶喜にはその様子は見えないではないか。慶喜が奉還した政権とは名ばかりで、事実は土地人民ともに従来の権力を維持している。そのような人物は許すべきではなく、朝議にも参加させることはできないと論じた[138]。岩倉に同意したのは大久保利通だった。大久保は朝廷は慶喜に官位辞退、土地人民の還納を命じるべきである。慶喜がこれに応じないなら断固討伐すべきであると述べた[139]。次に発言したのは後藤象二郎で、彼は容堂と慶永を擁護し、王政復古は公明正大でなければならないと論じ、暗に慶喜に対して寛大な処置を求めた[139]。続いて発言した尾張藩主徳川慶勝、安芸藩世子浅野茂勲(後の長勲)は、容堂と慶永の意見に賛同し、薩摩藩主島津茂久(後の忠義)は大久保支持を表明した[139]。以上の討論は「岩倉公実記」によって有名であるが、一方「了卯日記」では、容堂の批判→春嶽の批判→大久保の反論→岩倉の反論の順番になっており、そこに記載される反論の要旨は、慶喜にはこれまでの罪があるし、また彼の反正の真偽はいまだ明らかでないため、彼をすぐに招致すべきではなくというものとなっているため、「岩倉公実記」の記述に疑問を持つ意見もある[140]。いずれにしても討議は容易に終わりそうになく明治天皇は暫時の休憩を命じた[139]。
休憩中、部屋の外にいた西郷隆盛は誰にいうともなく「短刀一本あれば片付くことではないか」と呟き、この言葉は岩倉に伝えられ、石井孝によればこれを聞いた岩倉は新たな決意に奮い立ったという。岩倉はまず容堂支持を表明した者の中で一番動揺していた浅野茂勲と会談し、容堂を刺し殺さねばならないと語り、驚いた浅野は岩倉支持を約束し、家臣を後藤象二郎の所へ送って西郷の言葉と岩倉の決意を伝えた。状況を理解した後藤は容堂に譲歩すべきことを進言した。さらに松平慶永にも再考を促した[139]。
会議が再開された時には全員が岩倉の意見に従い[139]、慶喜が辞官納地を朝廷に上奏することを尾張藩と越前藩が内々に斡旋するという、岩倉や薩摩藩の当初の計画通りの決定がなされた[141][139]。また先述の通り薩摩藩が立てた当初の計画では慶喜だけではなく、会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬の京都守護職・京都所司代からの罷免要求も含まれていたが、そちらは後に慶喜が自主的に二人を罷免したことで解決した[141]。会議は子の刻(深夜12時前後)に終了した[142]。
15歳の明治天皇がこの小御所会議での激論をどのように捉えたのかは定かではない[141][142]。伊藤行雄は、岩倉具視は孝明天皇の侍従だったが、睦仁親王(明治天皇)が9歳の頃から14歳になった慶応3年3月まで、尊皇攘夷派の公家の圧力で朝廷から追放されていて以来朝廷を不在にしていたため、小御所会議の時点では、明治天皇と岩倉具視の間に信頼関係はまだ形成されていなかったと指摘し、そのことから親慶喜派の摂政二条斉敬や中川宮朝彦親王を中心とした朝廷の体制を、自分がよく知らない岩倉ら一部の中下級公家と薩長両藩を中心とした体制に変えていくことは、孝明天皇の取ってきた方針を大きく転換することでもあったから、おそらく強い不安を感じたのではないかとし、しかし明治天皇は外祖父・中山忠能や岩倉らの要望を拒否する気力も実力もまだなかったのだろうと推測している[143]。一方ドナルド・キーンは明治天皇は確かに若いとはいえ、15歳の男子であって、政治的意見を持つことができないほど幼くはなかった点を指摘する。かつて孝明天皇が息子の睦仁にひどい苛立ちを覚えたことがあったが、その理由が外祖父中山忠能、あるいは女官たちにより培われた睦仁の攘夷思想や反幕感情であった可能性は十分にあるとし、明治天皇はすでに父帝と異なる自身の政治思想を確立していて、会議の結論は天皇自身が事実望んで承認したものであった可能性は捨てきれないと論じる[142]。
小御所会議の翌日、慶応3年12月10日(1868年1月4日)、議定の徳川慶勝・松平慶永は二条城に行き、慶喜が辞官納地を朝廷に奏請するという小御所会議での決定を伝え、慶喜はそれを了承した。慶勝・慶永の二人はそのことを総裁の有栖川宮熾仁親王に復命した。二人は辞官納地の猶予を慶喜に与えるように願い、新政府はこれを受け入れた[144]。しかし、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通は不満を示し、これでは慶喜の政権返上の実績が現れないと反対した。二条城の内外には、旧幕府派の藩軍が戦力を増強させて警戒を厳しくしており、他方、御所の北にある相国寺に駐屯する薩摩藩軍も王政復古の大号令後に入京した長州藩軍と合流して戦力を増強しており、旧幕府勢力と薩長両藩のにらみ合いで軍事的緊張が高まっていた[144]。明治天皇は岩倉具視・中山忠能らの勧めにより、12月11日(1月5日)に長州藩に御所の九門の内外の巡回警護を命じ、議定の正親町三条実愛の家も警備させた。禁門の変以来処分の対象であった長州藩を、御所や京都を警護するものとして位置づけ直したのであった。12月27日(1月21日)には七卿落ちしていた三条実美も帰京し、即日新政府の議定に就任した。また同日正午より、御所の建春門外に明治天皇が臨御し、薩摩・長州・土佐・広島の四藩兵の訓練を天覧した。明治天皇が将兵の訓練を天覧したのは文久3年(1863年)以来である[145]。
なお、明治天皇は慶応3年(1867年)から小御所前庭において、馬に乗る練習を始めていた。馬は出羽国天童藩が献じたもので、「小蝶」という名であった。同年12月から書記御用掛として、御所に出仕していた万里小路通房によると、天皇はこの時、緋色の袴を着けていたという[145]。天皇が馬に乗ることは、9世紀までの古代にはみられたが、以後は武士的であるとして嫌われ、鎌倉時代に承久の乱を起こした後鳥羽上皇などの例外を除いて、行われなかった。激動の時代において、前述の将兵の訓練の見学とともに、少年の明治天皇が、武士的・軍人的になっていく、従来にない変化が始まったのである[145]。
鳥羽伏見の戦いと東征軍

慶応4年(1868年)正月、新政府と旧幕府の間で緊張が続く中、明治天皇は小御所の上段に出御して、親王以下の朝賀を受けた。また、元服は数えの15歳(満年齢なら13歳)の正月5日までに行うことになっていたが、形成穏やかではない状況下で、明治天皇はそれを行わないまま数えの17歳(満15歳)になっていたので、1月2日、元服を1月15日に行うことが決められた[147]。
一方元将軍徳川慶喜は、二条城にいた頃は王政復古を受け入れ、時間の猶予をもらえれば辞官納地も受け入れるような立場を取っていたが、強硬派の部下たちの気勢を削ぐために大阪城に移った後、だんだん強硬派の部下たちに影響されて、王政復古拒否と朝廷軍との開戦に考えが傾きはじめた[148]。そして君子が道を誤った時は臣たる者は君子を諫めることを以て旨とすべしという儒教の教えを唱えて、天皇に弓引く正当化を図り始めた[149]。
慶喜は12月19日(1868年1月13日)に至って王政復古の宣言の撤廃を要求、1月1日(1月25日)には旧幕府軍を率いて京都に向けて進軍を開始した[150]。そして1月3日(1月27日)に鳥羽・伏見の街道を進軍中の会津桑名藩軍を主力とする旧幕府軍が、鳥羽・伏見両地点において薩摩藩軍を主力とする朝廷軍と武力衝突し、戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いが開戦するに至った[151][147]。
この報に接した明治天皇は仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を下賜して征討大将軍に任命し、京都に迫り来る旧幕府勢力の征討を命じた[152]。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府勢力は惨敗を喫し、幕府老中だった稲葉正邦の淀城に逃げ込もうとするも見限られ、受け入れを拒否されて敗走。つづいて狭隘の細長い平地で、大阪への関門である山崎が焦点となり、ここは旧幕府勢力側の津藩が守っていたが、天皇は1月5日にも津藩に勅使を送って説得にあたり、津藩は将軍を捨て天皇に従うことを誓った[152]。1月6日にも津藩は旧幕府軍に砲撃を開始、旧幕府軍は要衝山崎も失って潰走し大阪城へ逃げ帰った。敗戦を悟った慶喜はその日の夜にも松平容保など数人の側近だけを伴って大阪城からこっそりと脱走して海路で江戸へ逃亡した[153]。大阪城に置き去りにされた旧幕府軍は、翌日朝に慶喜・容保らの逃亡に気づき、次々と大阪城から逃げ出して雲散霧消し、西日本における旧幕府勢力は完全に瓦解した[154]。この勝利により西日本と南日本はすべて天皇の統治下に収まったが、まだ戦いが終わったわけではなかった。江戸と北日本が旧幕府勢力の支配下に残っており、そこの平定も必要であった[154]。
大阪城を手中に収めた一週間後の慶応4年1月15日(1868年2月8日)に天皇は予定通りに元服を行った[155]。御所の紫宸殿の御帳台に天皇が入御すると、加冠式部卿の伏見宮邦家親王が天皇に冠を加え、理髪権大納言の正親町実徳が髪を整え、これまでの童服を改めて、御盃の儀を行って元服の儀を終えた[156]。またこれを機に六カ国公使に宛てて国書を公布し、今後は天皇が内政外政にわたって最高の権能を行使することを通達した[155]。

そして2月3日、天皇は幼少期に御所に移って以来初めて御所を出、葱花輦(天皇の臨時の行幸の際に用いられる御輿)に乗って、騎乗の親王、公家、大名らを従えて、京都における将軍宿所として旧幕府の象徴だった二条城に東大手門から入城した[157][158]。新政府の中枢機関である太政官代は当初九条道孝邸に置かれていたが、1月下旬に二条城に移されていたためである[159]。
天皇は二条城本丸白書院の上段に設けられた簾中に臨御し、総裁熾仁親王、議定、上参与が中段に、下参与が廂に座を占めて朝議が行われ、江戸へ逃れた賊徒の親征と、そのための東征大総督の設置が決定された。朝議終了後、天皇は総裁を召して次の大略の親征令を下した。「このたび慶喜以下賊徒は江戸城ヘ逃れ、ますます暴虐をほしいままにしている。四海鼎沸し、万民塗炭に苦しむさまは見るに忍び難い。よって天皇は、叡断をもって親征を決意した。ついては適切な人選によって大総督を置くこととする。畿内、七道の大小藩は各々軍旅の用意に取り掛かるように。数日内に軍議を決定する。御沙汰あり次第、各部隊は命を奉じて直ちに馳せ参じよ。諸軍とも力を合わせて勉励し、忠戦を尽くすべし」[158]。

2月9日(3月2日)には政府総裁有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じた。熾仁親王は明治天皇の信任が厚かったうえ[161]、慶喜と親戚関係にあったので特に自ら望んで東征大総督の地位に就いた[158]。2月15日(3月8日)、京を出立する挨拶に熾仁親王が参謀、錦旗奉行を従えて参内した際、天皇は速やかに敵を掃攘せよとの勅命を与えた[158]。
熾仁親王は出陣にあたって陣中規則12条を頒布し、軍規を厳正にすることを東征軍将兵に指示した。熾仁親王率いる東征軍は、東海・東山・北陸三道から進軍し、参謀として西郷隆盛が補佐した[161]。
一方江戸に逃亡していた慶喜は、東征軍に徹底抗戦するか降伏するかで揺れ動いていたが、やがて降伏を決意し、慶応4年2月12日(1868年3月8日)には江戸城を退去して上野寛永寺内の大慈院に入って謹慎し恭順する意思を示し、勝海舟を旧幕府勢力代表者に立てて後事を託した[162]。勝は駿府城に陣を構える東征軍参謀西郷隆盛のもとに山岡鉄舟を派遣、山岡の説得の結果西郷と勝の会談がもたれることが決定した[163]。勝と西郷の会見は江戸の薩摩藩邸で二度にわたって行われたが、その時の会談の様子について、勝は、西郷が終始座を正して手を膝に乗せ、少しも戦勝の威光で敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったと回想している(『氷川清話』)[163]。二人の会談の結果、3月14日に江戸城無血開城と慶喜の助命・謹慎が決まり、3月15日に予定されていた官軍の江戸城総攻撃の予定は中止され、江戸は奇跡的に戦火を免れた[163]。
4月4日(4月26日)には天皇の勅使橋本実梁が西郷隆盛以下官軍参謀60余人を従えて江戸城に入城、慶喜に代わって城主となっていた徳川慶頼が西の丸玄関でこれを恭しく出迎えた。橋本は一週間後の4月11日(5月3日)をもっての徳川家の江戸城からの退去、および慶喜の死一等を減じ水戸藩での謹慎を命じる朝命を慶頼に申し渡した[162]。期日通り4月11日に旧幕府の最後の砦である江戸城は天皇の軍隊に引き渡され[162]、4月21日(5月13日)には東征大総督の有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城した[164]。
江戸城開城後、勝海舟や山岡鉄舟ら旧幕閣の対応に不満を抱く一部の旧幕臣が彰義隊を名乗って上野寛永寺に立て籠もって反乱を起こした。熾仁親王はただちに解散を命じ、また勝海舟や山岡鉄舟らが投降するよう説得にあたるも効果がなかったため、熾仁親王は5月15日にも上野に討伐軍を派遣して速やかにこれを殲滅した[165]。これをもって関東は平定され、以降の戦いは奥羽方面に移っていく[164]。
大坂親征と初めての各国公使引見
鳥羽伏見の戦いの勝利と、続く元服直後の頃の1月17日、参与・大久保利通が、天皇が直々に旧幕府残党征討軍を率いて大阪に行幸するという「大阪親征」を提案した。実際にはもはや死に体の旧幕府残党の征討のためというより、新時代を見据え、天皇を取り巻く空間や政務を行う空間を根本的に変えることが目的だった。大久保は総裁有栖川宮熾仁親王の諮問に応じ、さらにその後、参与・広沢真臣、後藤象二郎らの賛同を得て、1月23日には一時的な大阪への移動である大阪親征から更に踏み込んだ大阪遷都を建白した[166][162]。大久保は、遷都は因習の弊害を除去して政治を一新する機会となるばかりでなく、海に接した大阪の地は、外国との交際や陸海軍を起こして富国強兵を実現するのにも適していると論じた[166]。この大阪遷都論について、明治天皇は、愛着ある京都の生活が大きく変わることから、ひどく嫌がって納得しなかった。この時まで明治天皇は京都から出たことがなかった[167]。大久保より大阪遷都の建白が出されると、その可否につき、政府内で議論がわきあがった。外祖父の中山忠能をはじめとした公家勢が強く反対し、公家の間では、政府から公家を追い出して薩長両藩が私権を張ろうという計画との疑いさえ唱えられ、大阪遷都は合意できなかった[167][162]。大阪遷都計画は立ち消えとなったものの、大久保のもう一つの提案である天皇が直々に旧幕府勢力征討軍を率いて出陣するという親征の提案の方は広く支持を集め、2月19日には天皇の大阪行幸(大阪親征)が決定した[167][158]。
同じ頃、政府内では外国公使に天皇への謁見を認めるかが議論されていた。これについては特に宮中奥向きを司る「後宮」から強い反対が起きていた。しかし岩倉具視と松平慶永が天皇の御前に伺候し、君主が他国の公使を引見するのは万国の通義であることを訴えた。天皇はそれを認め、外祖父の中山忠能を召して、外国公使引見の手はずを整えるよう命じた[168]。こうして2月17日には天皇が外国公使に謁見を賜る旨が布告された[168]。天皇の決断が急速だったのは、大阪親征の日取りが迫っており、その前に公使引見を済ませておきたかったからである[168]。

2月30日(3月23日)には紫宸殿においてフランス公使レオン・ロッシュとオランダ公使ファン・ポルスブルックを引見した。これが天皇の初めての外国公使引見であった。天皇は引直衣を着用して御帳台に座し、副総裁の三条実美と外祖父で輔弼の中山忠能が帳内に侍立し、外国事務局総督山階宮晃親王と副総裁岩倉具視が帳前に立ち、三職以下は御帳台の左右に並ぶという形で公使を迎えた[170]。
イギリス公使ハリー・パークスもこの日に引見する予定だったが、御所に向かう途中のパークスが襲撃される事件が発生し、パークスの護衛たちが多数負傷したため延期された。天皇は事件を知ると深い憂慮の念を漏らし、ただちに山階宮晃親王をパークスのもとに慰問に走らせた[171]。だが京都市民の間ではパークスよりも襲撃者に同情する世論の方が強かった。外国人が御所に出入りすることは神州を衰微させ、のみならず天顔まで拝させるのは、天威を冒涜するものと信じられていたためである[170]。
天皇は3月3日(3月26日)になって改めてパークスを引見。同道した通訳のアルジャーノン・ミットフォード(後の初代リーズデイル男爵)はその時の様子を次のように書いている。「中央に黒い漆塗りの細い柱で支えられた天蓋があり、それは襞のついた白い絹で覆われ、その中に黒と赤の模様が織り込んであった。天蓋の下には若いミカドが高い椅子に座るというより、むしろ凭(もた)れていた。天皇の後ろには二人の親王がひざまずいて、もし必要があれば陛下のお務めを補佐しようと控えていた。我々が部屋に入ると天子は立ち上がって、我々の敬礼に対して礼を返された。彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった。彼は白い上衣を着て、詰め物をした長い袴は真紅で夫人の宮廷服の裳裾(もすそ)のように裾を引いていた。被り物は廷臣と同じ烏帽子だったが、その上に、黒い紗で作った細長く平らな固い羽根飾りをつけるのが決まりだった。私は、それを他に適当な言葉がないので羽飾りといったが、実際には羽のようなものではなかった。眉は剃られていて、額の上により高く描かれていた。頬には紅をなし、唇は赤と金に塗られ、歯はお歯黒で染められていた。このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのは並大抵の技ではないが、それでもなお、高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた。付け加えておくと、まもなく若い帝王は、これらの陳腐な風習や古い時代の束縛を、その他の時代遅れのもろもろと一緒に全部追放したとのことである」[172]。

3月21日(4月13日)に明治天皇は葱花輦に乗って建礼門から御所を出て官軍最高司令官として官軍を率いて大阪へ向かった。英照皇太后、公家、大官らが天皇の行列を見送った。東征大総督有栖川宮熾仁親王の父である幟仁親王を先頭にしたその軍勢は内侍所(三種の神器の一つである八咫鏡)と錦の御旗を掲げて進んだ。華頂宮博経親王、三条実美、外祖父中山忠能らが鎧直垂・揉立烏帽子を着用して随従した。天皇の行列が境町、三条通を通過する際、一般庶民は跪坐してこの盛儀を仰ぎ見た。行列は東本願寺で小休止の後、鳥羽の城南宮へ向かい、そこで天皇は午餐を取った。戌の刻(午後8時前後)に石清水八幡宮に到着し、そこを行在所として宿泊。行列の速度は遅く大坂における行在所である本願寺津村別院に入ったのは3月23日のことだった[174][175]。以降天皇は46日間にわたって大阪に滞在した[176][174]。その実態は普通の大阪行幸だが、旧幕府残党の親征が名目になっていたため、公式には大阪親征と称される[177]。
3月26日(4月18日)には、天保山(現・大阪港)に行幸したが、その道中安治川で小船に乗って川下りを楽しんだ。天皇が船に乗ったのはこれが初めてだった。天皇の乗る小船が下るのに合わせて両岸から官軍が陸進して天皇の警護にあたった[174]。天保山に到着した天皇は、海軍の艦隊運動を親閲。明治天皇は、海軍を親閲したのが初めてであるばかりか、京都から出たのも、海を見たのも初めてであった[176]。『明治天皇紀』はこの時の天皇の様子を「天顔特に麗し」と記している。江戸時代に事実上御所に幽閉される生活を送ってきた天皇の解放感は想像に難くない[178]。天皇はとても機嫌良く、三条や中山が付き従って、夕方4時過ぎに行在所に帰った[176]。
4月6日(4月28日)、天皇は大坂城で薩摩・長州・広島・熊本など七藩兵の訓練を親閲し、閏4月6日(5月27日)には、福岡・宇和島・広島など八藩の大砲発射の演習を親閲した。以降天皇は積極的に陸海軍の演習を親閲するようになり、軍の統率者としての新しい天皇イメージを形成する大きな一歩を踏み出した[176]。
4月9日(5月1日)には大久保利通が行在所の天皇の御前に召されて拝謁を受けた。4月17日(5月9日)には木戸孝允と後藤象二郎がやはり行在所に召されて拝謁を受けた。政府高官といえども、当時藩士階級で無位無官だった彼らが天皇の拝謁を受けるのは極めて異例であり、いずれもその感激を日記に書いている。木戸の日記によれば「布衣にて天顔を咫尺に奉拝せし事、数百年、未曾聞(いまだかつてきかざる)なり。」であったといい、それが許されて拝謁を賜ったことに感涙したことを記している[179]。
また大阪滞在中に生母中山慶子の安産祈願を行った坐摩神社、吉野時代の後村上天皇の崩御の地である住吉行宮などに行幸。さらに皇室の忠臣楠木正成を祀る湊川神社や旧徳川幕府によって貶められた豊臣秀吉を祀るため豊国神社の建設も勅命した[177]。
大坂での日々は天皇にとって江戸時代の束縛から解放されて自由を謳歌した楽しい時間となったが、この間も学問は続けられた。4月11日(5月3日)からは『大学』『孫子』『三略』の進講を受けた。後者2つは兵法書である。4月16日(5月8日)には参与の田中国之輔から『孫子』の進講を受ける[179]。この日から天皇は日課として『古事記』『春秋左氏伝』『孫子』などの和漢書を学び始める[179]。
大阪親征は人々から天皇を目に見える形にし、天皇と国民を近づけた最初の行幸として大きな意味があったが、江戸の旧幕府勢力が降伏し江戸城が開城されると、ほどなくして天皇の帰京が検討された。大阪遷都を考えていた大久保利通は当然これを喜ばなかった。大久保は天皇が京都に戻ればまた国民からかけ離れた存在になってしまうのではないかと恐れていた[180]。
天皇は閏4月7日(5月28日)に大坂を離れ、来る時とは打って変わって今度は素早く移動し、翌日には京都に還幸。天皇の葱花輦が境町門を入るや、天皇の還御を祝う楽士が雅楽の還城楽を演奏しながら先導し、京都市民も盛儀を一目見ようと人垣を為して天皇の還幸を祝った。大宮御所と九条道孝邸前では、三職をはじめとした公家、大名、徴士(政府が登用した藩士や平民)、無位の官吏に至るまで大勢が、その地位に応じた衣装を着て天皇の出迎えに立った[180]。未の刻(午後2時)に紫宸殿に入御した天皇は近臣たちに拝謁を賜った[180]。
五箇条の御誓文

大阪行幸に先立つ慶応4年3月14日(1868年4月6日)、御所の紫宸殿において公家と在京中大名を召集しての祭典が行われた。明治天皇は、まず天神地祇を祀り、政府副総裁・三条実美に祭文を読ませ、その後、天皇が玉串を献じて拝礼、ついで天皇は、三条実美に五箇条からなる国家の新方針を、神に誓う形で捧読させた(五箇条の御誓文)[182][183]。
- 一、広ク会議を興シ万機公論ニ決スベシ
- 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経倫ヲ行フベシ
- 一、官武一途庶民ニ至ル迄各々其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
- 一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ
- 一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基を振起スベシ
五箇条の御誓文は以上の5つからなる[184]。草案は由利公正と福岡孝弟が作り、木戸孝允がその修正に加わって作成された[184]。これは明治以降の日本の指導精神となり、立憲政治の基礎となった[185]。
参列した公家・大名たちは順に天神地祇と天皇を拝し、それを遵守する旨の誓書(「叡慮ヲ奉戴シ死ヲ誓ヒ黽勉従事冀クハ以テ、宸襟ヲ安ジ奉ラン」(天子の志を慎んで仰ぎ、死を賭して全力で勉め励み、願わくは天子の心を安んじ奉る所存である)に署名した。当日に参加できなかった公家・大名は後日署名を行った。署名した者の総数は前後あわせて767人である[186]。
また御誓文と同日に歴代天皇の偉業を称え、天下万民の安寧を祈り、ともに国威を海外に発揚することを訴えた天皇の告諭が宸翰の形で出されている[186]。
さらに閏4月21日(6月11日)には五箇条の御誓文の趣旨に従って、政体職制を定めた政体書が出された。その大要は天下の権力を太政官に統一し、太政官の権を行政・立法・司法の三権に分かち、三権分立して偏頗なく、相互に侵犯することなからしめ、各府藩県より貢士を出し、議事の制を立てること、諸官は4年を以て交代し、公選入札の法を用いること、各府藩県の政令も御誓文の旨を体して行るべきことなどである[187]。
即位の礼
王政復古によって天皇は、軍の統率者としてだけでなく、「万機親裁」のイメージも形成する必要が生まれた[188]。そこで大阪行幸後の閏4月21日、天皇の政務の日課が布告された。明治天皇は午前7〜8時に学問所に出て政務を「総覧」し、その間、重臣のいる八景間に行ったり、学問や武道に励んだりし、午後4〜5時に学問所を出ることになっていた[189]。明治天皇は主に学問や乗馬に熱心に励み、建て前としての政務の「総覧」には殆ど時間は使わなかったが、7月23日に木戸孝允が明治天皇に政治の近情を申し上げた際、明治天皇が積極的に時情を尋ね、木戸が尽く答えたように、政治への関心もより示すようになった[190]。
この頃、政府の統治下に入ってまもなかった関東の治安が問題になり、江戸への天皇行幸が考えられるようになった[191]。江戸市民の間では幕府が瓦解した今、その政治的価値を失って誰からも顧みられない僻地と化すことが恐れられており、天皇行幸が待ち焦がれていた[192]。大木喬任と江藤新平は、東国の人心鎮撫のために、武威を示すために、天皇が江戸に下ることを主張し、江戸を東京と改称し、将来的には東西両京を鉄道で繋げば国家が分裂する憂いは無くなると提案した。この案が容れられて、7月17日(9月3日)に天皇より「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が出され、江戸は東京と改称された。そして8月4日(9月19日)に天皇の東幸が布告された[193]。すでに3月から閏4月にかけて、大阪行幸を行った天皇は、他所に滞在することへの自信がつき、東幸についての拒絶感覚が無くなったと思われる[194]。岩倉によれば、江戸から帰った木戸と大木がその状況をよく説明し、江戸を東京とする命を天皇が下すべきであると上奏したことも、天皇はよく理解を示したという。それが政府の安定に資するなら、そうしたいと考えるようになったと思われる[194]。慎重派からは経費の問題や、奥羽方面の反乱がまだ完全に鎮定されていないので時期尚早との指摘もされていたが[195]、8月23日(10月8日)には政府軍は奥羽列藩同盟中でも最も有力であった会津藩の若松城の包囲に成功しており、大勢は決しようとしていた[196]。

大阪からの還幸後、天皇が政務に出る親政が行われるようになったことで、天皇には東京行幸の前に諸儀式を済ませておくことが望まれていた。本来は前年11月に予定されていたものの内外の情勢から延期されていた即位の儀が意識されるようになった[198][199]。
慶応4年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)に内裏(京都御所)にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣明した[198]。
即位の礼の内容や準備は、岩倉具視の内命の下、神祇官副知事亀井茲監(津和野藩主)や神祇官判事福羽美静(同藩士)など津和野藩が中心になって行われたが、岩倉具視は維新後最初の即位の礼は将来の雛形となるような、中国の制度の模倣ではない日本古来式に更改されるのが望ましいと考え、5月にも亀井に古来式の考証勘案するよう命じ、日本古来の典拠に則る「皇国神裔継承」の規範を裁定させた[198]。
これにより即位の礼に様々な変更があった。大きな変更点として、まず第一に天皇の礼服が、唐風の冕冠・袞衣から、黄櫨染御袍の束帯となったように、中国風を排除して復古を目指したことである[199][200]。近代以前の即位の礼は、服制のほかにも、中国の皇帝即位儀礼に倣ったものが多かった。香を焚いて天帝に即位を報告する儀式は取りやめられ、庭上に置かれる幡旗は、榊に鏡・剣・璽を付けた大幣旗・日章旗・月幣旗に変えられた[199]。また、即位灌頂という印を結び真言を唱える仏教的儀礼も廃止され、神道の儀式として徹底した[201]。
第二は、即位式の行われる紫宸殿前(実際には小雨のため雨儀となり、承平門内に置かれた)に、直径1メートルの地球儀を置くことであった。この地球儀はかつて水戸藩主徳川斉昭が孝明天皇に献上したものだが、斉昭の狙いは天皇に世界を意識させ世界に向けて国威を発揚するよう仕向けることにあった。もしこの地球儀を即位の礼の式典の中心に据えるなら列席する百官有司(役人)に高邁なる志操を吹き込み、その見識を深めるであろうと福羽は論じている[202]。
第三は、天皇の命令である宣命を宣命使が小声から大声で読むようにし、万民に告知することを明示するとともに「万民奉賀」の寿詞を奏上したこと、公家だけでなく功臣である武士の参列を認めたことである[203]。これに関して福羽は、式典に捧げられる宣命宣制や寿詞は、万民の奉賀の気持ちを体したものでなければならない。これまでのような公家だけの儀式の世界であってはならず、儀式の世界に広く万民を取り込まねばならないと論じている[200]。
なお宣命は、桓武天皇が即位した際に、天智天皇の定めた法に従って即位するという文言が用いられ、以後それが踏襲されてきた。明治天皇の即位礼でも従来の宣命が使われたが、加えて神武天皇への復古も唱えられた。「神武創業」への復古、「万世一系」の強調による変化である[203]。
即位の礼当日、天皇は紫宸殿に用意された高御座(玉座)に北面(裏側)から入って座し、女官がその御帳をあげて天皇の姿を見えるようにすると群臣たちは一斉に平伏した[200]。弁事勘解由小路資生は天皇に幣(神に捧げる布製の礼物)を献上し、神祇官知事鷹司輔熙が御前に進んで幣を拝受。ここで典儀伏原宣足が再拝を求めて群臣が一斉に再拝。つづいて宣命使冷泉為理が宣命を捧げ、新天皇の皇位継承を宣した。さらに天皇の長命と国家の繁栄を祝う寿詞が読み上げられ、伶官によって「わたつみの はまのまさごを かぞへつつ きみがちとせの ありかずにせん(大海の浜辺の砂を数えながら、その砂の数ほどに御治世が永遠に続くことをお祈りする)」という大歌が奏された。大歌が終わると伏原宣足の合図により群臣が一斉に再拝。有栖川宮幟仁親王が御前に進み、即位の礼の終了を告げ、女官たちが再び御帳を下げて天皇の姿は見え無くなった[204]。こうして即位の礼は無事に終了した。
またこの即位の礼の前日に天皇と国民の間の絆を強めるための措置として明治天皇の誕生日(旧暦9月22日。明治6年の改暦後は11月3日)を天長節として国民の祝日に定めた。天皇の誕生日を祝日とする先例はすでに宝亀6年(775年)に見られる。それ以降長く中断していたこの慣習を復活させたのは、やはり古代の慣習へ立ち返ることを強く意識したものである[205]。
慶応4年9月8日(1868年10月23日)に詔書を発して年号を慶応から明治に改元するとともに「一世一元の制」を定めた[205]。幕末には頻繁に改元が繰り返され、干支の組み合わせという年の表示があるとはいえ、同時代の人も流石に困惑を感じていたこと、皇帝権力の強い中国の明や清では、皇帝一代に一つの元号であったこと、この2つの理由から一世一元が目指されたと思われる[206]。「明治」という語は『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」(聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む)から取られている[205]。
京都から東京へ

明治元年9月20日(1868年11月4日)辰の刻(午前8時前後)、天皇は紫宸殿から出御して鳳輦に乗って建礼門から御所を出ると東京へ向かった。岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、池田章政(岡山藩主)、木戸孝允を筆頭として3300人が供奉する大行列だった。掲げられる三種の神器八咫鏡の警護の任の名誉は加藤明実(水口藩主)が担った。道喜門で皇太后と淑子内親王が見送り、親王、公家、在京の大名たちは南門外に整列して天皇を見送った。沿道には老人から子どもまで男女が集まって車駕を拝観し、拍手が絶えなかった[209][210]。
行幸の列は三条通りを東に粟田口まで進み、天台宗門跡青蓮院で小休止。ここで午餐を取るとともに遠出用の軽便な板輿に乗り換えた。その後行列は東山を越えて山科に出、そこで天皇は天智天皇の山科陵を遥拝した[209]。未の半刻(午後3時頃)に大津に到着。ここで東幸反対派だった権中納言大原重徳が馬で駆けつけてきて、伊勢神宮で鳥居が崩れる不吉があったとして、東幸を取りやめることを求めたが、岩倉は退けた[211]。同日天皇は沿道の全ての神社に幣帛を命じ、また高齢者、病人、困窮者などに施しを行い、功労者を表彰した。これは東幸中に通りがかった全ての土地で行われ、そのため旅費は巨額に上ったが、三井家など京大阪の豪商が旅費を請け負っている[211]。
翌朝瀬田橋にさしかかり、明治天皇は琵琶湖の景色を楽しんだ[210]。9月22日(11月3日)、行列は石部を出発し、土山まで進んだ[210]。この日は明治天皇の16歳の誕生日であった。土山の行在所となった本陣では、岩倉具視・中山忠能・木戸孝允らが召されて、ささやかな祝いが行われ、土山の人々にも清酒3石(約540リットル)とスルメ1500枚が下賜された。同日、奥羽戦線では会津藩が政府軍に降伏[212]、その後数日間に他の反乱諸藩も次々降伏し、奥羽は平定された。未だに反乱を続けるのは蝦夷地へ逃れた榎本武揚一党のみとなった[211]。
その後、行幸は四日市・桑名を経て[213]、9月27日(11月11日)には名古屋に到着し、元尾張藩主徳川慶勝と尾張藩主徳川徳成父子の出迎えを受け、東海道沿道の八丁畷(現名古屋市瑞穂区東ノ宮神社境内地)において農民の収穫の様子を初めて天覧した[207]。天皇は農民たちに菓子を与え、その労苦をねぎらった[214]。またその直前に熱田神宮を親拝している。天皇は行幸前にも熱田神宮に勅使を遣わして反乱が続いていた東北の平定を祈願する宣命を下賜していた[215]。
10月1日(11月14日)、天皇は新居(遠江)の手前で、初めて太平洋を眺めた。古代以来、持統天皇が伊勢国に、元正天皇が美濃国に、聖武天皇が伊勢・美濃に行幸した例があるが、東国のここまで来た天皇は明治天皇が最初であった[213]。10月2日、行列は浜名湖を船で渡った。湖面は静かで、その時の天皇の様子について「天顔頗る(すこぶる)麗し」とある[214]。浜松・掛川を経て、10月4日(11月17日)、天皇は大井川を渡河するにあたって、金谷台から富士山を眺めた。天皇が富士山を眺めたのは、古来未曾有のことであった[216]。感銘を受けた天皇は随従する者たちに東京到着までに富士を詠み込んだ和歌を作っておくよう命じた[217]。江戸時代を通じて軍事的な配慮から大井川には橋がかけられていなかったが、この時には天皇がお通りになるということで緊急に橋が架けられており、その橋を通過して関東へ向かった[215]。
10月8日(11月21日)、箱根に到達、芦ノ湖の風光を見た天皇は銃猟を見たがっていたが、土地の者に迷惑をかけることを好まなかった。木戸孝允が気をきかせて前日に駿河伊豆の国境で天皇の行列を出迎えにでていた射撃の名手江川太郎左衛門にその件を相談し、江川は従者の一人に御前に広がる湖上の鳥を銃で狙わせ、一羽の鴨に命中させた。江川はこれを天皇に献上。天皇はいたく喜んで江川の従者に賞金五百疋を下賜している[218]。同日午後7時半に小田原に到着。10月10日には大磯に到着し、漁夫たちの地曳き網の漁を天覧し、捕獲された魚は数個の大桶に入れられ、天皇の御座所へ運ばれた。それを眺めた天皇は「天顔頗る喜色あり」と記録されている[218]。
10月11日(11月24日)は神奈川に泊まったが、英仏両国の軍隊が宿場町の西方に列をなして拝礼し、行列を迎えた。また、横浜港に停泊していた各国の軍艦は、一斉に祝砲を放った[219]。

10月12日(11月25日)には川崎田中本陣で昼食を取り、その後23隻の小船でつくられた舟橋で六郷川(多摩川)を渡河した[220]。
10月13日(11月26日)に東京府に入った天皇は、品川において東征大総督有栖川宮熾仁親王、鎮将三条実美、東京府知事烏丸光徳の出迎えを受けた[218]。翌日の早朝に行列は宮中の雅な装束に着替えて品川行在所を出発し、秋晴れの下、壮麗な行列を仕立てて東京を進んだ[216][221]。その行列は親王、公家、大名が衣冠帯剣、三等官以上の徴士が直垂帯剣であり、いずれも騎乗していた。この演出者は岩倉具視だった。岩倉はその意図を次のように述べている。長年にわたって武力による支配に慣らされてきた関東の民衆は「剽悍」であるので、これを御するには「先づ朝廷衣冠の礼を観しめ、以て其の心を和にするに如かざるなり」[218]。
途中増上寺で小休止し、ここで天皇は再び鳳輦に乗り換えた[218]。芝から新橋、京橋、呉服橋見附を進み、同日午後1時過ぎ、和田倉門から江戸城に入城した[218][221]。京都御所から江戸城への到着まで全行程22日の旅であった[221]。
同日未の半刻(午後3時頃)に天皇は西丸に入った[218]。このときより江戸城は皇居となり、名称も東京城と改称された[221][218]。この日幾千という東京市民が天皇の行列を拝観しており「図らざりき、今日一天万乗(天下を統治する天子)の尊厳を仰ぎ奉らんとは」と感涙したという[218]。

10月27日(12月10日)には東京到着直後に鎮守勅裁の社と定めていた氷川神社に行幸[223]。東京でも沿道の各地で高齢者、病人、困窮者を慈しみ、功労者を表彰し、国事殉難者の遺族を慰めた[223]。
11月4日(12月17日)に天皇は東京行幸の祝いとして東京市民に2990樽という大量の酒を下賜した。さらに錫瓶子(錫製の徳利)550本、スルメ1700把も下賜された。総額1万4318両にも及ぶ。東京市民は2日間にわたって家業を休み、歓を尽くした[224]。この時のことは明治初期の文学の題材にも使われている。漢詩人大沼枕山は「天子遷都寵華ヲ布ク 東京ノ児女美華ノ如シ 須ラク知ルベシ鷗渡ニ輪スルヲ 多少ノ搢紳家ヲ顧ミズ」(天子が遷都し寵華(酒)を賜った。東京の女子は花の如く美しい。「鴨水(京都の鴨川)」が「鷗渡(東京の墨田川)」に及ばぬことを知って公家たちは家のことなんてどうでもよくなった)という七言絶句を書いている[224]。
東京滞在中、叔母の親子内親王(和宮)を引見、ついで11月23日(1869年1月5日)にはフランス留学帰りの水戸藩主徳川昭武を引見した。天皇は昭武に外国事情を下問し、昭武が語る外国話は天皇の心をとらえたようでこの後も頻繁に昭武を召している[225]。ただ昭武は12月初めには函館の五稜郭に立て籠もった榎本武揚一党の征伐軍に従軍するため蝦夷へ派遣された[225]。また11月22日(1月4日)、11月23日と2日にわたって外国公使たちを引見した[226]。
11月28日(1869年1月10日)に天皇は初めて日本の軍艦に搭乗してその運転を視察[227]。前日に三条実美と岩倉具視は軍艦で横浜沖までの出航を天皇に勧めたが、外祖父中山忠能は海上において剣璽を紛失することを恐れて反対した。しかし天皇の聖断により剣璽は浜御殿に残し厳しく警備させ、乗艦することに決定した[227]。天皇が富士艦に搭乗した際に米国軍艦が祝砲21発を撃ち、富士艦もそれに対して答砲した。この時天皇に随従していた中山忠能や大久保利通らは砲弾音に肝をつぶしたというが、天皇は「自若として龍顔殊に麗し」であったという[227]。この日は天気がよく風波もなく、天皇は初めての軍艦搭乗体験にすこぶる満悦だったと記録にある[227]。翌日には天皇は「海軍之儀ハ当今ノ急務」「講究精励」あるべしと御沙汰を下した[227]。
東京での生活をしばらく楽しんだ明治天皇は、翌春に再び東京に戻ることを約し、明治元年12月8日(1869年1月20日)に冬の寒さが厳しくなる中、京都への還幸を開始した[228][229]。還幸の理由は孝明天皇の三年祭と、一条美子(後の昭憲皇太后)の皇后冊立のためであった[223]。還幸も供の者は外祖父で議定の中山忠能、参与の大久保利通以下2150人余りという大人数であった。しかし、三条と岩倉は東京に留まった。明治天皇が来春に再び帰ってくるまでに、東京の行政組織を事実上の首都として、また東京城を皇居としてふさわしく整えるためであった[230]。再幸までには太政官が京都の二条城から皇居内に移され[231]、皇居の宮中三殿もこの間に建造された[232]。また天皇の行幸に従って多くの公家が東京へ移住したので、彼らの住居も必要となり、東京府が上地した旗本屋敷が公家たちに貸し与えられた(後の明治5年に旧公家華族が東京府貫属になるにあたって東京か京都の屋敷地を選ばせるなどの対応をしている)[231]。
還幸の旅の間、明治天皇はいたって健康で、途中12月18日(1月30日)に名古屋付近で寒波と強風があったが、明治天皇の体には全くこたえなかった[233]。その2年8ヶ月後、19歳に近づいた明治天皇と腕相撲をした侍従の高島鞆之助は、明治天皇の筋力が強いのに驚いた。このように、明治天皇は16歳以降、肉体的にも頑強に成長していった[233]。

京都到着後、12月25日(1869年2月6日)に孝明天皇三年祭で後月輪東山陵を親拝[223]。12月28日(1869年2月9日)には一条美子が入内し、同日中に皇后に冊立された[233]。美子の父である左大臣一条忠香は、天皇の御深曽木の儀の際に整髪の御役を務めた人物であり、早くから才女として知られた美子は、慶応3年(1867年)に皇后に内定していた。一条邸の跡地には今も美子皇后ご生誕の御産所跡が残されている[223]。
明治2年(1869年)の正月を明治天皇は京都で過ごした。天皇が京都で正月を過ごすのはこれが最後となった。1月5日(2月15日)には参与横井小楠が暗殺され、明治天皇はその事件の報に驚き、ただちに侍従少納言長谷信成を横井宅に遣わして事の真偽を確かめさせた。天皇は負傷した門弟や従僕のために治療費として金400両を下賜し、横井が仕えていた熊本藩主細川韶邦にも横井を手厚く葬るよう命じて祭祀金として300両を賜った[235]。
1月15日(2月25日)に天皇は馬場初の儀に出御し、騎乗する姿を披露した。大名たちの他、公家の三条実美や中山忠能らも陪騎した[236]。1月24日(3月6日)に明治天皇治世下最初の和歌御会始があり出御した。ついで1月27日にはやはり治世最初の御楽始が開かれ、天皇と皇后そろって小御所に出御した。奏楽は近衛忠房・中山忠能など公家たちが行った[237]。
2月20日(4月1日)には反乱が鎮定されていた奥羽地方の民に向けて次の告諭を発した。天地の間、行くところすべて「王土」でないところはない。そこに住む者はすべて天皇の赤子である。「苟も生を本邦に禀けたる者は、之を視ること赤子の如く、一民も其の所を得ざれば深く宸襟を悩ましたまふを以て、山間僻遠の地、蝦夷松前に至るまで撫恤(慈しみ憐れむこと)を加へたまわんとす」。言葉使いは儒教的であるものの、民に向けて声明を出し、民に親しく心をくだく、それは孝明天皇の時代には見られなかった新時代の天皇ならではのスタイルであった[238]。他にも天皇と民の距離を縮めるための処置として、2月23日から3日間、東京市民に皇居庭園が解放され、東京城吹上御苑の拝観が許された。市民は歓喜したが、あまりに大量の人が東京城門に押し掛けたために死者8人、負傷者若1000人出る事態となり、天皇は遺族及び負傷者に金300両を下賜した[239]。

3月7日(4月18日)、予定通り京都を出発して東京行幸の旅に出た。ルートもほぼ昨秋の東京行幸の時と同じであったが、今回は春景色であった[241]。道中の3月12日(1869年4月23日)に歴代天皇として初めて伊勢神宮を親拝。天皇の伊勢神宮親拝は前例がなかったため、この時に儀式の次第が定められた[242]。天皇は黄櫨染御袍を着用し、午前に豊受大神宮(外宮)、午後には宇治橋を通って皇大神宮(内宮)を親拝した。皇祖神天照大御神に王政復古を奉告し、国運の発展を祈願した[242]。
前回の東京行きより1日早い21日間の旅の末、一行は3月28日の正午前に皇居(東京城)に入城。以後、天皇は東京で暮らし続ける[243]。しかし京都市民の間では東京再行幸は東京遷都の前触れとして不安視された。岩倉具視が遷都はたとえ千百年後でもありえないと述べて、京都市民の民心を鎮めていたが、皇后も東下する計画があることを知った市民の不安は高まった。市民がこぞって神社に集まり、皇后が東行しないよう祈りをささげるようになり、地元の官吏は市民が徒党を組んで強訴哀願に及ぶのを恐れた。しかし留守長官中御門経之と京都府知事長谷信篤が市民の説得に尽力して、京都市民の興奮も収まり事なきを得た[244]。この後も正式に東京遷都が発表されることはなかった。天皇が京都へ戻らない理由として政府の公式声明は天皇が処理しなければならない国事の緊急性を強調した[245]。
5月18日(6月27日)に政府軍は榎本武揚一党を函館五稜郭の戦いで完全鎮圧、戊辰戦争は終結した[246]。反乱に関与した諸藩主たちが寛大な処置を受けたのは、昨年の明治元年12月7日(1869年1月19日)に明治天皇が出した詔書によるものである。その中で天皇は次のように述べる。賞罰は天下の大典にて、朕一人が勝手に決めるべきものにあらず、広く天下の衆議を集め、至正公平いささかも誤りなきように決すべし。松平容保等の罪はまことに厳刑に処すべきものではあるが、彼らにその罪を犯さしめたのは、朕の不徳によって教化の道が立たなかったのと、この700年ほど紀綱が振るわず、名義が乱れていたからである。また容保のような大名の場合は、彼一人で謀反を行えるわけではない。必ず首謀した家臣がある。容保の死一等を許し、首謀した家臣を誅することをもって寛典に処すべきである。朕はこれから国内に励精図治教化を敷き、徳威を海外に輝かしたいと思う。汝百官将士はこれを体せよ[247]。
この詔によって奥羽における反乱の中心人物だった前会津藩主松平容保は本来であれば謀反の罪で厳刑となるところ死一等が減じられて永預けとなった[246][248]。容保のみならず他の謀反藩主にもこの詔が適用され、処刑された者は一人も出ず[246]、彼らは謹慎と減封で済んだ[248]。五稜郭の反乱軍指導者だった榎本武揚も捕縛後3年間投獄されたものの恩赦で釈放され、後に政府高官となった[246]。この寛大な詔に聖帝の心事として感泣せざる者はなかったという[248]。
版籍奉還
全国の支配権を天皇のもとに帰一させることは、王政復古の根本思想の一つである[249]。幕末の段階で岩倉具視は「天下を合同するは、政令一に帰するに在り。政令一に帰するは、朝廷を以て国政根軸の府を為すに在り」と論じていた[249]。明治初年には参与木戸孝允が副総裁三条実美と岩倉具視に宛てて「七百年来の積弊を一変し、三百諸侯をして挙て其土地人民を還納せしむべし」として、鎌倉時代以来の封建制度を終わらせ藩主の所有する土地人民を朝廷に返上させる構想を示し[250]、明治元年9月18日(1868年11月2日)には木戸孝允と大久保利通がこの構想を版籍奉還として進めることで合意している[251]。弱肉強食の帝国主義時代の真っただ中にあった当時の国際社会において、強力な国家を形成するためには何よりも統治機構の一元化は必要不可欠だった[252]。
他の政府高官も、諸藩をリードする薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩の四雄藩もそれに異論はなかった。薩摩藩は明治元年2月の段階で参与大久保利通の意見に基づいて封土10万石の献上を政府に願い出ていたし、長州藩も第二次征長戦争の勝利で獲得していた小倉や浜田などの占領地の返上を政府に願い出ているなど、藩の側から封土の一部を朝廷に返還しようという動きはすでに存在した[250]。
版籍奉還に向けた最初の動きとして明治元年10月28日(1868年12月11日)には藩治職制が布告され、地方政治について府・藩・県の三治が定められるとともに、これまでの各藩の重職の役職名が執政・参与に統一された。その人選は藩主に委ねられたが、従来の家格や門閥に囚われず、下士からも積極的に登用するよう要求している。また藩主の家政を藩政から分離することや、議事の制度を積極的に設けることも求められた。これらの要求は従来の身分制の枠組みを崩すことで、より改革が進みやすいよう各藩を導くためのものだった[249]。
木戸は土佐藩の後藤象二郎とも版籍奉還について協議し、明治2年1月14日(1869年2月24日)に京都で大久保と長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が会談し、版籍奉還の方針が合意された[253]。さらに木戸は肥前藩の前藩主鍋島直正にも掛け合って連携に加え、1月20日に薩長土肥四藩主(島津忠義、毛利元徳、山内豊範、鍋島直大)による版籍奉還の上表が提出される運びとなった[253]。その上表は「皇統一統、万代無窮、普天卒土其有に非ざるはなく、其臣に非ざるはなし」と王土王臣を強調するが、具体的な処置については「願くは朝廷其宜に処し、其与ふ可きは之を与へ、其奪ふ可きはこれを奪ひ、凡列藩の封土、更に宜しく勅令を下し、これを改め定むべし」と曖昧な表現をしており、木戸の後の回顧によれば領主権を一気に回収されるのではという不安が諸藩に広がらないようにするためだったという[253]。
その後諸藩も四藩の後に続いて続々と版籍奉還の上表を行っている[253]。天皇は、明治2年6月17日(1869年7月25日)に諸藩からの版籍奉還の上表を勅許、版籍奉還の請願を出していない藩については速やかな奉還を命じた[254]。その時点で大半の藩は版籍奉還を請願していたが、未請願藩が14藩あり、これらが勅命の対象であった。14藩が請願しなかった理由は様々だが、その一つである川越藩は府藩県三治の藩県並立論に立っていたといわれ、宇都宮藩は王土王臣は自明のことなので改めて版籍返上申し上げる必要はないという立場だったという[255]。
版籍奉還により各藩の藩主たちは天皇の勅命で藩知事に任命された[254]。藩主が藩知事に横滑りした形であるため、封建主義に決定的変革をもたらす改革とはならなかったが、それでも法制的には大きな変化があった[256]。藩知事は府県知事と同じく天皇から任命された一地方行政長官に過ぎず、土地人民に対する私有権は明確に否定されており[253]、その地位の世襲も保障されていなかった(実際には版籍奉還から廃藩置県の間に隠居した藩知事の世襲を政府が拒否した事例はほとんどないが、唯一福岡藩知事黒田長知が紙幣偽造の責任により藩知事を解任された際に後任に黒田家の世襲は認めず、有栖川宮熾仁親王が藩知事に任じられた事例がある)[251]。また藩士たちも法制上天皇の官吏となったので、藩知事と藩吏の主従関係は廃止された(藩知事も藩吏も等しく主君は天皇)[257]。版籍奉還は2年後の廃藩置県の第一歩となる改革だった[257]。
版籍奉還に基づく最初の藩行政機構改革として、明治2年6月25日(1869年8月2日)に諸藩に対して11項目の庶務変革指令が下った。その中で一門以下平士に至るまで士族と称することが指令されている。「士族」という呼称はここで初めて使用された。江戸時代の大名家臣団は家格を基礎に構成されていたが、藩主一門や家老家といった高禄の上士も、微禄の下士も「士族」という枠組で等質化することによって家格による優劣を否定したものである(とはいえ大抵の藩では「士族」の文字の上に「上中下」「一等二等」などの文字を勝手に付け加えることで旧来の家格を温存しようと図っているが)[258]。
さらに明治2年7月8日(1869年8月15日)には職員令が布告された。これにより藩知事には行財政と刑罰について府県知事と同じ権限が付与されたが、藩知事は旧家臣団と藩兵という独自の軍事力を保有する点が府県知事とは異なった[251]。各藩の執政・参与も府県と同じ大参事・権大参事・少参事に改名され、天皇が政府の奏薦に基づき任命する奏任官に位置づけられたため、もはや藩知事の一存だけで藩重役の任免はできなくなり、政府の許可を得ることが必要となった[251]。
政府内では急進派と守旧派(後者は主に公家)が激しい綱引きを演じ続けており、版籍奉還後、守旧派の反撃があった。職員令の布告があった明治2年7月8日に守旧派の主導で政体書体制の革新色が払しょくされる政府組織の再編が行われたのである。神祇、太政の二官が設置され、神祇官が諸官の上位に位置付けられ、二官六省制度となった[259]。三条実美が右大臣、岩倉具視と徳大寺実則が大納言に任じられた他[260][259]、公卿や旧藩主の復活が目立つ人事となった[259]。各省の卿を見ると4割以上が公卿であり、西南雄藩出身藩士(3割)を明らかに凌駕する[259]。大久保利通と木戸孝允も建白を受理する待詔院学士という立場に追いやられて政府第一線から退かされている[259]。これほどまでに守旧派の意向に沿わねばならないというのは、依然として公卿たちが政権の重しとして必要であり、政権の権威化が求められる政治情勢であったということだと考えられる[259]。この政府機構改革のために政権は一気に古色蒼然となり、官員たちは源平藤橘の本姓を名乗るようになる始末だった[259]。
しかしこれは改革を前に進めるために一時的な後退だった。天皇の大久保・木戸への期待も変わりはなかった。三条・岩倉が述べたように「利通・孝允は柱石の臣なり。祖の進退は実に国家の治乱隆替に関す、宜しく二人を優遇して至尊の顧問に備へ、以て天下の重望を負はしむべし」だったのである[261]。事実早くも11日には待詔院学士は廃止され、大久保たちには待詔院出仕が命じられ、国事を諮詢される立場になった。さらに22日には大久保が参議、23日には広沢真臣が参議となった[261]。
華族の創設
明治天皇が版籍奉還を勅許したのと同日の明治2年6月17日に出された行政官達543号により公卿(公家の堂上家)と諸侯(大名)の身分は廃止され、華族として一つに統合された。この日に華族として認められたのは公卿142家、諸侯285家の合計427家であった[262]。
廃藩置県後の明治4年(1871年)7月に華族は東京在住が命じられ、10月10日に明治天皇より「華族は四民の上に立、衆人の標的とも成られる可き儀」という勅旨が出される[263]。さらに同年10月22日に明治天皇は華族全戸主を3日に分けて赤坂御所小御所代に召集し、ここでも「華族は国民中貴種の地位に居り、衆庶の属目する所なれは、其履行固り標準となり、一層勤勉の力を致し、率先して之を鼓舞せさるへけんや」と勅諭している[263][264]。この勅諭に触発・奮起された華族は少なくなく、日本型ノブレス・オブリージュの原点となる勅諭となった[264]。
この華族は皇室の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在というあり方からやがて華族は「皇室の藩屏」と呼ばれるようになった。「藩屏」とは「外郭」のことであり、皇室の周りを取り巻く貴族集団という意味である[265]。華族のうち旧公家華族は古代より皇室に仕え、その守護にあたってきた家々であるが、旧武家華族は維新までは皇室と敵対することも多かった家々である。すなわち華族制度の創設は旧公家だけでなく旧大名家もすべて天皇の臣下に組みこむことにその本質があった[265]。
また華族は婚姻を通じて皇室との結びつきを強めていく。皇族妃となるのは華族の公侯爵の娘が多く、さらに公侯爵は伯子男爵家と婚姻関係を持ったので、皇族と華族は親類縁者の集合体として一体化していった[266]。
エディンバラ公来日

明治2年(1869年)初夏には英国でヴィクトリア女王第二王子エディンバラ公爵アルフレッドの訪日計画が立ち上がった。この頃エディンバラ公は蒸気フリゲート艦HMSガラティアに乗って世界一周航海中であり、その途中に色々な国に訪問しており、日本にも訪問を希望していた[260]。その報告を受けた英国公使ハリー・パークスはさっそく日本政府と交渉に入った。実現すればヨーロッパ王族の最初の来日となるが、それだけに当時の日本国内では相当議論があったらしく、『ヤング・ジャパン(Young Japan)』の著者ジョン・レディー・ブラックはその状況を次のように書いている。「『進歩派』は今回に限り天皇はこのような場合には他国の君主が行う慣例にできるだけ従う決断をされるべきであると主張し、強硬な『反対派』は言葉激しく次のように反論した。外国の王族の皇子と日本の天孫の家系である皇族とを同列に置くことを容認しかねないような如何なる措置も、ことごとく天皇の尊厳を貶めるものだ」[260]。しかし最終的に日本政府はイギリス王子の来日を承諾し、英国の王子が近く来日されることを知って天皇はいたくお喜びであり、もし王子に海に面した浜離宮に宿泊していただけるならば、天皇の喜び、これに勝るものはないという内容の返事をパークスに送った[260]。
初のヨーロッパ王族来日だけに準備は周到に進められた[267]。明治2年7月22日(1869年8月29日)にエディンバラ公が横浜に到着すると21発の祝砲が撃たれ、エディンバラ公が通る予定の横浜から東京までの道路は掃き清められ、修復され、祈願が行われた。警備も天皇の行列並みの限界態勢が敷かれた[267]。領客使に任じられた伊達宗城と大原重実が英国公使館に入ったエディンバラ公を訪ねて歓迎の勅旨を伝えた[261]。まもなくエディンバラ公はパークス公使を伴って延遼館(浜離宮内の迎賓館)へ移った[261]。
明治天皇がエディンバラ公を引見したのは、明治2年7月28日(1869年9月4日)のことだった。しかし、エディンバラ公が天皇に拝謁するため皇居の門を通った際に日本側が穢れを払う「幣(ぬさ)」の儀式を行った。これは前年の慶応4年2月に外国公使を天皇が引見する場合に外国人を御所に入れてもいいのか議論された際、外国人を御所に入れてもいいが、御所の四方の門で浄化の儀式を行って穢れを払う決定がなされたのが踏襲されたものだったが、欧米で物議をかもした。福沢諭吉の『福翁自伝』によれば、米国臨時代理公使アントン・ポートマンは『エディンバラ公の清め(Purification of Prince of Edinburgh)』と題する報告書を米国大統領に送り、その内容は「日本は真実自尊自大の一小鎖国にして、外国人をば畜生同様に取り扱うの常なり。既にこのほどイギリスの王子入城謁見のとき、城門外において潔身の祓を王子の身辺に施したり(略)日本人の眼をもって見れば王子もまたただ不浄の畜生たるに過ぎず云々」というものだったという。福沢諭吉は米国公使館通訳からこの話を聞かされた時「実に苦々しい事で、私はこれを聞いて、笑いどころではない。泣きたくなりました」と記している[268][269]。おそらく外国人の笑い話にされたという話が伝わったのだと思われるが、この後日本が外国人賓客を迎えるのにこの手の儀式をすることはなくなった[270]。
エディンバラ公一行はこの儀式に当惑は覚えなかったようである[267]。馬車を降りたエディンバラ公は岩倉具視、徳大寺実則、伊達宗城、澤宣嘉(外務卿)の出迎えを受け、休憩所へ案内され、右大臣三条実美が応対した。その後エディンバラ公は領客使の伊達宗城の案内で謁見室である大広間へ案内された[270]。天皇は大広間の上段に立つ立礼でエディンバラ公を迎えた。天皇と一緒に上段に立っていたのは仁和寺宮嘉彰親王のみで臣籍は全員段の下に侍立した。エディンバラ公は天皇と同じ上段の天皇と向かい合った席へ招かれた[271]。エディンバラ公に同道した通訳のアルジャーノン・ミットフォードによれば「陛下は二言、三言歓迎の言葉を述べた。これに対して、殿下もしかるべく答えた。その後で陛下は、エディンバラ公に『もう一度庭園で、もっと打ち解けて会いたい』と勧めた。そこで殿下は客間に下がった」[272]、「少し遅れて親王や朝廷の重臣がエディンバラ公に敬意を表し終えた後、エディンバラ公は皇居の庭(吹上御苑)にある紅葉御茶屋に案内された。そこであらゆる種類の珍味が供された。やがて、滝見御茶屋で天皇が待っているから来るように、とのお召しがあった。パークス公使、ケッペル提督、そして私の三人がエディンバラ公のお供をした」という[273]。
滝見茶屋で明治天皇とエディンバラ公は通訳を介して歓談し、天皇は初めての外国王族との外交体験を得た[274][275]。とはいえ、特別な話をしたわけではなく、天皇ははるばる遠国から来られた王子を歓待できることは多大な喜びであり、旅の疲れをいやすため心行くまで滞在し、行き届かないことがあれば何なりと言ってもらいたいと伝え、それに対してエディンバラ公は自分が受けた心温まる持て成しに感謝し、その歓待は不満どころか、自分の想像を超えるものだったと返答するなど、外交上の社交辞令に留まったようである[275]。それでも先の公使引見時には天皇はまるで国内の臣下に接するかのように御帳台に座して短い一方的な挨拶を告げて終わったことを考えれば、儀礼的であっても同じ段で向かい合って座り、会話を交わすようになったのは大きな変化だった[276]。
会談の最後にエディンバラ公はダイヤモンドをあしらった嗅ぎ煙草入れを天皇に贈り、また帰国後に母のヴィクトリア女王に献じたいとして、天皇の宸筆の御製を所望したので、明治天皇は次の和歌を書いてエディンバラ公に贈った。「世を治め人をめぐまば天地(あまつち)のともに久しくあるべかりけり」[275]。これについてブラックは「ここにもまた、古い迷信からの決別がある。驚くべきことだ。というのは、以前はミカドの親書は寺社の神聖な場所に、宝物として秘蔵されるものだったからだ」と指摘する[277]。
このエディンバラ公の来日は、外国王族が来日した場合には天皇は対等に親しくふるまうことの最初の先例になった[278]。
廃藩置県

明治2年の版籍奉還が封建領主制解体まで進められなかったのは、当時の政府の直轄軍の軍事力が藩の軍事力に対抗できるほどの規模ではなかったためである。こうした状況下では一度に封建制度を解体することは不可能であり、版籍奉還に留まらざるをえなかったのである[251]。しかし西郷隆盛の尽力で明治3年(1870年)から明治4年(1871年)初頭には薩長土三藩献兵問題が進捗を見た。西郷らは足しげく各藩の説得に回り、ついに明治4年(1871年)年6月に薩摩藩兵4大隊、長州藩兵3大隊、土佐藩兵2大隊など約1万の兵力を東京に集めて御親兵を創設することに成功した[280]。この御親兵は来る廃藩置県で反対藩に対抗しうる政府直轄の軍事力として創設されたものだった[281]。
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県の日の朝、天皇はまず薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の4藩知事(島津忠義、毛利元徳、山内豊範、鍋島直大)を小御所に召した。天皇は4藩が明治2年に版籍奉還を首唱したことを褒めて取らし、そのうえで今また来るべき廃藩置県の大業に力を課すよう命じた[282]。つづいて東京に在京中の藩知事56名が西ノ丸御殿の紫宸殿代大広間に召集され、彼らに向けて右大臣三条実美が次の勅語を読み上げた。「内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セントス因テ今藩ヲ廃シ県ト為シ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ更ニ綱紀ヲ張リ政令一ニ帰シ天下ヲシテ其向フ所ヲ知ラシム」(国内において億兆の民を守り、国外において万国と対峙しようと考えている今、藩を廃して県と為す。無駄を去って簡潔にし、有名無実の幣を除き、綱紀を全国に行きわたらせ、政令を統一し、天下にその進むべき方向を指し示す)[282]。ここでいう「有名無実の弊」とは一国が何藩にも分断される封建主義のことを指す[282]。
版籍奉還は薩長土肥4藩を中心に藩からの動きであったが、廃藩置県は勅命として藩に課されたものだった[282]。構想の立案者の一人である大久保利通は、廃藩置県にあたって西郷隆盛に助力を仰いだ。西郷は維新建設の中心人物、また清廉潔白の人として広く尊敬されており、西郷の支持を得ることで反対派に回るかもしれない藩知事の動向に影響を与えることが可能だった[283]。西郷は「戦いを以て決する」と意気込んでいたが、蓋をあけてみると抵抗はほとんどなかった[284]。12世紀の鎌倉幕府から様々な変容しつつ続いてきた武家の封建主義体制をこの一時で解体しようというのであるから、非難の嵐が巻き起こっても不思議はなかったが、勅命に逆らう者はいなかった[285]。迅速な決定で反対派が形成される時間的猶予を与えなかったこともあるが、華士族の家禄は全額が政府に引き継がれ、彼らの生活維持がしばらくは保障されたことも大きい[286]。
福井藩のお雇い外国人だったアメリカ人ウィリアム・グリフィスは廃藩の情報を耳にした福井藩の様子を観察して書き留めている。「私は封建制度下の福井の城の中に住んでいて、この布告の直接的な影響を十分に見ることができた。三つの光景が私に強い印象を残した。第一はミカドの布告を受けた1871年7月18日(陽暦)の朝、その地方の官庁での光景である。驚愕、表にあらわすまいとしてもあらわれる憤怒、恐怖と不吉な予感が、忠義の感情と混じりあっていた。私は福井で、この市における皇帝政府の代表にして1868年の御誓文の起草者である由利(公正)を殺そうと人々が話しているのを聞いた。第二は1871年10月1日の城の大広間での光景である。越前の藩主は何百人もの世襲の家臣を招集し、藩主への忠誠心を愛国心に変えることを命じ、崇高な演説をして、地方的関心を国家的関心に高めるよう説いていた。第三は、その翌朝の光景である。人口4万の全市民(と私には思われた)が道々に集まって、越前の藩主が先祖からの城を後にし、何の政治的権力もない一個の紳士として東京に住むため、福井を去っていくのを見送った」[287]。こうした光景は福井に限らず、だいたいどこの藩もそうであり、藩士たちに代々の忠勤を感謝して、今後は自分ではなく天皇陛下に忠誠を誓うことを求めて告別し、市民に見送られながら東京へ向かっている[288]。
藩の書類は新県の官吏に引き継がれ、藩の役職に付いていた士族の大部分は職務を解かれるか、転任していった[288]。これについてグリフィスは「昔から日本の災いは働かない役人とごくつぶしが多すぎることであった。まさにシンドバッドが海の老人を振り落としたと言える。新生日本万歳!」と政府の決断を絶賛している[289]。
廃藩置県により明治4年末には全国は3府72県となり、その後統廃合が進められ、明治21年に至って3府43県となり、現在の各県の領域が定まっている[290]。封建制度が平和的に解体されたことについて、英国公使ハリー・パークスは、仮に欧州でこのような改革を成功させようと思えば、武力を用いて相当の年月が必要であり、それを不要とする天皇という存在は「真神の能力」を有すると驚嘆している[290]。
大嘗祭

大嘗祭とは天皇の即位に際して行われる儀式で、天皇が新穀を天照大御神や天神地祇にお供えして自らも召し上がって世の安泰や五穀豊穣をお祈りする儀式である。毎年行われる新嘗祭と異なり、天皇一代で一回のみ行われる。明治天皇の大嘗祭は当初は即位した明治元年のうちに予定されていたが、内外の情勢から延期されて明治4年11月17日(1871年12月28日)に執り行われた。皇居内の吹上御苑に大嘗宮が造営されて史上初めて東京で行われた[291]。また儀式に用いられる御饌、御酒の収穫する斎田として山梨県巨摩郡に悠紀田、千葉県長狭郡に主基田が設けられた[291]。
明治天皇は17日夕刻から悠紀殿における宵の御儀に臨み、18日深夜の主基殿での暁の御儀までご親祭を続けた[291]。
18日と19日の両日に天皇は豊明節会を催して政府高官などの参列者に白酒や黒酒など酒饌をふるまった。浜離宮の延遼館でも外国の外交官たちを招いての饗宴が催され、その席で外務卿の副島種臣が大嘗祭の趣旨について各国に説明している[291]。大嘗祭終了後には一般国民にも大嘗宮の拝観が許されたため、多くの人々が見学に訪れた[291]。
君徳培養と宮中改革
最初の東京行幸(明治元年10月13日)後、明治天皇への教育は一層綿密となった。漢学・和学・乗馬・習字が修練されるようになり、明治天皇の日常は政務より学習が中心になった[292]。しかし、計画通りにはいかず、天皇の側近と、講義者の人選が問題となった。公家から離れて軽快に行動する天皇を目指す大久保利通は、東京からの還幸に供奉して、明治天皇の様子は「誠ニ御盛ん」で感激に堪えないが、天皇を取り巻く公家出身の近習(のちの侍従)が天皇の補佐の適任には見えず、明治天皇の君主としての成長を今の近習には望めないと批判し、翌明治2年(1869年)1月7日には木戸孝允と副島種臣を侍読とするよう提案した[293]。これを受けて岩倉具視は、1月25日、輔相の三条実美に「君徳培養」と、そのための侍読・侍臣の選定を論じた[294]。しかし、1月20日、こうした状況下で侍講に選ばれたのは、国学者・平田鐵胤と山崎闇斎派の漢学者・中沼了三であった[294]。両者は守旧派の傾向が強く、大久保の提案とは異なる人選となってしまった[294]。その後、秋月種樹が漢籍を、福羽美静が国史を講ずるようになり、明治3年(1870年)10月には玉松操が侍読に加わった[294]。また明治2年8月22日(1869年9月27日)には新しく侍従が任命されているが、10名中、7名が、大久保が不適任とした近習出身であった[294]。廃藩置県に伴う官制改革までは、守旧派と彼らが支持する国学者・漢学者ならびに公家勢力の意を汲む必要があったのである[295][296]。明治天皇の学習はかなりの頻度で行われており、天皇の漢籍や国史への理解は深まったと思われるが、明治天皇はこの時点では、基本的に公家に取り囲まれ、守旧派が影響力を持つ環境の中にいた[297]。このような宮中のあり方を見て、大久保は宮中改革を焦眉の急と捉えるようになった[298]。
明治2年4月22日(1869年6月2日)、明治天皇の東京での新しい生活の規則が定まった。天皇は毎日辰の刻(朝6時45分〜8時20分)に学問所に出御し、夕方に入御、三条実美ら輔相・議定・参与は毎日天皇の側に仕えることになった[299]。7月13日の太政官規則によると、天皇は朝から夕方まで主に学問や乗馬をし、昼食後の一定の時間に政務を見た[299]。4月28日、京都に残った議定中御門経之は、近頃は明治天皇が1日おきに乗馬していると聞いて、あまりに乗馬に夢中になりすぎることを心配し、岩倉具視に、明治天皇の乗馬を月に6日間(三・八・十三・十八・二十三・二十八日)に限ることを奏請するよう勧めた[300][301]。しかし、中御門が岩倉に意見した後も、明治天皇の乗馬熱は全く衰えず、天皇は乗馬に熱心に取り組んだ[302][303]。しかし政務をないがしろにしていたわけではなく、政府首脳から求められた事については、天皇はその役割を果たし続けた[304]。
明治3年10月27日(1870年11月20日)、岩倉邸で、三条実美・岩倉具視・徳大寺実則・大久保利通などが集まり、明治天皇の輔導(教育)や勤勉節約、人員整理等について決められた。そして同年閏10月5日に、木戸・大久保が天皇の「君徳培養」の任につき、天皇の教育も担当するようになった[305]。公家で明治天皇と年齢が近く、親しい関係にあった西園寺公望の話によれば、この頃の明治天皇は「今日は大久保をやり込めた」などと話すこともあった。それを聞いた西園寺は、それは大久保が明治天皇に自信をつけさせるためにわざとやり込められたのかもしれないと考えたが、明治天皇も気付いたのか、後にはそのような自慢をすることも無くなったという[306]。
西郷隆盛が参議として政府に加わったことで、これまで岩倉具視・三条実美や大久保利通・木戸孝允らが進めてきた、明治天皇を武人的かつ西欧的な近代君主に導いていこうとする路線に弾みがついた[307]。明治4年(1871年)7月、廃藩置県と同時に政府は官制改革も断行して人事を大幅に刷新し、三条、岩倉らを除き、それまで政府を権威化してきた公家・諸侯らを悉く要職から排除し、同時に宮中の改革にも本格的に乗り出した[296]。大久保は自身の信頼厚い、薩摩藩士・吉井友実を宮内大丞に起用、吉井は大久保の意向を十分に体して宮中改革に着手した[308]。それは、女官の総免職であった。大久保らは、女官が支配する奥向きの空間は近代君主の生育にふさわしくないと考えたのである。吉井によって、古株の局、命婦、権命婦らは尽く宮中から排除された[309]。また、西郷隆盛も、木戸・大久保と相談し、三条・岩倉の同意を得て宮中改革を発議した。それは、宮内省や宮中の人事を刷新し、旧公家に代わって士族を任命することであった[307]。西郷隆盛は今こそ宮中改革の時であるとし「華奢・柔弱の風ある旧公卿」は排斥して「剛健・清廉の士」を天皇側近にするべきであると述べ改革の指揮をとった[310]。明治4年7月21日(1871年9月5日)、宮内省の大小丞8人が生理され、薩摩藩出身の村田新八が宮内大丞に任命され、吉井友実の補佐となった。24日には、士族侍従が任命された。士族で登用されたのは、侍従長に長州の河瀬真孝、侍従に薩摩の高島鞆之助、土佐の高屋長祚、肥前の島義勇、熊本の米田虎雄である。後に、長州の有地品之允、土佐の片岡利和、元幕臣で江戸開城交渉にあたった山岡鉄舟なども任命された[311]。この時に侍従となった高島鞆之助によれば、士族が登用された後の宮中は「剛健勇武」の気風に満ち、明治天皇も非常に元気になって酒も強くなり、時々気に入った側近を集めて酒宴を開き、勇壮な物語を肴にして酒をどんどん飲むようになったという[312][313]。また、明治天皇の幼い頃からの勝ち気な性格も発揮されたようで、ある時、明治天皇は「わしは楠木正成である、賊将尊氏を撃つのだ」と叫びながら、木剣で高島を何度も叩き、高島があまりの痛さに打ち返しの気配を見せたところ、明治天皇が「今日はやめよう」と言って終わったこともあった[313]。西郷は宮中改革後の明治4年12月11日(1872年1月20日)、鹿児島の叔父・椎原与三次に所感を次のように書き送っている「天皇は士族の侍従を寵愛し、後宮にいることを厭い、朝から晩まで表にいて、和洋漢の学問や侍従との会読をして修行している。『中々是迄(これまで)の大名抔(など)よりは一段御軽装』で、その変貌には三条・岩倉さえも驚いている。馬は天気さえよければ毎日乗っている。近々兵士の指揮訓練も始まり、自ら大元帥となるとの意思を述べている。自分も天皇と同室で食事をしたこともある。これからは一ヶ月に三度ずつ諸省の長官を招いて政治の得失を論ずることに内定している。『尊大の風習は更に散じ、君臣水魚の交わり』となるであろう[313]。」このようにして、宮中改革は着実に進められ、西郷らの企図は実を結んだ[314]。
西郷が「和洋漢の学問」と書中で述べているように、明治天皇の学問の面でも進歩があった。すでに明治3年(1870年)12月24日に、洋学者加藤弘之が侍読となり、欧米の政体・制度・歴史を進講していた[313]。明治4年(1871年)8月にはドイツ語の学習が始まり、洋学者の西周が侍読となって博物学・心理学・審美学・英米比較論を進講した[313]。また漢学には、熊本藩の朱子学者元田永孚が5月に宮内省出仕に任命されていた[313]。

元田は中沼の後継者として侍読となった。彼のことを頑迷な保守主義者と見る向きもあったが、天皇や政府高官からの信頼は厚く、滅多に他人を褒めない大久保利通が元田を指して「この人さへ君側に居れば安心だ」と述べたり、副島種臣が「君徳の大を成すに一番功労のあつたのは元田先生である。明治第一の功臣には先づ先生を推さねばならん」と述べたりしている[303]。元田は朱子学者ながら西洋の科学的知識・技術の高さは認め、日本人は「格別」の精神でこれを学ばねばならないと論じていた。しかし人間関係の在り方については西洋は提示すべき何物も持っていないので、その手本となるものは今でも朱子の言う通り六経(四書二経)にあると主張していた。幕末に佐久間象山が最初に唱えた東洋の道徳と西洋の科学の結合、成長後の明治天皇あるいは明治時代そのものを特徴づけるこの思想は、恐らく元田の教えによって天皇に培われた[315]。
この頃の講義書目は、「日本書紀」「書紀集解」「論語」「元明史略」「英国史」「国法汎論」「人身窮理書」等であった[316]。加藤によれば、明治天皇の性質は「綿密茶実」で「物事を中途半端にして御止め遊ばす様な事なく、飽く迄根底を理解せられざれば止まず」という性質で、進歩は遅いが理解すれば「何時迄も御忘れない」という学習状況であった[317]。こうして、明治天皇は、公家に囲まれる隠れた存在ではなく、軽易で尚武の存在となり、大久保が明治初年に描いた天皇像に近くなった[317]。また、天皇自身もそうした在り方が性に合っていた[317]。学習内容も、幼少時の漢籍、践祚の際に外祖父・中山忠能が述べた有職故実、廃藩置県までの漢籍の帝王論と日本史から、日本史・漢籍に西洋史をはじめとする西洋起源の学問が加わった内容に変化した[317]。
文明開化と天皇
廃藩置県に伴う官制改革によって、守旧派を政府・宮中から排除したことで、天皇の生活に関する改革も可能になった[318]。明治4年(1871年)8月からは、横浜で購入された椅子などが学問所に備えられ[319]、9月からは天皇が好む乗馬において西洋馬具を使うなど、西洋風の生活様式が取り入れられ始めた[320]。また、明治4年8月17日(1871年10月1日)、今後、天皇は民情や風俗を視察するため、騎馬や馬車などに乗り、軽装で行幸を行うとの布告が出された[321][322]。それまでは、天皇の行幸は鳳輦と板輿に乗って行われていた[321]。8月18日(10月2日)、天皇は、8月6日(9月20日)に初めて乗った馬車によって、三条実美と岩倉具視の屋敷に行幸した。天皇が皇居の外へ馬車を用いて行幸した初例であり、臣下の屋敷への初めての行幸でもあった[323][322]。ついで兵部省をはじめ各省への行幸もあった[322]。明治4年9月22日(1871年11月3日)、明治天皇は19歳の誕生日を迎え、その際に、皇居の各門外に整列している御親兵の各大隊等を馬車に乗って親閲した[324]。以後、これが天長節観兵式として恒例化された[324][325]。11月2日(12月13日)には、海軍を軍艦に乗って親閲した[324][325]。明治4年11月21日(1872年1月1日)には、工部省横須賀造船所への行幸があった。工部省は、当時の欧化・開化の拠点であり、これは欧化・開化を支持する政府の象徴的行為となり、天皇の学習にもなった[325]。
天皇の食事も変わった。明治4年8月18日(1871年10月2日)、明治天皇は、浜離宮内の外国人接遇施設である延遼館で、大臣・参議とともに、初めて西洋料理を食べた[326]。12月17日(1872年1月26日)には、平常の食事にも牛・羊の肉を用い、時々、豚・鹿・猪・兎も用いることとなった[327][326]。11月からは、滋養のため牛乳を日に二度飲むようになった。しかし明治天皇は牛乳があまり好きではなく、後年にはコーヒーに入れるだけとなった[327][326]。明治6年(1873年)7月までには、明治天皇は昼食に西洋料理も食べる習慣を身につけた。西洋料理にはテーブルマナーも必要なため、明治6年9月以降、宮内省出仕の西五辻文仲を築地精養軒(東京初の西洋料理店)に派遣し、テーブルマナーを学ばせることになった。西五辻の回想によれば、ある日、明治天皇から「お前西洋料理を食ふ法を知つてゐるか」と尋ねられ、「誰かに教へて貰つて来い」、「イヤまだ奥の者は誰も食つたことはないから、一遍西洋料理を食はそうと思ふ、だからお前行つて覚えて来い」と命じられた[326]。そこで西五辻は精養軒に行き、教示を頼んだ。精養軒からは天皇の好みの西洋料理を聞かれたが、西五辻は、天皇は西洋料理の食べ方を知っているかと尋ねる位であるから、まだ何が好みなのかははっきりしないため、一番軟らかくて一番旨いものを、自分が覚えるために同じメニューで出してくれと頼み、7、8回行って習得した{。明治天皇に報告すると、奥の三階で食べようということになり、精養軒からボーイと食器や調理器具を取り寄せて、明治6年10月12日に食事会となった。明治天皇が「西五辻のするとおりにせよ」と命じたため、落語で伝授役が芋を転がすと、習っているみんなが芋を転がすというような有様であったという。その後、西五辻の奮闘もあって、西洋料理とテーブルマナーが、奥にまで浸透していった{sfn|西川誠|2011|pp=97-98}}。

そして、明治天皇の身なりも変化していった。明治4年11月21日から23日(1872年1月1日から3日)、明治天皇が横須賀造船所に行幸した際にオーストリア人の写真師であるシュティルフリートは、明治天皇を隠し撮りした[329][330][331][332]。明治天皇は小直衣姿で椅子にすわり、直垂を着た三条実美が近くに侍座し、侍従や政府のお雇い外国人とともにいるところを撮られた[330][329]。この時期までの国内では、天皇というのは、その姿を一般庶民が見てはならないもの、極めて恐れ多いものという認識があり、江戸時代までの一般的天皇観を強く引きずっていた[333]。しかし、当時の欧米における日本への関心の高まりによって、国内外の一般人が見たことのない天皇の写真は大きなビジネスチャンスであり、それがシュティルフリートが天皇を盗撮した動機だった[332]。日本の外務省は驚愕し、オーストリア公使に働きかけ、シュティルフリートのネガ、および紙焼き写真を没収し、日本国内では天皇のこの写真を売ることができなくなったが、没収されなかった第二のネガで紙焼き写真を作り、それが外国で販売されてしまった[329][331]。当時、オーストリア人を含めた欧米人は治外法権にあったこともあり対策は困難であった[329][331]。撮影者のシュティルフリートも結局罰せられることはなかった[331]。日本政府がシュティルフリートのネガと紙を買い上げることによって、シュティルフリートが盗撮した写真が極力外部に漏れないようにしたのは、天皇の御姿は人目に晒してはならないとする伝統的な天皇観に基づいていた[333]。しかし、この盗撮を契機に、天皇はどうあるべきかという近代的課題に政府は直面したのであった[332]。
この一件の少し前、明治4年11月12日(1871年12月23日)、欧米列強との不平等条約改正を目的として、岩倉具視を特命全権大使とした岩倉使節団が横浜を出発した[334][335]。明治4年12月6日(1872年1月15日)、アメリカのサンフランシスコに上陸した使節団一行は、同年2月3日(3月11日)よりアメリカとの条約改正交渉を始めたが、交渉は開始直後に頓挫した[335]。アメリカ側は、国家間の条約交渉においては国家元首の正式な委任状が必要だという。使節団は明治天皇の委任状を持参しておらず、岩倉がいくら「私は天皇の信任を受けた全権大使」だと口頭で主張してもアメリカ側は納得しなかった[335]。国際的な交渉の難しさを知った一行は、天皇の委任状を受け取るために副使の大久保利通と伊藤博文を一時帰国させることにした[335]。明治5年3月24日(1872年5月1日)、大久保と伊藤は日本に帰国した。この時、随員の小松済治を通して岩倉は宮内省に明治天皇の肖像写真作成を要請した[335]。当時、高位の階級や、一定の共同体にある名士が挨拶時に自分の写真を贈与・交換する風習があり、王侯貴族や政治家・高官などが外交交渉を行う場合には国家元首の肖像写真を交換するのが慣例となっていた。写真の交換は国家間の友好を意味し、互いに平等に元首を確認する儀式的行為でもあった[336]。国家元首の写真を求められた使節団は早急に明治天皇の写真が必要になったのであった[337][336]。歴史上初めての天皇公式写真を誰に撮らせるのか、大久保・伊藤帰国後の数週間に議論があったが、最終的には、当時国内トップクラスの写真師であった内田九一に決定した[338]。依頼を受けた内田は明治5年(1872年)4月に明治天皇と美子皇后の写真を撮影した[337][338]。この時撮影された明治天皇の写真は、束帯姿と小直衣姿であったが、近代国家の元首らしい洋装姿の天皇像を望んだ大久保と伊藤は、出来上がった天皇の写真に難色を示した[337][339]。 そこで、再び撮影をすることになった。5月からの巡幸で用いる燕尾型正服を着用した上半身の写真が撮影された[337][339](この時点では明治天皇はまだ髷を結っていたため、帽子によってそれを収めている)[339]。この写真が束帯・小直衣姿の写真とともに、岩倉使節団の元に送られた。それとともに、乗馬姿の全身像も撮影された[337][339]。明治4年(1871年)12月から、軍隊の操練を本格的にするようになった明治天皇は、その際に軍服を着るようになっていたが[340]、明治5年4月の、この写真撮影以降、天皇は公務の際にも洋装をするようになった[326]。
明治5年5月15日(1872年6月20日)、京都で暮らしていた旧公家の橋本実麗が親子内親王からの伝言奏聞のために参内して天皇に謁見し、拝伏して伝言を奏聞した後、面を上げると、洋服姿で椅子に腰かけた天皇の姿があり、また廊下に敷かれた絨毯にも気づいて、宮廷の急速な西洋化に狼狽したという[341]。この時すでに宮中勤務の侍従たちは靴を脱ぐ必要がなくなっており、執務は椅子に座って行われるようになっていたのである[341]。
明治初年以来進んでいた電信網の整備も天皇に影響を与えるようになった。日本に電信線を架設することが決定されたのは、明治元年12月の新政府の廟議によってであり、イギリス人電信技士ジョージ・M・ギルバートがお雇い外国人として雇われて来日して以降、日本の電信網整備が始まった。明治2年(1869年)8月に横浜市内の灯明台役所から日本大通の裁判所までの間に電信線が架設されて試験的に運用されたのを最初として、明治2年9月19日(1869年10月23日)から横浜電信局と東京築地東京電信局(東京傳信機役所)の間の約32キロに電柱593本と電信線が架設する工事が行われ(この10月23日は現在電信電話記念日となっている)、年内に工事を完了させて、明治2年12月25日(1870年1月26日)から日本最初の公衆電気通信業務が開始された[342][343]。この時に使われたのはオーストリアから贈呈されたエンボッシング・モ-ルス機であり、使用された和文モールス符号は、ギルバートから通信技術を学んだ外務省大録訳官子安俊の考案といわれる。明治3年11月1日(10月の説もあり)に明治天皇は皇居においてこのエンボッシング・モ-ルス機を天覧している[342]。
明治政府は日本全国に電信網を急速に整備し、明治6年(1873年)には青森-東京-長崎を電信線でつなげ、明治15年(1882年)までにはほぼ日本全国の主要幹線網を完成させている[344]。幕末以来の政治的混乱がいまだ多い時代だった明治初期に明治政府はこんなに早く電信情報インフラを整備したのである[345]。また明治4(1871年)には デンマークの大北電信会社によって長崎-上海間と、長崎-ウラジオストク間の海底ケーブルが敷設されていたため、日本からヨーロッパへの国際通信も可能となった[342][343]。東京から長崎、ウラジオストクからロンドンを経由してニューヨークまで届くようになったのである[343]。欧米の最新情報が日本にすぐ伝達されるようになり、天皇も外国の国家元首に吉兆があった場合などにすぐに祝辞やお見舞いの電報を送ることができるようになった[346]。
明治5年5月23日から7月まで天皇の西国巡幸が行われた。江戸行幸の時のような旧態依然とした鳳輦に乗っての大行列の行幸とはだいぶ異なり、燕尾型の洋服を着用し、少数の臣下だけを伴って騎馬や乗艦を組み合わせての近代的君主としての最初の行幸となった(詳細は後述)。

明治5年9月12日(1872年10月14日)には日本最初の鉄道である新橋-横浜間の鉄道開通の開業式典に臨御している。日本に鉄道を敷設することが決まったのは、明治2年11月10日(1869年12月12日)のことで、この時政府は東京から京都・大阪を経て兵庫を結ぶ鉄道の建設を政府事業として行うことを決定したが、路線を東海道経由にするか、中山道経由にするか、軍事上の問題も考慮されてなかなかまとまらず、まず距離が近く地形が平坦で建設が比較的容易と考えられた東京-横浜間に日本最初の鉄道を敷設することを決定した。イギリス鉄道技術者たちがお雇い外国人として招かれ、彼らの指揮のもと、明治3年3月(1870年4月)から鉄道敷設工事が開始された。まず開通したのは品川-横浜間であった。東京(新橋)-横浜間の正式開業に先立って、明治5年5月7日(1872年6月12日)からこの区間が仮開業された。仮開業当初は両駅間は直通で、時速およそ40キロメートル、所要時間は35分だったというが、当時の日本人にとっては驚愕の文明開化の機器であり「あたかも人間に羽翼を付して空天を翔けるに似たり」(『横浜毎日新聞』明治5年6月10日付)と報道されている[348]。6月5日には同区間に神奈川駅と川崎駅が追加され、料金も値下げされたことで利用者数が急増した[348]。
明治5年7月12日(1872年8月15日)には明治天皇がこの区間の汽車に乗車している。天皇は西国巡幸からの帰路にあり、横浜から品川まで汽車を利用したのである。天皇にとって初めての汽車乗車体験であり、これが「お召し列車」の最初であった[349]。
仮開業の間に品川-新橋間の建設工事が進められてそちらも完成し、明治5年9月12日(1872年10月14日)に東京(新橋)-横浜間の鉄道の開業式が明治天皇臨御のもと、政府高官や各国外交官などが多数出席して開かれることとなったのである[349][350]。この日天皇は直衣を着し、午前9時に四頭立て馬車で新橋停車場に到着。午前10時に特別仕立ての列車で新橋を出、54分で横浜に到着。横浜停車場において午前11時から開かれた開業式に臨御した[349]。天皇は「今般、我が国鉄道首線工竣るを告ぐ。朕親ら開行し、その便利を欣ぶ。嗚呼汝百官この盛業を百事維新の初めに起しこの鴻利を万民永享の後に恵まんとす。その励精勉力実に嘉尚すべし。朕我が国の富盛を期し、百官のためにこれを祝す。朕また更にこの業を拡張しこの線をして全国に蔓布せしめんことを庶幾す」(このほど我が国の鉄道の最初の区間が竣工したことを告げる。朕自らが鉄道を開業し、その便利さを喜ぶ。ああ、そなたたち諸官は、この偉大な事業を維新のはじめに起こし、その大きな利益を広く万民に長きにわたって恵もうとしている。その精励さと努力は大いに称賛する。朕は我が国が富み栄えることを期待し、諸官のため祝福する。朕はさらにこの事業を拡張し、全国に線路を敷設することを心から願う)との勅語を述べた [351]。式が終わった後天皇は楼上の一室で休憩した後、正午に再び列車に乗って新橋へ戻り、午後1時から新橋でも開業式を行った[349]。その後、鉄道網は急速に全国に広がり、汽車は海の蒸気船と比較して「陸蒸気」と呼ばれ、交通の近代化に貢献した[352]。
明治5年11月9日(1872年12月9日)には太陰暦(天保暦)から西洋諸国で使われる現行の太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を決定した。この日の午前10時に賢所便殿に出御した明治天皇は、伊勢神宮を遥拝した後、明治5年12月3日(太陰暦)をもって明治6年1月1日(太陽暦)と為す旨を布告した。天皇は改暦を皇霊に報告した後、正院に臨御して三条実美に改暦を行う理由を記した詔を与えた。その中で天皇が指摘した改暦の理由は次の通りだった。太陽の軌道に合わせるため、二、三年ごとに閏月を挿入しなければならない太陰暦は極めて不便であること、それに比べて太陽暦ははるかに正確で四年ごとに一日を加えるだけで済むこと、しかもそこから生じる誤差は七千年に一日の割合に過ぎない。この比類なき精密さこと太陽暦採用を決断した理由であるとしている[353]。これに合わせて時法も改正され、定時法に基づく24時間制が採用された。日本の国際社会への参加が進むにつれ、外交上および経済上の互換性の必要性から必然的な帰結だったと言える[354]。
岩倉具視が岩倉使節団の外遊中、自らが目の当たりにした近代化された欧米の文明についての感想を書いた手紙を日本に送った。そしてその手紙には、岩倉自身が断髪・洋装化した姿を写した写真を同封した。岩倉の写真に影響を受けた公家たちは次々と断髪し、日本の最も伝統的で古風な部分がビジュアル的に近代化しはじめた[355]。そして、明治6年(1873年)3月20日、ついに明治天皇も断髪を行った。髷を結び白粉をして、奥から表へ出かけた明治天皇は、公務が終わって奥へと帰ってきた。奥の女官たちは驚愕した。明治天皇が髷を切っていたのである[318]。天皇の髷は一人の侍従によって切り落とされ、二人の侍従によって調髪された[356]。天皇の断髪が新聞で報道されて以降、断髪をする国民が後を絶たなかったという[356]。
明治6年(1873年)4月14日から17日、断髪した明治天皇は、鎌倉で陸軍の野営演習を親閲した[328]。4月15日、雨が降り風も強かったにもかかわらず、天皇は馬に乗り、鶴岡八幡宮前での演習部隊を親閲した。4月17日、天皇は、乗馬で藤沢から神奈川駅に行き、新橋駅まで汽車に乗り皇居に戻った[357]。このように、明治天皇は、馬のほか、文明開化を象徴する汽車を乗り継いで、野外演習をこなした[357]。

明治6年(1873年)4月29日には天皇は近衛兵約2800人を率いて皇居を出発し、演習が行われる千葉の大和田原(現・習志野)までの30キロ近い行程を乗馬で抜剣して進んだ[359]。近衛都督・陸軍元帥の西郷隆盛も同道したが、肥満して馬に乗れない西郷は、その間ずっと徒歩で供奉し続け、この西郷の行動に、明治天皇は感銘を受けた[360][361]。その日の夜は大暴風雨となり、天皇は演習地に天幕を張って将校や供奉員とともに野営した。その時騎兵小隊長を務めていた人物の回想によると「夜中に陛下のテントが吹き飛んだといふことを聞きましたから、そら大変と言って直に駆け付けて参りますと、まだ吹き飛んでしまつたのではございませぬが、宮内省の人夫が網を引つ張たり」しており、天皇のテントは「雨は漏る、水は這入る」という有様だったが、「陛下は泰然として少しも御騒ぎ遊ばさずにおいでになりました」という[359]。また夜中には「西郷隆盛が陛下の御前へ出て『陛下如何』と申上げますと陛下は『随分風も強いが雨が漏るのに困る』と仰せられた」という[359]。30日に雨が上がった大和田原で野戦演習が行われ、明治天皇が率いる軍に対して、陸軍少将篠原国幹が対抗演習を指揮した。演習が行われた大和田原は、天皇により習志野原と命名されて、以降陸軍の操練場と定められた[362]。
その後も西郷は、明治天皇の輔導に努めた。ある日、天皇が落馬して「痛い」と言った時、西郷に「どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけません」と叱られたことを天皇は後に語った[363]。この時期の西郷との思い出を、天皇は「あの時に西郷がこういった」「かような折に西郷はこうした」と、生涯にわたって懐かしんだ[364]。天皇の武人的変化は、西郷の個性によって、さらに促進されることとなった[363]。

明治6年6月19日には皇后と皇太后が群馬県の富岡製糸場視察のために皇居を出発、道中大雨により一時滞留したが、24日には富岡製糸場に行啓。富岡製糸場は明治5年にフランスから輸入した機械と蒸気機関を導入して操業した官営製糸場であり、全国から応募した士族の娘など500人ほどが工女として働いていた。ここで技術を習得した工女たちは日本各地の製紙工場に技術を広め、日本の機械製糸業の発展に寄与した[366]。製糸場を視察した皇后は「いと車とくもめくりて大御代の富をたすくる道開けつゝ」(糸車が早く回れば回るほど多くの生糸が紡ぎあげられ、この明治の御代の産業が興り、我が国は富を増やす道が開けるのです)という和歌を詠んでいる[366]。また皇后と皇太后は東京への還幸に際して埼玉県の養蚕農家にも立ち寄っている[366]。
岩倉使節団の帰国直後の頃の明治6年(1873年)10月には内田九一が三度宮中に召し出され、同年6月に制定されていた御軍服の正装および略服を着用しての明治天皇の写真撮影が行われ、数種類のポーズで撮影された。この頃には天皇は口髭も蓄えていた[367][368]。この撮影の際、内田は椅子に腰掛けていた明治天皇の姿勢を正すために、傍に寄り、天皇の頭に手を触れた。当時は一般庶民が天皇の身に触れることなど想像もできないことであり、近侍の者が内田の無礼を責め、厳罰を加えると怒鳴ったが、明治天皇は微笑して「写真撮影の際はわが体といえども彼の手中にある。咎めるには及ばない。」と言ったという[367][369]。
- 明治6年(1873年)10月に内田九一が撮影した明治天皇の写真
しかしその後、明治天皇は1880年代になると写真嫌いが強まっていった[370]。明治天皇は、写真機を通して肖像を撮り、それを交換するという西欧的な習慣に違和感を覚えていた[371]。それが後に公式写真の撮影をしなくなった原因になった[372]。こうして撮影された明治天皇の写真は、全国の各府県に伝達された。同年12月に写真が到達した宮崎県では、道筋を掃除して「臨幸」として迎えている。とはいえ、当時の奉置の様子は、祝日に掲示して自由に参観させるという形式が多かった。のちの学校への下賜に先だって、祝祭日を通じて緩やかに浸透していった[329]。このように、廃藩置県を経て、明治天皇は近代化の象徴としての天皇像が求められ、当時の明治天皇はそれに柔軟に応えた。そして、その姿は行幸と写真という新しい方法で広められていった[329][373]。
西国巡幸

明治5年(1872年)5月23日から7月まで、明治天皇は燕尾型ホック掛の正服[注釈 2]に身を包み、六大巡幸の最初となる西国巡幸を行った[341]。この巡幸の目的は、明治天皇に全国の地理・人民・風土などを視察させる、天皇が将校に率先して艦船を指揮して沿海を巡覧する、そして、政府の方針を知らない人民に行幸によって「開化進歩」を知らしめること等であった[376]。そのため、この巡幸のために大名行列のような交通遮断が行われることはなく、民はいつもと同じように仕事に精を出した。道路を修復したり、不浄の場所を隠すような、まことしやかに偽装された外観で天皇の眼を楽しませるといったことも行われず、天皇はありのままの国の姿を視察した[341]。西郷隆盛はこの行幸に付き添った。西郷にとってこの行幸は、自らが望む武人的天皇像に向かって明治天皇をさらに成長させ、それを国民に宣伝する意義があった[376]。明治天皇は行幸中、かつてのように鳳輦や板輿に乗って重々しく移動するのではなく、陸上では乗馬や、時には徒歩で、海上では軍艦で、機能的に移動した[377]。これによって、伝統的天皇から武人的・近代的天皇へとイメージの変化がさらに進んだ[377]。明治天皇の新しい姿は、西国の守旧派に示された[325]。
5月23日に天皇は西郷隆盛、その弟で陸軍少輔の西郷従道ら70余人を率いて品川沖に停泊する旗艦龍驤に乗艦。25日に艦隊は鳥羽湾に到着し、最初の訪問先伊勢神宮へ向かった[378]。地方官が行列を先導し、工部省、海軍省、陸軍省の官吏らが後に続き、侍従2名が剣璽を捧持。天皇自身は騎馬で進み、侍従がその左右を固め、近衛兵が前後を固めた[378]。諸官はいずれも燕尾服を着用して洋刀を行使に差して徒歩で供奉した[378]。伊勢神宮の門前町では、天皇を奉迎した沿道の庶民は、天皇の服装が旧来のものとは異なり、行列も簡素であったことに驚いたが、路傍に座って拍手拝礼した[379]。こうした行列と歓迎の光景はこの巡幸を通じて訪問先各地で繰り返された[378]。
次の訪問先は大阪だった。その途中の航路ですれ違ったロシア軍艦は、龍驤に掲げられた錦旗に敬意を表して国家元首に対する21発の礼砲を撃った。天皇の行幸を知ると大阪市民は献灯を掲げて奉迎の意を表し、迎拝者は天皇が通る道に数多く集まり、拍手して万歳を唱えた[379][378]。松島居留地の外国人も沿道に篝火を焚いて脱帽敬礼して天皇の行列を迎えた[378]。
5月30日に大阪を立って京都へ向かった。3年以上ぶりに京都に戻ってきた天皇に京都市民は「親しく天顔を拝して感泣せざる者なく」だったと記録にある[380]。天皇は中山忠能や親子内親王、淑子内親王など身内の者を引見した後、京都の産物を陳列した博覧会に出席。伝統的な織絹だけではなく、新発明の米搗器やこうもり傘なども展示されていた[380]。その後地元中学校にも訪問し、生徒たちの句読、暗誦、算術、外国語などの試験の様子を視察した[380]。ついで華族士族の子女(後に平民の子女も入学可能となった)に英語、ドイツ語、フランス語、手芸を教える目的で創設された新英学校女紅場(後の京都府立第一高等女学校)を訪問[380]。同校の外国人教師たちに次の勅語を与えた。「生徒教育尽力ノ段、朕甚ダ之ヲ嘉ス、朕更ニ汝等ノ勉励シ生徒ヲシテ益研学懈ラザラシメンコトヲ望ム(生徒の教育に尽力してもらい、朕は非常に嬉しく思う。今後とも更に勉励し、生徒が研鑽を怠らないよう指導してくれることを望む)」[380]。この時以降天皇は各地の巡幸の際にその土地の物産の視察を欠かさなくなり、また学校を訪問して化学の実験を見学したり、生徒が外国語と日本語で行う演説に耳を傾けるのが常となった[380]。また野営地のある場所では必ず部隊を閲兵した。今回の巡幸を通じて天皇は近代日本の将来は産業、教育、軍隊にかかっていることを理解したのである[380]。
天皇は、鎮台・大阪造幣寮・長崎造船所・各府県庁など近代化の拠点も訪問し、開化の進展を見届けた[325]。九州に入り、肥後国小島では、干満の測定ミスをした海軍小輔の川村純義に対して西郷は激怒、庭にスイカを投げつけ粉砕した。明治天皇は二階からその一部始終を見ており[381]、この出来事を「あの時は、西郷が怒ってのう」と、後々まで語りぐさにした[361][382]。長崎では、天皇の洋装反対意見が出されたが、西郷は「未だ世界の大勢を知らざるか」と大声で叱った[378]。

6月22日(7月28日)に鹿児島に到着。旧鹿児島城内にある鎮西鎮台分営(旧島津邸)を鹿児島における行在所としたため、鹿児島城に入城した[384]。鹿児島港では陸海軍の対抗演習が天覧に供された。これは文久3年(1863年)の薩英戦争の場面を再現したものだった。現在その演習のあった天覧所の跡地(桜島フェリー乗船場付近)には「明治天皇行幸所舟形台場」碑が残されている[384]。さらに田ノ浦の陶器会社の薩摩焼の製造、磯の紡績場や大砲製造所などを視察[384]。さらに地元の人々によって御田植踊、桜島踊、太鼓踊、相撲などが天覧に供された[384]。
鹿児島では、大臣たちが陪食した時に明治天皇がよく語ったもう一つのお気に入りの逸話があった。鹿児島に暮らす外国人の家に天皇と供の者数名が休憩した時に、その家の老婆が素晴らしい西洋料理と茶菓子でもてなしてくれたという。しかし彼女は「朕の誰れなるかを知らざるが如くなりき」であったと天皇は笑ってこの話を締めくくるのが常だった[381]。天皇が鹿児島を立った後には鹿児島市民に行在所の拝観を許され、夜明け前から拝観のための長い行列ができた。鹿児島市民は天皇が神代三陵を遥拝した際に膝の下に敷いた薦の切れ端と、涼み台として使った御涼櫓装飾の杉の葉を拝戴し、災厄払いの護符にした[381]。
天皇は鹿児島から航路で7月4日に四国・丸亀に到着。崇徳天皇の白峯陵、淳仁天皇の淡路陵を遥拝した[381]。しかしこの日、東京からの知らせで旧薩摩藩兵が大半を占める近衛兵の間で衝突が起きたという報告がもたらされ、薩摩出身の西郷隆盛と従道はこれを沈めるべく緊急に軍艦で東京に戻っていった[385]。しかし天皇は予定通りの巡幸を続け、神戸に寄港し、その後横浜へと帰路に就いた[385]。
8月10日、西郷は寺田弘への書状で、行幸が盛り上がりありがたいことであると述べ、8月12日の大久保への書状では、無事に行幸が終わり、保守的な京都の人心もかなり政府を支持する方向になったこと等を報じた[379]。この巡幸は、明治天皇に国土を学ぶという経験を与えた。それに加えて、天皇にとっては西郷隆盛と行動をともにしたことが大きかった[361]。
学制発布
明治5年8月1日(1872年9月3日)に日本最初の公立図書館書籍館ができたのを機として、翌2日(9月4日)に天皇は学事奨励、学制の制定に関する被仰出書を出し[385]、その中で「自今以後一般人民邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」との聖旨を表明した[386]。
その聖旨に基づき太政官が日本の公教育の始まりとなった学制を発布し、日本において普通教育制度が始まった[386][387]。
学制は、学校を大学校・中学校・小学校の三等制にし、日本全国の学区を8大学区に分け、各大学区に大学校を1校設立し、1大学区を32中学区に分けて、各中学区に中学校を1校を設立し、1中学区を210小学区に分け、各小学区に小学校を設置することで、全国に8つの大学校、256の中学校、5万3760の小学校を設置するものと定めている。そのため、学制の公布以降、日本全国で小中学校が急ピッチで建設されていき、明治12年までには小学校2万8035校、就学児童は221万6007人に及んだ。学生発布の明治5年時と比較すると学校数は1万5467校、就学児童数は102万7639人も増加している。また師範学校や中学校も急速に増加し、これらは同じ時期までに196校、生徒1万4512人を数えた[388]。廃藩置県で藩校は廃され、私塾や寺子屋の類も順次廃業が進み、小学校が全国民共通の普通教育のスタートラインとなり、身分階層や男女の別なく全国民に等しく開かれた単一の学校体系が生まれた[389]。
全国を8つの大学区に分けたり、大学・中学・小学校という三等に区分したり、小学校在学期間を6歳から13歳としていることや、6歳前の幼稚小学の制度などは、フランス学制の影響が認められる[387]。また、大学区内に督學局を設け、文部省との連携で管内の学校運営全般を指導監督する教育行政システムや、小学校教員を養成するための師範学校の創設などもフランスの影響と思われる[387]。就学費用が受益者負担なのもフランスと同じだが、当時アメリカとプロイセンが世界に先駆けて行っていた義務教育(小学校)無償化の実現は、当時の日本の財政事情ではまだ不可能であり、その実現にはさらに30余年が必要であった[387]。
学制は、単一制度の小学校を、その後の全ての上級教育機関の基本階梯として義務付けたが、これは国民が等しく同じ初等教育を受けるという教育の機会均等という民主的理念に照らして大きな意義があった[390]。これはアメリカの学制と同じシステムであり、いわば「単線型教育体系」というべきものである[390]。これに対して欧州諸国では、中等教育が独自の初等予備教育を行う付属の学校を持つ教育体系と、一般の初等教育・職業教育の教育体系の二種が存在するという「複線型教育体系」が一般的だった。ヨーロッパでは、貴族・支配階級と庶民を分ける必要から、19世紀後半から20世紀に至ってもこの複線型教育系列が主流だったのである[390]。初等教育の一元化に限れば、日本の「学制」は、ドイツに48年、イギリスに72年、フランスに87年先行していた[391]。
アレクセイ大公の来日


アメリカ南北戦争の際、帝政ロシアはニューヨーク湾に艦隊を派遣して英仏を牽制したため、米国大統領ユリシーズ・グラントはそれを感謝しロシア皇帝アレクサンドル2世の第4皇子アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公をアメリカに招待し、大公は明治4年(1871年)からフリゲート艦「スヴェトラーナ」でアメリカを訪問した。その帰路に大公はアジアにも回航し来日を希望したため、明治天皇の招待を受け、大公の日本への公式訪問が決まった。有栖川宮熾仁親王が筆頭の接伴係に任命されて接待の準備にとりかかり[393]、エディンバラ公来日の先例に倣って国賓として迎えることになった[394]。
アレクセイ大公は明治5年9月下旬(1872年10月下旬)に長崎に入港し、その後海路で神戸、大阪、横浜と北上し、10月16日(11月16日)に横浜から汽車で新橋へ移動し、馬車で東京滞在中の宿泊先である延遼館に入った[395][394]。日本政府はアレクセイ大公の日本滞在中、毎日盛大な宴の席を設け、日本の様々な伝統芸能を観覧に供した[393]。
明治天皇がアレクセイ大公を引見したのは10月17日(11月17日)だった。天皇は有栖川宮熾仁親王とともに大広間の上段に立つ立礼で迎え、太政大臣三条実美以下臣籍は段の下に侍立。アレクセイ大公は上段に設けられた天皇と向かい合った席に招かれるというエディンバラ公の先例を踏襲した形の引見を受けた[396]。翌日10月18日(11月18日)に天皇は返礼として大公が滞在する延遼館に初めて行幸。これ以降、国賓が宮中に参内するたびに滞在先への天皇の返礼の行幸が行われるようになった。天皇は大公との会談後、ともに庭で舞楽を天覧。ついで中島御茶屋で茶菓子やシャンパンをふるまい、天皇は大公やロシア皇帝のために乾杯の音頭を取った[397]。10月21日(11月21日)に大公は再び参内して大広間で天皇の引見を受け、その後天皇と大公は同じ馬車に乗って日比谷陸軍操練所へ向かい、馬車から閲兵を行った[397]。皇居に戻ると御学問所代で茶菓子が供され、この際にアレクセイ大公は美子皇后にも拝謁し、皇后はこの時に初めて西洋人を目にしたと言われている[393][398]。
10月25日(11月25日)に天皇と大公は汽車で横浜駅まで移動し、そこから馬車で横浜港に向かい、停泊中の日本軍艦の龍驤とロシア軍艦のスヴェトラーナに相互に乗艦しあい、日本艦隊6隻を閲艦した。またスヴェトラーナでは昼食を供された。天皇が外国軍艦に乗艦するのも、外国人と食事を共にしたのもこれが初めてである[398]。ブラックによればアレクセイ大公は「宮廷馬車で陛下と同席が許された最初の外国人」であるといい、天皇がロシア艦に行幸したのは「これまでにミカドの示したヨーロッパ式儀礼のうちで、一番驚くべき進歩の徴(しるし)だった。」と記している。また「私の記憶に間違いがなければ、陛下が公衆の面前で、日本の礼装をした最後の機会だった」という[398]。
その後、アレクセイ大公は函館に向かい、ウラジオストクに渡り、そこから陸路で帰路に就いたが、厳寒で途中で進めなくなったため、ウラジオストクに引き返して香港へ渡り、そこから11月26日(12月26日)に長崎に入港して再来日している[399]。結局アレクセイ大公は明治6年2月(新暦)に改めて長崎を出港して帰国の途についた[400]。
琉球藩設置をめぐって

清国属国ながら実質的に薩摩藩支配下にあった琉球王国について、新政府は発足当初より日本の領土として捉えていた。明治2年(1869年)2月の段階で京都府が明治天皇の東幸についての告諭の中で「(天皇の)深思ノ思召ハ蝦夷琉球ノハテトモ日本ノ土地ニ生レシ人々ハ赤子ノ如ク」という言葉を使用していることからもそれが分かる[255]。廃藩置県後の明治5年1月に大蔵大輔井上馨は、琉球について日本本土の諸藩と同様に版籍を収納し、その所属は日本にあることを内外に明示すべきであることを正院に報告している。同月、鹿児島県参事大山綱良は、琉球駐在県役人を通じて、王政維新以来、琉球国王がいまだに天皇への拝謁を行っていないので国王はただちに維新慶賀の使節団を東京に上京させるベきことを琉球に命じた[401]。
琉球国王尚泰は了承し、維新慶賀使を9月3日に東京へ送った。使節団は9月14日に太政大臣三条実美以下重臣たちが立ち並ぶ中、天皇に拝謁した。尚泰は使節団に持たせた天皇宛ての書簡の中で遥南方の島にて伏して維新の盛事を聞き及んで喜びに堪えない旨を表明し、これに対して明治天皇は長らく薩摩属国であった琉球が朝廷に忠誠を誓ったことを満足に思うとの勅語を与えるとともに、尚泰を琉球藩王および華族に任じる詔を与えた[353]。日本本土では「藩」はこの前年の廃藩置県によって全て解体されていた。にもかかわらず琉球でのみ藩を復活させたのは、ゆくゆくは藩を解体させたのと同じ過程によって琉球を日本政府の統治下に収めるための暫定的な処置だったからといえる[353]。

尚泰が天皇から琉球藩王に任じられたのを機に、外務卿副島種臣は東京駐在の外国公使たちに対して日本が琉球について全権限を有していることを通達した。しかし清は琉球への宗主権を主張し、日本の琉球領有権主張に異議を申し立ててきた[402]。
明治6年(1873年)3月9日に副島に対して、この前年に起きた台湾に漂流した琉球国宮古島の島民54人が台湾原住民パイワン族に虐殺された事件「宮古島島民遭難事件」についてその罪を清国に糾明すべきことを命じる上諭(勅命)を出した[402]。この上諭の意図は琉球島民が日本人であることを清に認めさせることにあった。また間接的には清国が台湾全島を領有しているというなら台湾の「生蕃人」(台湾原住民)を罰することによってのみそれが証明できるという、清の台湾領有権主張に対する異議申し立てでもあった[402]。
北京に到着した副島は、清国当局と各国公使が皇帝謁見の礼式で膠着状態になっていることを知った。各国公使は西洋諸国の外交慣例に従って清国皇帝は立礼でもって公使たちを迎えるべきであると要求したが、清側は皇帝は世界で最も尊い存在であるので立って出迎えるなど以ての外であり、逆に各国公使に対して額を地に叩きつけて皇帝に拝礼する三跪九叩頭の礼を要求した。各国公使はそんな屈辱的な礼式には応じられないとして断ったので、いつまでたっても皇帝の謁見が受けられず押し問答になっていた。副島も清国当局から皇帝に拝謁したいなら三跪九叩頭の礼を取るよう求められたが、副島はこれに激怒し、自分は明治天皇の代理として来ており、天皇の威信に関わる跪礼は応じられないと断り、もし自分が頭を下げねばならないのなら皇帝もまた同様の礼をもって報いてもらいたいと要求した。また天皇の代理として来ている自分は、公使として来ているに過ぎない各国の駐在外交官よりも優先的に皇帝の謁見を受けるべきと主張した。中国古典に詳しかった副島は終始中国の聖賢の教えを引用しては自己の見解の裏付けに使った。たとえば外国人に対する中国人の侮辱的な態度を非難する際には周公の言葉を引いて「夷モ亦人国也、君子ヲ以テ待テバ即チ君子ト為リ、蛮夷ヲ以テ待テバ即チ蛮夷ト為ル(野蛮人もまた人間である。もしこれを君子として遇するなら即ち君子となる。しかし野蛮人として遇するなら即ち野蛮人となる)」と述べた[402]。西洋の外交礼式を押し付けてくる西洋諸国の使節団に対して、中国の古典を引用して反論する副島は清皇族恭親王奕訢の関心を得たらしく、6月29日に至って副島は各国使節に先駆けて跪礼はしなくてよいとされて三拝の礼で皇帝の謁見を受けている[403]。
一方本題である台湾問題については、6月21日に外務大丞柳原前光が総理衙門(清国外務省)で交渉に当たっており、柳原は台湾問題について次のように主張した。清国はいまだかつて台湾島の半分以上を支配したことがなく、二年前に日本人漂流民を惨殺した島の東部にすむ「生蕃人」にも支配力が及んでいない。日本としては生蕃人に対する征討軍を派遣するつもりであるが、生蕃人は清国領土に隣接する地域に住んでいるのであらかじめ日本の意図を貴国に伝えておくのが妥当だと考える。この発言に対して清側は、琉球人が殺されたのは知っているが、日本人が殺されたとは聞いていない。生蕃人の襲撃を免れた琉球人の生存者はすでに清国官吏により祖国である琉球王国へ送還されたので日本には何の関係もないと反論した。柳原は琉球は久しく薩摩の属国であり、したがって琉球人は日本国臣民として日本政府の保護下にあると反論した[404]。その後の議論の中で清国はついに清の支配は台湾全島には及んでおらず、(清国の統治に服する「熟蕃」に対して)「生蕃」(漢化していない台湾原住民)は支配下にないと認めた。この発言は日本による台湾「生蕃」地域への攻撃を正当化する言質となった[405]。さらに朝鮮問題について清当局は朝鮮国王は清国皇帝が任命しているが、朝鮮国内の統治及び戦争平和の問題については全て朝鮮国の手中にあると述べた。この言葉から柳原は、日朝が戦争になったとしても清国は介入しないという確信も得た[405]。
副島は意気揚々と帰国の途についた。日本は今や台湾と朝鮮に拡張できるのだった。副島は横浜に戻るまでに寄港した日本各地で英雄並みの歓迎を受けた[406]。7月27日に副島は明治天皇に拝謁して清国皇帝の復書を捧呈、天皇は副島の労をいたわって酒饌を下賜した[406]。
明治6年予算紛糾と征韓論論争
明治4年(1871年)の廃藩置県後に導入された太政官三院制の下では各省庁の権限が強化されたため、各省庁は自主的な政策運営に乗り出して省庁間の政策競合化のような現象が生じた。特に明治6年(1873年)は留守政府の開明政策が多く展開された年だったためにそれが顕著となった。徴兵令を布告して近代国民軍の形成を目指す陸軍省、学制を発布して普通教育普及を目指す文部省、司法職務定制を定めて日本各地に裁判所を設置して司法権の地方官からの回収を目指す司法省などが、各々の政策の実行のために大蔵省に予算を要求した[407]。
一方、岩倉使節団に参加して日本を不在にしている大蔵卿大久保利通の留守を預かっていた大蔵大輔井上馨や大蔵少輔事務取扱渋沢栄一ら大蔵省首脳部は緊縮財政の方針を立てていたため、多額の予算を要求する他省庁との間で衝突が絶えなかった。特に明治6年予算をめぐる紛議は深刻化し、司法卿江藤新平が大蔵省の厳しい査定に反発して辞職を表明する騒ぎになり、本来各省庁の調整を行うべき正院は、三条実美と大隈重信を軸としていたこともあり、有効な仲裁者となりえず、5月には痺れを切らした井上馨や渋沢栄一ら大蔵省首脳部が辞職するという事態に陥った[408]。この予算紛糾は留守政府の限界や太政官三院制の抱える矛盾などが一気に噴出したもので、そのしこりがこの直後に始まる征韓論論争の底流にあったといえる[408]。
鎖国体制を取り続けていた李氏朝鮮は、交易・外交関係を開こうという日本に対して門戸を閉ざし続け、日朝関係は悪化を続けていた。そんな中の明治6年(1873年)7月に対馬人以外の日本人が朝鮮の倭館に出入りしていることが発覚したとして、朝鮮政府が倭館に「潜商禁止の令」を掲示したことで情勢は緊迫化した。朝鮮側の主張は、対馬島を介しての両国交易は伝統的な「不易之法」であり、対馬以外の他島人の交易は我が国が許すところではない、このような潜商が倭館が自由に出入りしているということは、日本は「無法之国」となったことを意味する。倭館の者たちよ、あとで後悔することがないように我が国の非難を頭領に報告すべし、というものである[409]。
一応これは日本人全般への批判ではなく、日朝貿易の伝統的枠組みを逸脱したところで商取引をした日本人商人に批判の的を絞ったものだったが、当時の日本人にこの侮蔑の言葉をそのように解釈する者はなかった。特に「無法之国」なる表現は日本の名誉に対する侮蔑以外の何物でもなかった[409]。日本中で朝鮮に対する怒りの声が巻き起こり、朝鮮出兵の呼び声は高まった[409]。
天皇は情勢を深く憂慮し、太政大臣三条実美に朝鮮事件処理の勅命を下した[409]。閣議を招集した三条は、日本は朝鮮との善隣の道に努力してきたが、それは侮蔑により報いられただけだった。事態ここに及んでは日本は朝鮮にいる居留民保護のため陸海軍の小部隊を派遣するべきであり、その数は必要とあればいくらでも増強できると述べた[409]。これに対して西郷隆盛は今にわかに軍を派遣すれば朝鮮人民は日本に併呑されるのではないかという猜疑心を持つようになるに違いなく、これは我が朝廷の遺志に反する所である。まずは全権使節を派遣し、日本の真意を伝えて朝鮮を説諭すべきである。もし朝鮮がこれを聞き容れず、使節に無礼を働くようであれば、その罪を天下に鳴らし、朝鮮を討てばよい、その使節には自分がなると主張した[409]。
閣議に出席していた留守政府の政府高官たちはことごとく西郷の意見を支持したが、この時には岩倉具視以下岩倉使節団に参加している政府高官が日本にいなかった。三条は岩倉に早期帰国して閣議に加わるよう求める電報を打った。しかし8月3日には西郷が三条に書簡を送って閣議の結果を断固実行に移すべきことを要求した。三条から返信がないことに苛立った西郷は、8月16日には直接三条のもとを訪ねて次のように論じた。もし岩倉の帰国を待っていたら時機を逃がすことになる。使節を送れば朝鮮は必ず使節を殺す。それでこそ軍隊を派遣しその罪を鳴らす名目が立つ。昨今の国内情勢は内乱の発生を望むかのような兆しが満ち満ちている。この際国内に鬱積した怒りの切っ先を外へ転じて、以て国威を海外に発揚すべきである[410]。
西郷の熱弁を前にして三条は、西郷を思いとどまらせるのは無理と判断し、8月17日にも閣議を招集して西郷の提案通り朝鮮への使節派遣を決定した。閣議で反対を表明したのは黒田清隆だけだった。彼は日露間で紛糾している樺太問題の解決の方が重要で、またもし仮に朝鮮に使節を派遣することになったら西郷ではなく自分が行くと主張した[410]。
一方明治天皇は8月5日に皇后とともに避暑のため神奈川県箱根宮ノ下へ移っていた。元来政務に熱心な天皇は私的な理由で東京を離れることを嫌ったが、明治6年夏の東京の酷暑は尋常ではなく、さすがの天皇も参ったようである。そのため政府閣僚らは裁可を仰ぎに箱根まで行かねばならなかった[410][411]。8月19日には三条が宮ノ下にやってきて天皇の拝謁を受けた。天皇と三条がこの時にどんな会話をしたのかは不明だが、最終的に天皇は、西郷の朝鮮派遣の件は岩倉の帰国を待って閣議で十分な議論を尽くし、その上で朕に報告せよ、という聖断を三条に与えている[412]。三条は使節派遣を閣議決定しながらも揺れ動いており、岩倉が早期帰国して意見を述べてくれることに期待していたから、この聖断に胸をなでおろして東京へ帰り、西郷に天皇の勅命を伝えた[412]。岩倉の帰国を待てという天皇の勅命が天皇自身の決断なのか、三条の度重なる説得の結果なのかは不明である[412]。
西郷は7月29日から8月17日まで板垣退助に三通の書簡を送っているが、即時朝鮮出兵を主張する板垣の意見に反対している。そこでの西郷の主張は「軍隊は目下ロシアの北方からの侵略に備えて必要である。然るべき理由もないのに戦端を開いたらこちらの討伐の名目が立たない。まずは使節を送るのが望ましい。そして日本が使節を送ってくれば朝鮮は必ずその使節を殺す。そこでお願いだが自分を使節にしてほしい。副島種臣(外務卿)のような立派な使節はとても務まらないが、死ぬぐらいなら自分にもできる。」という閣議での発言と同じ趣旨のものである[412]。毛利敏彦は、この書簡は板垣に西郷の使節任命を後押ししてくれるよう頼んだものだろうと見、それは西郷がいくらこだわっても外交交渉にたけた副島種臣が使節に任命される可能性が決して少なくなかったからであると分析する[411]。また、もし西郷の見立て通りに事が進んだ場合、使節となった西郷は死ぬことになるが、この頃の西郷の書簡は「死」を意識したものが多い。持病の悪化で苦しんでいた時期であり、無意味に病に倒れて死ぬのを恐れていたのではと考える歴史学者もある[413]。
9月13日に岩倉が帰国。それより前に一足早く帰国した木戸孝允が9月上旬に三条と会談しており、内政優先から朝鮮への使節派遣に反対したが、当時木戸は体調を崩していたため、岩倉は木戸より大久保に期待を寄せて彼を参議に引き立てようとした[414]。洋行中に大久保と不仲になっていた木戸すら大久保の尽力に期待した[414]。大久保は当初参議就任を渋っていたが、副島種臣も参議にすることを条件に承諾。西郷派に回る可能性が高かった副島をなぜ大久保が参議に推したかは不明だが、ともかく岩倉は大久保の助力を必要としていた。10月中旬に天皇は岩倉の奏請に応じて大久保と副島を参議に任じた[414]。

顔ぶれがそろうと10月14日に閣議が開かれた。閣議で岩倉は外交上の3つの懸念事項として、樺太、台湾、朝鮮を挙げ、樺太問題が先決すべき外交問題である論じた。しかし西郷は朝鮮の事件こそが皇威、国威にかかわる最も重要な問題と主張して真っ向から対立。4人の参議(板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平)が西郷支持、3人の参議(大久保利通、大隈重信、大木喬任)が岩倉支持で政府が真っ二つに割れた[415][416]。
この征韓論論争の最中に三条が病気になったので天皇は侍医2人とドイツ人医師2人を三条邸に派遣し、10月20日には自らも三条邸を訪問して三条を見舞った。天皇は政治的空白を作るまいと、その足で岩倉邸にも行き、岩倉を太政大臣代理に任じた[415][417]。これにより岩倉が政局をリードするようになった[417]。10月23日に岩倉は征韓論について「臣その不可を信ず」という反対理由を記した意見書を天皇に奏上した[417]。その中で岩倉は次のように論じた。維新以来4、5年しかたっておらず、いまだ国の基盤は不安定である。軽々しく外国と紛争を起こしている場合ではない、朝鮮との戦争は使節の到着とともに勃発することが予期される。したがって使節派遣は国力が充実するまで待つべきである。さもなくば大惨事を招く[418]。
10月24日に天皇は裁定を下した。宸翰の勅書を出して岩倉の意見に支持を与えた[418]。この天皇の裁定によってすべては決し、征韓論は消え、西郷ならびに西郷を支持した参議4人(板垣、後藤、副島、江藤)は全員病気を理由にして辞任することになった[418]。天皇はこの征韓論論争に大いに心を痛めたが、朝鮮をめぐる危機はひとまず収束した[418]。
この征韓論論争で西郷と西郷を支持した留守政府の政府高官たちの多くが下野した結果、政府内では大久保利通の権勢が突出するようになった。大久保は明治6年に内務省を新設して内務卿に就任し、事実上の大久保政権を誕生させた[419][420]。大久保は、岩倉具視、伊藤博文、大隈重信の協力・補佐を受けて、征韓論論争の余波をできる限り取り除くべく、行政改革に着手し、参議と省卿を分離したことが各省の独走を招いて予算紛議のような事態を招いたことから、参議・省卿兼任制に変更した[421]。
しかし西郷下野の影響は深刻だった。西郷支持派が多い近衛兵の脱走、帰郷に歯止めがかからなくなり、その中には天皇の侍従を務めた島義勇や村田新八も含まれた[422]。西郷辞職の翌日に天皇は篠原国幹以下佐官将校クラスを小御所代に召したが、篠原らは応じなかった。10月下旬に天皇は再び140余名の近衛将校を召したが、病気を理由に参内しない者が多かった。まばらに集合する近衛将校団を見た天皇は憂慮の念をもらしている(『明治天皇紀』)[423]。天皇の権威の失墜は隠しようがないものだった[423]。
明治6年は天皇にとって厄年のような年で征韓論騒動以外にも様々な不幸に見舞われた。特に辛かったのは権典侍葉室光子が明治6年9月18日に明治天皇の第一皇子を儲けるも即日薨去し、光子も産後に容体を悪化させて4日後に死去したことであった。さらにその直後には橋本夏子が第一皇女を儲けるも死産だったうえ、夏子も産後の容態悪化で死去してしまった[424][423]。天皇は悲しみのあまりしばらく酒にふけった[423]。
さらに同年5月5日には皇居において女官の火の不始末が原因で物置から出火し、折からの強風に煽られて皇居全域が焼失する事件が起きている。皇居の前身である旧江戸城は安政6年(1859年)10月の火事で本丸、ついで文久3年(1863年)6月の火事で西丸が焼失していた。いずれも焼失後に再建の普請が実施されるも、西丸普請中に本丸が再焼失し、本丸の再建は断念されたため、慶応4年(1868年)に江戸城が皇居となった際には西丸が残っているのみであった。この明治6年の火事でその西丸も焼失したということである[232]。幸い天皇皇后は無事であり、三種の神器も難を逃れたが、多くの官庁が被災し重要な文書の多くが灰となるなど甚大な被害があった。この後新皇居となる明治宮殿が完成したのは明治22年(1889年)のことであり、それまで天皇は赤坂離宮を仮御所として政務に臨んだ[425][426]。仮とはいえ当面の天皇の居所、公務の場となる以上赤坂離宮にそれに見合った修繕を施す必要があったが、質素を旨とする天皇はその経費として5万円を上限に定めた。天皇はそれを徹底するため三条太政大臣に勅を下し、仮御所修繕のことで民衆に負担をかけないよう命じた[425]。
ジェノヴァ公の来日

明治6年(1873年)8月には、イタリア王室サヴォイア家の一員である第2代ジェノヴァ公爵トンマーゾ・ディ・サヴォイア(サルデーニャ王カルロ・アルベルトの第2王子初代ジェノヴァ公爵フェルディナンド・ディ・サヴォイアの長男)の来日があった。日本にとっては英国のエディンバラ公、ロシアのアレクセイ大公に続く3人目の国賓となる。
1872年(明治5年)10月、当時18歳のイタリア王立海軍軍人であったジェノヴァ公は、訓練教育のために蒸気コルベット艦「ガリバルディ号」に乗って世界一周旅行に出た[427]。その途中に来日が予定され、イタリア駐日代理公使バルツァリーノ ・ リッタ伯爵(Conte Balzarino Litta)がその件について日本政府と交渉し、日本政府は公式訪問としてジェノヴァ公を国賓で迎えることを決め、その接待準備に取り掛かった。しかしその後リッタがジェノヴァ公の来日についての詳細説明をイタリア外務省に求めると、明治6年7月8日にイタリア外務省はリッタに対して訓令を出し、ジェノヴァ公の大洋横断航海は訓練航海であり、政治的目的があった先のロシアのアレクセイ大公の来日とは性質が異なるとして、「絶対に必要な場合を除いては、殿下の今回の旅行は非公式の旅行の規則から除外しない」と通知し、あくまで非公式の私的訪問であることを告げた。訓令を受けとったリッタはこれに驚き、すでに国賓として迎える準備をしていた日本政府との関係悪化を恐れ、本国の指示を無視することにし、明治6年(1873年)8月23日に「ガリバルディ号」が横浜港に錨を降ろすとただちに乗り込んで、ジェノヴァ公と艦長に事情を説明。そのためジェノヴァ公とリッタは本国外務省の指示が届いていない風を装って、日本当局の期待に沿った公式訪問として来日を行った[428]。
ジェノヴァ公が横浜に到着した明治6年8月23日には天皇は避暑のため箱根に移っていたので、天皇の帰京までジェノヴァ公は身分を隠して滞在。天皇が東京へ還幸した後の9月1日に侍従長東久世通禧と式部頭坊城俊政がガリバルディ号に派遣され、ジェノヴァ公は彼らの案内で横浜港から新橋駅まで馬車と汽車で移動し、新橋駅で宮内卿徳大寺実則、海軍大輔勝海舟、東京府知事大久保一翁などの政府高官から出迎えを受けた。その後ジェノヴァ公は東京滞在中の宿泊先である延遼館に案内された[429]。
同日午後3時にジェノヴァ公は赤坂離宮に参内して、天皇の拝謁を受け[430]、夕刻に天皇はその返礼として延遼館のジェノヴァ公を訪問。9月8日に天皇とジェノヴァ公は日比谷陸軍操練所で飾隊式(観兵式)に臨み、同じ馬車で閲兵した[431]。その後二人は馬車で皇居へ向かい、吹上御苑の瀧見御茶屋で午餐を取っている。これは外国からの賓客に対して天皇が初めて行った宮中招宴である[431]。出されたのは西洋料理であり、児玉定子はこの時以降宮中の招宴は現代に至るまで全て西洋料理(フランス料理)となり、西洋の礼式をもって行われるようになったと述べている[431]。またこの午餐会の間、前庭では日本海軍軍楽隊が西洋音楽を演奏していたが、これも宮中に西洋音楽が入るようになった端緒である[431]。
10月13日にジェノヴァ公は参内して天皇に別れの挨拶をした後、帰国の途に就いた[431]。
地租改正

明治6年(1873年)7月28日、明治天皇は正院がまとめた地租改正法案を裁可し、自らの上諭を付して布告した。明治天皇の上諭部分の内容は以下のとおりである。「朕惟フニ租税ハ國ノ大事、人民休戚ノ係ル所ナリ。従前其法一ナラス、寛苛輕重率ネ其平ヲ得ス。仍テ之ヲ改正セント欲シ乃チ所司ノ群議ヲ採リ、地方官ノ衆論ヲ盡シ、更ニ内閣諸臣卜辨論裁定シ、之ヲ公平畫一ニ歸セシメ地租改正法をヲ頒布ス。庶幾クハ賦ニ厚薄ノ弊ナク、民ニ労逸ノ偏ナカラシメン。主者奉行セヨ。」[432](朕が思うに租税は国の重要な問題である。それは人民の幸・不幸に関わるからである。従前の制度は統一的ではなかった。租税負担が寛大だったり苛酷だったり、軽かったり重かったりがあって概ね不公正であった。よって朕はこれを改正したいと願い、役人たちに議論を行わせ、地方官たちの意見を引き出し、さらに内閣の大臣らと討議をして裁定した、公平にして統一的な制度に帰すための地租改正法を公布する。これによって租税の不公正という悪弊が除去され、民の苦楽に偏りがなくなることを願う。担当者はこの法を執行せよ)
当時法律には上諭(勅語)は付されないのが一般的であったが、地租改正法には上諭が付されており、地租改正がいかに重要視されていたかを物語る[433]。
地租改正の具体的内容の要旨は次の4点である。1、地券調査により「土地ノ代価」を確定し、地租の税率は「土地ノ代価」の100分の3とし、天災等の場合を除き豊凶によって増減はしない。2、地租の納付方法は金納とする。3、地租は個々の土地ごとの土地所有者に対して賦課する(村ではなく個人が課税単位)、4、地価の課税標準である「土地ノ原価」は、一定面積の耕地の収穫高から必要経費(種肥代)と、予定される新地租と村入費(村税)を控除して利益を求め、これを地方慣行の利子率で資本還元して地価を求める[433]。
江戸時代の年貢と比較すると、以下の5点が改善された点である。1、納税義務者、課税標準、税率といった税に関する基本的事項が法定されているため、江戸時代のような為政者の恣意の余地はなく、租税法律主義による予測可能性と法的安定性が確保されている、2、納税義務者は土地所有者個人なので、江戸時代のように村全体が連帯して納税義務を負わされるということはない、3、課税標準が地価であり、税率が3%に固定されているため、江戸時代の年貢よりも歳入として安定している、4、納付は金納であるため、江戸時代の米納と違って納税者に輸送の負担がない、5、法律の適用は全国一律なので、各藩領や幕府領でバラバラだった江戸時代と違って特定の地域が異なる取扱いを受けることはない[433]。
地租改正は非常に大きな意義があったといえる。まずこれまでの年貢は各藩や各幕府直轄地など地域によって負担の軽重があったが、それが解消されたこと、金納になったことで米納のような検見や輸送等の煩雑な手続きも不要になり、政府においてはコメ相場によって税収が左右されることがなくなったこと。また納税義務者が村といった集団ではなく、個人になったため、他の者の納税に左右されることがなく、自己の納税さえすればよく、責任の所在が明確になったこと。地券調査により全国の土地が測量された結果、これまで把握されてなかった土地を含め土地の形状や境界が正確に把握されるようになったこと。地券発行に際して土地台帳が作成されたことで、土地私有化や土地取引自由化とも相まって、土地管理や、民間の土地取引の推進に大きな影響を与えたことなどが挙げられる[433]。
地租改正は江戸時代の年貢制度を抜本的に改革するものとなったが、導入への抵抗はほとんど見られず、比較的スムーズに移行された。その理由は、すでに版籍奉還と廃藩置県によって藩主・藩士による土地支配体制が事実上崩壊しており、地租改正が行われやすい環境がすでに整備されていたことが挙げられる[433]。
台湾出兵

台湾「生蕃」人が琉球島民を殺害した事件をめぐる清国との交渉は、明治6年(1873年)6月に副島種臣が清国官吏と談判して以降、遅々として進んでいなかった。そこで明治7年(1874年)1月に大久保利通と大隈重信は三条実美の要請を受けて生蛮問罪について調査し、台湾蕃地処分要略を作成し、その中で、清国政府の声明によれば、台湾「生蕃」地域はどこの国にも所属していない、従って邦人が受けた暴行に対する報復は日本政府の義務であることを指摘した[435]。
3月には大隈重信、参議兼外務卿寺島宗則、駐清国公使柳原前光、陸軍大輔西郷従道が大隈邸に集まって台湾出兵についての具体的な計画を立案した[436]。政府高官の中では木戸孝允が唯一台湾出兵に反対し、台湾出兵が決定された場合には辞職することを表明した。木戸は次のように指摘した。「夫れ国威を海外に張り版図を異域に闢くは、人情豈之れを喜ばざらんや、然れども政府の務、自ら内外本末の弁あり、緩急先後の序あり、今や三千万の民未だ大に政府の保護を被らず、蒙昧貧窮の人未だ権利を持する能わずして、国国たらずと云ふべし(国威を海外に張り、領土を異域に拡張することに喜ばない者はいないだろう。しかし、政府の務めには自ずと内と外、本と末の区別があり、緩急先後の順序がある。三千万の民は未だ政府の十分な保護を受けておらず、無知蒙昧や貧窮に喘ぐ人は未だに権利を持つことができないでいる。こんなことで国が国と言えるだろうか)」[436]。
しかし木戸以外に反対する政府高官はなく、台湾出兵計画は進められた。明治天皇も台湾出兵に強い関心を示していた。天皇は、4月3日に大隈を召してこれまでの経緯を説明させるとともに、その翌日には西郷従道を中将、台湾蕃地事務都督に任じ、5日には大隈を正院の台湾蕃地事務局長官に任じた[436]。そして4月6日に西郷従道に台湾蕃地処分に関する全権委任の勅書を与えた。勅書には「我国人ヲ暴殺セシ罪ヲ問ヒ相当ノ処分ヲ行フベキ事」とある[436]。またこれと別の特諭十款の中で天皇は次の大要を論じた。生蕃人を自儘に放任すれば、その害極まるところを知らない。「今朕が膺懲(外敵討伐)を行ふの意は彼の野蛮を化して我が良民を安んずるに在り、汝此の旨を体し、事を為すに際しては恩威並び行ふべし、鎮定の後は土人を教導して開明に向はしめ、我が政府との間に有益なる事業を興さしむべし」[436]。
これを受けて西郷従道と大隈重信は長崎に入り、いつでも軍を台湾へ出陣させられる状態を整えた。しかし日本の台湾出兵の動きを察知した米英政府から台湾は清国領とする抗議があり、これが日本政府をひるませた。日本政府はこれ以上の行動に出る前に清国政府に筋を通す必要があると判断し、大隈は帰京を命じられ、従道はそのまま長崎に留まって後命を待つよう命じられた。従道は政府の弱腰に激怒し、次のように述べた。進発をこれ以上遅らせることはできない、諸兵はすでに出陣の態勢にある。遅延はいかなる理由でも士気を大きく損なうことになる。それでも強いて止めようというのであれば、自分は天皇から与えられた全権委任の勅書を奉還し、賊徒となって生蕃の巣窟を攻撃して国家に累を及ぼすことのないよう処置する決意である[437]。大隈は従道の説得に当たったが、無駄であった。従道は諸艦に命令を出して炭水を運びこませた。そのため大隈は東京の正院に宛てて「士気強盛にしてその勢い制し難し」という電報を送った[437]。
4月27日に従道は駐厦門領事福島九成に清の閩浙総督李鶴年に宛てた書簡を届けさせた。その内容は、本官は天皇の大命を奉じ、親兵を率いて今まさに蕃地へと乗り込もうとしている。我が船艦は貴国治下の海域を通過することになる。もとより他意はない。航路を遮断しないでいただきたい。本官の目的は我が国民を暴殺した生蕃を懲戒し、二度とそのような事件を起こさせないようにすることにある。もし清国統治下の台湾府県内に潜入する生蕃があれば、逮捕し当方へ身柄引き渡しをお願いしたい、というものであった[437]。

従道は5月2日に4隻の軍艦に分乗した海陸諸兵千余人を台湾社寮港へ送り、5月17日に自身も台湾へ向かった[438]。台湾を自国領と見なす清国にとっては当然不快極まりない事態で、清政府は5月22日にも軍艦2隻を台湾社寮港へ送り、その艦長が従道と会見して日本軍の撤兵を要求したが、従道は両国の交渉ごとに関しては駐清公使柳原前光と談判すべしとだけ答えた[438]。日本軍は台湾の酷暑のため熱病に苦しめられたが、生蕃討滅作戦は順調に進み、戦勝を収めた[438]。
明治天皇は、台湾出兵の事後処理のため、8月1日に大久保利通を全権弁理大臣に任じ、清国に派遣した。交渉は難航したが、10月31日に日清間に条約が成立。その内容は、清国は日本の征蕃を義挙として認める。清国は日本人被害民に賠償金を支払う。清国は日本が台湾で修造した道路、建築した家屋の費用を報償する。両国間で交わした敵意ある公文書はことごとく破棄する。今後清国は台湾生蕃を取り締まり、航海の安全を確保する、等である[439]。日本の要求をほぼすべて清国に受け入れさせた形であり、台湾出兵は日本の完全勝利に終わった。しかも清国は琉球人のことを「日本人」と表現するのを許してしまったため、琉球が日本領であることを暗に認める形にもなってしまった。条約締結を受けて日本の部隊は12月20日に台湾から撤収した[439]。
明治天皇は12月9日に帰国した大久保利通と、台湾出兵で活躍した将官に謁を賜り、一同の尽力を称え、贈り物を下賜した。13日には宮内卿代理・宮内大輔万里小路博房を通じて、大久保に御手許金から1万円を下賜した。大久保は清国との交渉が成功したのは、自分ひとりの功績ではなく、皇上の明威と廟堂の謨猷(計略)に因るものであるとして拝辞したが、天皇が受け取るよう強く求めたため、ついに大久保も拝受した[439]。
立憲政体樹立の詔
明治8年(1875年)には毎月定められていた福羽美静、元田永孚の進講のほかに、新たに出仕を命じられた西村茂樹等の進講も受けるようになり、天皇の学ぶ学問に『輿地誌略』などの新たな学科が加わった[440]。
同年1月21日には権典侍柳原愛子が第二皇女を出産した。第一皇子と第一皇女の悲劇があったから天皇は皇女の無事の出産に安堵した。皇女には薫子の名が与えられ、住居が梅御殿であったことから梅宮と呼ばれた[441]。しかし梅宮薫子内親王は生後数か月で脳疾を患い、侍医たちの懸命な治療もむなしく、1年半足らずで薨去している[442]。

同年4月4日には東京隅田川沿いにある小梅村にある徳川昭武の水戸徳川邸に行幸し、明治維新の原動力となった水戸学の発展に尽くした徳川光圀や徳川斉昭の遺文や絵画を天覧した。昭武とその親族たちにも謁を賜り、中には斉昭生母補子の姿もあった。天皇は光圀と斉昭の尊皇の功績を称え、その志を継ぐようにとの勅語を昭武に下した[444]。水戸徳川邸の桜を天覧した際に天皇は「花ぐはしさくらもあれどこのやどの代代のこころをわれはとひけり」という、満開の桜以上に水戸徳川家の代々の尊皇の志に最も感銘を受けたという和歌を詠んだ[444]。墨田川では60隻もの船が漁獲を競う投網漁を天覧して楽しんだ[444]。さらに同日中に尾張徳川邸に行幸し、徳川慶勝らにも謁を賜った[444]。
木戸孝允は台湾出兵に反対して昨年以来下野していたが、その後大久保利通が政府を立て直すため木戸に復帰を働きかけており、明治8年3月の大阪会議で大久保が木戸の進言を受け入れて漸進的に立憲体制を作ることを承知したため、木戸は同じく下野中だった板垣退助と共に政府に復帰することになった[445]。大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文の四参議が政体取り調べとして立憲政体を目指す詔勅の起草にあたり、特に伊藤の信任厚き法務官僚井上毅が草案の調査・作成を主導した。天皇はその草案に基づき、4月14日に正院において『立憲政体樹立の詔』(『漸次立憲政体樹立の詔』とも[445])を交付した[446]。
その内容は以下のとおりである。「即位ノ初首トシテ群臣ヲ會シ五事ヲ以テ神明ニ誓ヒ國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ求ム幸ニ祖宗ノ霊ト群臣ノカトニ頼り以テ今日ノ小康ヲ得タリ顧ニ中興日浅ク内 治ノ事更ニ振作更張スヘキ者少シトセス朕今誓文ノ意ヲ擴充シ茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民 情ヲ通シ公益プ圓り漸次ニ國家立憲ノ政體ヲ立テ汝衆庶ト倶ニ其處ニ頼ント欲ス汝衆庶或ハ舊ニ泥ミ故ニ慣ルルコト莫ク又或ハ進ムニ軽ク爲スニ急ナルコト莫ク 其レ能ク朕カ旨ヲ髄シテ翼賛スル所アレ」[447](朕は即位の初めに群臣を集めて五箇条の誓文を神明に誓い、国是を定め万民保全の道を求めた。幸いに祖先の霊と群臣の力によって今日の小康を得た。かえりみるに、中興の日は浅く、内政の事業には振興したり引締めたりすべき点が少なくない。朕は今、五箇条の誓文の意を拡充し、ここに元老院を設けて立法の源泉を広め、大審院を置いて審判権を確立し、また地方官を召集して民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、そなたたち庶民とともにそれを願う。そなたたち庶民は古い物に拘泥するのに慣れることなく、また進むのに軽くなって、急になることもなく、よくよく朕の主旨に従って翼賛するところあるように。)

この詔勅により太政官の行政機構の改革が行われ、左右両院は廃止、太政官正院のみ行政組織として存続し、五箇条の御誓文の精神に則り、立法機関として元老院、司法機関として大審院が創設された[446]。さらに地方官(府知事と県令)を集めた地方官会議が開かれることになった[445]。
明治8年6月20日に天皇は全国の府知事と県令たちを召集し、木戸を議長とし、府知事、県令、権令62名を議員とする第一回地方官会議を開催している[449][450]。この地方官会議は政府と国民を近づけるため木戸が以前から提案していたものだった[445]。現代の全国知事会のような地方行政長官が一堂に会する会合は、明治2年4月に民部省が全国の地方官を招集したのが最初であり、これが初めての試みというわけではないが、木戸は西洋のように三権分立して両院制議会を創設する構想を持っており、大阪会議では地方官会議を下院に発展させる案を示しており、単なる地方官の会合以上の物に昇華させようと心血を注いでいた[451]。第一回地方官会議では、その当時の各府県は地方民会について選挙で選ばれた議員による公選民会が置かれているところ、府県下の大小区長や戸長が議員となる区戸長会が置かれているところ、地方民会が存在しないところなど地方によって様々だったが、現状の人民の開化の実情を鑑みて、区戸長会と公選民会はどちらが適切なのかといった議論が、民権派・漸進派・守旧派の地方官の間で白熱した他[451]、堤防法案をめぐり、初めての全国的な本格議論が行われ、他にも地方警察や道路附橋梁に関する議論などが行われた[450]。
立憲政体樹立の詔により、具体的にどの国の憲法をモデルにするかの議論も本格化し、特にイギリス流の自由主義的憲法を志向する急進主義者、ドイツ流の君主大権の強い憲法を志向する漸進主義者という分裂が生じ始め、後の明治14年の政変につながっていく[452]。
江華島事件と日朝修好条規

明治8年9月20日には江華島事件が発生。対馬海峡測量の任務を終えた日本の軍艦の雲揚が朝鮮半島西海岸を航行した際に飲料水が欠乏したため、江華島沖に投錨し、艦長自らが短艇に乗船して淡水を求めて上陸地点を捜索した。その短艦が江華島にある朝鮮軍の砲台の前を通過した時、朝鮮軍が砲撃を開始。雲揚は応戦したが、艦長が本鑑に戻ってひとまず戦闘を中止させた。翌未明に雲揚は攻撃を再開し、短時間の激戦の末に砲台を破壊し、その南の永宗島を占領した。この戦闘で日本側死者1人、朝鮮側死者35人が出、さらに朝鮮側16人が日本軍の捕虜となった。その後雲揚は9月28日に長崎に帰還したというのが事件の概要である[453]。
江華島での交戦の報告が政府に届いた9月29日は、たまたま天皇の正院臨御の定日だったため、天皇御前で閣議が行われた。閣議は朝鮮に在住する日本人居留民保護のため軍艦1隻を釜山に派遣することを決定した[454]。この江華島事件をめぐって日本の世論は沸騰し、朝鮮出兵を求める声が再び高まった。事態を深く憂慮した天皇は、4月以来病気を理由に家に引きこもっていた岩倉具視を召して次の勅諭を下した。「朝鮮国に事あり。其の詳細は未だ汁べからずと雖も、思ふに是れ国家の重事、朕甚だ憂念す、汝四月以来病を以て家居すと雖も、勉めて其の職に就き、以て輔翼する所あるべし」。天皇は岩倉を内閣顧問に任じ、事件解決に尽力するよう命じた[454]。
明治6年時には征韓論に反対した木戸孝允も、朝鮮側が攻撃を加えてきた今回は立場を変えている。木戸は「(自分が征韓論に反対したのは)彼(朝鮮)を征すべき罪未だ明かならざるを以てなり、今や朝鮮国明かに我に敵す。然れば徒らに内治をのみ顧みること能はざるなり。是に於て予の思想亦自ら一変せざるを得ず」と述べる。そして三条実美に宛てて書いた書簡の中で木戸は次のように指摘した。明治6年の政治的動乱と昨春の佐賀の乱はひとえに朝鮮と修好関係を樹立できなかったことから生じたものである。昨年琉球島民暴殺のことで台湾討伐があったが、今回の事件はさらに深刻なものである。日本の国旗が侮辱されただけではない、台湾と違って朝鮮には日本人居留民がいるからだ。事件を無視できないことは論を待たない。まず第一に朝鮮を統治しているはずの清国が朝鮮を懲罰する意思があるかどうかを確認しなければならない。確認した結果、清国に懲罰の意思がなく、事件の処理を日本に委ねるのであれば、我が国は朝鮮政府に事の真意を問いただし、妥当な処置を取らねばならない。もし朝鮮政府があくまで罪を認めないなら、我が国としても行動を起こさざるを得ない。朝廷がもし朝鮮との交渉の駆け引きを自分に一任するのなら、自分は非力ながら身命を賭して皇国の威光が損なわれることのないよう尽力するだろう[455]。
天皇はこの木戸の考えに共感を寄せ、この問題をめぐっては大臣たちの中でも木戸に多く諮問している[456]。
11月1日に右大臣岩倉具視と参議たちが三条邸に集まり閣議が行われた。そこで朝鮮使節を特派し、また情勢把握のため清国に特命全権公使を駐在させることが決まった。11月9日には朝鮮に特派する特命全権弁理大臣として陸軍中将・参議の黒田清隆が選ばれた。木戸は再三にわたり使節に立候補していたが、折り悪く脳出血を患ったため認められなかった[456]。ついで11月10日には森有礼が駐清公使に任じられた。森の使命は淡水を求めていたにすぎない日本人をなぜ朝鮮側が攻撃したのか清国政府を通じて事実確認することだった[456]。また同日に井上毅、伊藤博文、ボアソナードの三名から成る調査委員会が設置され、同委員会が善後処理のための訓条・内諭の起草にあたった[457]。
太政大臣三条実美から黒田に対して訓条が与えられ、日本国旗が受けた汚辱に相当な賠償を朝鮮政府に要求するよう命じた。同時にその中で日本政府は朝鮮政府との親交が全く途絶えたとは見なしていない、江華島事件は或いは現地の地方官の独断から出たもので朝鮮政府の与かり知らぬことかもしれない。肝心なのは誰が決定を下したかということである。もし朝鮮が日本と友好関係を結び、貿易を促進しようという日本の考えに応じるなら、使節はそれをもって雲揚艦攻撃の賠償とみなし、承諾する権限を有する。しかし、もし朝鮮政府が雲揚艦攻撃の責任を取らず、日本との旧交を再開する意思を見せないようならば、同様に使節は臨機応変に適切な措置を取る権限を有する、と通達している[456]。
内諭は「臨機ノ処分」について具体的に触れており、相当の防御をして一旦対馬に引き上げて、政府に状況を報告することであるとしている。また釜山や江華島付近の開港、朝鮮海航行、江華島事件の謝罪の3項目については、訓條・内諭ともに「完結スヘシ」条件となっているものの、これらが受け入れられない場合の対処について内諭は「別ニ処分アルヘシ」との「一書ヲ投シ」るよう指示しているのみである。また訓條での「賠償」が、内諭では「謝辞」に変えられた背景には征韓派士族に対する対策があったようである[458]。ともかく、訓条・内諭とも即時開戦や軽々な軍事力行使は否定されている。井上案とボアソナード案では朝鮮が日本の要求を受け入れない場合に京城に軍隊を駐留させ、江華山城を占領するという武力行使も否定されていなかったが、戦争回避・内治優先論の漸進主義者である伊藤博文が訓条・内諭をこの内容に変更させたと見られる[459]。
この訓条と内諭を携えて黒田は明治9年(1876年)1月6日に軍艦2隻、輸送船3隻、海兵3小隊の計800人を率いて朝鮮へ向けて出港した。また交渉決裂に備えて極秘に陸軍の増派を計画され、軍人や軍属の休暇が取り消され、陸軍卿山縣有朋が下関に赴き、朝鮮への軍事遠征の命令が下った場合に対応できるよう準備を整えている[456]。
黒田率いる日本の艦隊は江華島に上陸した後、16日に江華府練武堂まで示威行進し、そこで朝鮮政府から派遣されてきた代表者である朝鮮接見大官申櫶と会見に及んだ。交渉当初黒田は妥結に至る可能性がほとんどないと判断して、本国に増援を求めているが、日本政府は早まった軍事力示威は朝鮮国民を恐怖させ、平和的交渉の妨げになる恐れがあると判断して却下した[460]。
交渉の中で日本側は朝鮮と旧交を続けようとする日本の要請をなぜ撥ねつけてきたのか質したが、朝鮮側はなぜ日本の君主は清国皇帝にしか許されない「皇」の字を勝手に使っているのか質してきた。朝鮮が「皇」の字にこだわるのは、これを認めると朝鮮が日本の隷属的な地位に置かれると思っているからである。これに対して日本側は天皇は朝鮮に対して宗主権を主張する意図で「皇」を名乗っているのではないと否定したうえで、日本の船が江華島で砲撃を受けた理由を質した。朝鮮側は日本の海兵がヨーロッパ式の制服を着用していたためにフランスやアメリカの兵と間違えたのだとし、地方官は日本船籍であることを知らなかったという話を繰り返すのみで謝罪しようとしなかった。日本側は、なぜ朝鮮政府は船籍に掲げた日本国旗について地方官に通達していなかったのか、これは謝罪して然るべきではないかと追及したが、申櫶は自分は国王の一使臣に過ぎず、勝手に謝罪を行う権限はないと返答した[460]。
交渉は朝鮮側代表が数度にわたって朝鮮政府と協議を行うとして中断させたために長引いたが、2月27日に至って妥結し、日本側代表(黒田清隆、井上馨)と朝鮮側代表(申櫶、副使の尹滋承)の間で日朝修好条規が締結された。この条約により朝鮮は開国することになり、日本との貿易において関税自主権を放棄させられ、朝鮮国内にいる日本人の治外法権も認めることになった。幕末以来、列強諸国から不平等条約を結ばされていた日本が初めて外国に締結させた不平等条約となった。調印式の後、日本は朝鮮国王高宗に伝統的な絹織物のほかに、回転砲一門、六連短銃一挺、神珍装金の懐中時計一個、晴雨計一個、磁針一個を贈っているが、これらは(絹織物を除いて)、アメリカが江戸幕府に不平等条約を結ばせた際に幕府に贈った物と全く同じものだった。外国に不平等条約を結ばせる立場に昇格したという日本の満足感の表れだった[460]。
東奥巡幸
明治9年も小規模な変革が毎日のように起きる年となった。同年3月12日には日曜日が公的に休日と定められた。キリスト教への服従と捉えれかねないことから政府はこの処置を取るのにだいぶ躊躇していたが、西洋先進国と足並みをそろえることが是が非でも必要な時期であり、ここにきて政府も日曜日休日化に踏み切った。同様に土曜日の午後も休暇とし、いずれも4月から実施することになった[461]。
同年3月28日には廃刀令が出され、制服着用時の軍人、警察官等を除き一般国民が帯刀するのは禁止された。違反者は刀を没収された。この件は、旧来の伝統に従って士族の帯刀を認めるべきなのか、あるいは近代国家日本にあるまじき蛮習として廃止するべきなのかで明治初年以来延々と議論されてきたことだった。ついにその決着をつけられたのである。帯刀する者を目にするたびに神経質にならざるをえなかった在日欧米人にとってもこれは朗報であった[461]。

同年6月2日から天皇は、岩倉具視、木戸孝允など閣僚、官吏、侍従、侍医など総勢230余名を引き連れて六大巡幸の二番目となる東奥巡幸へ出発した[461]。皇后は千住まで天皇の馬車を見送った。午後3時に埼玉県草加に到着。天皇が行在所に入ると埼玉県令白根多助が奉迎し祝辞を述べた。翌朝に草加を出発した天皇は蒲生村あたりで行列を止め、田植えの様子に見入った。それは男は白だすき、女は赤だすき、全員菅笠をかぶり、田植歌の声が遠くから聞こえる光景だった。その光景に魅入られた天皇は、行列を長時間待たせて心行くまでその風景を楽しんでいた。天皇が田植えを見たのは恐らくこれが初めてだったと思われる[461]。
その日の午後に幸手に到着、埼玉県令を召して県内の状況について下問した。県令は地勢、地味、県民の生活状況、物産などについて奉答し、県民の不安が利根川、荒川、江戸川の氾濫にあることを上奏した。天皇は地租金納制度について県民に不満の声はないかを質し、県令は県民の多くはこれを喜んでいるが、できれば納期が数回に分割されることを望んでいる旨を奉答した[462]。
西国巡幸の時と同じく、天皇は訪問先各地で小学校を視察している。生徒たちの暗唱に耳を傾け、成績が良い生徒には贈り物(大抵は辞書か地図)を下賜した[462]。教室内の授業だけでなく、校庭での体操も観覧した[462]。
栃木県日光では日光東照宮を訪問している。幕末に朝敵となった徳川宗家と密接な関係にある東照宮を訪れることを明治天皇が躊躇した様子は特になく、建築や木像、内外の宝物などを長い時間かけて天覧した。特に東照宮が所蔵する和文縁起5巻と漢文縁起3巻には強い関心を示し、わざわざ行在所に取り寄せてじっくり目を通している[462]。また徳川家廟域内にある三仏堂は神仏混淆禁止で移転が命じられていたが、移転費用を捻出できなかった東照宮では、その一部を取り壊して規模を小さくして移転することを決めていたが、これを知った天皇は三仏堂が旧観を失うのを惜しみ、御手許金から移転資金を立て替えてやっている[462]。
6月16日には福島県郡山に到着。行在所の開成館で福島県参事山吉盛典らから開墾事情について説明を受けた後、開成社員や開墾事業の功労者たちが招かれて褒詞が伝えられた[463]。桑折では半田銀山を視察[464]。
地元物産品の視察も欠かさず、宮城県仙台では伊達家所蔵の品々を展示した展覧会を視察。『明治天皇紀』によれば、キリストの十字架を拝む支倉常長の油絵の肖像画、支倉がヨーロッパから持ち帰った羊皮紙に書かれたラテン語の書簡などがあったという。天覧された支倉の肖像画とは恐らく現在仙台市博物館に展示されている支倉の肖像画と同じものと思われる[465]。時たま天皇は気に入った物産品を買い取ることがあった。一戸では太布半纏という農民の粗布を買い上げている[465]。
7月7日には岩手県の盛岡八幡宮に行幸し、境内に設けられた天覧所から県産の400頭もの馬を引いた馬子が馬子唄を歌いながら行進する光景を天覧した[466]。ついで旧盛岡藩士の馬術、庶民の豊年踊りが天覧に供された。天皇の愛馬に「金華山」号という南部馬があったが、これは奥羽巡幸の際に岩手県水沢で購入したものと考えられている[466]。
7月16日には御召艦明治丸に乗艦し、春日、高雄などの供奉艦を従えて、青森港から北海道函館へ海路で移動[467]。最後の行幸地となった函館では、函館支庁での物産展示と地元小学校である松蔭、会所両小学校への視察のほか[467]、函館病院にも行幸し、そこで顕微鏡をのぞく経験をした[465]。7月17日には裁判所、桔梗野牧場、新道脇牧場、七重村勧業試験場の各種農作物などを視察[468]。また、榎本武揚一党の最後の砦だった五稜郭も訪問。天皇は塁壁に昇って開拓使の役人に当時の戦闘の様子を質した。同日天皇の行列拝観のために函館に来ていたアイヌ民族50余名に謁を賜り、酒を下賜した。アイヌたちは感謝して酒を飲みほした後、天皇のために舞踏を披露した[465]。翌18日に函館港から横浜港へ戻る帰路の航路についた[469]。この巡幸では北海道では函館しか行幸しなかったが、天皇は東京還幸後に、三条実美太政大臣、寺島宗則、山縣有朋、伊藤博文各参議に命じて北海道内陸部を巡視させている[470]。
巡幸中、天皇の訪問先各地で歓迎の群衆が道に列をなした。天皇の姿を拝観した民の多くは自分の気持ちを歌にして、あわよくばそれが天皇の目に留まるよう、侍臣に頼んで歌を献上したり、わざと侍臣の目に留まりそうなところに歌を置き捨てたりした[465]。東奥巡幸は西国巡幸に続き、大成功に終わった。ただ、この巡幸では天皇は馬車か鳳輦での移動が多く、随伴していた木戸孝允は天皇の運動不足を心配し、なるべく乗馬か徒歩を勧めていたが、天皇は聞き容れずほとんど馬車や鳳輦から降りなかったようである[469]。
不平士族の乱と西南戦争
急速な近代化は明治9年(1876年)後半になっても衰えることを知らなかった。9月4日には天皇の専用艦として軍艦迅鯨の進水式が横須賀造船所で開かれた[471]。翌5日には京都-神戸間を結ぶ鉄道が全通し[471]、天皇は大阪・神戸・京都での開業式に行幸し、全区間に乗車している[352]。9月7日には天皇は元老院に以下の勅語を与えて近代憲法制定に向けて始動させた。「朕爰(ここ)ニ建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ以テ国憲ヲ定メントス汝等ソレ宜シク之ガ草按ヲ起創シ以テ聞セヨ朕将(まさ)ニ撰バントス」(朕は建国の体に基づき広く海外各国の成法を研究調査し、それを参考にして我が国の憲法を定めたい。汝等は憲法草案を起草して報告せよ。朕が選ぶであろう)[471]。民間マスメディアも勃興し、それを後押しするため、9月9日から東京日日新聞と横浜毎日新聞の二紙を天覧するようになった。この二紙以外も天皇は郵便報知をはじめとする新聞各紙を天覧した[471]。こうした交通網の発展、政治の進展、情報の普及は、いずれも近代日本の来るべき姿を暗示していた[471]。
またこの頃から天皇は欧米元首とより緊密な交際を始めるようになった。10月1日にはアメリカ合衆国独立100周年を記念するフィラデルフィア万国博覧会を祝して米国大統領ユリシーズ・グラントに親書を贈った。その2日後にはロシア皇帝アレクサンドル2世から贈呈されたサンクト・ペテルブルクの冬宮殿の写真と設計図を天覧。これはかねてから天皇が新皇居造営の参考にするために望んでいたもので、それを耳にしたロシア皇帝が天皇に贈呈したものだった[471]。
しかし全ての者がこうした世の趨勢を喜んでいるわけではなかった。士族の間では今も攘夷思想を持つ者は少なくなく、日本を近代国家にするために政府が取った数々の措置に憤慨を覚えていた[471]。士族の不満の背景として、彼らが江戸時代に有していた身分的特権が明治一桁のうちに(つまり10年もたたずして)ほぼすべて廃されたことがあった。たとえば、武士に不敬を働いた下位身分の者は斬り捨ててよい殺人権(切捨御免)は明治4年に禁止され、明治3年の平民苗字許容令や明治8年の平民苗字必称義務令によって苗字も士族の特権でなくなった。明治4年の断髪令による髪型自由化で髷の形というビジュアル面での士族の特権性も喪失。国民皆兵となると士族の軍事的優越性もなくなり、禄制改革から秩禄処分に至る家禄廃止で士族の多くが経済的苦境にも陥った。明治9年時にも未だ残された士族の特権といえば刀を指して町中を歩けるぐらいだったが、前述の通りこの年の廃刀令により制服着用時の軍人・警察官を除いた一般国民の帯刀は禁止された。これをもって平民と比しての士族の特権は(戸籍の族称欄に士族と表記される以外)何もなくなった。そのため士族の最後の特権を廃するものとなった廃刀令は士族の激しい反発を誘発した[471]。
征韓論論争で征韓派の政府高官が多く下野した後、彼らを担いだ不平士族の反乱が西国各地で多発する。最初に起きたのは明治7年の佐賀の乱だが、特に多かったのは廃刀令があった明治9年である。熊本県の神風連の乱、福岡県の秋月の乱、山口県の萩の乱などが相次いで発生。いずれも鎮圧されたが、明治10年(1877年)2月には鹿児島県で西郷隆盛を担いだ最大規模となる不平士族の反乱の西南戦争が勃発する[472]。
その直前の明治10年1月24日に明治天皇は皇后や皇太后を伴って京都府・奈良県への行幸に出発した。孝明天皇十年式年祭が行われる後月輪東山陵の親拝のためで[473][474]、他にも神武天皇の畝傍山東北陵はじめ、京都奈良に点在する歴代天皇御陵などへの親拝が予定されていた[474]。同日朝、天皇一行は汽車で横浜まで向かった後、横浜港から高雄丸に乗船して海路で27日に三重県鳥羽港に到着、28日に神戸駅から京都駅まで汽車で移動し、京都市民の歓待を受けながら、久しぶりに京都御所へ入った。29日から小御所で皇族や京都在住華族などに謁を賜り[475]、翌30日に後月輪東山陵において孝明天皇十年祭を斎行した[476]。
一方29日に鹿児島県草牟田村では西郷隆盛の私学校で学ぶ士族たちが陸軍火薬庫を襲撃して弾薬を略奪し、西南戦争の口火が切られていた[477]。陸軍火薬庫と海軍省所管造船所兵器局火薬庫への襲撃は1週間続いた。造船所次長の海軍少佐菅野覚兵衛は鹿児島県令大山綱良に警察の出動を要請したが、大山は無視した。大山が動かないのは襲撃者への共感と見た菅野少佐は2月3日に造船所を閉鎖。2日後に私学校生徒たちが造船所を占領し、そこで武器弾薬製造を開始した[477]。
この「私学校」というのは征韓論論争で下野して鹿児島に帰郷した西郷隆盛が鹿児島市内城山の麓にある旧薩摩藩厩跡に作った士族の私学校で、まず市内に分校が広がり、市外の士族は当初この私学校への参加を渋ったものの、周りの空気に押されて「士族の結束」を示さざるを得なくなり、鹿児島県中に分校ができるようになっていた。県令の大山からも密かに支持を得ており、大山は私学校生徒を県官、各地区長に任命していた[477]。鹿児島士族の間では征韓論が退けられたことへの不満が特に強く、政府への不満が高まっていた[477]。
反乱がおきる直前の明治9年12月に政府は鹿児島の西郷の私学校による破壊活動の実態を探るため、内務省警視局少警部中原尚雄率いる調査団を鹿児島に送ったが、中原らは鹿児島に到着するや私学校生徒たちにより政府の密偵として捕らえられ、拷問のすえに西郷隆盛暗殺を企んだとする供述書に署名を強要された(後に中原は供述の内容を否定した)。そのため鹿児島士族の間では東京政府が西郷隆盛の暗殺を企んでいるという噂が広がり「西郷を守るためには反乱を起こすしかない」という蜂起の口実にされる[478]。
鹿児島の緊迫した情勢の報告が次々と京都に入ってきた明治10年2月6日、京都にいた政府高官の三条実美、木戸孝允、伊藤博文らは協議の末、内務少輔林友幸と海軍大輔川村純義の鹿児島派遣を決めた[479]。天皇は事の大事に鑑み、2月21日の出航に間に合うよう船を神戸港に戻す条件で林と川村に高雄丸に乗船しての鹿児島行きを勅許した[479]。
東京にいた大久保利通のもとにも林と川村から電報が送られた。大久保は今回の暴発は西郷の意思ではなく、桐野利秋や篠原国幹の計略であろうと考えていた。大久保はしばらくは東京から動かず、京都にいる伊藤と連絡を取り合っていたが、やがて自身も京都へ向かうことを決意した[473]。
林たちを乗せた高雄丸は2月7日に神戸港を発ち、2日後に鹿児島に到着。ほどなく県令の大山が来船し、私学校の動揺は大警視川路利良が刺客を放って西郷暗殺を企んだことが原因であり、県下の人心は沸騰し、もはや制し難いと主張した。これに対して林は刺客が鹿児島に放たれたという事実は信じがたい、西郷と力を合わせて士族鎮撫に尽力すべきだと大山を説諭した[479]。大山下船後、十数人の武装した男を乗せた短艇7隻から8隻が高雄丸に近寄り、乗船しようとしてきたため、高雄丸艦長の海軍中佐伊東祐亨は錨索を切って船を桜島西岸に転航させた。後に大山が再び来船し、西郷の従妹の姪にあたる川村と会いたがっているという西郷の伝言を伝えたが、林は士族の動揺が鎮まるまで川村を上陸させるわけにはいかないこと、また官船への攻撃は不敬であることを大山に詰め寄ったうえで、事すでにここに至っては帰京して復奏する旨を告げた[479]。高尾丸は2月12日夜半に神戸に帰還。京都ではすでに高雄丸襲撃の報が入っており、政府は鹿児島出兵の準備について協議を開始した[479]。
天皇はその間の2月7日に宇治川にかかる観月橋で行列を止めて船数十隻による網漁を展覧。翌8日には平等院に臨幸した後、奈良県に入り東大寺東南院の行在所に入った。2月9日には春日神社を親拝し、同社古伝の神楽に聞き入った。同日午後には東大寺大仏殿内で開催された奈良展覧会を訪問し東大寺や法隆寺の宝物を天覧し、庭で今春広成の能「石橋」を天覧した[480]。その後、普段勅封されて入ることができない正倉院を勅命によって開封し御物を天覧。天皇は御物の中でも「蘭奢待」に関心を持った。かつて足利義政と織田信長は貴重な蘭奢待の一片を切り取って自己の権勢の証とした。奈良の行在所に戻った後、天皇も蘭奢待の一片を所望したため、博物局長町田久成が長さ2寸を切り取って天皇に献上した。天皇はそれを2片に切り、1片をその場で焚き、もう1片を東京へ持ち帰った[480]。

『日本書紀』に記される神武天皇即位日を太陽暦に換算した2月11日は、明治6年に「紀元節」(現・建国記念の日)として国民の祝日になっていたが、この日に合わせて畝傍山東北陵を親拝[476]。この御陵は文久3年(1863年)に父孝明天皇により神武天皇陵と定められ、修復が行われていたが、親拝に際しての明治天皇の御告文が指摘している通り、その後顧みられることが減っていた。この御陵の存在を改めて注目させるための親拝であった[482]。同日夜に地元の人々は畝傍山の山腹に提灯で「幸」の字を描き、天皇の行幸を祝っている[476]。一方天皇は同日午後に吉野郡国栖村に行幸し、国栖舞を天覧。ついで三輪村で三輪素麺の製造を天覧している[482]。
天皇は内戦勃発を前にしながら物見遊山の旅をして遊んでいたわけではない。天皇の巡幸は、これまでの巡幸がそうであったように天皇と民衆を結びつける重要な意味があったから簡単に中止というわけにはいかなかった。随行していた木戸孝允も2月10日の日記の中で次のように書いている。「余は元より此揺動に付 還幸の御積り俄然御変換は必不可然且 還幸前暴動有之時は、御駐輦にて可然暴動に不到とも実際の形勢征伐と御決定に至り候ときは御駐輦可然」(前々から考えていたことだが、鹿児島の異変を理由に還幸の予定を急に変更するのはよくない。ただ還幸前に暴動が起きた時は天皇は京都に留まられるべきである。或いは暴動に至らなくても事実上征伐と決定された場合にはやはりこの地に留まられるべきである)[483]。
一方西郷隆盛は2月12日に西郷暗殺の噂などを口実に「今般政府へ尋問の筋これあり」(『大西郷全集』)として上京するため挙兵する決意を固めた[473]。2月14日に歩兵7大隊、砲兵2隊、輜重兵等からなる総勢1万5000人の西郷軍は九州南部の政府軍中枢である熊本城(熊本鎮台)を狙って熊本進軍を開始した[484]。西郷が戦闘行為に入るのを望んでいなかったことはあらゆる資料の一致して語るところである。しかし激昂する鹿児島士族はもはや西郷にすら抑えが効かなくなっていた[485]。
2月17日、京都に到着した大久保が天皇に拝謁。政府首脳が京都に終結した形となり、京都御所に仮太政官が設置された。2月18日には暴徒が熊本県水俣に乱入したとの報告が京都に入った[473]。しかし西郷軍が熊本県の県境を越えてもなお天皇は京都で予定通りの日程をこなしていた。2月18日には天皇は木戸孝允、宮内卿徳大寺実則、侍従長東久世通禧らを伴って京都嵐山の天竜寺村の漢詩人山中献の山荘対嵐山坊を訪問し、午後には大堰川で鯉の捕魚を天覧。さらに梅津製紙工場を視察している[486]。
2月18日に政府高官の廟議の結果、太政大臣三条実実が鹿児島私学校生徒たちの反乱の意図はもはや明白との結論を出し、翌19日にも天皇にその旨を奏上。天皇は暴徒征討の勅命を出し、有栖川宮熾仁親王を征討総督、陸軍卿山縣有朋、海軍大輔川村純義を征討参謀に任じた[486]。熾仁親王は2月20日に京都を発ち、征討軍は東京鎮台、名古屋鎮台、大阪鎮台から物的人的補給を受けた[487]。
一方2月19日に鹿児島県令大山綱良は熊本鎮台司令長官谷干城陸軍少将に使者を送り、上京の趣旨を記した西郷の紹介状、大山の届書、中原尚雄に署名させた西郷暗殺供述書を渡したが、谷は受け取りを拒否し、もし西郷軍が熊本鎮台城下を強いて通過しようとするのならば、守備兵は抵抗せざるを得ないと告げた。そして2月21日に西郷軍が熊本城下に攻め入ろうとして、熊本城から砲撃を受けたことで戦闘が開始された。谷は開戦を告げる電報を大阪総督本営に送った[488]。

西郷軍は翌22日から熊本城に猛攻を加えたが、ついに熊本城を抜けなかった[488]。しかし西郷軍は熊本県の不平士族も合流してますます強大化したため、その後熊本城攻防戦は実に54日間にもわたって続き、4月14日まで西郷軍の包囲が解かれなかった[490]。4月12日に西郷軍の熊本城の包囲網が崩れ、西郷軍は敗走を始めたが、その後も5か月にわたって戦闘が続いた[491]。
その激戦の間天皇は西郷との直接対決を避けようとして引きこもりがちになった[487]。天皇は長く側近として天皇に仕えた西郷を深く憐れんでいた[490]。征韓論論争の際には西郷の下野のために近衛兵の多くから離反されて著しい天皇の権威低下を招くといった辛酸を嘗めさせられはしたが、それでもなお天皇は西郷には信頼を寄せていた[487]。その様子を見た木戸は功臣を思う天皇の憐憫の情に深く感銘を受け、感涙したという[490]。
しかし西郷との直接対決を回避しようとするあまり、御学問所にもあまり姿を見せなくなったため、三条、岩倉、徳大寺、東久世らは折に触れて天皇に諫奏したが、徒労に終わることが多かったという(『明治天皇紀』)[487]。乗馬好きだった天皇が御所内の馬場に出ることも減った[492]。木戸も天皇が「日々深宮を出でたまわず」という状態になったことを憂慮するようになり、病に侵される木戸は最後の力を振り絞って天皇に外出の諫奏を繰り返した[492]。

2月25日には天皇は木戸の進言を受け入れ、木戸、徳大寺、東久世らを従えて京都市内を騎乗で闊歩した。また3月31日には大阪鎮台の病院に入院している西南戦争で負傷した兵たちを見舞っている[492][493]。しかしこれによって天皇の無気力が回復したわけではなかった。天皇は学問もおろそかになり、5月には侍講の元田永孚に東京へ戻るよう命じた。元田も天皇の無気力を懸念し、京都を去るにあたって君主の振る舞いについての10か条を書いて天皇に上奏し、その中で君徳について「徳有レバ人君ト為ル可ク徳無ケレバ人君ト為ル可カラズ」と書いて諫めている[494]。
5月16日、長い闘病生活を送りながら最期まで天皇に仕え続けた木戸孝允が死去した。天皇の衝撃は大きかったが、なお天皇を無気力から回復させるには到らなかった[494]。木戸の死去で君徳培養の後退が懸念され、7月に三条は元田永孚と福羽美静を京都に呼び寄せ、二人に輔導の任を与えたい旨を天皇に奏請した。天皇は三条の奏請を受け入れ、今後は勉学に励むとの勅語を述べたが、諸般の事情で開講に至らなかった[494]。
一方政府軍は6月1日に熊本県人吉を西郷軍から奪還、その後も宮崎県都城、同延岡と順調に奪還を進めていった[495]。
西南戦争のために天皇の東京還幸は何度か延期されていたが、7月28日に天皇は京都を発って東京への帰路に就いた。天皇が京都にとどまっていたのは熊本・鹿児島で戦う政府軍の士気を落とさないためだった。戦闘の大勢が決した今、いつまでも政府機能が東京と京都に分断されているのは好ましくなかったためである[494]。
西郷隆盛は9月には鹿児島まで撤退したが、鹿児島でも政府軍に敗北。西郷の最後の拠点となったのは鹿児島市内の城山だった。9月24日、西郷の傘下には40人だけが残り、西郷は負傷していた。西郷は皇居の方角を遥拝しながら側近別府晋介の介錯で自害。ここに日本の最後の内戦は終結した[496]。
公的には西郷は賊将としての罪を明治後期の赦免まで許されなかったが、天皇は当時からずっと西郷に同情の念を持っており、西郷の死の翌日に皇后に「西郷隆盛」という勅題を与え、皇后は「薩摩潟 しづみし波の 淺からぬ はじめの違ひ 末のあはれさ」という歌を詠んだ[497]。
明治10年の残る日々は少なくとも明治天皇に関する限り、ほとんど西南戦争の残務処理に追われた。凱旋した将校、下士官、兵卒らが民から歓呼の声で迎えられて続々と帰還する中、天皇は軍功を挙げた将兵に勲章を与え、謁を賜った。天皇の謁見を受けた者の中には戦闘で腕や指を切断した者、眼を失った者もあり、天皇は彼らに負傷した場所や日時を尋ね「疼痛既に去れりや」と述べて自らの手で彼らの傷痕に触れた。負傷者はただ低頭して感泣した。その光景を見た山縣以下の将校らが全員起立して敬意を表し、皆で落涙した[498]。
脚気を患う
明治天皇は明治9年から脚気を患うようになった。天皇は医者嫌いで、なかなか侍医に病状を明かそうとしなかったので、侍医が気付いた時にはだいぶ病状が進んでいたという[499]。侍医たちは天皇に伝統的な転地療養を勧めたが、天皇は受け入れなかった[499][500]。
天皇の医師嫌いを心配した岩倉具視も空気のいい高操の地に離宮を造営して転地療養されてはどうかと天皇に勧めたが、天皇は次のように勅答している。「転地療養可なるべし。然れども脚気病は全国人民の疾患にして、朕一人の病にあらず。土地を移すの事、朕之を能くすべし、然れども全国の民悉く(ことごとく)地を転ずべからず。故に全国民のため別に予防を講ぜんことを欲す。且(かつ)東奥巡幸の際、彼の地の鎮台兵を視るに、皆高操の地に屯営すれども、脚疾に悩む者数十人ありたり。思ふに、土地を択ぶとも必ず是の患を免るべきにあらず。該病は西洋各国には存せずして只本邦にのみ存すと聞く。果して然らば其の原因誠に米食にあるべし。朕聞く。漢医遠田澄庵なる者あり。其の療法米食を絶ちて、小豆、麦等を食せしむと。是れ必ず一理あるべし。漢医の固陋(ころう)として妄りに(みだりに)、斥くべきにあらず。洋医・漢医各々取る所あり。和法亦(また)棄つべからず」(転地療養もいいだろう。しかし脚気は日本全国の誰もが患う可能性のある病であり、朕一人の病ではない。朕は転地もできようが、全国の民全てが転地できるわけではあるまい。だから全国民のため予防の方法は別に講じるべきである。東奥巡幸の際にそこの鎮台兵を視察して気づいたことだが、高操の地に駐屯しているにも関わらず、脚気に悩む兵が数十人はいた。思うに土地を選んだからといって、脚気を避けられるとは限らないのではないか。この病気は西洋諸国には存在せず、日本にだけあると聞いた。そうだとすれば、その原因は米食にあるのではないか。漢医に遠田澄庵という者があり、その療法は米食を絶って小豆、麦などを与えることにあると聞く。必ず一理あることに違いない。漢医の狭量と決めつけるべきではない。洋医であれ漢医であれ、それぞれ長短があろう。伝統的な日本の療法もまた棄てたものではない)[501]。岩倉はこの勅答に胸を打たれ「敬服して退く」と記録にある[499]。
叔母の和宮こと親子内親王も明治10年6月に脚気を患い、侍医たちから転地療養を勧められ、8月に箱根に移って湯治をするも病状は回復せず、9月2日に同地で31歳にして薨去した。このことが天皇の医者不信を更に招いたようだった。天皇は概して自ら納得しないと物事を受け入れない性格で、侍医たちの拝診を拒否するようになった。侍医たちはこれでは職務を全うできないと天皇に諫奏を繰り返したが、天皇が受け入れないので、侍補の佐佐木高行が二時間にもわたって諫奏して、ようやく天皇は朝夕の拝診を受け入れた[502][499]。
天皇は自分と同じく脚気に苦しむ国民のため、脚気の病理学的解明と治療法の発見を目的とした脚気病院の設立を命じる内勅を内務卿大久保利通に与えた。これを受けて大久保は、明治11年(1878年)3月15日に東京府に対して脚気病院と癲狂院(精神病院)設立の設立を命じた[503]。同年4月23日に天皇は東京府立脚気病院の設立費として御手許金から2万円を東京府に下賜し、癲狂院の方にも御手元金から3000円を下賜した[501][502]。
東京府立脚気病院は7月10日に神田神保町で開業したが、年末には向ヶ丘弥生町(現東京大学農学部)に移転した[504]。この種の病院はこれまでに無いものだった[501]。脚気病院には遠田澄庵などの漢医、佐々木東洋などの洋医双方が勤務し、『東京医事新誌』明治14年6月4日号「脚気病院報告」に掲載される入院患者の治療成績表を見ると、漢医も洋医もあまり差異はなかったようである。同病院は明治15年7月に東京大学農学部に建物が引き渡されるまで続いた[505]。上野公園で開業した癲狂院の方は後に巣鴨駕籠町を経て東京府巣鴨病院、さらに後に松沢村に移設されて都立松沢病院となった[506][507]。
内国勧業博覧会行幸

明治10年(1877年)8月21日から11月30日にかけて上野公園において第1回内国勧業博覧会が開催された。約8万4000点以上が出品され、45万人が来場する一大イベントとなった[509]。この博覧会は殖産興業政策を推進する大久保利通内務卿率いる内務省がウィーン万国博覧会とフィラデルフィア万国博覧会をモデルに準備したものである。大久保は岩倉使節団や万国博覧会の経験から博覧会が国内産業の推奨に非常に有効であることを認識しており、博覧会への天皇の行幸があれば勧業は一層盛んになると考え、行幸願いを宮内省に提出した[509]。
大久保の奏請を認めた天皇は、8月21日午前8時、皇后、宮内卿徳大寺実則、侍従長東久世通禧らを伴って内国勧業博覧会開場式に臨御した[510]。門前で陸海軍の軍楽隊の演奏と伶人の雅楽が奏でられた後、天皇は会場に入り、山階宮晃親王、伏見宮貞愛親王、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視、内務卿大久保利通以下の参議、勅奏任官、麝香間祗候、各国公使らの出迎えを受けた[510]。
天皇は次の勅語により開場を宣言した。「爰ニ内国勧業博覧会会場ノ日ニ方リ朕親ラ臨ミ開場ノ典ヲ行フ朕惟フニ会場ノ整備セル列品ノ良好ナルヤ以テ知識ノ日ニ開明ニ赴キ工芸ノ月ニ精巧ニ進ムヲ徴スヘシ而シテ有司勧奨ノ効モ亦小ナリトセス朕深ク之ヲ悦フ朕更ニ臨ム人民ノ益々奮励シ産業ノ益々繁盛シ我全国ヲシテ永ク殷富ノ幸福ヲ享ケシメンコトヲ」(ここに内国勧業博覧会の開場日を迎えるにあたり、朕自らが臨み、開場式を行う。朕が思うに会場に並べられた品々は良質であるので、これらによって知識は一層開明に向かい、工芸は一層精巧に進むであろう。加えて諸官の勧奨の効果もまた小さくはないだろう。朕は深くこれを喜ぶ。朕はさらに望む。人民が益々奮励し産業がますます繁盛し、我が国全国が長く富み栄える幸福を受けることを)[510]。
その後大久保利通が奏上して会場区画図と出品目録を奉呈し、東京府知事楠本正隆が祝辞を読み上げた[510]。式後に天皇は美術館を巡覧し、午前11時に還幸した[510]。ついで10月26日にも天皇は皇后や皇太后を伴って再び内国勧業博覧会に行幸。大久保内務卿の案内で午前中に東京府養魚池、動物館、西本館、機械館、園芸館、美術館などを巡覧した。午後には東本館、植物場、農業館を巡覧し、最後に開拓使建設の五角堂で少憩した後に還幸した[511]。
さらに11月30日の閉場式にも皇后と共に臨御し、閉場宣言の勅語を述べるとともに出品者の努力と大久保内務卿以下関係者の労をねぎらった[512]。開場式と閉場式には一般民衆は入場できなかったが、その時にも会場の周りには多数の民衆が集まっていたので、天皇の存在は強く意識された[509]。
第1回内国勧業博覧会を盛況のうちに終えて産業振興に対する効果を確信した大久保は、太政大臣三条実美に上申し、内国博を5年に一度の開催とさせて次回を明治14年に予定した[512]。第2回以降も天皇は内国博への行幸を続け、明治36年に大阪で第5回が開催されるまで計22回にも及んで内国博への行幸が行われた[513]。
大久保利通受難
京都から東京に戻った後の天皇は西南戦争中の無気力状態から徐々に回復しはじめていた。午前10時から毎日30分内閣に臨御するようになり、また当番侍補二人を相手に行う内廷夜話も復活した[498]。
天皇の乗馬熱も蘇った。明治11年(1878年)1月初頭の雨が降り続いた日々にも天皇は御苑内の馬場に出ることを欠かさず、馬場が雨で泥沼になっていても意に返さなかった。宮内省御厩課の馭者、馬丁は焦燥し、厳しい寒さで病む馬も多くなった。連日の乗馬で天皇が疲労して落馬することも懸念され、1月12日に至って当番侍補の土方久元と高崎正風は意を決して天皇に行き過ぎた乗馬について諫奏を行った。天皇は穏やかな顔でこれを聞き届け、「善くこそ申したれ、以来馬場の事は馭者の意見に一任すべし」と述べたという。土方らは天皇のお言葉を聞いて感泣して退下したという[514]。しかし落馬しそうになったのは明治天皇ではなく、土方の方だった。この翌日に土方は天皇に陪乗して馬場に出たが、松林を過ぎたところで土方の馬が奔逸し落馬しそうになり、それを見た天皇は馬を掛け寄せ「土方恙(つつが)なかりしか」と声をかけている[514]。この話が伝わると天皇の寛仁大度の人徳に感嘆しない者はなかったという[514]。
1月24日には農学校開校式に臨御し、「朕思フニ農ハ国ノ本ナリ」に始まる勅語を述べた[515]。
5月14日には国内外を震撼させた事件が発生した。同日夕刻、明治6年の征韓論論争以来事実上政権を掌握していた内務卿大久保利通が馬車で赤坂仮御所へ向かう途中の紀尾井坂において西郷隆盛の征韓論に共鳴する石川県不平士族らに襲撃されて暗殺されたのである。大久保は普段は護身用の拳銃を馬車の中に置いていたが、この日は清国公使館の晩餐会に招待されていた関係で馬車を掃除させており、その際に部下に拳銃を預けていたため丸腰だった。犯人らは人気のない紀尾井坂で馬車の馬の脚を切って馬車を止めると、馭者を斬り殺した後、大久保を馬車から引きずり出してめった刺しにして殺害した。犯人らはその後赤坂仮御所に自首した[516]。
この時天皇は赤坂仮御所で元田永孚から『論語』の進講を受けているところだった。書記官が駆けつけてきて元田に大久保遭難を報告。驚いた元田はすぐに進講を打ち切り、天皇に事の次第を奏上した。その時の天皇の様子について元田は手記の中で「皇上容ヲ動シテ驚嘆シ玉フ」と記している[517]。
天皇はただちに侍従を大久保邸に派遣し、事の成り行きを質し、戻った侍従は大久保がすでに死去していることを天皇に奏上した。天皇は大久保の死を深く悼み、宮内卿徳大寺実則を勅使として大久保邸に派遣。皇后と皇太后もそれぞれ皇后使、皇太后使を大久保邸に派遣した[518]。翌日天皇は大久保の偉勲を表彰して正二位右大臣を追贈するとともに祭祀料として金5000円を遺族に下賜した[516]。同日午後には在京中の地方官を召して「朕深ク股肱(ここう)ノ良臣ヲ失フヲ悼ム国家ノ不幸之レニ過ルナシ」という勅語を述べた[518]。
大久保暗殺の波紋は海外にも広がり、海外各紙が事件を報道し大久保の死を悼んだ[518]。東京在住の各国公使館は半旗を掲げ、横浜港の軍艦は21発の弔砲を撃った[518]。
犯人らは自首の際に提出した『斬姦書』という供述書の中で大久保殺害の動機について「凡そ政令法度、上天皇陛下の聖旨に出づるに非ず。下衆庶人民の公議に由るに非ず、独り要路官吏数人の臆断専決する所に在り」と記していた。そのためこの事件は天皇の成長と共に高まっていた天皇親政派の動きを刺激した。特に侍補の佐佐木高行は大久保の死により政治的空白が生じた今、天皇親政を開始する好機だと考え、他の侍補たちに天皇への直訴を働きかけ、5月16日にも侍補一同で拝謁を受けた。佐佐木は今日天皇親政は整っているかにみえるが、実際には政治は内閣に委任されており、そのことが凶徒を生み出したとして「万機御親政ノ御実行コソ肝要ナル」を説き、天皇にもっと能動的な君主となって天皇親政を開始することを求めた[519]。ついで吉井友実、土方久元、高崎正風が大久保の天皇輔導の熱意を引いて、大久保の遺志を継ぐべきことを涙ながらに言上すると、天皇も感極まって涙を流した。米田虎雄は天皇に馬術に向ける熱意を政治に向けるよう促した。この侍補一同の上奏は天皇の心をとらえたようだった。天皇は「一同が申出でたる事は至極尤もなり、是より屹度注意致すべし、猶気付きたる事あらば遠慮なく申出で呉れよ」と応じた[520]。
佐佐木高行ら侍補たちはこの天皇の勅語に勇気づけられ政治的行動をエスカレートさせた。佐佐木は5月18日に大臣、参議らに一層の天皇輔導を迫った。また天皇親政を実質化するためとして政府に対し3つの要求を行った。第一に天皇の日々の内閣への親臨、第二に親臨の際に侍補が陪侍すること、第三に侍補が行政上の機密を与かり聞くことである。これに対して太政大臣三条実美と大久保の後継として内務卿に就任していた伊藤博文から侍補らに返答があり、第一の要求は受け入れられたが、第二と第三は宮中と府中(政府)の区別が曖昧となるとして退けられた。佐佐木は伊藤との会談でこの回答への不満を示し、天皇を十分に補佐するためには侍補も一般政務に通じているべきであると主張したが、侍補の政治化が懸念されて認められなかった[520]。
だがこれ以降侍補の政治化は進み、政府の人事にも政策面にも侍補が口を出すようになり、政府高官と侍補の衝突が増えていく[521]。
北陸東海両道巡幸

明治11年(1878年)7月5日に天皇は嫡母英照皇太后の住居である青山御所(現・東宮御所)に行幸した。皇太后は能が好きで、天皇は嫡母のため青山御所に能舞台を仮設するよう指示しており、この日はその能舞台が竣工した舞台開きの日だった。皇后の行啓も予定されていたが、病を患ったため天皇と皇太后だけで演能を天覧し、他の皇族や政府高官にも拝観が許された。雨の中の演能となったが、能演は二回に分けて行われ、午後10時に終了[522]。当時能楽は能役者の主な雇い主だった大名家が廃藩置県で消滅したことで衰退していたが、この時の演能が皇室の保護を受けて能楽が再興するきっかけとなった[523]。この後も皇太后在世中にはしばしば能演が催され、天皇も付き合ったが、天皇自身は能にさほど関心はなく、明治30年(1897年)の皇太后崩御後には天皇が能を天覧することはほとんどなくなった[522]。
明治11年8月30日からは六大巡幸の三番目となる北陸東海両道巡幸へ出発した。この巡幸はもともと明治10年中に予定されていたが、西南戦争勃発のために翌年に延期されたものだった[524]。
皇后と皇太后は板橋まで見送った。埼玉県浦和に入った天皇は埼玉県令を召したが、その際に同県中津川村の貧困かつ未開ぶりについて報告を受けた。人口129名の同村民は文明と隔絶された生活を送っており、文字の存在を知らず、身にまとう綿布も知らず、この世に学校、薬局、酒店、魚屋などというものが存在することさえ知らなかった。「輦轂の下(れんこくのもと。天皇の御膝元という意味)を距てる(へだてる)こと僅かに数十里にして、斯くの如き陋愚(ろうぐ)の民あるは実に聖代の汚点にして痛恨に堪へざるなり」(『明治天皇紀』)であり、驚いた天皇はただちに村に通じる道を修復させ、村民を漸次開明に導く手立てを講じさせた[525]。
天皇は埼玉県庁各課を回って職員たちの勤務ぶりを視察した後、裁判所や県立学校を視察[525]。勧業博物館にも行幸して埼玉県の産物を天覧。天皇が特に関心を示したのは狭山産の茶と高麗郡産の生糸だった[526]。その後群馬県前橋、同高崎、同松井田を経て碓氷峠へ向かった。東京を出発してから連日雨で道路がぬかるんでいたため、山路などでは天皇も鳳輦から降りて歩かねばならないこともあったが、天皇は健脚であり、供奉の者たちは天皇を追いかけるだけでやっとだったという。碓氷峠を越えた日は快晴で天皇は峠の頂上からの素晴らしい景色を存分に楽しんだ[526]。
峠を越え長野県に入り、軽井沢、追分、小諸を通ったが、天気が悪く浅間山は見えなかった。長野では善光寺住職に謁を賜り、善行寺にも行幸した。天皇が仏教僧に謁を賜ったり、寺を訪問するのは珍しい事だった[526]。
新潟県高田では名産の翁飴と水飴等を買いあげて長野産の菓子と共にお土産として皇后、皇太后に送った。これは貢物として献上されたものではなく、天皇自らが購入したものである。これについてドナルド・キーンは西洋の君主だったら考えられないことと評している[526]。
高田から柿崎への移動は日本海に面した道を通り、天皇は日本海の雄大な眺めを堪能した。しかし悪路だったため天皇が乗っていた馬車もかなり揺れた。また日差しが強く馬車内が暑かった[526]。陪乗していた侍補の佐佐木高行は耐えかねて途中で馬車から降りて歩いているが、天皇は忍耐強く馬車の揺れと暑さに耐えた。しかし柿崎に到着した際にはさすがの天皇も参って医者嫌いを押して侍医を召して拝診させている[526]。
出雲崎では天皇は漁船数百隻が夕暮れの海で火を点じて漁をする幻想的な光景に見入った[527]。出雲崎の行在所は狭く、しかも蚊が多かったため侍従たちは天皇に例刻より早めに蚊帳に入るよう勧めたが、天皇は「巡幸は専ら下民の疾苦を視るにあり、親ら艱苦を嘗めずして争でか下情に通ずるを得べき、毫も厭う所なし」(巡幸の目的は庶民の悩み・苦しみを視察することにある。朕自らがその辛さを味わうことなしに、どうして庶民の気持ちを知ることなど出来ようか。これしきのことは何でもない)と述べて断ったという[527]。
9月16日に新潟に到着し、翌17日に新潟県庁や医学所、師範学校、裁判所、勧業博覧場などを視察した[528]。新潟では天皇はトラコーマ病患者の多さに驚いた。二年前の東奥巡幸でもこの病を患う者を少なからず見ていた天皇は、侍医に原因の究明と治療、予防の方法を講じるよう命じた。2日後に天皇は侍医から報告を受け、主因として土地の気候風土、吐煙設備の不良のため屋内が不潔であること、トラコーマの伝染性の高さが指摘された。天皇は眼病者の治療と予防研究費用として御手許金から1000円を新潟県に下賜した[527]。
その後行幸した長岡は戊辰戦争でほぼ灰燼と帰した町だったが、10年たったこの頃にはだいぶ復興が進んでおり、天皇もいたく喜んだ[529]。ついで『奥の細道』で「北国一の難所」として出てくる親不知子不知へ向かい、この難所を無事通り抜けた後、天皇は肩輿から降りてしばらくその絶景を楽しんだ[529]。
その後、石川県金沢に到着。ここは5月の大久保利通暗殺事件の犯人を出した土地であり、未だ過激派が潜んでいる可能性があり警戒されたが、幸い何事もなく、天皇はいつも通り地元の学校で生徒たちの授業を視察した後、金沢博物館を訪問して地元の物産を天覧した。また兼六園にも行幸した[529]。
さらに石川県小松、福井県福井、同敦賀、滋賀県大津を経て京都に到着した[529]。ついで東海地方へ向かう巡幸が始まり、京都から滋賀県草津、岐阜県大垣、同岐阜を経て愛知県名古屋へ入った。東京へ還幸したのは11月9日のことであり、北陸東海二道の一府十県をめぐる旅となった[530]。
いずれの地でも天皇は地元の学校を訪問し、土地の物産を天覧した[527]。また鳳輦や馬車での移動中も天皇は民の暮らしぶりをつぶさに視察するのを欠かさなかった[526]。西南戦争中に一時消えた天皇の強い義務感が今再びはっきりと蘇り、以降は崩御までその火が消えることはなかった[529]。
琉球藩から沖縄県へ
明治11年12月27日には内務卿伊藤博文の主導により、琉球藩を廃して沖縄県を設置する琉球処分が朝議により決定された。この決定の背景には次の事情があった。
琉球王国が琉球藩となった後、日本政府は琉球藩に対して再三にわたり清国との冊封関係をやめること(清国皇帝から冊封を受けないこと、隔年朝貢使の派遣を止めること、清国皇帝即位の際に慶賀使を送らないこと、清国の年号ではなく日本の明治の年号を使用することなど)を命じていたが、琉球藩はこれを無視し続け、明治10年(1877年)4月には藩王尚泰は幸地親方向徳宏を秘密裏に清国へ派遣し、日本に対抗するための助力を仰いだ。さらに琉球藩東京藩邸在番の池城親方安規が、日本に駐在する清国、アメリカ、フランス、オランダ各公使館に斡旋を依頼しはじめた。池城親方は日本政府に対して、しきりに「父皇母清」(天皇は琉球の父、清皇帝は琉球の母)を唱え、琉球と清国の冊封関係を認めるよう要求したが、日本政府は「一国が二帝に奉仕することは、一婦が両夫に相まみえるに等しい」としてその要求を拒否した[531]。
のらりくらりと駆け引きを続ける琉球藩の狙いが、外国の介入を促すための時間稼ぎにあることを悟った内務卿伊藤博文は、その前に琉球藩を廃して第二尚氏の統治体制を終わらせ、日本政府が県令を送って直接統治する沖縄県に変えることを決意したのである。伊藤は部下の内務大書記官松田道之に命じ、琉球藩処分案を作らせ、太政大臣三条実美と朝議の承認を得た[532]。
那覇へ派遣されていた松田が東京に戻った後、3月11日に明治天皇は琉球藩を廃して沖縄県となし、藩王の尚泰、王族の尚健、尚弼は東京に移住させるよう勅命を下した[533]。翌3月12日、勅命を携えた松田は警察官160人を伴って横浜港を発って再び那覇へ向かい、途中鹿児島で軍人600人を加えて25日に那覇に到着。松田は琉球藩に対して同藩を解体し、沖縄県を設置する旨の勅命を布告し、尚泰は藩王から解任するので首里城から退去するよう命じた。尚泰は病気を理由にして松田に合おうとしなかったが、首里城に居座ることはできず、3月29日夜には尚泰は首里城を退去して嫡男尚典の屋敷に移住した[533]。
4月5日に天皇は尚泰の慰問のために侍従の富小路敬直を内勅使として那覇に派遣し、できるだけ早く尚泰を東京へ連れてくるよう命じた。また尚泰の航海の安全のため官船の明治丸を回航させた[533]。富小路は4月13日に那覇に到着したが、尚泰はまたしても病気を理由に勅使に拝謁することを固辞し、嫡男尚典の代謁を願い出た。富小路はこれを却下し、自ら尚泰の屋敷に赴いたため、ついに尚泰も謁見を受けるしかなくなった。富小路から天皇の聖諭を伝えられると尚泰は拝謝したが、聖諭を遵奉するか否かを問われると尚泰は翌日奉答すると答えた[534]。
翌14日に松田は旧琉球藩重臣たちを召して奉答を督促したが、重臣らは尚泰の病気を理由に上京の延期を請願した。松田は尚泰の疾患は慢性のため完全な快癒は期待できない、また尚泰の航海は政府の特別な保護下で行われるので憂慮するには及ばないとしてこれを退けた。日本政府が尚泰の上京を急いでいたのは、上京を遅らせることによって尚泰は清国の介入を待っているのではないかという疑念があったからである。尚泰の上京が早ければ早いほど清国に介入される余地は少なくなると考えられた[534]。
その後重臣等は、旧藩士たちが動揺しているので王自ら旧封民を説諭し、諸般の事務引継ぎを滞りなく完了したいと称して、尚泰の上京の延期を求め、代わりに嫡子尚典の上京を願い出た。この請願は勅使の富小路により認められ、4月19日にも尚典は富小路とともに明治丸に乗船して那覇を出港。5月1日に横浜に到着し、3日に尚典と随行の旧藩臣5名は天皇の拝謁を受けた。5日に尚典は太政官に父の上京延期願いを提出するも却下された[535]。
結局、尚泰も5月27日に那覇を出港することに決まった。しかしその間の5月10日に清国総理衙門の恭親王が日本に抗議を開始した。恭親王は次のように主張する。琉球王国は代々清国の冊封を受け、貢物を捧げてきた国なので清国に宗主権があるが、清国は琉球王国を独立国と認め、政教も禁令もすべて王国の裁量にゆだねてきた。また清国および日本国と条約を結んでいる国で琉球王国と条約を結んでいる国が存在するのは、各国もまた琉球王国を独立国と認めているからに他ならない。したがって日本のやっていることは独立国に対する主権侵害にあたる、と。しかし清国が抗議をするのに弱い立場にあったのは先述の台湾出兵の際の日清の条約で琉球島民を「日本人」と認めて賠償金を支払っていることだった[536]。日本の外務卿寺島宗則は沖縄は歴史的に日本領であり、琉球藩廃藩は日本の内政上の処分なので、他国は介入すべきではないとして突っぱねた[536]。
一方、尚泰は予定通り5月27日に那覇を出港し、6月8日に横浜港に到着。6月17日に尚泰は嫡子尚典、次男尚寅ほか旧藩臣十余名を伴って参内し、明治天皇の拝謁を受けた。天皇は尚泰を従三位、尚典を従五位に叙している[537]。
ハインリヒ皇孫来日と勲章外交の本格化

明治12年(1879年)5月23日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世皇太子フリードリヒ(後のドイツ皇帝フリードリヒ3世)の第二皇子であるハインリヒが、コルベット艦「プリンツ・アーダルベルト」で横浜に寄港して来日[538]。国賓待遇で迎えられた[539]。
これに先立つ4月8日に天皇はドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に金婚式の祝賀として日本の最高勲章大勲位菊花大綬章および大勲位菊花章(以降両者合わせて菊花章と略)を贈呈しており、ヴィルヘルム1世はその返礼でプロイセン最高勲章黒鷲勲章を天皇に贈るため、それをハインリヒ皇孫に持たせていた[540]。

西洋の王室・皇室はお互いの国の勲章を贈りあう勲章外交を盛んに行っており、ハインリヒ皇孫の訪日は日本皇室が本格的に勲章外交に参入していくはじまりとなったが、天皇が外国勲章を受けるのはこれが初めてというわけではない。天皇は明治7年10月31日にザクセン・コーブルク・ゴータ公国から最高勲章エルンスト勲章を贈られており、それが天皇が受けた最初の外国勲章であるが、この時にはまだ日本に勲章制度がなかったため、日本側からすぐに返礼の勲章を贈ることができなかった。日本の勲章制度の創始となったのは、明治8年4月に創設された旭日章であり、まず宮内省お雇い外国人たちに授与され、その後、明治8年10月にはマリア・ルズ号事件の仲裁や千島樺太交換条約締結に携わったロシア人官吏たちに返礼としてそれぞれの格に応じた等級の物が贈られたが、その主君たるロシア皇帝アレクサンドル2世に臣下と同じ勲章を送るわけにはいかないということで、明治9年12月に日本の最高勲章の菊花章が制定され、明治10年4月27日にロシア皇帝に贈呈された(当時皇帝は外遊中だったため、翌11年1月19日に駐ロシア公使榎本武揚より皇帝に贈呈されている)[541]。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に贈呈された菊花章はロシア皇帝に続く授与であり、前年に駐ドイツ公使青木周蔵が外務卿寺島宗則に宛てて日本が最高勲章をドイツ皇帝に贈ればドイツ側もプロイセン最高勲章の黒鷲勲章を天皇に贈るのではないかという進言を行っており、その影響で授与が決定されたものである[540]。
5月26日にドイツ語に堪能な北白川宮能久親王と外務省御用掛蜂須賀茂韶がハインリヒ皇孫が乗る「プリンツ・アーダルベルト」に乗艦し、天皇の名において歓迎することを表明[542]。5月28日に艦を降りたハインリヒは汽車で新橋駅まで向かい、そこから延遼館へ案内された[543]。翌29日にハインリヒは参内し、小御所代にて天皇の引見を受け、祖父ヴィルヘルム1世から預かった黒鷲勲章を天皇に贈呈し、天皇は御礼に旭日大綬章をハインリヒに贈呈した[543][542]。
翌日に天皇は前日受けた黒鷲勲章を佩用してハインリヒが滞在する延遼館を行幸。6月4日に天皇とハインリヒは紅葉御茶屋でベルモットを飲みながら歓談した後、瀧見御茶屋へ移り、そこで宮中午餐会が催された。天皇はドイツ皇帝のため、ハインリヒは天皇のため、それぞれ乾杯の音頭を取った[543]。6月7日に2人は日比谷陸軍操練所での飾隊式に臨み、馬車から閲兵した[544]。6月10日にハインリヒが離日の告別の挨拶に小御所代に参内した際に天皇は菊花章を贈呈した[545]。この際にハインリヒの随伴者にもそれぞれの格に応じた旭日章が贈られている。これ以降、勲章を送り届けに来た王族・皇族のみならず、随行者にも勲章が与えられるのが慣例となった[546]。
その後シベリアを訪問したハインリヒは5か月後に再来日し、10月15日に天皇から赤坂離宮での会食に招待された。御車寄で右大臣岩倉具視、ついで八景間で有栖川宮熾仁親王と北白川宮能久親王の出迎えを受け、小御所代で天皇の引見を受けた後、天皇皇后、両親王とその御息所(夫人)とともに広間で会食した。11月3日の天長節にもハインリヒが参内し、天皇皇后は小御所代でハインリヒから誕生日の祝賀を受けた[547]。
この直後にイタリア王族ジェノヴァ公の再来日があった。天皇は明治5年の来日時と同じように接遇した。ジェノヴァ公引見の際に天皇はイタリア最高勲章聖アヌンツィアータ勲章を贈呈されたが、宮中顧問官の吉田要作によれば、この際に次のようなエピソードがあったという。イタリアの最高勲章にはイタリア王の従兄弟になるという規定があるため、奉呈の儀式として接吻の習慣があり、吉田が「キッスの礼」の詳細を尋ねると「キッスとはいっても、ただ形をするだけ」という説明だった。「ともかく前以て陛下にお伺いしておかなければというので、係りの者からお伺いすると、さしつかえ無いという仰せ、ホッと安心して、さてその奉呈の儀式になった。が、侍臣をはじめ接伴員一同も慣れない儀式なので、ひそかに気づかい申上げていたが、明治天皇の御態度はまことに立派にあらせられた」という。イタリア公使ラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニ伯爵(Conte. Raffaele Ulisse Barbolani)の記述によれば、ジェノヴァ公は勲章贈呈後天皇に抱擁する前に「もはや天皇とは兄弟同然の関係になったので抱擁してもよろしいか」と天皇に尋ねて許可をもらってから抱擁したという[548]。12月8日に天皇は返礼としてジェノヴァ公に菊花章を贈呈した[549]。ジェノヴァ公は明治13年(1880年)1月28日に離日の告別のため参内し、天皇の引見を受けて日本を離れたが、清国や朝鮮に滞在したのを経て同年12月に3度来日し、再び天皇皇后の引見を受けて茶菓子を食べながら歓談した[550]。
一方ドイツのハインリヒ皇孫の方は西日本をお忍び旅行中であり、明治13年2月7日に大坂の吹田付近で猟を行っていた際、村民と警察官が禁猟地であるとしてドイツ皇族と知らず制止して尋問しようとした。ハインリヒは禁猟地域で発砲していないと反論して騒動となり、大阪府知事に抗議するため府庁を訪れたが、知事はその時不在で担当者が普通の外国人と思って接して外交問題になった。この事件は天皇の耳にも入り、結局礼を失したとして村民は謝罪、警察官は罷免、警察幹部も処分を受け、大阪府知事も謝罪して事件は解決した[549]。4月2日にハインリヒ皇孫は帰国の途に就く告別の挨拶のため参内したが、天皇は事件について熱心に遺憾の意を表し、色々あったとしても日本に良い思い出を抱いて帰られるよう願われた[551]。
ハインリヒ皇孫の来日以降、日本皇室の勲章外交は本格化し、天皇はスペイン国王アルフォンソ12世(明治12年9月11日)、ベルギー国王レオポルト2世(明治13年5月7日)、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(同日)、イタリア国王ウンベルト1世(同日)、オランダ国王ウィレム3世(同日)などに菊花章を贈呈した。天皇は彼らに宛てた親書の中で、日本と相手国との交際が親密になってきたことを喜び、その友情の証として菊花章を贈るので、相手国君主に佩用してほしいことを希望している。勲章を相手国に贈るのは「敬意スル所ノ友情ノ徴」であった。日本の勲章外交の本格化に伴い、明治13年3月には勲章佩用法があらためられ、天皇は陸軍正服を着用するときには上部に菊花章・無綬章、下部には各国無綬章を佩用するが、勲章を捧呈する国の王族皇族や高官を引見する場合には、その国の大綬章・無綬章と菊花無綬章を正服につけ、略服の場合は大綬章を除いた他国の無綬章を佩用することもある旨を定めている[552]。
グラント将軍の来日

アメリカ前大統領ユリシーズ・グラント将軍は明治10年(1877年)から世界周遊の旅に出、ヨーロッパ諸国を歴訪した後、エジプト、インド、シンガポール、サイゴン、バンコク、香港、清国、そして日本を訪問した[553]。グラントは南北戦争の英雄だったが、その後の大統領在職中に汚職事件を起こして名声が地に落ちていた。しかし三期目の大統領選挙出馬を諦めていなかったので、アメリカ国民が汚職事件を忘れるまで、しばらくアメリカから離れようと世界周遊旅行を始めたのだった[554]。
グラントは、北京滞在中に清国総理衙門の恭親王から、日清間の琉球をめぐる紛争に決着をつけてほしいと依頼されていた。恭親王は「我が国に貢物を捧げ、常に友好的だった琉球王国を日本は抹殺しようとしてる」とグラントに訴えていた[553]。
その後の明治12年(1879年)6月21日にグラントは軍艦リッチモンドで長崎に寄港した。天皇の名代として接待役に任じられた伊達宗城と駐米特命全権公使の吉田清成がグラントを出迎えた[555]。グラントに同行した作家ジョン・ラッセル・ヤングによれば、吉田は米国でグラントと面識がある人物だったため、本国に呼び戻されて接待役に任じられたという[555]。
7月3日に横浜港に到着すると岩倉具視以下政府高官が出迎え、岩倉は、握手という日本人がいまだ慣れない挨拶をグラントと交わした[556]。翌7月4日にグラントは天皇の引見を受けた。当時天皇は26歳、グラントは57歳だった[557]。天皇も自ら前に進み出て手を伸ばし、グラントと握手をしているが、かなり堅い感じの握手だったらしく、ヤングはその挙動について「こわばっており、ぎこちなかった」と記している[558]。一方で「日本の歴代皇帝の歴史で、このようなこと(握手)は未だかつてなかったことだった」「ミカドは、これまで訪問を受けた王族の皇太子に対して常に礼儀にかなった対応をした。ミカドにとって英国、ロシア、ドイツの皇太子は、あくまで皇太子だった。しかしグラント将軍は友人として遇された」と記している[559]。
その日はアメリカ独立記念日だったことから、天皇は「今日ハ貴国独立ノ期日ニ当リ候ヨシ此日ニ於テ初面会ヲ遂ゲ右ノ歓ヲ申候ハ別テ目出度事二存候」という勅語を述べた(『明治天皇紀』)[559]。またヤングによれば天皇は「貴殿が日本について大臣たちに語った意見を色々と耳にした。貴殿はすでにこの国と国民を見た。朕はそのことで貴殿と話したい思いしきりである。もっと早く機会を持てなかったことは残念である」と述べ、グラントは「自分は天皇の為なら何でもする。陛下にお会いできて嬉しい。日本で受けたあらゆる親切に感謝する。日本人以外で自分ほど日本に関心を持っている者はいないし、また自分ほど日本国民に真摯な友情な持っている者はいないといっていいほどだ」と応じたという[559]。
ヤングは天皇の印象について次のように書き留めている。「皇帝は若く、すらりとした体つきで日本人の標準より背が高い。我々から見れば平均的な背の高さである。印象的な顔で、口と唇はどこかハプスブルク家の血統を思わせるものがある。額はふっくらと狭く、頭髪と薄い口髭、顎鬚はすべて漆黒である。髪の色はアメリカであれば浅黒いと言える顔貌を、さらに黒くしているように見える。顔の表情からは感情が一切消され、将軍に注がれている黒く輝く瞳がなければ、彫刻の立像かと見間違えるほどである。傍らの皇后は、高貴で地味な日本の衣装を身に着けていた。顔は実に白く、ほっそりした身体つきで、さながら子供のようである。髪はきれいに梳かれ、金色の矢で束ねられていた。皇帝、皇后ともに実に感じの良い顔で、特に皇帝の顔には確信と優しさが張っていた」[560]。
またヤングは同席していた三条実美と岩倉具視について「首相(三条実美)は、印象深い人物である。背は低く、やせて、まるで少女のような身体つきである。繊細で、彫の深い、愛嬌のある顔立ちで、二十歳の青年とも五十歳の大人ともとれる」「岩倉は、断固とした決断力を示す線の太い顔立ちで印象が強い。頬に刀傷があり、それは日本のもっとも偉大な政治家大久保が数か月前に暗殺されたように、岩倉暗殺を謀った暗殺者が斬りつけた跡である。」と書き留めている[560]。
二度目の引見は7月7日で、同日朝、天皇はグラントとともに陸軍飾隊式(後の観兵式)を天覧した。閲兵終了後には芝離宮に赴き、グラントを歓迎する午餐に出席した。天皇はグラント夫妻を迎えて握手した。グラントは有栖川宮熾仁親王御息所(夫人)をエスコートし、三条実美がグラント夫人をエスコートして食卓に着いた。遣欧使節団が国の公式行事に女性が列席しているのを見てカルチャーショックを受けた時代もまだそれほど昔ではなかった[561]。食事中には陸海軍の軍楽隊が交互に曲を演奏したが、このわずか二十年前に日本人は「胡楽(夷狄の音楽)」に仰天していたものだった[561]。
午餐後グラント夫妻は別殿に誘われ、天皇とコーヒーを飲みながら吉田清成の通訳で会談した。天皇はグラントの世界周遊旅行についていくつかの質問をしているが、それらの質問を見る限りこの頃には天皇は諸外国の知識をある程度身に着けていたことが伺える。これ以前の天皇は外国の知識に乏しいために外国の賓客と会話を交わすのが苦手だったが、すでに紋切り型の社交辞令以外の言葉も操れるようになっていた[561]。
グラント夫妻は7月17日に避暑のため日光に出発し、伊達宗城と吉田清成が同道した。その翌日、天皇は内務卿伊藤博文も日光に派遣した。日光でグラントは伊藤と会談し、清の恭親王から依頼されていた琉球問題について切り出し、清国の立場を伝えたが、伊藤は「日本の琉球主権は古来からのものである」と述べた。それに対してグラントは自分の関心はすべて日清両国を思う気持ちから出たもので他意はないと述べ、清国と日本では日本の方が軍事的に勝っているだろうという見解を述べた[562]。
7月末にグラントは東京へ戻り、天皇との再会談を希望した。会談は8月10日に浜離宮で行われた。天皇は三条実美や通訳の吉田清成を伴って会談に臨み、グラントは息子と書記を伴っていた。会談は二時間以上に及んだ[563]。この会見でグラントは日本の国政について様々な助言を行った。議会開設は急ぐべきではなく、慎重に国民を教育しながら漸進的に議会開設を目指すべきであることや[564]、また議会の権限について制限を付すべきであることを忠告した[558]。さらに外国からの借金は危険であるとして、新たな外債の募集は避けるべきであること、教科書にのみ依拠した教育法は避けるべきことなどを忠告した[558]。これらのグラントの助言がどの程度日本に影響を与えたか測るのは難しいが、少なくとも外債に関する忠告は影響を与えたようである。大蔵卿大隈重信が5000円の外債を発行することで政府の財政難を打開しようとしたとき、その提案が否決されたが、その理由の一つとして引用されたのがグラントの忠告だったからである[565]。
一方琉球問題についてグラントは、日本はもっと清国の意を汲んで懐柔的な態度を取らなければいけないと述べたが、天皇は「琉球問題については、伊藤に命じて貴殿に話すよう言っておいた。近日中にその機会があるだろう」と応じてかわした[564]。後にグラントは日本の岩倉具視と清国の恭親王双方に書簡を送り、日清両国の琉球をめぐる会談を促し、アメリカ大統領ラザフォード・ヘイズからも同じ要求があり、琉球をめぐる日清会談は明治13年(1880年)になってようやく開かれたが、結局清国の心変わりで琉球問題が日清両国間で再び交渉の議題に上がることはなかった[564]。

8月25日には東京遷都12周年を記念する東京府民の祭典が上野公園で開催され、天皇が臨御し、グラントも招待されて出席した。天皇が到着すると軍楽隊の演奏が奏でられ、槍術、剣術、流鏑馬などが天覧に供され、花火も打ち上げられた。グラントは天皇とともにお祭り気分を楽しんだ[566]。
8月30日に帰国の途に就くグラントは参内して明治天皇に別れの挨拶を告げた。この時ヤングは最初に天皇から受けた堅い印象とは別の印象を受け、次のように書いている。「皇帝は、いわゆる優雅な人物ではない。その物腰は不安に満ちた人物のようで、とても気楽にふるまっているとは言い難い。人の気に入るように、ひたすら間違いを冒さないように、願っているかのようだ。しかし最後の謁見で見た皇帝は、以前我々が見た時よりも、くつろいだ様子で、いかにも自然だった。」[567]。
甲州東山道巡幸

明治13年(1880年)6月16日に明治天皇は、六大巡幸の四番目となる甲州東山道巡幸(公式文書の多くは「山梨県三重県京都府御巡幸」となっている)に出発した[568]。貞愛親王(伏見宮邦家親王第14王子)、太政大臣三条実美、参議山田顕義、宮内卿徳大寺実則以下360人が供奉した[569][570]。後に参議の伊藤博文や寺島宗則も後発で東京を発って7月5日に津で天皇と合流している[569]。
『明治天皇紀』によればこの巡幸中、天皇は美しい景色を見つけると供奉する印刷局写真師に撮影を命じ、さらに命令がなくても写真師の判断で随時撮影するよう命じていたという[570]。
最初の宿泊地は八王子で、絹糸、絹生地など土地の物産を視察。また近隣の川から取られた蛍が献上され、二籠の蛍を皇太后、皇后に送った[570]。
6月19日には山梨県甲府に到着。翌20日には山梨県庁、静岡裁判所甲府支庁、勧業製糸場を視察し、翌21日には県営葡萄酒醸造所、師範学校を視察した[571]。
6月23日に長野県に入り、上諏訪町に到着し高島学校を行在所とし[572]、翌24日には下諏訪町高木で諏訪湖の投網漁を天覧した[573]。同日松本に到着、四柱神社を行在所とし、松本区裁判所、師範学校松本支校、開智学校などを視察した[574]。
6月30日に愛知県名古屋に到着し、ついで7月2日に三重県桑名に到着[575]。ここは幕末に朝敵となった桑名藩の城下だったところだが、行列は極めて熱狂的な観衆に迎えられた[576]。7月4日には津に到着し[575]、三重県庁を視察[577]、師範学校では化学の実験を天覧した[576]。
7月8日には伊勢神宮を親拝。明治2年(1869年)の最初の親拝の先例を踏襲し、豊受大神宮(外宮)、ついで皇大神宮(内宮)の順に親拝した。神宮祭主、宮司らは皇祖たる天照大神を祀る皇大神宮を先に親拝すべきだと異議を唱えていたが、天皇には穀物を司る豊受大神宮が万物の基本を為すという考えがあり、異議は聞き容れなかった[576]。
7月11日に亀山に到着。11日と12日には亀山付近で軍事演習を天覧した[578]。天皇は何よりも陸軍演習を好んだ[576]。
7月14日の大津から京都への移動には鉄道を利用した。これが可能となったのは逢坂山を抜ける日本最初のトンネルが完成していたからだった[576]。7月16日夕刻には父孝明天皇の後月輪東山陵を親拝し、その日の夕刻には東山に大文字の火が点じられて天覧した[579]。また伯母の淑子内親王が暮らす桂宮邸に行幸し、内親王に七宝焼菓子器一対を下賜した。淑子内親王が天皇のため用意した能楽5題と狂言4題を天覧し、他の京都在住皇族たちも陪覧している[579]。
7月20日に京都から神戸へ行き、7月21日に神戸から海路で横浜に向かう帰路に就き、7月23日に横浜港に到着。横浜駅から新橋駅まで汽車で移動し、赤坂仮皇居に還幸した[575]。
園遊会の創始と朝拝の儀の改革

明治12年(1879年)から外務卿に就任し、欧米諸国との条約改正に努力していた井上馨は、欧州では王室が外交の中心となっていることから、日本でも皇室外交を盛んにさせたいと考え、春と秋に2回園遊会を開いて諸外国の外交官を招待することを建言した[581]。
明治天皇は井上の建言を受け入れ、明治13年(1880年)11月18日に赤坂仮皇居の御苑において最初の親菊会(秋の園遊会)を催した。天皇は軍服姿で皇后と共に臨御し、招待された親王、政府高官、麝香間祗候、各国公使・書記官、彼らの家族ら総計170人を接見した。天皇はこの際にアメリカ、ロシア、イタリア、ドイツ各国の公使およびその妻と握手している。大広間から御苑へ移って菊の鑑賞を行い、午後3時に仮設の立食場で食事が供され、その後天皇皇后を先頭に円山の菊を鑑賞して天皇皇后は午後4時30分に宮廷へ戻った[582]。
観桜会(春の園遊会)が初めて開催されたのは明治14年(1881年)4月26日に皇居の吹上御苑においてである(明治19年から会場は浜離宮に移された)[582]。以降春と秋の園遊会は現代にいたるまで皇室行事として続けられている。
明治14年(1881年)元旦の新年朝拝の儀は、参列者の夫人の同伴が初めて許された。これに伴って各国公使は夫人を伴って天皇に拝謁するようになった。旧習が改められた理由について公式の説明はなかったが、恐らくヨーロッパ宮廷の慣習に倣ったものと思われる[583]。
しかし朝拝の儀に夫人の同伴が許されるのは歴史上初めてなので、夫人の礼遇については様々な議論を惹起した。まず妻が着用する衣装は和装の袿袴とされたが、各国公使夫人に限り袿袴がない場合には洋服着用が許された。また夫妻が玉座に進む際に妻はどこにいたらいいのかも問題となった。日本の伝統では妻は夫の後ろに従って歩くものだが、それは否定され、ヨーロッパに倣って右に夫、左に妻が並んで一緒に進むことになった。また日本の伝統では左が右より上位という思想があったが、それも採用されなかったことになる[583]。
天皇はこの変更には承諾を与えたが、他の件については拒絶した。たとえば外務卿井上馨は各国公使夫妻は賓客にあたるので、臣下に過ぎない日本人参列者たちより先に朝拝の礼が認められるべきと進言していたが、天皇は、次のように述べてこれを却下している。新年の拝賀は本来、年の初めにあたって君臣の礼を正すためのものである。したがって外国の賓客より、まず朕の臣僚を第一としなければならない。これは平時の交際とは自ずと別のことである[584]。
カラカウア王の来日

明治14年(1881年)2月23日に天皇は米国公使ジョン・ビンガムからハワイ国王カラカウアが世界一周旅行の途中に非公式に来日する予定であるとの知らせを受け取った。また駐サンフランシスコ日本領事からもハワイ国王が訪問予定との報告が日本政府に伝達されていた[585]。天皇は同王を国賓待遇で迎えることを決め、東伏見宮嘉彰親王を御用係に任命した[586]。これが初めての外国元首の訪日となった[587]。
カラカウア王は、英国ホワイト・スター・ライン社の客船オセアニック号に乗って、3月4日に横浜港に到着。下船した王は、出迎えに並ぶ日本の軍楽隊がハワイ国歌を弾いたり、宿泊先の離宮までの沿道の家々に日本とハワイの国旗が交差して飾られていたり、群衆もたくさんいて、中には王の乗った馬車に土下座する民もおり、その暖かな歓迎ぶりに驚いたという。帝国主義時代にあって軽んじられ続けた小国ハワイの王カラカウアは外国でかつてない持て成しを受けたことに感激して涙を流したという[588]。
王は、翌日に皇室のお召し列車で東京に向かい、赤坂仮御所を訪問した。天皇は、君主を迎えるヨーロッパ宮廷の外交儀礼に則って宮殿の玄関近くの部屋で王を出迎えた[589]。天皇と王は握手を交わし(ハワイ王一行は天皇が普通は握手しないことを知らされていたため、特別な名誉として受け取った)、挨拶を交わした後、並んで謁見の間に入った[588][589]。これについて、王の随行員の一人ウィリアム・ネヴィンズ・アームストロングは、「天皇は神の子孫であるため、何人たりとも横に並んで歩くことは許されなかった。皇后でさえ、天皇の後ろに随って歩いた。しかし天皇の治世、いや歴代天皇の治世において初めて、天皇は彼の賓客である王と肩を並べて歩いたのだ」と記している[588]。天皇は謁見の間の御座所で待っている皇后に王を紹介した。アームストロングによれば、王の挨拶に対して皇后はわずかに頭と目を動かしただけだったというが、王の日記によれば「余が入ると皇后は立ち上がった。余は恭しく会釈した」とある[589]。
外務卿井上馨の娘で英語が堪能な井上末子が通訳となり[588]、20分の会談の後、天皇と王は再び肩を並べて謁見の間を出、玄関に近い一室で握手して別れた。王は馬車で延遼館へと戻っていった。同日中に天皇は返礼として延遼館を訪問し、応接間で王と再び会談した[590]。3月8日に天皇と王は、日比谷陸軍操練所で観兵式に臨み、騎乗した。騎乗中も二人は並び立った[591]。
内密の話がしたいという王の要請により、3月11日に天皇と王の私的会談の席が設けられた。天皇が外務卿井上馨のみを通訳として残して他の臣下を下がらせた後、王は、次の話を切り出した。今アジア諸国は西洋列強の圧政に苦しめられている。今こそアジア諸国は西洋列強に対抗するために連盟を結ぶ必要があり、アジア諸国の中で最も進歩が著しい日本がその盟主となるべきである。アジア諸国が結ばされている不平等条約の撤廃のためには、まず日本が万国博覧会を開き、そこにアジア諸国・ヨーロッパ諸国の君主たちを一堂に招待し、天皇を盟主にアジア諸国君主が団結し、不平等条約の撤廃を西洋君主たちに迫るべきである。これに対して、天皇は、西洋列強とアジアの大勢の認識、および東洋諸国の連盟については同感であると答えながらも、その時機が到来しているのかについては疑問を呈し、特に「清国が如きは大国にして、かつ傲慢不遜の風がある。招待したとしても、まず来会することはないだろう」と述べた。これに対して王は「確かにアジア諸国の君主が全員顔をそろえて来会することは期待できない。しかし、シャム王、ペルシャ皇帝、インド国諸王等の来会は間違いない。これだけ揃えば連盟の発端を形成するには十分である。ただしこの種の企画が成功するには1回、2回の会合では不十分である。ヨーロッパ諸国の君主を貴国の博覧会に招待するのは、あくまで彼らの嫌疑を避けるためである。大事を語る相手はアジア諸国の君主に限ることは申すまでもない。もし陛下が幸いにも私の言葉を了承してくださるのなら、なにとぞ陛下の指輪を賜りたい」と述べた。これに対して天皇は少し考えた後に「貴説は傾聴した。しかし我が国の進歩は外見とは異なる。問題は山積みし、特に清国とは葛藤を生じることが多い。清国は常に我が国の侵略を企てていると考えている。清国との平和的関係を維持するのは非常に困難なことである。まして貴説を遂行することは、さらに難事に属する。内閣と相談し、返答したい」と返答した[592]。
明治天皇にとって明らかなのは仮にアジア諸国連盟なるものを作っても、清国が日本を盟主と認めるはずがないことであり、またインド諸国、シャム、ペルシャも言葉・習慣等に何の共通点もなく、西洋列強への憤慨ということだけで結束させるのはまず困難なことであった[593]。
さらにこの会談で王は、日本とハワイを海底電線で結ぶことや、王位継承者と考えていた姪のカイウラニと当時海軍兵学校に在学していた日本の皇族山階宮定麿王の結婚を天皇に提案した。おそらく王としてはこの結婚がハワイが米国に併合される危機から守ってくれると考えており、逆に日本側としてはアメリカの反感を買う恐れがある縁組だった。この提案への天皇の反応についてアームストロングは「天皇は王の提案に上機嫌かつ丁重に耳を傾けた。しかし天皇は、それは熟慮を要することだと言った。日本の伝統から大きく逸脱することになる、と」と記している。結局、明治15年(1882年)1月14日に山階宮本人、ついで2月に外務卿井上馨がカラカウア王に書簡を送ってこの縁組に断りを入れている。断りの理由は山階宮には幼少の頃から決められた許嫁があり、王女との結婚を考える自由がないというものだった[594]。
3月14日に王は東京を発つにあたり、天皇への別れの挨拶のため参内した。天皇は謁見の間で最高勲章の菊花章を王に贈った。この贈呈をめぐっては賞勲局副総裁大給恒が、西洋4国がカラカウア王に送った勲章は最高勲章ではなく「第二位」の勲章であること、またすでに菊花章を贈った西洋君主たちが小国君主と同列にされることを嫌悪する可能性を指摘し、最高勲章の菊花章ではなく旭一が妥当と主張したが、外務卿井上薫がカラカウア王は一国の君主であり、菊花章を贈るべきと大給を説諭した経緯があった[552]。
その後、天皇と王はダイニングホールに移って天皇主催の午餐会に出席。外の芝生の軍楽隊は日本国歌とハワイ国歌を演奏した。不平等にならぬよう天皇と王両方の後ろにそれぞれ給仕が控え、サービスを行った。午餐会の後には、天皇と王はともに謁見の間に戻り、皇后が迎えてコーヒーと葉巻を共にした。そこへ外務卿井上馨が入ってきてロシアで皇帝アレクサンドル2世が暗殺されたことを報告。驚いた天皇と王は、それぞれ元首としてロシア皇室への対応を取るべく散会とした。日本皇室はすぐにアレクサンドル2世のために服喪に入った。またカラカウア王のために予定されていた同日の舞踏会は中止となった[595]。その翌日には天皇は返礼のため王の滞在する延遼館を訪れ、王主催の午餐会に出席。天皇は七宝焼きの花瓶、絹、漆の箱、青銅の飾り物、刺繍した布などの高級品を王に贈呈し、随行員たちにもそれぞれ贈り物を送った[596]。
山形・秋田・北海道巡幸

明治14年7月30日に明治天皇は六大巡幸の五番目となる山形・秋田・北海道巡幸に出発した[598]。明治9年の巡幸では北海道への行幸は最南端の函館にとどまったことから北海道民からは再行幸を願う世論が強かった。また北海道開拓使が明治5年から始めた十年計画が明治15年1月に終了する運びだったので、それ以前に拓殖の状況を視察する必要があることから、この巡幸が決まった[470]。山形県も、明治9年や明治11年の巡幸では行幸地から外れたため、山形県令三島通庸が、県民の行幸を願う世論が大きいことや、県下の各区長からも懇願されていることを指摘して山形行幸を督促した結果、今回の巡幸で行幸が決まった[528]。
有栖川宮熾仁親王、北白川宮能久親王、大蔵卿大隈重信、司法卿大木喬任などが随行し、開拓使長官黒田清隆や内務卿松方正義らが先発した[599]。随行者の総勢は当初420人が予定されていたが、行幸先の宿所不足の関係で350人となった[598]。
7月30日に鳳輦に乗って東京を出た天皇は、栃木県、福島県、宮城県、岩手県を通御し、8月29日に青森県に到着[599]。8月30日、青森港から軍艦「扶桑」で小樽港に渡り、札幌・手宮間の官営幌内鉄道汽車「義経号」に乗車して札幌に到着。札幌では豊平館を行在所とした[600]。
翌日に開拓使庁(現北海道庁)を行幸し、開拓使長官黒田清隆が明治初年以来の北海道拓殖の沿革と行幸の光栄を述べた奉状を奉った後、黒田長官の案内で使庁内を視察[470]。その後、札幌農学校(現北海道大学)、演舞場(現時計台)、麦酒製造所(現サッポロビール)、蒸気木挽場、煉鉄所、葡萄園、苗穂にある札幌監獄署(現札幌刑務所)などを視察した[600]。
9月1日の午前に真駒内牧牛場を視察した後、天皇は石山新道を進み、山鼻村(現札幌市中央区山鼻)の屯田兵舎を視察。また山鼻学校では屯田兵が収穫した農作物が天覧に供された[580]。屯田兵制度は明治2年に開拓使次官黒田清隆の建議により北海道の開拓と防衛を同時に行う目的で実施された制度で、廃藩置県で失職した士族たちに職を与える救済策でもあった。屯田兵になると一定の土地と住宅が与えられ、その兵村は兵屋、練兵場、中隊本部などの軍事施設のほか、学校、寺社、道路、防風林、墓地などのインフラが整備され、北の守りとして重要な役割を担った[597]。同日午後、天皇は開拓使博物館に入館、「札幌丘珠事件」の加害熊の剥製を鑑賞している[601]。また、能久親王を琴似(現札幌市西区)の屯田兵村の視察に派遣している。琴似の屯田兵村は明治8年に青森県、宮城県、酒田県、北海道から応募した士族たちにより、最初に創設された屯田兵村であり、親王はその開拓状況を見て回った[602]。
9月2日には札幌本道を車駕で島松駅逓まで移動し、道央圏で初めて稲作を成功させた中山久蔵による水田の育成状況を視察し、さらに3日には美沢の開拓使美々鹿肉缶詰製造所なども視察し、[600]白老では当地のアイヌ民族が模擬的に挙行したイオマンテを鑑賞している。9月4日に室蘭から「迅鯨」に乗船し、対岸の森町へ海路で移動[603]。森では漁民が昆布採集作業を天覧に供し、天皇はことのほか関心をもったという。9月6日に森を出発し、道中七重勧業試験場や御牧場視察を経て函館着、9月7日に「迅鯨」で函館を発ち、青森港に到着した[604]。

9月21日には秋田県南部の院内鉱山を視察した。院内銀山は17世紀初めに発見され、江戸時代には佐竹藩直営の銀山で、明治維新後は工部省が管轄する官営企業となり、ドイツ人技師たちが招かれてヨーロッパ鉱山技術が導入された結果鉱産量を増やしていた鉱山だった。天皇は、鉱夫らの鉱石搬出作業や、器機を使った掘削作業などを視察し、選鉱所や製鉱所では製鉱方法の変遷について担当者の説明に耳を傾けた。天皇が院内銀山を視察した9月21日は鉱山記念日となっており、地元では天皇の院内銀山行幸を祝う院内銀山祭りが毎年開催されている[602][606]。
その後秋田県より山形県に入り、9月29日に山形市、10月1日には高畠町、10月2日に米沢に到着。10月3日には米沢から福島へ向かう際に栗子隧道の開通式に臨御した。これは山形県令三島通庸が明治9年から旧来の不便な米沢街道に代わって米沢と福島をつなぐ新たな街道として建設を開始していた栗子峠道に作られたトンネルである。栗子山は堅固な岩山だったが、明治の文明開化でアメリカから穿孔機を購入したことで(当時アメリカに1台、イギリスに1台、日本に1台の計3台しかなかった)、明治13年10月19日に貫通に成功していた。このトンネルを含む栗子峠道は明治15年2月に明治天皇より万世大路の名が与えられた[607]。
この巡幸中に国内外で色々な事態が発生したため、明治維新以来日本全国で整備がすすめられた電信が役に立つ場面が多かった。京都において病床にあった伯母淑子内親王の容体悪化と薨去までの情報は刻々と電報で天皇に知らされていた[608]。9月19日にはアメリカ合衆国大統領ジェームズ・ガーフィールドが暗殺されたが、これもただちに電報で天皇に報告され、天皇は2日後にもガーフィールド大統領の後任となったチェスター・アーサー新大統領に宛てて弔電を打っている[598]。
内政上最も重大な報告となったのは、開拓使の官有物を払い下げをめぐる不正疑惑に世論が沸騰しているというものだった。この払い下げ自体は、前年の内閣の閣議決定に基づき、天皇が巡幸に出る7月30日に裁可していた案件だが、開拓使長官黒田清隆が開拓使在勤官吏に官有物を払い下げ、それを五代友厚ら関西貿易商会が後援する案を閣議に提案した件をめぐって、300万円の実価があるものが、無利子30年38万7000余円で払い下げられるものとして、新聞各紙や民権論者から非難が殺到した。黒田と五代がともに元薩摩藩士だったことが疑惑に火をつけたようだった。この案は閣議決定されたわけではなく、間近に迫っている北海道巡幸で陛下自らが現地を視察した後にその可否を決すべきであることが閣議決定されていたが、黒田は事実無根のことで閣議決定されないのは不当と激怒し、元薩摩藩士の参議らは、閣内で批判を主導している大隈と対立を深めるようになり、後述する憲法論争をめぐって大隈と対立していた伊藤博文と対大隈で連携するようになった。この動きを新聞各紙は、薩長出身の政治家が団結して大隈を排除しようとしていると批判していた。この事態は巡幸中の天皇にも報告された(天皇は巡幸中も新聞を読んでいたのですでに事態を知っていた)。この問題は明治14年の政変の原因の一つとなる[609]。
明治14年の政変と国会開設の勅諭

明治14年の政変に至る遠因の一つは、明治13年(1880年)に大蔵卿大隈重信の提案した外債発行案が閣議で否決されたことだった。西南戦争の際に戦費調達で銀行券(紙幣)が増刷された結果、当時インフレが急速に進んでいた(明治13年3月の段階で銀貨1円に対して紙幣は1円43銭5厘の割合)。紙幣価値を回復させる唯一の手段は正貨に兌換できない不換紙幣を償却し、兌換紙幣と交換することだった[611]。兌換とは発行紙幣が金もしくは銀の正貨と交換可能なシステムのことである[612]。不換紙幣償却のために必要な金の一部は政府所有工場の民間への売却により調達できたが、大蔵卿大隈重信は、それだけでは不足で、25年償還の5000円の外債発行することで、不換紙幣7800円を償却できるという見積もりを立てた。しかし外債発行の是非をめぐって閣議は意見が割れ、特に岩倉具視と伊藤博文が外債発行に強く反対した。侍補制度が廃止された後にも天皇に大きな影響力を持っていた佐々木高行や元田永孚も外債に強く反対していたため、天皇も反対派だった[611]。
天皇はこの外債論争が征韓論論争のような事態に至るのを恐れていたが、最終的には外債募集案を不可とする裁定を下し、明治13年6月3日の詔勅の中で、先のグラント将軍の外債発行への警告も引用して大隈の外債募集案を退け、財政危機克服は勤倹を基本とするよう命じた[611]。この天皇の勅諭が下った後には大隈を含め、もはや異論を唱える者はいなかった。この一件は内閣各省で意見対立が起きた場合は、最終的決定権は天皇にあることを改めて示した形となった[613]。
更にその後、一部の政府閣僚(岩倉具視や黒田清隆など)の中からは財政危機は米の売買がすべて農民の手にゆだねられていることに起因するとして、地租の一部に米納を復活させる案も出され、その件をめぐっても内閣の意見が真っ二つに割れ、8月10日に太政大臣三条実美、左大臣有栖川宮熾仁親王らが参内し、天皇の裁断を具奏。天皇は両者に御前で意見を開陳させてから裁断を下すことを決め、8月31日にそれを行わせた後、9月18日に内勅を下し、地租米納論を「頗(すこぶる)不穏」として退けるとともに、財政危機打開の唯一の方法は朕が繰り返し述べてきた通り、経費節減にある。大臣らは朕の望むところを断行せよ、との聖断を下した[614]。天皇はこの内勅を出す以前から地租米納復活論には明確に反対しており、佐佐木高行に次のように述べていた。地租を旧制に復して米納とすることは必ずや農民の不平を呼び、全国いたるところで農民蜂起が発生するだろう。特に本年は地租は明治18年まで地租改正当初に定めた地価によって徴収することを布告したばかりである。もしこれを放棄し、旧制の米納に戻せば、民衆の信義を失うことになる[614]。
一方外債案否決で指導力を問われていた大隈重信は、民権運動の高揚で政治的焦点となっていた憲法制定問題に熱心に取り組むようになった[615]。大隈は、君主大権の強いドイツ流憲法の制定を志向する伊藤博文や岩倉具視らの漸進主義に対抗し、君主権力が大きく制限され議会権力が強いイギリス流憲法の制定を目指す急進主義の立場を取った。明治14年3月に大隈は左大臣有栖川宮熾仁親王を通じて天皇に意見書を提出し、国会の過半数を得た政党の党首が国を率いるべきであるというイギリス型議院内閣制の導入を訴えている。また国会開設時期をわずか2年後の明治16年と非常に早くに設定した。大隈はこの案を出すときに他見を差し控えられるよう熾仁親王に要求していたが、内容が急進的すぎることに警戒した熾仁親王は、三条と岩倉に意見書を内示。6月27日には漸進派の中心人物である伊藤博文もこの動きを知るところとなった[616][617]。
大隈の意見書を読んだ伊藤は、わずか2年後という時期の問題もだが、天皇に君主権を放棄せよと迫っているに等しい急進的な内容に激怒し、7月1日には三条に書簡を送って、大隈と自分の意見がここまで相反している以上、もはや閣議で同席しているのは無理であるとして、辞職を願い出た。岩倉が留任するよう伊藤の説得に当たるも伊藤は翻意しなかったので、岩倉は続いて大隈のもとを訪ねたが、大隈も自説は曲げなかった。後に岩倉の仲裁で大隈と伊藤は会談して一応和解し、伊藤は再び閣議に出席するようになったものの、二人の憲法観の隔たりは大きく、対立は収まらなかった[616]。
伊藤博文は、大久保利通の後継者的な立場にあったとはいえ、明治14年時点では大久保ほどの権威はまだなく、内閣をまとめる力に欠けていた[618]。それがこのような閣内論争に至った原因であった。とはいえ、伊藤は天皇および三大臣(太政大臣三条実美、左大臣有栖川宮熾仁親王、右大臣岩倉具視)の信任が最も厚い参議であった[619]。伊藤か大隈どちらかを切らねばならない状態に至れば、切られることになるのは当然大隈の方であった。10月11日に山形・秋田・北海道巡幸を終えて東京へ還幸した天皇は、大隈罷免について新聞各紙の批判が多いことから、大隈罷免にためらいを示しつつも、最終的には大臣らの進言を容れて大隈を辞職させる決意を固めた。天皇の聖断を得、10月12日にも伊藤博文と西郷従道が代表で大隈と会見し、辞官を説き、大隈は直ちに承諾した。その一方で同日に天皇は、大隈の顔を立てるかのように、太政大臣三条実美に対して開拓使官有物払い下げの許可を撤回するよう勅命している。黒田清隆の名誉が傷つけられる形となったが、黒田は政敵大隈の失脚で留飲を下げた。また大隈派参議への配慮から、天皇は同日に国会開設の勅諭を下し、国会開設時期を明治23年(1890年)に正式決定している。伊藤ら漸進派にとってはかなり時期が早められたものとなった[620]。
天皇が下した国会開設の勅諭は以下の通りである。「朕祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣き、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総攬し、又夙に立憲の政体を建て、後世子孫継くへきの業を為さんことを期す。嚮に明治八年に元老院を設け十一年に府県会を開かしむ。此れ皆漸次基を創め序に楯て歩を進るの道に由るに非さるは莫し。爾有衆亦朕か心を涼とせん。顧るに立国の体、国各宜きを殊にす、非常の事業実に軽挙に便ならず。我祖我宗照臨して上に在り。還烈を揚け洪謨を弘め、古今を変通し断して之を行ふ責朕か躬に在り。将に明治二十三年を期し、議員を召し国会を開き、朕か初志を成さんとす。今在廷臣僚に命し、仮すに時日を以てし、経画の責に当らしむ。其組織権限に至ては、朕親ら衷を裁し時に及て公布する所あらんとす。朕惟ふに人心進むに偏して、時会速なるを競ふ。浮言相動かし竟に大計を遺る。是れ宜しく今に及て謨訓を明徴し、以て朝野臣民に公示するへし。若し仍ほさらに躁急を争ひ、事変を煽し、国安を害する者あらは処するに国典を以てすへし。特に茲に言明し、爾有衆に諭す。」[621]。
明治14年10月に大隈に代わって新たな大蔵卿に就任した松方正義は、紙幣価値の回復のため、官営事業の民間への払い下げなどで政府支出の削減を徹底し、紙幣の流通量を減らすとともに、新税の設置、酒造税や煙草税の増税により正貨の蓄積を増やし、兌換制度の実施に備え、兌換紙幣発行の特権を有する中央銀行の創設を推進した[612]。この徹底した緊縮財政は「松方財政」「松方デフレ」と呼ばれ、経済界は不況となり、国民生活にも大きな打撃があったものの、インフレを収束させることに成功し、紙幣価値は安定を見た[612]。明治15年には唯一の発券銀行として中央銀行の日本銀行が創設され、その後、銀を正貨として兌換紙幣発行が行われ、事実上の銀本位制が確立された[612]。
アルバート・ヴィクター、ジョージ両王孫の来日

明治14年10月21日には英国女王ヴィクトリアの皇太子ウェールズ大公アルバート・エドワード(後の英国王エドワード7世)の長男アルバート・ヴィクター(後のクラレンス公爵)と次男ジョージ(後の英国王ジョージ5世)が乗ったコルベット艦HMSバカンティが横浜に寄港した。ヴィクトリア女王は事前に公式訪問ではないことを日本に伝えていたが、日本政府はドイツのハインリヒ皇孫の来日に準拠して接遇した。10月24日に両王孫は列車で新橋へ移動し、宿泊先の延遼館に入った。その後、人力車で浅草を観光している[622]。その日の夜の延遼館での晩さん会には三条実美と岩倉具視が出席し、天皇は宮廷雅楽を派遣して食事中に演奏させた[622]。
翌25日に両王孫はイギリス海軍礼装に着替えて参内し、天皇の引見を受けた。迎える天皇も胸に金モールを付けた盛装の洋装だったが、皇后は和装だった。両王孫は『日本滞在記』の中で「陛下はまだ三十歳になっておられないが、それよりもずっと老けたお顔である。落ち着いていて、神経質というわけではなく、ご自分のお役目を果たすことに一生懸命になっておられた。美子皇后と女官たちは日本古来の宮廷衣装だった」と記している。またジョージは「皇后は小柄で、日本の流儀に従って厚化粧などしなければ、実に素敵であったろう」「陽気に愛想よく会話を始めようとしていた」と記している[623][624]。
26日に両王孫は日比谷練兵場の歩兵隊、砲兵隊、騎馬隊約1万人の閲兵式にイギリス艦隊の将校たちを引き連れて参列し、正装した日本の閣僚や各国外交官らとともに天皇を迎えた。その夜には赤坂仮御所の御会食所で開かれた天皇主催の晩さん会に出席。27日には天皇が返礼として両王孫が滞在している延遼館を訪問して両王孫に花瓶などの贈り物を贈呈した。その後王孫たちは海軍兵学校で「平安時代以来のホッケーに似た馬上球戯の打毬の試合」を見学したり、高輪泉岳寺の赤穂四十七士の墓を詣でたり、工部大学校で開かれた東京や横浜のイギリス人居留民の舞踏会などに出席した[625]。
31日には天皇が横浜に行幸し、両王孫の招待を受けてバカンティ号の午餐に出席。岩倉具視や井上馨らも同席した[625][598]。両王孫はその翌日から西日本観光のために海路で神戸へ向かった[626]。滞在中ジョージは日本の彫刻士に腕に龍の刺青を彫ってもらっている[622]。
両王孫の来日に先立ち、外務卿井上馨と宮内省四等掌典長崎省吾は、イギリス最高勲章ガーター勲章を両王孫に持たせて天皇に贈呈するようイギリスに要求していたが、イギリス側は、日本はキリスト教国ではないこと、またキリスト教徒ではない外国君主にガーター勲章を贈った先例としてトルコ皇帝アブデュルメジト1世の例があるものの、天皇はトルコ皇帝と違って直接イギリスを訪問していないことから贈呈は難しいとして断り、インドの星勲章なら贈呈可能と返答したが、最高勲章でなければ受け取れないと日本側が拒否した[627]。その後、天皇は、明治19年に皇太子アルバート・エドワード(エドワード7世)に日本の最高勲章の菊花章を贈っている(当時の菊花章は男性専用の勲章であり、イギリスは君主が女性なので代わりに皇太子に送った)。返礼にガーター勲章が贈られることを期待しての贈呈だったと思われるが、その時には返礼はなかった。天皇にガーター勲章が贈られたのはようやく明治39年になってのことである[628]。
軍人勅諭

明治15年(1882年)1月4日に太政官に出御した天皇は、陸軍卿大山巌に対し、「軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)を下した[630]。陸海軍共通の軍人規範であるが、当時海軍卿河村純義は出張中で不在だったため、大山が陸海軍双方を代表して拝受している[631]。
徴兵令発布後、華族・士族・平民と様々な階級出身の男性国民が軍人になったが、特に平民出身の軍人にあっては軍人的教養と訓練を与えるには少なからぬ精神的訓練を必要とした。また士族出身の軍人であっても(藩の気風にもよるが)概して長き泰平の世で士風が緩みきっており、精神訓練が必要な者は多かった。統一された近代国家の軍隊であるためにはさまざまな階層出身者から成る軍人たちに共通の教訓と訓練を与えることが重要だった[632]。そうした観点からこれまでも軍人規範はたびたび出されていた。明治元年の陸軍局法度、明治4年の御親兵創設で制定された御親兵御規則、陸軍読本、海軍読本、明治11年に徴兵制度に適するように陸軍卿山縣有朋が寄稿した軍人訓戒などであるが、これらは結局は禁制を明らかにしただけの消極的なものだったので、天皇はそれに満足しておらず、改めて建国の古制に基づく歴史の成果を述べ、天地の公道、人倫の常道に基づく軍人規範を定める必要があると考えていた。そのために出されたのが軍人勅諭である[633]。
勅諭は「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある」という出だしで日本の軍事史の概略から始まる。その内容の概要は次のとおりである。我が国の軍隊は古代より天皇が統率するところだった。古代において皇后・皇太子に代行させたことはあるが、天皇が兵権を臣下に委ねたことはなかった。中世には唐の制度を参考に兵制が整えられたが、その後朝廷の衰えで約700年にわたって兵馬の権が武士どもの棟梁の手に帰し、朕の祖先が定めた制度に背いて、武士どもが勝手に国を支配するという浅ましい事態となった。しかし列強諸国の脅威が高まる中、幕府は衰退し、朕が若くして皇位を継承した後、文武に有能な忠臣たちが朕を補佐したことにより、古代の天皇統治の制度に復帰させることができた。その時に兵制を改め、この15年ほどで陸海軍を打ち立てた。その兵馬の大権は朕が統率するところであるので、日常業務は臣下に任すといえども、その大綱は朕自らがまとめるべきものであり、臣下に委ねるつもりはない。子々孫々までこの勅諭を伝え、天子が文武の大権を掌握する原則を守り、再び中世以降のごとき失体がないことを望む。朕は汝ら軍人の大元帥である。したがって朕は汝ら軍人を臣下の中でも最も頼りにし、汝らは朕を頭首と仰ぎ、この親愛関係は特に深くあるべきである。朕が国家を護持し、天帝の恵みに応じ、先祖の恩に報いることができるかどうかは、汝ら軍人がその職務を果たすかどうかにかかっている[634][633]。
前文の後に続いて、天皇が具体的に軍人に何を期待しているかが五項目の訓令によって列挙される。第一の訓令は「軍人は忠節を尽すを本分とすべし」である。軍人の職務は国家に忠誠を捧げることにあるので、軍人は単に技術に優れ、学識があるだけでは十分ではなく、報国の心こそが大事と説く。軍人は政治に関わらず、世論に惑わされず、ただ一途に軍人の本分たる忠節を守るよう命じている。第二の訓令は「軍人は礼儀を正くすべし」である。下級の軍人にあっては、上官の命令を朕の命令と心得るよう命じるとともに、上級の軍人においては下級の軍人に対し「軽侮驕傲の振舞」があってはならず、親切と慈愛の精神をもって接することを命じている。そのうえで「上下一致して王事に勤労せよ」と命じる。第三の訓令は「軍人は武勇を尚ぶべし」である。軍人には武勇が大事であるが、真の武勇とは血気にはやって粗暴の振舞をすることではなく「軍人たらむ者は常に能く(よく)義理を弁へ、能く胆力を練り、思慮を殫して事を謀るべし」。他人と接する場合には温和を第一とし、一般国民の愛敬を得るよう心掛けねばならないと説く。第四の訓令は「軍人は信義を重んずべし」。信とは自分が言ったことを実行し、義とは自分の分を尽くすことを言う。したがって、信義を尽くそうと思うなら、はじめからその事が可能かまた不可能か慎重に検討せよと説く。第五の訓令は「軍人は質素を旨とすべし」。質素を旨としなければ、文弱に流れて軽薄に走り、豪奢華美を好むようになり、ついには汚職に走って志もなくなり、節操も武勇も甲斐なく、人々に爪はじきにされる人生になるであろうと警告する[634][635]。
以上を主旨とする軍人勅諭は天皇自らが訓戒したものであるため、他の詔勅と異なり、大臣太政三条実美の奉勅も、副署もなく、直接に陸海軍卿を宮中に召し下賜したものである。勅諭を賜った大山はただちに全軍に伝達の手続きをとり、勅諭写4600部が陸海軍省、警視総監、府県知事、各省長官、大臣、参議、宮中各部署に配布された。ついで内閣が謹書校写のうえ、天皇の親署を仰いで、順次陸海軍に伝達され、2月頃までには陸軍の近衛鎮台諸部隊、戸山学校、士官学校、教導団の各隊、海軍の鎮守府・兵学校・機関学校・東海水兵分営・艦船に下賜された。拝受した各部隊ではこれを奉誦銘記して軍人各人に徹底し、また海軍では海軍教官近藤真琴が上下二巻からなる軍人勅諭の解説本『勅諭衍義』を著し、兵学校や各艦長がこれを教材に毎週1回は生徒や乗組員に講義した。陸軍も毎日曜日の武装検査前とか、雨天の日などに中隊長や小隊長が軍人勅諭の講義を行い、軍人手帳にも軍人勅諭が書かれており、日夜奉誦させた。その後も勅諭の奉戴は陸海軍共に怠らず、軍隊教育の基本となった[631]。
条約改正予備会をめぐって

明治15年には幕末以来の不平等条約の改正をめぐり、外務卿井上薫が列強諸国代表を東京に集めて条約改正に向けた条約改正予備会を繰り返し行ったことで条約改正の機運が高まった[637]。井上は改正実現に向けて交渉を重ねて当事国の大半から承諾を漕ぎつけたが、イギリスの反対だけは揺るがなかった[638]。
井上馨は条約を改正し治外法権を手放すことになる列強諸国に何の益もないのでは所期の目的は達成できないとして、譲歩案の作成を政府に求めた。政府内の議論は紛糾したが、甲乙案の二つが作成された。甲案は参議山田顕義が主に主張したもので、外国人が日本の国法に従うことを承諾するなら、内国人と等しく居住・営業及び通商を許すべきであるというものである。これに対して乙案は伊藤博文が主に主張したもので、甲案より条件を狭めており、外国人に対する行政規則・警察違警罪にかかる裁判、また民事裁判の全部が回復されるなら、外国人の内地の通商を許すべしとしていた[639]。
明治15年3月5日に太政大臣三条実美は天皇に甲乙案を提出し、この二案をもって議論の基礎としたい旨の勅許を求めた。天皇はそれを裁可しつつ、次の3つの助言を与えた。「大臣・参議等小異を去り、大同に就き、一致して此の大業を全うすべし」「閣議機密を貴ぶ、改正の議未だ成らざるに。忽ち(たちまち)漏洩して世の紛議を醸すこと、前年開拓使払下事件に於けるが如くなるなかれ」「我が国民の智識未だ彼(外国)に及ばず、財力亦頗る(またすこぶる)劣る、若し彼に居住・営業の権を与へ、通商を許すに於ては、其の結果頗る憂ふべきものなしとせず、卿等宜しく深く謀り遠く慮り(おもんばかり)、以てその備を為すべし」[639]。
井上は英国の督促と国内議論の紛糾の板挟みとなり、ついには辞職を表明したが、三大臣(三条実美、熾仁親王、岩倉具視)が慰留し、最終的にはドイツ人内閣顧問ヘルマン・レースレルが甲乙二案を書き直し、甲案は新たに外国人の不動産所有権を許し、その代わりに民事・刑事裁判権を回復するものとし、乙案は民事上の裁判権の回復だけに限定し、依然と同じく「内地の通商」だけを許すものとした。三条は新たな甲乙案をもって再び参内して天皇の聖断を仰いだ。天皇はまず甲案に基づき外国使節と交渉を行い、もし成功しなければ乙案を試み、双方とも成功しなければ、さらに衆議を尽くして朕の裁可を仰ぐよう命じた[640]。
4月5日の第7回条約改正予備会で井上馨は、列強諸国の使節たちに対し、日本が近代化を成し遂げた証拠や西欧列強と対等である資格を次のように列挙した。日本は常に国際的な公法と国際的な道徳に従ってきた。封建制度は廃して全ての国民に同等の権利をもたらし、行政と司法は分離させた。教育を普及させ、キリスト教禁制も緩和した。郵便の制度を確立し、万国郵便連合に加入した。電信と鉄道を敷き、沿海に灯台を設置した。新たに刑法と治罪法(のちの刑事訴訟法)を定めた。しかし日本政府および国民は、これらの達成に安ずることなく、益々の進歩改良に努めており、各国と親密な関係を樹立し、共同の利益を増進させることを望んでいる。しかし不幸にも諸外国との友好・貿易を促進するのに今なお数々の障害がある。現行条約によれば、外国人は開港場以外での居住と交易が認められていない。日本政府はこれらの障害を除去する適当な時機を待ち望んでおり、今こそその時期と考えている。日本の法律に服することを条件に外国人は日本国内を自由に旅行し、自由な場所に居住し、動産・不動産の所有権を得ることも認められ、商売・産業を自由に営むことができるべきである。この新制度が施行されれば外国人民はこれまでの開港場内で行われていたものと異なる裁判権に服することになるが、これは公義正道の見地からいって是認されるべきである。これによって日本人と外国人の本当の友好が樹立されることになる。通商は自由化され、外国資本が招致され、工業貿易の繁栄がもたらされることになる。その結果、輸入品の為の広大な市場が開かれることを期待する[640]。
6月1日の第11回条約改正予備会で井上は条約改正案の細目を正式に提出。もしこの改正条約案が批准されれば、その日から5年後に外国人は日本国内の自由な旅行、居住、動産・不動産の所有、貿易その他の職業を営む権利が日本人と同様に認められるようになる。日本政府は日本の法律に対する外国人の信頼確保に向けてあらゆる努力を払う。あらゆる法律・規則は少なくとも一つのヨーロッパ言語に翻訳して配布する。外国人が被告となる裁判においては、外国人判事が日本人判事と同席し、陪審制度が採用される場合は陪審員の一部を外国人とする。
この条約改正案が読み上げられた後、ドイツ公使が最初に賛同を表明。ついでベルギー、ポルトガル、オーストリア=ハンガリー、オランダ、スペイン、イタリア、ロシアの各公使も賛同したが、英国公使パークスのみ賛同の合唱に加わらず、持ち帰って吟味するとしてその場での即答を避けた。そして7月17日の第15回条約改正予備会においてパークスは英国政府は同改正案に反対であると表明した。この改正案が採択された場合、日本はただちに領事裁判権を撤廃できるが、外国人は5年間もの準備期間をおいて、その間は従来の通商のために内地を旅行する自由があるのみであり、その地に居住することも、不動産を所有することも、資金を商売に使うことは許されない。日本政府が示した裁判制度も依然として不十分であり、外国人の権利保障が確実とはいえない。日本は民法と商法をいまだ完備しておらず、刑法と治罪法については施行されてまだ1年なので、今の段階で判断するのは早計である。それらの法が有効に機能しているかどうか確認のための時間をおくべきだ。このたびの提案では英国人民の信頼を獲得できないであろうし、日本国将来の隆盛に必要な外国資本の移入も招致することはできないだろうと論じた[641]。
反対したのはパークスだけだったが、当時の英国の影響力は絶大だったので、パークスの反対表明により各国とも自由討議をやめて本国政府に送致することとした。その結果、話はまとまらないまま、条約改正予備会は7月27日の第16回をもって閉会となった[642]。結局、この時に日本が領事裁判権を撤廃させることは叶わず、その実現は明治27年のことだった、さらに明治44年に関税自主権を完全回復させたことで、日本は不平等条約改正を達成した。不平等条約改正は、ほぼ明治時代全期を費やすことになった難事業だったのである[637]。
壬午軍乱をめぐって
日本で条約改正予備会が行われていた明治15年(1882年)6月から7月にかけて、朝鮮では閔氏政権の打倒を目指す朝鮮兵の反乱が起きていた(壬午軍乱)。
閔氏政権とは、朝鮮国王高宗の王妃閔妃およびその出身一族である閔氏の者たちが実権を掌握していた政権のことであり、1873年末にそれまで実権を握っていた高宗の父である大院君を失脚させたことで成立した。鎖国体制に固執して日本や欧米との条約締結を拒絶した大院君政権と比べると、閔氏政権は日本や欧米にやや融和的で、彼らが1876年に日朝修好条規を締結し、さらに欧米列強とも続々と条約を締結して朝鮮を開国した。開国後の朝鮮では西洋の制度や技術を導入する内政改革を行うべきだと主張する「開化派」(金玉均や朴泳孝、徐光範、洪英植など)と呼ばれる勢力が大きくなった。開化派は明治維新を成し遂げた日本をモデルケースとして注目していたため、親日派が多かった[643]。
開化派の影響力が増したことで当時の閔氏政権は日本に倣った近代化改革を志向するようになり、日本公使館付武官堀本礼造陸軍少尉を軍事顧問に迎えて、近代部隊「別技軍」を創設し、朝鮮貴族の子弟たちが、堀本少尉の指導のもとで軍事訓練を受けた。別技軍は一般朝鮮軍より装備・食料など様々な面で優遇されていた。しかし朝鮮軍一般兵は俸禄米を13カ月も止められているような惨状にあったため、貴族の別技軍だけが優れた装備・環境で近代的な訓練を受けることに不満を抱いていた[644]。
1882年6月に久しぶりに一般朝鮮兵にも俸禄米が支給されたが、良質米は朝鮮軍上層部によって横領され、兵士たちには雑穀に砂と家畜飼料を混ぜた「俸禄米」が支給された。それは悪臭を放って食えたものではなく、激怒した兵士たちは俸禄米を搾取した張本人と疑った宣恵庁(軍需担当官庁)の責任者で、閔氏一族である閔謙鎬の私邸に向かった。閔謙鎬は、押しかけてきた兵士たちを逮捕させ、翌日の処刑を発表した。見せしめの処刑で反乱を押さえようという意図だったが、逆に兵士たちを憤慨させ、閔謙鎬の私邸が反乱兵に襲撃された。閔謙鎬は不在だったが、反乱兵たちは閔邸の家具類をすべて破壊して鬱憤を晴らした。ついで反乱兵たちは兵器庫を襲撃して武器弾薬を奪い、それを使って監獄を襲撃し、閔謙鎬の命令で捕らえられていた仲間の兵士たちのみならず、他の政治犯も釈放した。王宮にいた閔謙鎬は、朝鮮軍に暴徒鎮圧を命じたが、すでに手遅れであり、町の貧民や不平分子も続々と反乱軍に加わったことで瞬く間に鎮圧不可能な規模の反乱に発展した[644]。

反乱兵の一団は日本の堀本陸軍少尉が滞在している官舎を襲撃し、堀本少尉を刀剣でめった刺しにしてなぶり殺しにした[644]。さらに反乱兵の別の一団は日本公使館襲撃に向かった。その時日本公使館には花房義質公使以下館員17人、警察官10人の計27人の日本人が勤務していた。まもなく反乱兵たちは日本公使館を取り囲み、口々に「日本人皆殺し」と叫んだ[644]。花房は公使館を焼いて逃げることを決意し、重要書類に石油をかけて火をつけさせ、炎と煙の混乱に乗じて公使館から脱出した。その後、舟で漢江を下って仁川の仁川府使まで逃れたが、ソウルでの事変の報が届くと仁川府兵士たちの態度が急変した。危険を感じた花房ら日本公使館一行はそこからも脱出したが、仁川府兵士の追撃を受け、日本人6名が殺害され、5人が重傷を負った。花房を含む生き延びた日本人は、負傷者を抱きかかえながら、なんとか浜までたどりつき、そこで見つけた小舟に乗り込んで沖を目指した。3日後に英国測量船フライング・フィッシュ号に救助され、日本に生還した[645]。
日本公使館襲撃後の7月24日に反乱兵たちは、高宗と閔妃と閔謙鎬がいる王宮昌徳宮の襲撃を開始した。まず閔謙鎬が発見されて殺害された。ついで反乱兵たちは閔妃の捜索を行ったが、閔妃は女官に変装して間一髪で王宮を脱出して難を逃れた[645]。
反乱兵を支援し、扇動していたのは国王高宗の父大院君であった。大院君は9年前に自分を権力の座から追い落した閔氏一族を恨んでおり、閔氏政権を失脚させて復権するチャンスを虎視眈々と窺っていたのである。身の危険を感じた高宗は、父大院君に王宮に入って反乱兵たちを押さえるよう懇願し、大院君を執政に任じた。こうして大院君が復権を果たした[646]。大院君は生死不明の閔妃は王宮襲撃の際に死んだということにして国葬を命じ、日本式に訓練された別技軍も廃止を命じた[645]。
一方日本へ逃れた花房公使以下日本公使館一行は、上司の外務卿井上薫にソウルで起きた事変を報告した。井上は7月31日にも緊急招集の閣議を開いた。明治天皇も事態を憂慮し、同日に太政官に臨御し、井上に下関に赴き危機の処理にあたるよう命じた。また海軍少将仁礼景範と陸軍少将高島鞆之助にそれぞれ軍艦四隻と歩兵一大隊を率いて帰任する花房たちを護衛するよう命じた。また天皇は侍従長山口正定を朝鮮に特派しソウルの事変と事変後の状況を報告するよう命じた[647]。
8月2日に井上は下関で花房と会い、次の指示を与えた。「朝鮮凶徒の行動はすこぶる残虐を極め、隣国間にあるべき情宜を重んじないものである。にも拘わらず、日本政府は朝鮮の国情を考慮し、ただちに懲罰軍を送ることは時期尚早であると判断した。花房公使はソウルへ帰任することになるが、公使には陸海軍兵を護衛に付ける。これは未だに暴徒の勢いが収まらず、先の見通しが立たないためで他意はない」「もし朝鮮政府が犯人を匿って処罰しない様子を見せたり、また日本が要求する談判の席に出席するのを拒否した場合、それは和平を破る意図ありと見なす。その場合は使臣(花房)は直ちに朝鮮政府に最後通牒を突きつけて、その罪状を明らかにしなければならない。即刻、陸海軍が仁川に軍を進め、港を占領する。仁川へ到着したら使臣は直ちに東京へ詳細の報告を送り、次の命令を待て。もし清国その他の国が仲裁を申し出てきても拒絶せよ」「日本政府は、朝鮮政府が意図的に和平の関係を損傷したとは見なしていない。使臣は両国の伝統的な修好関係を保全できるよう鋭意努力すること。むしろこの事件をきっかけに永遠の和平を獲得する手段とするよう尽力せよ」[645]。
8月初旬にも天皇は予備役の召集を裁可して備えた[648]。8月20日、花房は二個中隊に護衛されながらソウルの王宮を訪問し、今回の事変について、日本人を殺害した犯人の処罰、謝罪のため大官を日本に特派すること、賠償金50万円などの要求を提示した。大院君が復権した朝鮮政府は、これが法外(50万円は当時の朝鮮政府の全歳入の約6分の1に相当)だとして強く反発した。朝鮮政府に応じる気配がないと判断した花房は、井上からの指示通り最後通牒を朝鮮政府に突きつけた[649]。
日朝開戦の危機が高まる中、山中に隠れていた閔妃が国王に書簡を送り、宗主国の清国に反乱鎮圧のための部隊を朝鮮に送るよう要請すべきだと国王に迫った。常に閔妃に従順な高宗はその通りにし、北京に使者を出して清国の李鴻章に部隊派遣を要請した。当時、衰退の一途をたどっていた清国は、朝鮮への宗主権もかなり弱体化していたので、李としては、ここで部隊を朝鮮に派遣すれば、朝鮮に対する支配権を回復するチャンスと見、軍艦3隻と商船6隻から成る総勢4000人の艦隊の朝鮮派遣を決定した。派遣された清国艦隊はまず仁川港を占領する予定だったが、李が不必要に日本と事を構えないよう指示していたため、仁川港で日本の軍艦の金剛を発見すると清国艦隊はひとまず撤退したが、8月23日には清国艦隊から200人の部隊が仁川に上陸した[650]。
日本の花房公使が仁川に到着すると清国は彼と接触を図り、自分たちは属国朝鮮で起きた反乱鎮圧のために出動したことを告げたが、花房は朝鮮は独立国家であり(日本政府は、日朝修好条規第1条「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」に基づき、清と朝鮮の宗属関係を認めることを拒否していた[651])、日本と朝鮮の問題に清国は無関係であると主張した。ついで清国は日清両軍が共同して反乱の鎮圧にあたることを提案したが、花房は自分は今朝鮮政府に最後通牒を突きつけ、その返答を待っているところであり、他国が介入すべきことではないと述べて拒否した[650]。
日朝開戦して朝鮮が日本に占領されることで自国の朝鮮支配権が失われることを恐れる清国は、日清共同出兵案が日本から拒否されると、対日強硬派の大院君を朝鮮政府から排除することで、朝鮮政府に日本の要求を呑ませ、日朝開戦を回避させる以外に朝鮮支配権を維持できる方法はないと判断した。そのために強引な手段に打って出た。8月26日、大院君が清国艦隊を率いる馬建忠に招かれて幕舎に入った際、合図(大院君の万寿を祝する乾杯)とともに清国兵士たちが幕舎になだれ込み、大院君を取り押さえ、そのまま清国軍艦に運び込んで拉致したのである。その後大院君は3年にもわたって清国で拘禁された[650][652]。
大院君が拉致されたことで、朝鮮政府は再び閔妃と閔氏一族の主導するところとなり、8月30日にも日朝両国間で済物浦条約が締結された。その主な内容は「朝鮮政府は日本人を殺害した暴徒を二十日以内に逮捕し、処罰する。」「朝鮮政府は日本人犠牲者に対して相応の葬儀を執り行う」「朝鮮政府は日本人犠牲者とその遺族と負傷者に5万円の補償金を支払う」「朝鮮政府は日本公使館に加えらえた暴徒による損傷、および遠征にかかった費用の補償として50万円を日本政府に支払う。支払いは毎年10万円ずつ五ヶ年にわたるものとする」「日本公使館は今後『若干名』の日本兵によって警護される」「朝鮮政府は大官を特派し、国書を以て日本国政府に謝罪する」であり、日本政府の要求を朝鮮政府がほぼ丸吞みする形となった[650]。また合わせて日朝修好条規も改正され、開港場から20キロ以内(2年後には更に40キロに拡大)の日本人の旅行・通商が認められた[652]。
この事件中、日本人の愛国心はかつてないほど燃え上がり、従軍を希望する者、軍資金の献納を申し出る者が全国で殺到していた。9月5日に天皇は府県知事を通じて彼らの忠誠心を褒め称えた。また花房が9月28日に東京へ戻ると天皇は彼の労を労って勲二等旭日重光章を与えた。また11月2日には朝鮮で殉職した堀本中尉(死後に昇進)以下12人が靖国神社に合祀された[653]。
朝鮮国王高宗は、特命全権大臣朴泳孝ら3人の大官に国書を持たせて日本に特派し、天皇は10月19日に彼らを引見した。高宗は国書の中で、この度の不幸な事件については誠に遺憾であり、日本に謝罪することを表明した。また、天皇の輝かしい業績を礼賛し、両国の和平と末永い友好を願うと結んでいた。天皇は朝鮮国王に懇親の意を伝えるよう朴らに告げるとともに、小銃500丁を賜った。恐らく再度同じような反乱があった時に鎮圧に役立てることを期待してのことと思われる。朴は「小銃は朝鮮国にとって最も緊要のものであり、国王の喜悦は計り知れない」と述べて深く感謝の意を示した[653]。
条約改正予備会は成功しなかったとはいえ、朝鮮に謝罪させて賠償金を取ることができたことから、明治15年はそのまま楽観的ムードの中で年越しを迎えた[653]。しかしこの事件以降、清国が朝鮮駐留軍を通じて朝鮮への強圧支配を強めるようになったため、それをめぐって朝鮮国内は閔一族を中心とした清国をあくまで宗主国と仰ぐ親清派の事大党と、朴泳孝や金玉均らを中心とした清の支配から脱して独立国になろうという親日派の独立党に分裂し、清国は前者、日本は後者を支援して対立は深まり、甲申政変に繋がっていく[653][654]。
岩倉具視の薨去

明治16年(1883年)5月、右大臣岩倉具視は、事実上の東京遷都で衰微しつつあった京都の再興のため、京都御所修復を含む京都保存計画を天皇に建言した。天皇はこれを裁可し、同計画を取り仕切らせるため岩倉を京都に派遣した。この京都保存計画により、御所、御苑、離宮、陵墓など皇室関連施設を管理する宮内省支庁が設置され、関西所在の社寺を管理する社寺分局も設置され、賀茂の祭礼などが再興し、御苑内には平安京の建設者である桓武天皇を奉祀する祠殿が建設された。かつて公家町だった御苑には通路が区画され、樹木が植林され、溝を改造して清水を疎通させ、不要な建物は除去し、修学院離宮も修復し、二条城と桂宮別荘は正式に離宮と位置付けられた。また御苑内と鴨川近辺には外国人向けの旅館として新たに洋館を建設することになった。これらは逐次実行されて京都の衰微を食い止める手助けとなった[656]。
この計画にかける岩倉の情熱は、胸部神経痛を患って消化管狭窄で食事が喉を通らなくなった後も衰えず、仕事をやめなかった。しかし、天皇は岩倉の発病を聞いて深く憂慮し、侍医の伊東方成やエルヴィン・フォン・ベルツを岩倉のもとへ派遣して診察にあたらせた[657][658]。岩倉の体調は東京に帰れる程度には回復したが、東京に帰京した後に再び病状が悪化した。岩倉を案じた天皇は、7月5日に岩倉邸を行幸して岩倉を見舞っている。岩倉は二人の息子に支えられて病床を離れて天皇の御前に進み、親問の恩に浴した。岩倉の衰弱した様子を見た天皇は涙を流した[657]。
その一週間後に美子皇后も岩倉を見舞うため岩倉邸へ行啓することを決めたが、皇后として行啓すれば、礼を重んじる岩倉は、無理してでも病床を離れて送迎しようとするだろうから、「一条忠香の女(娘)」という臣籍の肩書で訪問することにし、くれぐれも病床に就いたままでいるようにと念を押してから訪問している[657]。
7月19日、岩倉が危篤状態に陥ったとの報告を受けた天皇は、宮内卿徳大寺実則を召して「朕親しく右大臣と永訣(今生の別れ)せんと欲す」と述べ、すぐに鳳駕を命じ、儀衛が整うのも待たずに岩倉邸へ向かった。宮内少輔香川敬三が先に岩倉邸に入り、天皇陛下がお見えになることを岩倉に告げると、岩倉は天皇の寵眷の厚きに感泣して落涙した[657]。
天皇が岩倉の病床に到着すると、岩倉は身を起こして拝礼しようとしたが、もはや身体が思うように動かせず、ただ合掌して感謝を示した。その様子を見た天皇は落涙した。天皇は体調のことを岩倉に尋ね、岩倉は奉答しようとするも、もはや声を発することすら叶わなかった。その後数刻、天皇と岩倉は無言のまま見つめあうことで最期の別れを告げ、天皇は岩倉邸を跡にした。同日に岩倉の辞表を受理し、翌7月20日に岩倉は薨去した[659]。
天皇は岩倉の死を悼み、3日の廃朝(服喪のため天皇が政務を取らないこと)を決定し、国葬に付すことを命じた。そして天皇の臣下として最高位である正一位太政大臣の地位を追贈した。位記に付けられた勅語には「朕幼沖ニシテ阼ニ登リ、一ニ匡輔ニ頼ル、啓沃誨ヲ納ル、誼師父ニ均シ、天憖遺セズ、曷ゾ痛悼ニ勝ヘン」(朕は幼少にして皇位を継ぎ、岩倉の補導を頼りにし、その啓沃(思うことを主君に隠さず申し上げること)の教えを納めてきた。朕にとって師にも父にも等しい存在だった。天は岩倉を残しておいてはくれなかった。この悲しみにどうして堪えられようか。)とある。一般に天皇の勅語は大半が常套句から成り立っており、このような感傷的な勅語は極めて珍しい。そこには恩師を失った天皇の本当の悲しみが強く表現されている[659]。
近代国家の確立

宇多天皇による寛平御遺誡以降、天皇が外国人に直に面会することはなかったが[注釈 3]、明治天皇は外国要人と頻繁に会談している。まず明治2年(1869年)にイギリスの女王ヴィクトリアの第2王子アルフレートがイギリス王族として初めて訪日し会談。明治12年(1879年)にユリシーズ・グラントがアメリカ合衆国大統領経験者として初めて訪日し会談。明治14年(1881年)に、ハワイ国王カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談する。
明治2年(1869年)、直轄領であった蝦夷地を北海道として編入。明治12年(1879年)には琉球王国を廃し沖縄県として併合、奄美群島を正式に大隅国として編入している。
明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には「国会開設の勅諭」を発して帝国議会(上院:貴族院、下院:衆議院)創設の時期を明示し運動の沈静化を図った。
また士族反乱が激化した際、下野した西郷らが西南戦争を起こして逆賊となり、新政府軍はこれを鎮定した。そしてこれが日本史上最後の内戦となっている。
明治15年(1882年)、陸海軍を「天皇の軍隊」と規定するとともに、「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」という軍人としての5つの基本徳目や、軍人の政治不関与を命じた軍人勅諭を発した[660]。
明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、官僚制支配体系の整備と並行して莫大な皇室財産の設定を行った。
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赤坂離宮(1911年〈明治40年〉)
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、当時アジアでは初となる立憲君主制国家確立の基礎となった。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語(教育ニ関スル勅語)を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、明治天皇はしばしば詔勅を発し調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、明治天皇は宥和に努めた。共和演説事件では文部大臣・尾崎行雄に辞表を提出させた。
世界の列強へ

日本が初めて直面した外国との近代戦争である日清戦争と日露戦争では、明治天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。外交上は1894年(明治27年)の日英通商航海条約、1902年(明治35年)の日英同盟など大国との条約を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。 他方、日露戦争の『宣戦の詔勅』に続いて作成された詔勅草案は、「信教の自由」と「戦争の不幸」を強調していたが、大臣らの署名がないまま公布されなかった[注釈 4]。

日英軍事同盟の締結と日露戦争での働きにより、イギリスの首相アーサー・バルフォアの許可を得、1906年(明治39年)にガーター勲章を授与された[663]。


日清戦争の勝利により獲得した台湾、日露戦争後は韓国併合による朝鮮領有や満州経営(現在の中国東北部)を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の西洋列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用した。

明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの欧米各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。


崩御

明治天皇が崩御した公式の日時は1912年(明治45年)7月30日午前0時43分であり、同月30日に刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあり[1]、『明治天皇記』でも、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。持病の糖尿病が悪化して尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御した。これに伴い、皇太子嘉仁親王が皇位継承し(大正天皇)、第123代天皇として践祚した。
明治天皇は明治45年(1912年)7月11日の東京帝国大学卒業式に出席したが、「気分は悪かった」という。侍医では対応できなくなり、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。20日宮内省は天皇が尿毒症で重態と発表した。28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まった。「病や死などの『穢れ』を日常生活に持ち込まない」という宮中の慣習により、また、明治天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典侍)だけであり、仕事柄上、特別に侍医は入れるものの、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、明治天皇は自分の寝室である御内儀で休養することができなくなった。そして、明治天皇の居間であった常の御座所が臨時の病室となった[665]。看護婦も勲五等以上でなくてはいけないので、五位以上の女官が看護した[666]。
7月21日以後、平癒を祈願する民衆が終日宮城前に集散した。東京市は天皇に騒音が届かないよう内濠線の電車を徐行し、三宅坂交差点では軌道にボロ布を敷いた。
宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表したが、当時宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分である。これは「登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせ、翌日午前0時43分と定めた」という[667]。
明治天皇の崩御に際してその側にいた皇族の梨本宮妃伊都子も、この間の様子を日記に克明に記している。伊都子の日記によれば、「(伊都子ら皇族は)二十八日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機した。二十九日午後十時半頃、奥(後宮)より、『一同御そばに参れ』と召され伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていた。明治天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしたが時計が10時半を打つ頃には天皇の声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなった。2,3分すると、にわかに天皇が低い声で『オホンオホン』と呼び、皇后が『何にてあらせらるるやら。』と返事をしたが、そのまま音もなく眠るように亡くなった」という。
同年(大正元年)8月27日、追号を明治天皇(めいじてんのう)にすると、大正天皇による勅定がなされた。
世界における明治天皇崩御の受け止め

明治天皇の崩御は、世界各国で報道された。
明治天皇崩御の代表的論調は、望月小太郎が「明治天皇の一年祭」に際して編纂し刊行された『世界に於ける明治天皇』にまとめられた。各国別全28章にわたり20余国からなり、そこには、イギリス、フランス、帝政ドイツ、アメリカ合衆国はもとより、中華民国、イギリス領インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、アメリカ領ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国、在中国外国人の論調まで掲載されている。
日本との軍事同盟を締結し同様に立憲君主制を敷くイギリスは「王朝の臣民として能く日本の君民関係は理解」、革命により王政を廃止し共和制国家となったフランスは「血を以って革命を贖いたる国民なるを以って、神聖なる君主政体と立憲政体の一致とは不可能なる如し想像し、民主主義に重きを措くの先入観あり」、当時は帝政を敷きのちに君主制が崩壊するドイツ、オーストリア=ハンガリーは「深奥なる哲理思想なる国民として多くは、大帝陛下の御治績を科学的分析的に研究」とした。
日露戦争において日本に敗北して、社会主義革命により君主制が崩壊する帝政ロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」、近代史上初の共和制国家としての成立起源を持ち、黒船来航を行い日本が明治維新に至るきっかけを作り、日露戦争の際には両国の講和の仲介役を務めたアメリカ[668]は「其建国の事情を異にし、自ら我が君臣の関係を知らず」さらに、米領フィリピンに対して、共和国でありながら明治天皇のために挽歌をつくり、「祖宗神霊の御加護を失ふ国民は滅亡すべしと謳える如きは最も味ふべき点」と述べ、また南米諸国も共和国であるが、「『我が国体の崇高さ』や『先帝陛下の叡聖』などを『憧憬仰慕』として感心している」と述べた。
崩御後
7月30日、主要新聞は天皇崩御のために9月17日まで全ページを黒枠で囲んだ。
天皇が崩御した当時、天皇の葬儀(大葬)など、その祀り方については、規定は帝室制度取調局が上奏した段階であり、明文化されていなかった(皇室喪儀令や皇室陵墓令が公布されたのは、大正15年)。また、明治年間における天皇・皇室やそれを取り巻く社会の変化があまりにも大きかったため、それまでの先例の単なる踏襲にはならないことが想定され、具体的な式次第などは不明瞭のまま、一連の儀式の準備が始まった[669]。
まず、天皇の陵墓について、崩御当日に阪谷芳郎東京市長が宮内省に天皇陵の造営地として、東京が選定されることの希望を申し入れた。阪谷市長が同日招集された市議会でこの意見を述べると、これに実業家の渋沢栄一ら東京の政財界の名士が賛同し、西園寺首相などに働きかけを行った。しかし8月1日、河村金五郎宮内次官発表により、陵墓造営地は京都府紀伊郡堀内村伏見城址(桃山丘陵)であること、この決定の根拠は天皇の遺志であることが公にされた[670]。9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において明治天皇の大喪の礼が執り行われた。明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して伏見桃山陵に移動、9月14日に埋葬された。
天皇陵の東京造営が叶わなくなると、阪谷らは御陵に替わるものとして、天皇の遺徳をしのぶものを東京に構えることを模索する。天皇崩御の直後、まだ御陵の造営地が発表される前から、天皇、あるいは天皇が統治した「明治」という時代を記念する何らかの施設を設ける意見が多数あり、その中身も神社、銅像、記念門、記念塔、博物館、図書館、美術館、科学院、記念植樹など多岐にわたった[671][注釈 6]。
結果、明治天皇の御霊を祀る神社を東京に創建することとなり、関東一円の複数の候補地からの選定の上で、大正9年(1920年)、明治神宮が東京に鎮座した。また、神宮外苑には聖徳記念絵画館(葬場殿の址地)をはじめ、各種の文化・体育施設が建てられ、神社のほかに立案されていた記念事業の少なくない部分を引き継いでいた。
人柄と影響

- 「明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴」として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、どれほど寒冷な日でも暖房は火鉢1つだけ、暑中も軍服(御服)を着用し続け執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。
- 一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官たちのことを、自分が考えたあだ名で呼んでいた[674]。美子皇后(昭憲皇太后)には「皇后さん」と普段は呼びかけていたが[675]、あだ名は「天狗さん」であった[674]。美子皇后は鼻が高かったため、このあだ名になったと言われている[676]。
- 幼少期からのいたずら好きは、東京で暮らすようになっても変わらなかった[677]。1880年代、明治天皇はろうそくの灯を消して、女官を困らせるいたずらが好きであった[677][674]。当時の奥では電気もランプも使っていなかったので、明治天皇がろうそくの灯を消していくと、女官が灯をつけ、「つけたり消したりキャッキャッ」と言って大騒ぎになった[677]。
- 食後、皇后や女官たちとともに、音の鳴らない手作りの楽器に興ずることもあった[674]。
- 雪が降ると、明治天皇は、奥で奉仕している10代前半の少年たちに、富士山の形のものを作れと言い、少年たちは女官たちと一緒に、庭に雪で富士山を作ったこともあった[678]。
- 東京で暮らすようになっても、私的な場では生涯にわたって京都弁を話した[679][675]。侍従として明治天皇に仕えた日野西資博によると、明治天皇は京都が大変好きで、1897年に英照皇太后(孝明天皇の皇后)が崩御し、京都の陵に参拝した時などは、種々の理由をつけて東京に帰ることを引き延ばし、4月17日から8月22日まで滞在した[680]。まず東京に帰る予定の5月4日に、暴雨風によって東海道本線の大磯・国府津間などが破壊されたため、帰りが延期になった。その時、明治天皇は「マーよかった」といった様子で、「低気圧か、低気圧もよいナー」と言って笑った[680]。間もなく鉄道は復旧したが、5月下旬に東京で、はしかが流行したので、再び還幸が延期になった。しばらくして流行が終わったという通知がきたが、明治天皇が「まだ残っているはずじゃ、もっと調べてみよ」と言うので、調べさせると、東京市中で、2人の患者がいるだけであった。そのことを報告しても「それ見よ、まだ残っているではないか」と言ってなかなか東京に帰ろうとはしなかった[681]。京都滞在中の明治天皇は何かにつけて御気楽のようで、朝に目が覚めると、白の着物のまま、御所の奥の庭へ降りてぶらぶらと歩くなど、運動も多くなり、健康的であった[42]。
- 明治天皇の食べ物の嗜好も京都好きを反映していた[42]。元侍従の日野西資博によれば、魚では鮎・鯉・鱧や、若狭湾でとれた鯛やカレイが大好きであった[42]。鮎は明治天皇が親王であった幕末期、賀茂川の名物であり、たびたび贈り物に使われていた[42]。鳥類はうずらをはじめとして、たいていのものを食べ、とりわけ京都方面から取り寄せたものを好んだ[42]。京都時代に食べていたせいか、野菜ではヨメナ・タンポポ・ウドを好んだ[42]。明治天皇は刺身は嫌いで、絶対に食べなかった[42]。明治天皇の育った時代、内陸部の京都では新鮮な刺身を食べることができなかった[682]。新鮮な魚が手に入る東京に移っても、明治天皇が刺身を食べようとせず、鮎・鯉などの淡水魚の料理を好んだのは、京都時代に培われた味覚が一生変わらなかったためと考えられる[682]。
- どんなに暑い時でも、表では決して夏服を着ず、シャツや股引の薄いものを用いるだけで、冬服のままでいた。柳原愛子(明治天皇の側室で大正天皇の生母)には、「何を着ても暑い時は暑いのや、これでええ」と言っていたという[683]。
- 書籍は1880年代半ばまでは勉強として熱心に読んでいた[676][684]。明治天皇は、フランスのナポレオンやドイツのフリードリヒ・ヴィルヘルム1世などが好きで、翻訳された伝記を読んでいた[684]。また「三国志」や軍談物(合戦を主題とした江戸時代の通俗小説)が好きであった。とくに軍談物は、近くに誰もいなくても、人に読んで聞かせるかのように大声を出して読んでいたという[684]。しかしその後、多用になって書籍は読まなくなった[676]。また、柳原愛子によれば、明治天皇は「新聞はよしあしや」と言って、新聞も読まなくなった[676]。元侍従の日野西によれば、日清戦争の頃、天皇の体重が誤伝されてからは、全く読まなくなったという[676]。代わりに内閣や侍従が上申することで情報を得ていたと、明治天皇の側近は推測している[676]。
- 皇子の嘉仁親王(大正天皇)のことは常に気にかけ、その成長を喜んだ[685][686]。柳原愛子によれば、明治天皇は、自分の子どもが病気になると「又わるいそうやな」と言い、いよいよ悪化したとの報告があると、黙って「ハー」と溜息をついていたという[687]。しかし、嘉仁親王に対する愛情表現は不器用で、臣下の目を気にして、愛情を抑制した形でしか示せなかった[686]。そして、嘉仁親王は成長するにつれて、厳格な父を恐れるようになった[686][688]。明治天皇は、外祖父・中山忠能と生母・中山慶子を嘉仁親王の養育係にし、自身と同じ環境で育てた[689][690]。さらに、嘉仁親王が11歳になってからは、身の回りの世話や教育を軍人に担当させるなど、質実剛健の教育を嘉仁親王に施そうとした[691][692]。しかし、武張った教育は、病弱な嘉仁親王には悪影響を与え、明治28年(1895年)、嘉仁親王は風邪・腸チフス・肺炎を相次いで患い、一時は重体に陥った[693][694]。柳原愛子によれば、嘉仁親王の病気が快方に向かった後、明治天皇は「これでわしもやっと安心した」と言って、ボロボロと涙を流した[695]。その後、嘉仁親王の教育の見直しが始まり、明治31年(1898年)、明治天皇は、有栖川宮威仁親王に、嘉仁親王の教育を担当するよう命じた[693][696]。有栖川宮威仁親王は、嘉仁親王の健康を第一にして、伸びやかに暮らさせることを教育の目的とし、明治天皇もそれを認めた[693][697]。以後、嘉仁親王の健康と学習状況は大きく改善されていった[693]。
- 酒が好きであった。元侍従の日野西によれば、明治天皇はブランデーやウイスキー等の少し辛い酒はほとんど飲まなかった。その代わり、日本酒・ワイン・シャンパン・ベルモットや、奈良・岡山産の「保命酒」・「霰酒」のようなものが好きであった[698]。シャンパンなどは、2本も飲んでしまったこともあったという[698]。天皇は日常は医者に勧められてワインばかりであったが、元来は日本酒が好きだったので、日野西たちは夜会の時には必ず「鶏酒」を一杯差し上げた。季節によっては「鴨酒」になることもあった。これらは、鶏肉または鴨肉に塩を振って軽く焼いたものを茶碗に入れて、上から熱燗の日本酒を注いだものである[698]。
- 第九皇女東久邇聡子(稔彦王妃聡子内親王)の証言では、「記憶力が抜群で、書類には必ず目を通した後に朱筆で疑問点を書き入れ、内容を全て暗記して次の書類と相違があると必ず注意し、よく前言との相違で叱責された伊藤博文は『ごまかしが効かない』と困っていた」とある。
- 「日本の残すべき文化は残し、外国の取り入れるべき文化は取り入れる」という態度を示した。
- 乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。蹴鞠も好み、自身でも蹴鞠をし、教えもした。蹴鞠の作法を知る人が少なくなったのを憂い「蹴鞠を保存せよ」との勅命と下賜金でもって明治40年(1907年)5月7日に飛鳥井家の蹴鞠を伝える蹴球保存会を梅渓道善(うめたにみちとう)を初代会長に発足させた。
- 能を好み、自己流の謡を吟じていた。侍従試補や掌侍に教えたりもしていた[675]。孝明天皇と英照皇太后も能が好きであった[700]。明治天皇は、能好きの英照皇太后のために青山御所に能舞台を造り、舞台開きを一緒に鑑賞し、たびたび能を催した[701]。
- 明治初期に洋装を始めてから、日清戦争が起きるまでは、フロックコートを着て公務をしていた[675][702]。
- 当時の最新の技術であったレコードをよく聴き、唱歌や詩吟、琵琶歌などを好んでいた。機嫌の良い時は琵琶歌を歌っていたが、周囲の証言では「あまり上手ではなかった」とある。
- オルゴールを愛していた[703]。オルゴールは、文久2年(1862年)、明治天皇が10歳の時に、天台座主の慈性親王(有栖川宮韶仁親王の第2王子)から贈られたが、これは明治天皇が最初に触れた西洋風機械仕掛けの可能性がある[703]。明治天皇は、東京で暮らすようになってからも、オルゴールを収集していた[703]。
- 1880年代、奥で奉仕する少年たちと一緒になってビリヤードを楽しんでいた[678]。
- 奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自ら進んでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。
- 散髪脱刀令が出された後の明治6年(1873年)3月、明治天皇が西洋風に断髪したことで、国民も同様にする者が増えたという。
- 「兵たちと苦楽を共にする」という信念を持っていた。例えば日清戦争で広島大本営に移った際、「暖炉も使わず殺風景な部屋で立って執務を続ける」といった具合であった。こうした態度は、晩年に自身の体調が悪化した後も崩れることがなかった。
- 青年期(とりわけ明治10年代:1877-1886年)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しよう(親政)と積極的であった時期がある。
- 無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14年(1881年)の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になる余り、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞である)。以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、自身も「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に帯刀していた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として名刀の散逸が防がれることとなった。反面、集めるだけでなく試し斬りを好み、数多くの名刀を試し斬りにて損傷させてもいる。
- 明治34年(1901年)に伊藤博文が内閣総理大臣の辞表を提出した時は「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表は出されず」と述べた。現に、明治22年(1889年)に制定された旧皇室典範と登極令で退位禁止が明文化されていた。
- 写真嫌いであったことは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネ(お雇い外国人の一人)による肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」が必要となり、作成されたものである。明治19年(1886年)に新しい軍装が制定され、内田九一が写真撮影をしてから十年以上経って明治天皇の見た目も変わり、従来の写真では、各国の王侯貴族に贈与するには適さなくなっていた[705][706]。しかし、宮内大臣の伊藤博文が明治天皇に写真撮影をお願いしても、天皇は「ウン」と答えたきりで許しがなく、後継の土方久元宮内大臣が天皇にお願いしても、天皇は「ウン」と応答するのみで許しがでなかった[707]。そこで土方は、明治天皇を撮影するのではなく、密かに筆写することを考えた[705][706]。土方は、画家で大蔵省印刷局雇のエドアルド・キヨッソーネに、明治21年(1888年)1月14日、芝公園弥生社行幸の日に、明治天皇の姿を至近距離からスケッチするよう命じた[705][706]。キヨッソーネは天皇をスケッチすることに成功したが、この時の天皇は正装姿ではなかったため、筆写できたのは天皇の顔のみであった[705][706]。そのため、キヨッソーネは自ら正装を着用して写真に収まり、それをモデルにして天皇の身体部を描いた[708][709]。その後、完成したコンテ画を当代有数の写真師であった丸木利陽が写真化して「御真影」は誕生した[710]。明治22年(1889年)7月27日、土方は罰をも覚悟して、それを明治天皇に奉呈したところ、天皇は一言も発しなかった。その後、外国の皇族から明治天皇の写真が欲しいとの申し出があったので、土方が2、3枚の「御真影」を持って行って署名を願ったところ、天皇は直ちに署名した。土方は「御真影」の勅許を得たものと、ようやくほっとした[371][708]。9月10日、明治天皇は「御真影」を作成したキヨッソーネに晩餐を与えた[708]。
- 医者も嫌いだった[711][712]。明治天皇は自分の健康に自信を持っていたので、体調が少し悪くても医者にかかろうとはしなかった[711]。病気の時に医者に診察させることも、寝込むのも嫌いであり、身近な奉仕者がうかつに提言すると、明治天皇の機嫌を損ねることもあるので、気を遣った[711]。明治天皇は、風邪を引いたら、まず生姜の砂糖湯や、橙湯を飲んで自分流に治そうとし、熱が高くなって悪化してから初めて侍医が拝診して、寝込むことになった[711]。
- 最晩年は、体調も悪く歩行に困難をきたすようになった。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いたり、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまい「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴るなど、これまでの壮健な天皇に見られなかったことが起こり、周囲を心配させた[713]。
- 大喪の日には、日露戦争の英雄の一人でのちに明治天皇の勅命で学習院院長を務める陸軍大将乃木希典が妻静子とともに殉死し、社会に波紋を呼ぶこととなった。
- 貧困層に対する医療政策として明治44年(1911年)2月11日、『済生勅語』によって、皇室からの下付金150万円を済生会創設に下付された。
- 諸外国では切手や貨幣に国家元首の肖像が数多く用いられていることから、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが明治天皇の肖像図案を提案したが拒絶された。そのため明治天皇の肖像切手は一度も発行されていなかったが、セルビアで2007年(平成19年)に発行された「セルビア・日本相互関係125年」記念切手の図柄に、関係樹立当時のセルビア国王ミラン1世と、若き明治天皇の肖像(右の画像1枚目)が描かれている[714]。
- 日露戦争で勝利した日本に列強支配打倒の希望を持った一部のイスラム教徒により、明治天皇カリフ化計画が「イジュティハート」誌上の論文にて主張された。イランからはタバタバーイーらの立憲派学者が明治天皇に電報を打ち、イスラム社会への保護と支援を求めた[715]。
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凱旋観兵式 小林万吾筆
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枢密院憲法会議 五姓田芳柳(二代)筆
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山形秋田巡幸鉱山御覧 五味清吉筆
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観菊会 中沢弘光筆
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憲法発布式 和田英作筆
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広島大本営軍務親裁 南薫造筆
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聖徳記念絵画館(東京都新宿区)
著名な御製
明治天皇は和歌を好み、多くの御製(読み:ぎょせい、天皇の自作和歌)を遺している。その数は、九万三千首余り[716] [注釈 7] といわれる。
よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな
よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ
しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける
わが國は 神のすゑなり 神まつる 昔の手ぶり 忘るなよゆめ
目に見えぬ 神にむかひて はぢざるは 人の心の まことなりけり
系譜
父は孝明天皇、母(生母)は中山慶子。父・孝明天皇の女御・九条夙子(英照皇太后)を「実母」と公称した。その姪で、息子・大正天皇の后でもある九条節子(貞明皇后)は義理の従兄妹でもある。乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。
| 明治天皇の系譜 |
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系図
| 114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
| 126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914) | |||||||||||||||
| 子女無し | |||||||||||||||
| 葉室光子 (1853-1873) | |||||||||||||||
| 稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 ) | |||||||||||||||
| 橋本夏子 (1856-1873) | |||||||||||||||
| 稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 ) | |||||||||||||||
| 明治天皇(第122代天皇) | |||||||||||||||
| 梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇) | |||||||||||||||
| 柳原愛子 (1855-1943) | |||||||||||||||
| 滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 千種任子 (1856-1944) | |||||||||||||||
| 久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子) | |||||||||||||||
| 竹田宮恒久王 | |||||||||||||||
| 周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子) | |||||||||||||||
| 北白川宮成久王 | |||||||||||||||
| 富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子) | |||||||||||||||
| 朝香宮鳩彦王 | |||||||||||||||
| 満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 ) | |||||||||||||||
| 泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子) | |||||||||||||||
| 東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||
| 貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折) | |||||||||||||||
| 園祥子 (1867-1947) | |||||||||||||||
以下、明治天皇の皇子女で成人した5人(1男4女)。
| 御称号及び諱・身位 | 読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 生母 | 備考 | |
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明宮嘉仁親王 | はるのみや よしひと |
1879年〈明治12年〉 8月31日 |
1926年〈大正15年〉 12月26日(満47歳没) |
第三皇男子 (第5子) |
柳原愛子 |
九条節子と結婚 (→皇太子妃→皇后→皇太后) 大正天皇(第123代天皇) 1912年(明治45年/大正元年) 7月30日: 父である明治天皇の崩御に伴い、 即位(皇位継承:践祚)。 子女:4男(4人)。 |
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常宮昌子内親王 | つねのみや まさこ |
1888年〈明治21年〉 9月30日 |
1940年〈昭和15年〉 3月8日(満51歳没) |
第六皇女子 (第10子) |
園祥子 |
竹田宮恒久王と結婚 恒久王妃昌子内親王 (つねひさおうひ-) 子女:1男1女(2人)。 |
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周宮房子内親王 | かねのみや ふさこ |
1890年〈明治23年〉 1月28日 |
1974年〈昭和49年〉 8月11日(満84歳没) |
第七皇女子 (第11子) |
園祥子 |
北白川宮成久王と結婚 成久王妃房子内親王 (なるひさおうひ-) 皇籍離脱後:北白川房子 (きたしらかわ-) 子女:1男3女(4人)。 |
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富美宮允子内親王 | ふみのみや のぶこ |
1891年〈明治24年〉 8月7日 |
1933年〈昭和8年〉 11月3日(満42歳没) |
第八皇女子 (第12子) |
園祥子 |
朝香宮鳩彦王と結婚 鳩彦王妃允子内親王 (やすひこおうひ-) 子女:2男2女(4人)。 |
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泰宮聡子内親王 | やすのみや としこ |
1896年〈明治29年〉 5月11日 |
1978年〈昭和53年〉 3月5日(満81歳没) |
第九皇女子 (第14子) |
園祥子 |
東久邇宮稔彦王と結婚 稔彦王妃聡子内親王 (なるひこおうひ-) 皇籍離脱後:東久邇聡子 (ひがしくに-) 子女:4男(4人)。 |
栄典
日本
外国
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オーストリア=ハンガリー帝国:聖シュテファン勲章大十字章(1881年5月16日)[717]
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ベルギー:レオポルド勲章大綬章(1880年11月20日)[717]
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デンマーク:エレファント勲章騎士(1887年5月18日)[717]
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フランス共和国:レジオンドヌール勲章大十字章(1883年3月20日)[717]
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ドイツ帝国:
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プロイセン:黒鷲勲章頸飾(1895年6月10日)[717]
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バイエルン王国:聖フーベルトゥス勲章騎士(1895年6月10日)[717]
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ブラウンシュヴァイク公国:ハインリヒ獅子勲章大十字章(1907年6月18日)[717]
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ザクセン=コーブルク=ゴータ公国:ザクセン=エルンスト勲章大十字章(1872年10月31日)[717]
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メクレンブルク:ヴェンド人の王冠勲章頸飾付大十字章(1885年2月2日)[717]
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ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国:白鷹勲章大十字章(1882年12月27日)[717]
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ヴュルテンベルク王国:ヴュルテンベルク王冠勲章大十字章(1896年12月23日)[717]
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ギリシャ王国:救い主勲章大十字章(1891年5月13日)[717]
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ハワイ王国:カメハメハ勲章頸飾付大十字章(1881年3月15日)[718]
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イタリア王国:
- 聖アヌンツィアータ騎士団騎士(1879年7月26日)[719]
- 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章大十字章(1879年7月26日)
- イタリア王冠勲章大十字章(1879年7月26日)
-
大韓帝国:大勲位金尺大綬章(1900年9月5日)[717]
-
モンテネグロ公国:ダニーロ1世勲章大十字章(1885年2月18日)[717]
-
オランダ:ネーデルラント獅子勲章大十字章(1881年7月26日)[717]
-
オスマン帝国:イムティヤ-ズ勲章(1890年6月13日)[717]
-
ポルトガル王国:キリスト・聖ベントのアヴィス及び聖ヤコブ帯剣勲章大十字章(1904年4月16日)[717]
-
清:頭等第一雙龍宝星(1898年12月20日)[717]
-
ロシア帝国:聖アンドレイ勲章騎士(1879年9月5日)[717]
-
スペイン王国:金羊毛騎士団騎士(1884年3月4日)[717]
-
シャム:大チャクリー勲章騎士(1887年12月22日)[720]
-
スウェーデン=ノルウェー:セラフィム勲章騎士(1882年4月20日)[717]
-
イギリス:ガーター勲章騎士(1906年2月20日)[717]
元号・追号
在位中の元号は、慶応と明治である。1912年(大正元年)8月27日、在位期間の元号から採って、「明治天皇(めいじてんのう)」と追号された(大正天皇勅定)。
明治天皇の在位時代から、一人の天皇在位中に元号を改変せず(「一世一元の制」のちに「元号法」)、またその元号を追号とする事が慣例となったため、(大正天皇、昭和天皇)以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない(追号も諡号の一種とする説もあるが、厳密には異なる)。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により桃山陵墓地にある伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)に治定(京都府京都市伏見区桃山町)されている。宮内庁上の形式は上円下方[721]。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇である。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族と共にその御霊は祀られている。
大正9年(1920年)、明治神宮の造営に伴い御祭神として祀られた。その後、関東神宮(在関東州・廃社)、また朝鮮神宮(在ソウル・廃社)などの海外神社に多く祀られた。戦後、北海道神宮(在札幌)にも合祀された。
著書
明治天皇の御製(和歌)の総数は93,032首あり、その全てを収めたものを「御全集」と称する。御全集157冊(昭憲皇后御歌集47冊を含む)全部は宮内庁侍従職に保管されていた[722]。
明治天皇を主題とした主な作品

小説
映画
- 明治天皇と日露大戦争(新東宝、1957年、演:嵐寛寿郎)
- 天皇・皇后と日清戦争(新東宝、1958年、演:嵐寛寿郎)
- 明治大帝と乃木将軍(新東宝、1959年、演:嵐寛寿郎)
- 明治大帝御一代記(大蔵映画、1964年、演:嵐寛寿郎)※上記の再編集版
- 日本海大海戦(東宝、演:松本幸四郎、1969年)
- 二百三高地(東映、1980年、演:三船敏郎)
- ラスト サムライ(ワーナー・ブラザース、2003年、演:中村七之助)
テレビドラマ
- 明治天皇 第一部(よみうりテレビ、1966年、演:17代目市村羽左衛門。青年時代は石倉英彦が演じた[725]。)
- 明治天皇 第二部(よみうりテレビ、1967年、演:13代目片岡仁左衛門)
- 二百三高地 愛は死にますか(TBS、1981年、演:6代目市川染五郎)
- 走向共和(CCTV(中国)、2003年、演:矢野浩二)
- 坂の上の雲(NHKスペシャルドラマ、2009年、演:5代目尾上菊之助)
- 西郷どん(NHK大河ドラマ、2018年、演:野村万之丞)
脚注
注釈
- ^ 王政復古の大号令により摂政と関白制度は廃止されたが、のち皇族に限り摂政は復活した(実際に皇太子裕仁親王〈のちの昭和天皇〉は大正天皇の摂政宮となっている:1921-1926年/大正10-15年)。
- ^ 『明治天皇紀』第2巻691頁にこの服の詳細な説明があり「地質黒絨、金綿を以て菊の花葉を胸部等に刺繍し、背面の腰部には鳳凰の刺繍あり。袴は同じく黒絨にして、幅一寸の金モール綿一条あり、帽は船形、紺天鵞絨を以て製し、左右両面に金綿にて鳳凰を刺繍し、前後に亘りて金モール線一条あり」とある。「ホック」は上着の留め金具のことを指していると思われる[375]
- ^ 宇多はかつて唐人に面会したことを悔いていて醍醐天皇に「外国人に『直(ぢき)に対(むか)ふべからざらくのみ』」(面会する場合は御簾ごしに会うべき)」と述べている。後白河法皇は譲位後に宋人に御簾無しで面会したが九条兼実は「天魔の所為」と述べている(高橋昌明、「平清盛の対中国外交と大輪田泊」『海港都市研究』 2007年 2巻 p.27-39, doi:10.24546/80030016, NAID 110006386886, 神戸大学文学部 海港都市研究センター
- ^ (堅田 1999)によればドイツ法制を日本に導入するほぼ唯一の窓口は国策機関の独逸学協会(会員に大蔵大臣で日本赤十字社社長の松方正義、ロエスレル、レーマンら)であり、同団体の影響も考えられる。
- ^ 創設期の陸軍野戦砲兵学校の教官であった。
- ^ これらの案は、5年後に迫っていた天皇即位50年記念事業の候補として取りざたされていたものであり、これを転用したものが少なくなかった[672]。
- ^ 宮内庁、明治神宮とも九万三千首余りと記しているのは、異動があった際に記述を変更しないようにとの配慮か。
出典
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- 第7冊 明治21年から明治24年まで ISBN 4642035273
- 第8冊 明治25年から明治28年まで ISBN 4642035281
- 第9冊 明治29年から明治33年まで ISBN 464203529X
- 第10冊 明治34年から明治37年まで ISBN 4642035303
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- 米窪明美『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』(新潮新書、2006年) ISBN 410610170X
- 米窪明美『明治宮殿のさんざめき』 文藝春秋、2011年/文春文庫、2013年
- 中山和芳 『ミカドの外交儀礼 明治天皇の時代』 朝日選書、2007年
- ジョン・ブリーン 『儀礼と権力 天皇の明治維新』 平凡社選書、2011年
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- 渋谷雅之・石黒敬章(日本語)『英傑たちの肖像写真』(渡辺出版)、2010年(平成22年)。 ISBN 978-4-902119-09-1。
- 坂本一登 『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入』(吉川弘文館、1991年) ISBN 464203630X
- 堅田剛『独逸学協会と明治法制』木鐸社、1999年。 ISBN 4833222825。全国書誌番号: 20020303。
- 西尾幹二 『新・地球日本史〈1〉明治中期から第二次世界大戦まで』(扶桑社、2005年)ISBN 4594048935
- 山口輝臣『明治神宮の出現』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2005年2月。 ISBN 4-642-05585-1。
関連項目
外部リンク
- 国柄探訪:変革の指導者・明治天皇 - ウェイバックマシン(2006年9月25日アーカイブ分)
- 明治天皇 - NHK for School
- 『明治天皇』 - コトバンク
- 日露戰爭記錄 - 国立映画アーカイブ
-
ウィキソースには、明治天皇崩御の告示の原文があります。 -
ウィキクォートには、明治天皇に関する引用句があります。 -
ウィキメディア・コモンズには、明治天皇 (カテゴリ)に関するメディアがあります。
|
明治天皇
|
||
| 日本の皇室 | ||
|---|---|---|
| 先代 孝明天皇 (統仁) |
皇位 1867年2月13日 - 1912年7月30日 慶応3年1月9日 - 明治45年/大正元年7月30日 |
次代 大正天皇 (嘉仁) |