立教大学
立教大学 | |
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大学設置 | 1922年 |
創立 | 1874年 |
創立者 | チャニング・ウィリアムズ |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人立教学院 |
本部所在地 | 東京都豊島区西池袋3-34-1 北緯35度43分49.8秒 東経139度42分14.2秒 / 北緯35.730500度 東経139.703944度 |
学生数 | 20,720 |
キャンパス | 池袋(東京都豊島区) 新座(埼玉県新座市) 陸前高田グローバルキャンパス(岩手県陸前高田市) |
学部 | 文学部 異文化コミュニケーション学部 経済学部 経営学部 理学部 社会学部 法学部 観光学部 コミュニティ福祉学部 現代心理学部 Global Liberal Arts Program (GLAP) |
研究科 | 文学研究科 経済学研究科 経営学研究科 理学研究科 社会学研究科 法学研究科 観光学研究科 コミュニティ福祉学研究科 現代心理学研究科 キリスト教学研究科 ビジネスデザイン研究科 21世紀社会デザイン研究科 異文化コミュニケーション研究科 法務研究科 人工知能科学研究科 |
ウェブサイト | https://www.rikkyo.ac.jp/ |
立教大学(りっきょうだいがく、英語: Rikkyo University/Saint Paul's(スクール・ニックネーム))は、東京都豊島区西池袋3-34-1に本部を置く日本の私立大学である。1922年に設置された。大学の略称は立大(りつだい)。
概観
大学全体
概要
英国国教会(イングランド国教会)を始祖とする会派、米国聖公会(歴代米国大統領の1/4が信者)の宣教師チャニング・ウィリアムズ主教が、1874年(明治7年)に東京・築地に設立した聖書と英学を教育する私塾、立教学校[注釈 1]を前身の一つとする日本屈指の伝統校である。ローマから英国に派遣されたオーガスティンの初代カンタベリー大主教着座(西暦597年)からの流れを汲む[2][注釈 2]。大学設立の起源は、米国聖公会の信徒であったマシュー・ペリーの黒船来航と初代米国総領事タウンゼント・ハリスの活動により日本への宣教勧告と学校開設の勧奨を受けた米国聖公会が、1859年(安政6年)に伝道と学校開設、医療活動を目的とするプロテスタント初となる日本ミッションを長崎に開設し、英語教育を開始したことに始まる。幕末から明治にかけて、日本と米国の外交の芽吹の中で誕生し、日米両国の友好の証として歴史を繋いできた[4][注釈 3][注釈 4][注釈 5]。日本聖公会系のキリスト教主義学校(ミッションスクール)である。
聖公会系の大学である名門オックスフォード大学クライスト・チャーチをはじめ、世界の聖公会系大学が120校以上加盟するCUAC(世界聖公会大学連合)に属している。1883年(明治16年)に、米国式カレッジとして東京大学とともに日本最高峰の教育機関である「立教大学校」を設立する[注釈 6]。1922年(大正11年)には大学令による大学となり、文学部、商学部、予科を設置。ミッション系大学としては同志社大学に次いで2番目に認可を受けた[14]。第二次世界大戦前にはSt.Paul's Collegeと変更。現在は正式な英称をRikkyo Universityとするが、今もスクール・ニックネームとして「St.Paul's」が使われる[15]。
戦間期以降、早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、東京大学、そして立教大学で構成される東京六大学の一校に数えられる[注釈 7]。
2001年から、同じ聖公会に属する聖路加国際大学と単位互換制度を開始。近隣の大学で構成するF-Campus(5大学単位互換制度)も開始した。
創立以来、国際性やリーダーシップを育むリベラルアーツ教育を実践しており、2021年時点で、10学部・27学科・8専修・1コース Global Liberal Arts Program (GLAP) を設置。大学院は15研究科を設置している。経営学部と異文化コミュニケーション学部は、入試難易度が高く、看板学部となっている。世界における評価では、質の高い先端的な研究を行う理学部が牽引している[16][17]。
蔦の絡まる煉瓦造りの歴史的建造物群とガラス張りの近代的な校舎が調和する池袋キャンパスは、都会にありながら緑豊かで、異国情緒ある洗練された美しいキャンパスとして知られている[18][19][20]。2012年に開館した池袋図書館は、収蔵可能冊数200万冊、閲覧席数1530席以上を有する、国内の大学でも屈指の規模を誇る図書館である[21][22][23]。多様なグループワークに対応可能な学習スペースと充実したICT環境に加え[24]、リフレッシュルーム、テラス席、ソファ席などが設けられており、カフェも併設する滞在型の図書館となっている[23]。ラーニング・アドバイザーも常駐し、文献の調べ方はもとより、レポートの書き方や研究構想のまとめ方を細かく指導できる体制を整えており、「本気で勉強したくなる図書館」を目指して、学生を強力にサポートする施設となっている[注釈 8][26]。芝生広場や中庭も広がる、穏やかで開放的な雰囲気の新座キャンパスは、近代的な校舎のほか、スタジオ棟、体育施設などが点在している。新座図書館は専門書が多く蔵書され、映像資料も充実している。
校友数は2019年時点で21万人を数え、全国および世界に「立教会」と呼ばれる校友組織が広がっている[27]。経済界をはじめ、出版、文学、メディアなど多くの分野で卒業生が活躍している。2016年に卒業生ネットワーク組織「立教グローバル/ローカルキャリア支援ネットワーク(GLCネットワーク)[28]」が発足し、多種多様な業界で活躍する卒業生たちが立教生のキャリア形成支援を行っている。「就職偏差値が上がった大学」ランキングでは全国1位[29]、イギリスの教育専門誌「タイムズ・ハイアー・エデュケーション (Times Higher Education)」による世界大学ランキング2022年版では、国際性において国内私大1位に認定されている[30]。
2020年には、大学院に日本で初となる、AIに特化した人工知能科学研究科を創設した[31]。2022年には、学内の温室効果ガスの排出を2030年までに全体としてゼロにすることを目指し、「カーボンニュートラル宣言」を表明した[32][33]。
国際性、リベラルアーツ教育
米国聖公会が設立した大学であることから、歴史的にも外国人教員が多く、国際的な学風である[注釈 9]。1907年(明治40年)には清国留学生のための「志成学校」を築地に設立し、古くから留学生を受け入れた国際交流を行っている。ミッション系大学の特質もあり、創立以来、語学教育に定評があるが、近年、国際化戦略である「Rikkyo Global 24」を推進し、教育プログラムも進化している。英語によるディスカッションやプレゼンテーションなど社会で役立つ実践的なコミュニケーションスキルが身につくプログラムがあり、中でも経営学部・国際経営学科、異文化コミュニケーション学部、GLAPでは全員が海外留学研修を行っている。2013年にはグローバル教育センターを設置し、立教GLP(グローバル・リーダーシップ・プログラム)をはじめ、国際協力人材育成プログラムや海外インターンシップなどのプログラムを設けている。
2014年に、文部科学省「スーパーグローバル大学創成支援事業」の指定校となる。グローバル化が進展し国際交流が盛んになるにつれ留学生も増え、学内における国際交流と留学情報発信の拠点として、「グローバルラウンジ」を池袋、新座の各キャンパスに開設した。日本にいながら留学生と交流することで、多様な文化に触れ、語学力を高められる施設で、国際交流イベントやワークショップも多く開かれる。専属の国際交流コーディネーターによる留学相談窓口もあり、留学プログラムの情報提供も行う。より幅広い国の学生に対応するためにイスラム圏の学生が主に利用できる、祈りの部屋を設置するなど、施設面でも充実を図っている。国際交流ボランティア制度もあり、来日した留学生の生活サポートを行い、積極的に国際交流を行うことができる環境が整う。
2015年からは、スタンフォード大学の学生と「陸前高田プロジェクト」に取り組んでいる。2016年からは、全学部生が受講できる「グローバル教養副専攻」を開始した。所属する学部学科で修得する専門性に加えて、もう一つの専門性を修得することで、多面的に物事を捉え持続的に考える力を養成するプログラムで、大学が認定する海外学習も行う。3コース21テーマの中から興味・関心あるものを選択し、テーマに沿って体系的に学ぶ内容となっている。中でも2018年には、データサイエンス副専攻が開設され、データ分析、IT技術、統計学、調査理論などを学び、グローバル人材に求められるデータ活用力を身に着けることができる。こうした主専攻+副専攻(メジャー、マイナー)の学部履修形態は欧米の大学では一般的であるが[注釈 10]、日本では、同じくミッション系大学の国際基督教大学が履修選択方法の一つとしてメジャー、マイナー(主専攻+副専攻)のプログラムを設置している。グローバル教養副専攻の履修科目は所属学科の卒業単位にも算入でき、修了すると卒業時に修了証が授与され、300以上ある全学共通科目とともに、リベラルアーツ教育が充実化した。また、他学部が開講する専門科目も一部を除き履修可能で、大学全体を通して履修できるプログラムの自由度が高いのが特徴となっている。2017年には、国や地域を超えて、世界で活躍するグローバルリーダーを育成する学部相当のGlobal Liberal Arts Program (GLAP) を設置した。
2021年11月、文部科学省「大学の世界展開力強化事業」において、新規採択分として私立大学で唯一の採択校となった[36]。2014年に採択された「スーパーグローバル大学創成支援事業」を引き継ぐ大学の中核事業として位置づけ、ソウル大学校(韓国)、北京大学(中国)、シンガポール国立大学(シンガポール)のアジアトップクラスの大学と「リベラルアーツ教育」を共同テーマとした大学間国際コンソーシアム "The Asian Consortium for Excellence in Liberal Arts and Interdisciplinary Education" (The ACE) を形成し、国際共同副専攻 (ALIS) を開設する[注釈 11]。
海外協定校は、2021年5月現在、世界43か国・地域に及んでおり、米国のコロンビア大学、コーネル大学、シカゴ大学、バージニア大学、英国のケンブリッジ大学、マンチェスター大学、リヴァプール大学、シェフィールド大学、フランスのパリ大学、オーストラリアのシドニー大学、モナシュ大学、ニューサウスウェールズ大学、シンガポールのシンガポール国立大学、中国の清華大学、南京大学など、世界227の大学と259の協定を結んでいる[37]。
リーダーシップ教育(BLP, 立教GLP)
リーダーシップ教育においては、経営学部では少人数の体験・実践的なコアカリキュラムであるBLP(ビジネス・リーダーシップ・プログラム)[38]があり、実際に企業と連携し、企業から提示される課題にチームで挑む中で、プロジェクトの進め方を学び、リーダーシップ力が養える環境となっている。このリーダーシップ教育は、日本初の学部必修のプログラムとして2006年に開始され[注釈 12][40]、インターンシップと同じく、社会体験ができるアクティブ・ラーニングとなっている。ここで培うリーダーシップ力は、これまでの組織内で権限を持つ一部の人が発揮するべきものとされた能力とは異なり、役職に関係なく全ての人が状況に応じて発揮することができるスキルである。質の高い授業と充実した施設環境の中で、能動的で主体性を持った学生が育ち、勉学に本気で取り組む風土となっている。上級生になるとSA(ステューデント・アシスタント)[注釈 13]としてプログラムの運営側に回り、下級生へのコーチングや教授のサポートをするなど運営側としての視点も身に付き、相乗効果が生まれている。卒業後に、いかなる企業や組織でも活躍していくことができる力を育成する環境となっている。企業側から見ても、学生(Z世代)の意見を取り込みながら、外部の会社に委託、発注することなく、市場調査を行うことができ、新規事業開発や戦略立案などで企業と社員を活性化させるインキュベーターとなり、産学連携の有効なモデルとなっている。また、社員のリーダーシップ研修の場にもなっている。
立教GLP(グローバル・リーダーシップ・プログラム)[41]は、内外で評価が高い経営学部のBLPのメソッドを全学で展開するために、2013年度に設置された。BLPと同じく、企業や団体の提示するプロジェクト課題に少人数のチームで取り組み、実践的、体系的にリーダーシップを修得できる全学部を対象としたプログラムで、日本語科目のほか英語科目も設けられており、国際性や語学力も高めることができる。英語科目には、グローバル教育センターが指定する海外学習プログラムに参加するリーダーシップ海外体験科目も用意されている。GLPは、今までの受け身の授業とは異なるプログラムで、本気で取り組んでいる人を応援する文化があり、仲間との真剣な取り組みの中で、主体的に考え行動していく力が身に付き、卒業後に様々な業界で活躍する人材を輩出している[42]。
2016年度からは立教サービスラーニング (RSL) が全学共通科目で始まり、NPO、行政、企業等の受け入れ先での体験学習を通じて、リーダーシップ力を磨くプログラムを用意している。延世大学・復旦大学・慶應義塾大学とは「リーダーシップフォーラム」を毎年開催している。
奨学金制度、経済的支援
学生の経済的基盤を整え、学費負担を軽減し、学業継続の機会を保障するために、様々な奨学金制度が用意されている[43]。立教大学独自の奨学金はすべて返還不要の給与奨学金で、人物、学業ともに優秀な学生の修学を援助するものとなっている。入学前に申し込むタイプ(入学前予約型奨学金)と入学後に申し込むタイプとの2種類がある。入学前予約型奨学金には、親元を離れ、住居費・生活費で経済的負担が増す、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県を除く全国の高等学校出身者対象の「自由の学府奨学金[44]」と、Global Liberal Arts Program (GLAP) への入学希望者を対象とした「GLAP奨学金[45]」がある。「自由の学府奨学金」の支給額は年額50万円(理学部入学者は年額70万円)で、採用候補者数は一般入試・大学入学共通テスト利用入試枠で約490名と、大きな枠となっており、4年間受給した場合、国公立大学の授業料とほぼ差がない制度となっている。入学後に申し込むタイプの奨学金の中には、経済的理由により修学が困難な学生を支援するための経済支援奨学金や国際化戦略の一環として、学生が積極的に留学プログラムに参加するよう設置された「グローバル奨学金」などがある。
名称の由来
「立教」の出典については諸説あるが、近年の研究により、最も有力なのは、かつて聖公会の祈祷書(礼拝時に用いる規則書)にあった「立教師」ということばに由来するのではないか、といわれている[46]。この「立教師」という言葉は、ウィリアムズ主教によって訳出された可能性が高い。その他の説として、朱子の『小学』立教篇から採ったとの説[47]、儒学者高愈が註をした「立教法以治人」から採ったとの説[48]、ヘンリー・セントジョージ・タッカーが「立教はセント=ポールズの日本名で、それは『教えの建設』を意味する」と記したとの説[47]がある。
応援歌や学園祭の名称などで使用されているスクール・ニックネームの、"St. Paul" についても確かな文献は見当たらないが、ウィリアムズ主教が1882年頃に英名として "St. Paul’s School" と命名したと考えられている[49]。米国聖公会系の学校には全て「守護聖人」が存在しており、St.Paul (SAINT PAUL) =聖パウロは、新約聖書の著者の一人。イングランド国教会ロンドン教区の主教座聖堂は「セント・ポール大聖堂」と聖パウロを記念して名付けられている[注釈 14]。ウィリアムズ主教は自ら遠く東洋へ赴いた伝道者として、偉大な聖パウロを守護聖徒と仰ぎ、その名を本学の名に冠したものと思われる。
建学の精神
校歌に謳われるように、立教学院は自らを「自由の学府」と呼び[52]、基本理念を端的に示すものとして各所で使用している[注釈 15]。
建学の精神を表す言葉が「PRO DEO ET PATRIA(神と国とのために)」で、立教大学では、これを「普遍的なる真理を探究し、私たちの世界、社会、隣人のために」と捉えている。「PRO DEO ET PATRIA」は、立教学校設立から約半世紀を経た1918年(大正7年)、築地から池袋への移転を機に、当時総理であったチャールズ・ライフスナイダーが、建学の精神を具体的に表現するものとして定めた立教の「楯のマーク」(現在のオフィシャル・シンボル)の中に書かれている[53][54]。
教育および研究
概要
リベラルアーツ教育に基づき、グローバルな課題と社会的要請に対応し、広い視野に立って課題を発見・解決できる能力を持った「新しい」グローバルリーダーの育成を教育の中心に据えている。「新しい」グローバルリーダーに不可欠な要素として「柔らかなリーダーシップ」と「グローバルな力」を掲げ、教育プログラムを構成している。「柔らかなリーダーシップ」とは、権限やカリスマ性がなくても、チームをまとめ、活性化させ、仲間の力を引き出すことができる誰もがトレーニングによって持つことができ活躍できる能力と捉えている。「グローバルな力」とは単に英語が話せるということではなく、あらゆる国や人種の多様な文化や価値観を受け入れ、認め、社会全体のために行動できる力としている[55]。これらの力は、遠い異国の地から日本にやってきて幾多の壁を乗り越え、道を開き活動した創立者や宣教師たちの行動力(#沿革を参照)そのものを表しており、建学以来流れる教育指針といえる。
米国ニューヨークにある名門コロンビア大学は、ジョージ2世の勅許によってイングランド国教会により設立された立教大学と同じ聖公会系の大学である。構内にはセントポールズ・チャペルも持つ。創立当初「キングス・カレッジ」としての大学の方針を確立する際に、全ての構成員は、宗教の自由の原則にコミットすることに同意している。立教大学の教育方針は、キリスト教精神に基づくリベラルアーツ教育であり、多様性を認め、受け入れる「真の国際人」を育てるグローバル教育を特長とし[56]、 「自由の学府」として、コロンビア大学と同じく、宗教の自由の原則にコミットされている[注釈 16][注釈 17]。ウィリアムズ主教は、1867年(慶応3年)、コロンビア大学より神学博士号を授与されている。
立教大学におけるキリスト教学は他のキリスト教系大学にあるような聖職者養成を目的とした神学ではなく、純粋に学問としてキリスト教を研究する宗教学である。したがって信仰の有無は問われない。文学部キリスト教学科では聖書学からキリスト教芸術や倫理学までキリスト教の広範な領域をカバーしており、キリスト教が世界の歴史や文化にどのような影響を与え、受けてきたのかを学び、世界の文化・思想・芸術など、多様な視点から探求することを目的としている。世界人口の約3分の1が信徒とも言われるキリスト教を広く学ぶことができる国際的な学科である。また、全学部生が履修できる全学共通科目では、仏教の世界やイスラームの世界についても学ぶことができる。文学部は大学設立当初に設置された文科をルーツとし、商科から続く経済学部と経営学部[注釈 18]とともに立教大学で最も古い。文学部文学科には、英米文学、フランス文学、ドイツ文学といった伝統と歴史ある国際系学問の専修もあり、外国の文学に加え、映画、音楽、芸術、思想など様々な観点から文化を幅広く学べ、国際的な知性と語学力を高めることができる。また、江戸川乱歩記念大衆文化研究センターでは、日本内外の大衆文化研究の拠点として研究成果の公開と社会還元を行っている。
経営学の分野では、経営学部に前述のBLP(ビジネス・リーダーシップ・プログラム)[38]があり、企業連携プロジェクトを通じてリーダーシップとコミュニケーション力を磨き、それぞれが自分の強みを発揮し、チームの成果を最大化させることを学ぶ。大学院には、「経営学研究科」にリーダーシップ開発に特化した日本初となる「経営学専攻リーダーシップ開発コース」(2020年開設)があり[57][58]、人材開発と組織開発を推進する人材を育成する。金曜夜と土曜日開講で、社会人も受講しやすい。また、リーダーシップ理論と教育技法を研究する「リーダーシップ研究所」も設置されている。国際経営学専攻は、国際経営分野でのリーダーシップ能力を備える人材育成を目的とする。企業経営の幅広い知識を提供し多角的な視野を養うMBAビジネススクール型の大学院としては、「ビジネスデザイン研究科」[59]があり、ビジネスシミュレーションを通じて戦略的意思決定をチームで探究し、論理的な分析力と事業構想を実現する創造的能力を育成する。社会人が受講できる昼夜開講制である。
非営利・公共分野を研究の主対象とするビジネススクールである「21世紀社会デザイン研究科」[60]は、社会の課題をNPO/NGOなどの公益法人や非営利団体で解決する人材を育成する日本初の大学院専攻である。晩年、非営利組織研究に注力したピーター・ドラッカーが伝える「非営利組織とは、一人ひとりの人と社会を変える存在である。」を体現する人材を育成するためのプログラムといえる。ドラッカーを日本に紹介したのは、立教大学教授を務め、多くの経営者が師と仰ぐ野田一夫である[61][62]。また、日経ビジネススクールと共同で、大学院生でなくても社会人であれば誰でも受講できる「ソーシャルデザイン集中講座」も開講しており、幅広い学習環境を提供している。
異文化コミュニケーション学部は文化や言語の多様性を理解し、グローバル社会の新しい姿を追究する学部である。外国語で会話する (conversation) だけでなく、他者の行動や心情、文化的背景まで理解し、意思疎通 (communication) する力を身に着け、価値観や意見が異なる中で生じる問題や課題を論理的に把握し、解決していくことができる人材を育成する[63]。ここで培われたコミュニケーション力、論理的思考力、問題解決能力は、国家間、民族間、宗教間などの国際舞台や多文化コミュニティで生じる問題に対処し解決していくだけでなく、実社会のあらゆる場面でも役立つ力となる。企業でもダイバーシティが広がり、多様性を理解し合いながらプロジェクトを進めていく重要性が高まる中、異国の宣教師たちが異文化を乗り越えて作り上げてきた立教大学だからこそ、生まれた教育プログラムといえる。
アメリカ研究の機関として1939年に日本で最初に設立された「アメリカ研究所」[9]は、立教大学の最初の研究所でもある。設立以来、定期刊行物の発行、研究会や講演会の開催に加え、図書の収集・公開を通して日本におけるアメリカ研究を支援している。また、1963年設立の「ラテンアメリカ研究所」[64]は、ラテンアメリカに関する総合的な研究と、研究者、関連分野で活躍する人材の育成を行う。特に「ラテンアメリカ講座」[65]は日本の大学教育に欠けていた社会教育の場を提供し始めた日本における市民講座および公開講座の草分け的な存在で、1964年4月から半世紀以上に渡り開講されている。これは「開かれた大学」として大学教育を広く社会に提供することを早くから目指してきた立教大学の姿勢を示すもので、通年で12科目を開講している。中でも多岐の分野を扱う「ラテンアメリカ論」や語学科目の「ラテンアメリカスペイン語」は毎年多くの受講生を集めている。
上記に加え、社会に開かれた大学として、「科目等履修生制度」を設けており、多くの学部で開講されている科目を履修することができる[66]。1978年には受験生向けのオープンキャンパスを日本の大学で初めて開始した[注釈 19]。生涯学習としては、50歳以上のシニアのための「立教セカンドステージ大学 (RSSC)」[68]が設置されている。
法学部は、日本国憲法の制定に深く関わり、憲法学の権威である宮澤俊義が、末延三次らと創設に尽力し、初代学部長を務めた学部である。『平和と秩序への叡智』の探究を教育と研究の基本姿勢とし、法学部創設時の宮澤の思いを受け継いでいる[69]。法学科、政治学科、国際ビジネス法学科の3つの学科で構成され、1978年には昼間部総合大学で日本初となる社会人入試を開始した。学科間の垣根が低いことが特徴で、法学と政治学を一つの学部で学ぶことができる。法学科には、法曹を目指す学生をサポートする法曹コースがある。また、公務員を目指す学生をサポートするために、公務員の職務内容や職業としての魅力を知ることができる講義や、行政が抱える課題に学生自らが解決案を企画、提案するなどの正課科目プログラムが用意されている。OB・OGをはじめとする現職の公務員との交流の場を設けるなどキャリア支援も行っている。2022年4月には、国際ビジネス法学科内にグローバルコースを開設した。
宮澤俊義の蔵書は「宮澤俊義文庫」として立教大学に寄贈され、約9,000冊の旧蔵書は複本として学生たちにも利用されている。図書と共に保管されてきた日本国憲法起草に関する原稿・草案・メモ・ノートなどは、学外も含めた研究者に利用されており、憲法制定にいたる経緯が分かる貴重な資料となっている[69]。
経済学部経済学科では基礎理論を学び、経済の本質を見極める力と、事象を定量的に把握する統計分析力を身に着け、時代の動きを読み、問題解決していくことができる人材を育成する。経済政策学科は、理論に加え、金融政策や都市政策、産業政策、環境政策など、社会を動かす政策を専門的に学び、社会問題を解決する政策立案力を培う。卒業後、公務員に加え、民間企業やNPOなどの立場でも活かせる公的視点も得ることができる。会計ファイナンス学科には、公認会計士、税理士、証券アナリスト、ファイナンシャル・プランナーなどを目指す学生のために、資格取得を支援するカリキュラムが用意されている。
芸術分野では、現代心理学部に映像身体学科があり、映像制作(映画・写真・広告など)やダンス、演劇などが学べる。シアター型教室や撮影スタジオなどの設備も充実している。映画監督を多く輩出しているのも特色である。(#立教と映画を参照)
観光分野では、日本の大学でさきがけとなる1946年の「ホテル講座」開設から始まる70年以上の観光教育の歴史を有するが[70][注釈 20]、ルーツは立教大学の前身の一つである立教学校に遡り、明治期の学校創生期から続く教育の伝統を受け継いでいる[注釈 21]。1967年に、社会学部観光学科を設置。この観光学科は、立教大学教授であった野田一夫が設立に尽力し、初代学科長を務めた。1998年には観光学科を改組し、日本初の観光学部と大学院に観光学研究科を開設した。2000年代には、JTB会長の舩山龍二やホテルニューオータニ総支配人であった甲田浩らが教授陣を務めるなど、観光業界の第一人者たちが教鞭を執っている[74]。 観光学部は観光ビジネスや地域振興を創出する人材の育成を目的とするが、グローバル化の中で台湾の高級ホテルと6か月間の長期インターンシッププログラムを設置。2021年には金沢大学と観光産業分野の中核人材育成のため、連携・協力に関する協定を締結した。全米で名門として知られるコーネル大学のホテル経営学部と同様に、卒業生には老舗ホテルや旅館の経営者も多い。特に、日本を代表するクラシックホテルの多くで立教卒業生が経営に携わっている。(#立教とクラシックホテルを参照)
理工学分野
理工学分野では、理学部の研究グループがJAXAのプロジェクトに参画し、小惑星探査機「はやぶさ2」に搭載したカメラ開発・運用に携わる[75]など宇宙関連の研究開発を進めている。理学部物理学科には宇宙物理学を専門にしている教員が多く在籍し、「素粒子・原子核」分野と「宇宙物理」の分野では、世界トップレベルの研究を行っている。論文の被引用数も多く、質の高い研究力によって世界における立教大学のプレゼンス向上に大きく貢献している[16]。理学部の別の研究グループでは、2020年に日本曹達株式会社との共同研究で、温室効果ガスとして知られる二酸化炭素を選択的に吸着する新規の多孔性物質(MOF:Metal-organic Frameworks)の開発に成功した。燃料電池車などに搭載する水素貯蔵ボンベにも応用が可能で、世界的に高い評価を受ける研究を行っている[76]。同年には、理化学研究所や物質・材料研究機構などとの共同研究により「偽造不可能なマイクロ光認証デバイス」を開発した[77]ほか、2021年には「金属クラスターを用いた近赤外-可視光変換」に世界で初めて成功し[78]、太陽電池や光触媒の効率を向上させる実用的な光アップコンバージョン材料としての利用が想定されるなど、産業界への貢献が大きく期待される成果を上げている。
また、新型コロナウイルスの変異株の感染メカニズムを解明するため、理化学研究所のスーパーコンピュータ「富岳」を用いたシミュレーションに、理学部の研究グループが取り組んでいる。2020年度には「富岳」の優先的な試行的利用として「新型コロナウイルス関連タンパク質に対するフラグメント分子軌道 (FMO) 計算」を行い、研究成果を公開するなど活躍している[79]。
理学部全体としても、理化学研究所や産業技術総合研究所といった国内トップクラスの研究機関と密に連携を図る「連携大学院制度」を導入している。産官学連携により研究を高度化・多様化させながら、次代の研究者である学生を育成している[16]。理学部生命理学科では、日本の鳥類研究の権威で日本野鳥の会会長を務める上田恵介が教えた。2016年に山階芳麿賞を受賞し、2020年には日本動物行動学会「日高賞」を受賞した[80][81]。
大学院理学研究科では、順天堂大学大学院医学研究科と協定を締結し、医学物理士養成プログラムである医学物理学副専攻を設置している。
AI研究(人工知能科学研究科)
2020年4月に開設された人工知能科学研究科では、人工知能・データサイエンスを、人文・社会科学を含む全ての学術分野と掛け合わせることで、社会課題の解決やビジネスチャンスを生み出す力を育成する。これまでの技術ではなしえなかった新しい方法で未来を切り拓き、誰もが快適で活力に満ちた社会の実現に貢献することを使命としている。昼夜開講制で社会人が学びやすい。文系、理系、学部4年生、社会人を問わず、学生が集まり、1期生では社会人が約7割を占め、会計士や弁護士、医師、シンクタンク、マスコミ業、金融業、中学校の教員など多様な人材が集まった[82]。
2022年2月から4月にかけて、NTTPCコミュニケーションズと東京電機大学の協力のもと、未来のAI業界を担う大学生・大学院生に向けて、AIの社会・ビジネス実装に関する実践的な「学びの場」を提供するための産学共創イベントである「AIイノベーションアワード2022」を開催した。業界をリードするAI企業による「学生向けAI企業セッション」プログラムに加え、AI企業各社および大学から出題されるテーマに学生が取り組む「ビジネスアイデア&プログラミングコンテスト」が行われ、最優秀賞受賞チームに賞金100万円、優秀賞受賞チームに賞金30万円が贈られた[83]。
大学院特別進学制度、5年一貫プログラム
5年で修士号が取得できる制度として、経済学部、法学部、観光学部には「大学院特別進学制度」があり、経営学部と異文化コミュニケーション学部には「5年一貫プログラム」が設置されている。それぞれ、大学院の講義を4年次から1年間受講してから、学部卒業後に大学院の前期課程(修士)を1年で修了する制度となっている。多くの場合、学部入学後に実施される選抜試験を通過することでプログラムを履修することが可能だが、異文化コミュニケーション学部の「5年一貫プログラム」の場合は、学部入学前の入試によって選抜する方式も実施している[84]。
Global Liberal Arts Program (GLAP)
2017年に開設されたGLAPは、人文科学、社会科学、自然科学など、リベラルアーツを英語で学習し、世界で活躍するグローバルリーダーを育成する学部相当のプログラム[85]。原則英語のみの授業で学位取得が可能となっている。これらは明治期に開設した立教大学校[注釈 6]のカレッジ構想とカリキュラムの復活と見て取れる。GLAPの1学年の人数は、20名の少人数制であり、希望入寮制により、国際交流寮で留学生と生活を共にすることもできる。2年次秋学期から1年間は、世界的に評価の高いリベラルアーツ大学などへ留学する。学部という名称は採用していないが、学習内容から実質的に国際教養学部といってよい。
アントレプレナーシップ教育
経営学部[注釈 18]の前身の一つである社会学部産業関係学科が属した社会学部では、日本の経営学の開祖の一人で[86]、多くの起業型経営者が師と仰ぐ野田一夫が経営概論を教え、ゼミでは現代産業企業論としてベンチャー企業の育成を教えた。ゼミの授業では、毎週当時のベンチャー企業経営者を呼んで、ケーススタディを行っていたが、その経営者の中には、ソフトバンクの孫正義、パソナの南部靖之、ぴあの矢内廣などがいた[87][88]。 野田は、当時の大学教授としては珍しく、コンサルタント業を営み、ニュービジネス協議会の初代会長も務めるなど、学生だけでなく当時のベンチャー企業経営者の多くが野田の指導を受けていたのである。授業で行っていたケーススタディもMBAビジネススクールでは一般的な教育プログラムであるが、当時の日本の大学の学部教育においては画期的なものであった。こうしたアントレプレナーシップ(起業家精神)教育は、1980年代初頭当時の日本ではどこも行っておらず、野田の授業は、日本のアントレプレナーシップ教育のさきがけであった[注釈 22]。
また、野田は、ピーター・ドラッカーを日本へ紹介した人物としても知られ、立教大学に赴任した翌年の1956年にドラッカーの『The Practice of Management 』を翻訳し、『現代の経営』を出版し、日本の経営者たちに大きな影響を与えることとなった。その後も野田はドラッカーと深い親交を持ち続けた[61][90][62]。野田はドラッカー学会の顧問を務めるが、同会で学術顧問を務める一橋大学名誉教授の野中郁次郎は、ドラッカーの功績の一つとして「マネジメントとはリベラル・アーツなのだ」と提唱したことを挙げ、マネジメントを教養と捉えている[注釈 23]。立教大学の教育の根本はリベラルアーツ教育であるが[92]、ドラッカーのいうマネジメントを学ぶことはリベラルアーツを学ぶことに他ならないといえる[93][注釈 24]。
野田が創った立教大学のアントレプレナーシップ教育は、現在の経営学部を中心とする経営学教育にも受け継がれ、若手の起業家を生んでいる[95]。2000年には米マイクロソフト創業者のビル・ゲイツに名誉博士号を授与し、大学のタッカーホールで立教学院創立125周年記念特別講演が開催されている[注釈 25]。
ドラッカー研究
ピーター・ドラッカー研究では、立教大学教授であった三戸公が1971年に『ドラッカー 自由・社会・管理』を出版し、ドラッカー理論体系を包括的な理論として再構成する画期をなす研究を行った。三戸は、藻利重隆(一橋大学教授)による企業管理論としての最初の体系的なドラッカー研究と、岡本康雄(東大教授)が行った初期のドラッカーにまで遡って探究する産業社会論アプローチに、規範論としての自由論を加えることで、ドラッカー理論は規範・理論・政策という統合的・包括的理論体系の「グローバルな理論」へと展開されていくこととなった。また、三戸は1970年代には、院生たちとドラッカー著作の外書輪読を行い、その成果を1979年に『ドラッカー 新しい時代の予言者』として出版し、近年2011年には『ドラッカー、その思想』を出版するなど、永きに渡り真摯に研究を進めた[96][97][98]。
データサイエンス教育・研究推進
- 社会情報教育研究センター (CSI)
- 大学内でデータサイエンス教育・研究の中枢を担う社会情報教育研究センター (CSI)[注釈 26]では、調査 (Research)・情報 (Information)・統計 (Statistics) という3つのスキルを活用した教育研究活動を行い、「データサイエンス力の高い人材育成」と「データリテラシー高度化支援」を全学的に展開している[99]。統計・社会調査系科目の提供や社会調査士資格取得支援に加えて、統計学習コンテンツ・ソフトウェア開発や調査・研究コンサルティング[注釈 27]を行い、さらには統計関連セミナーを開催している。後述の#データサイエンス副専攻への科目提供も行っている。また、既存データの利活用支援として、全国の大学・研究機関で実施された学術的かつ統計分析可能な社会調査データを収集・整理・保存し、「立教大学 社会調査データアーカイブ RUDA(ルーダ)」 として公開するとともに、公的統計情報の二次的利用支援も行っている。
- データサイエンス副専攻
- グローバル人材に求められるデータ活用力やIT技術を身につけることを目的として、社会情報教育研究センター (CSI) が提供母体となり、2018年に開設された全学部生対象のプログラムで、グローバル教養副専攻のテーマの一つになっている。具体的には、日本における調査の仕組みや公的統計の利活用を学ぶ科目群、統計学や調査理論、多変量解析、データ分析実習系科目からなる科目群、さらに英語で展開される科目群で構成され、それぞれの科目群は基礎系科目と先端系科目に分類され修了に必要な単位数が設けられている。
立教とスポーツ
東京六大学野球連盟に所属する野球部をはじめ、オリンピックや日本選手権など数々の大会で活躍したことから「水泳立教」と呼ばれ、日本水泳界をリードした水泳部。日本サッカーの父、デットマール・クラマーに学び、多くの日本代表と日本代表監督を輩出してきたサッカー部[100]。全日本選手権優勝7回、全日本大学選手権優勝6回のバスケットボール部など、立教のスポーツは輝かしい歴史と伝統を持つ[101]。アメリカンフットボール部も日本のアメフトの歴史そのものといえる由緒あるクラブであり、アメリカンフットボールの普及と1934年の東京学生アメリカンフットボール連盟設立に尽力し、「フットボールの父」と呼ばれるポール・ラッシュ博士によって創部された[注釈 28][101]。
ラッシュはアメリカンフットボール以外にも、多くのスポーツ振興を行うとともに、戦後の日本の復興に大きく貢献した。立教大学野球部が1931年に六大学野球リーグで初優勝した際には、野球部の米国遠征を大学体育主事であったジョージ・マーシャル教授と企画し、現地アメリカの大学との試合に加えてベーブ・ルースやルー・ゲーリックらによる歓迎会も催し、スポーツを通じた日本とアメリカの友好の架橋となった[103]。1933年には、サッカー部の2代目部長として、チームを関東リーグ1部へ昇格に導いた[100]。戦後まもなく、再来日したラッシュは、日本の復興には若者たちに夢や希望と生きる活力を与えるスポーツを復活させることが喫緊課題であるとし、終戦翌年の1946年に高校野球夏の甲子園大会を復活開催させている[103]。2013年には、ラッシュを記念して池袋キャンパスにポール・ラッシュ・アスレティックセンターが完成した。
1965年には、初代法学部長で、憲法学の権威である宮澤俊義が、教授職と兼務で日本野球機構(プロ野球)コミッショナーを務めた[104]。
立教のスポーツは長い期間、低迷する時代が続いたが、近年になってスポーツ施設が生まれ変わり、アスリート選抜入試など受け入れる制度も整い、有望な選手たちが入学し、立教大学を胸に世界と戦うための環境ができつつある。野球部は、2017年全日本大学野球選手権で1958年以来59年ぶりに4回目の優勝を飾った。陸上競技では、2018年から「箱根駅伝2024事業」が開始し、立教大学の誇りと伝統校復活のため、強化を進めている。2019年には、剣道部が、第38回全日本女子学生剣道優勝大会で全国優勝し、女子ラクロス部は、第11回ラクロス全日本大学選手権大会で全国優勝し、それぞれ創部初の快挙となった。また同年、第69回全日本学生賞典障害馬術競技大会で馬術部の杉本瑞生が創部以来初の個人優勝を果たした[105]。2021年、プロボクシング日本女子ミニマム級で、鈴木なな子が日本チャンピオンに輝いた[106]。日本学生自転車競技連盟主催の「全日本学生ロードレース・カップ・シリーズ2021」では、自転車競技部の中島渉が総合優勝し、同部史上初の快挙となった[107]。2022年、レスリング部が東日本学生リーグ二部リーグで優勝し、1962年大会から61年ぶりに一部リーグ復帰を果たした[108]。(#スポーツを参照。)
2008年には、スポーツ科学を総合的に学べるスポーツウエルネス学科がコミュニティ福祉学部に開設されている。2019年からは、同じ聖公会に属する聖路加国際大学と協定を締結し、プロ選手や日本を代表するトップアスリートの健康維持管理を医学的側面からサポートしてきた聖路加国際病院スポーツ総合医療センターの医療スタッフからスポーツにおける医療的な支援や協力を受けられる体制を整備している。2023年4月には、コミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科を改組し、スポーツウエルネス学部が設置予定である。
- 東京オリンピック・パラリンピックプロジェクト
オリンピック・パラリンピックの開催を契機に、スポーツを通じて多様性を尊重する社会の実現を目指し、スポーツから得られる感動体験とともに活力をもって生きる環境と機会を生み出す教育・研究活動を推進するプロジェクト。2016年11月に発足。具体的な活動に、立教スポーツの活性化、通訳・ボランティア派遣等大会支援活動、しょうがい者スポーツボランティアの育成、競技への科学的サポートなどがある。大会がゴールではなく、活動を活性化させる契機と捉えている。ブラジルオリンピックチームとは大学の施設をトレーニングキャンプで利用する覚書を締結した[109]。
- 立教大学とオリンピック
立教大学とオリンピックのつながりは古く、1924年パリ大会で、水泳部の学生が100メートル背泳ぎで6位入賞したことに始まり、1936年ベルリン大会では、水泳部の学生2名が競泳男子800m自由形リレーで世界新での金メダルを獲得した。サッカーでは、1964年東京オリンピックにサッカー部から3名の日本代表選手が出場し、次の1968年メキシコ大会でも3名の選手が活躍し、銅メダルを獲得した。その他競技も含め、立教大学からこれまで60名以上の選手を送り出し、コーチや監督といった選手を支えるスタッフとしても多くの関係者が出場している。競技以外でも、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの選手村食堂運営に、立教大学の「ホテル研究会」の学生が携わった[109]。
2020東京オリンピックで、池袋キャンパスに設置されたスピードクライミング壁で練習を行っていた野中生萌が、新競技となるスポーツクライミング女子複合で銀メダルを獲得した。
沿革
略歴
西暦597年、ローマから英国(イングランド)に派遣されたオーガスティンが、初代カンタベリー大司教(大主教)に着座したことを淵源の一つとする英国国教会(イングランド国教会)の流れを汲む大学である[2][注釈 29][注釈 2]。
米国聖公会(英国国教会起源の会派)の信徒であるマシュー・ペリーの来航(黒船来航)と、初代米国総領事でニューヨーク市立大学シティカレッジの創設者でもあるタウンゼント・ハリスの活動による日本の開国に伴い、ハリスと遣清宣教師から宣教勧告と学校開設の勧奨を受けた米国聖公会が、1859年(安政6年)2月に日本での伝道、学校開設、医療活動を目的とする日本ミッションの開設を決定する。この決定を受けて中国(当時、清)で活動していた米国聖公会宣教師のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズが任命され、プロテスタント最初の宣教師[注釈 30]として、1859年(安政6年)の5月と6月にそれぞれ来日し、長崎でミッションを開設し、英語教育を開始したことを起源とする。ウィリアムズはグイド・フルベッキとともに長崎洋学所でも教鞭を執る。教え子の中に、のちに早稲田大学を創設する大隈重信や、近代郵便制度を創設する前島密、坂本龍馬と肥後藩を薩長同盟に参加させようと画策した荘村助右衛門[注釈 31]など多くの志士がいた[13][111][112]。高杉晋作もウィリアムズから欧米事情を学んだ[112]。
ウィリアムズ主教は、1870年(明治3年)に大阪・川口の外国人居留地近くの与力町に英語塾「のちの英和学舎(1887年立教大学校に合併)」を設立し、1874年(明治7年)には東京・築地の外国人居留地に聖書と英学の教育を目的とした私塾「立教学校」を設立する。これらの学校が立教大学の前身である。
1883年(明治16年)には米国式カレッジとして日本最高峰の教育機関である立教大学校を設立[注釈 6]。1888年(明治21年)大隈重信が築地キャンパスの形成に尽力する[注釈 32]。1899年(明治32年)にはミッションスクールでの宗教教育を禁じる文部省訓令第12号に対処し、学校を存続させる。1918年(大正7年)には校地を池袋に移し、池袋キャンパスを開設する。
1940年(昭和15年)、日米関係の悪化により、創立から続く米国聖公会の経営から邦人による経営となる。同年、総長であったチャールズ・ライフスナイダーは退任し、翌年には本国政府の指示により米英人教員が帰国し、理事も全員邦人となった。戦時下では、寄付行為を「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」に変更し、チャペルは閉鎖し、校歌も『自由の学府』の文言が問題視され斉唱禁止となるなど、当時の軍国主義、国家主義が反映された運営となり、米国を象徴する自由[注釈 33]を掲げ、モデルとする『自由の学府』から自由が奪われていった[114]。
終戦を迎え、1945年(昭和20年)10月15日に、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令官(米国聖公会信徒)の命で「文部省訓令第8号」が発布し、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法とともに「信教の自由」が保障される。これにより、国内においてキリスト教精神に基づくリベラルアーツ教育が正式に認められることとなる。GHQにより、第二次世界大戦中にキリスト教主義学校としての特色を一掃し、職員の追放、教課の改廃を行い、戦後も回復の手段を講じなかったとして、当時の総長、中学部校長、学生監ほか8人が即時解職、公職追放処分を受けた[115]。理事会は新体制となり、寄付行為も「基督教主義ニヨル教育」に復帰することを可決し、チャペルも再開される。同時にポール・ラッシュにより大学の再生が進められ、拡張計画が作られた[114]。こうして、奪われた自由を取り戻し、再び発展に向けて『自由の学府』として歩み出していくこととなった[114]。
1990年(平成2年)には新座キャンパスを開設。大学創立者であるウィリアムズ主教が先導的な役割を果たし、1887年(明治20年)に設立された日本聖公会で洗礼を受けた信徒たちは、立教大学において学びたいと動機づけられ、実際に彼らが立大生になることが少なくない。
年表
19世紀以前
- 597年 - ローマから英国(イングランド)に派遣されたオーガスティンが、初代カンタベリー大司教(大主教)に着座。聖公会の起源の一つ[2][注釈 29][注釈 2]。
- 1534年(天文3年)- 英国国教会(イングランド国教会)がローマ・カトリック教会から独立して成立。
- 1693年(元禄6年)- イングランド王ウィリアム3世と女王メアリー2世の勅許により、ウィリアム・アンド・メアリー大学がイングランド国教会の機関として創設。
- 1784年(天明4年)11月14日 - アメリカ独立に伴い、サミュエル・シーベリー[注釈 34]がイギリス諸島以外で最初の聖公会主教となり、米国聖公会が成立。
- 1789年(寛政元年)- 米国聖公会がイングランド国教会から正式に分離され、イギリス諸島以外で最初のイングランド国教会となる[注釈 35]。
- 1837年(天保8年)- ウィリアム・ブーンが米国聖公会から中国への遣清宣教師に任命され、ジャワ島のバタヴィアに到着[116]。
- 1842年(天保13年)- ブーンが、廈門(アモイ)で中国伝道を開始[116]。
- 1844年(天保15年)10月26日 - ブーンが中国諸地域管轄の主教(米国聖公会初代海外伝道主教)として選出される[注釈 36][116]。
- 1850年(嘉永3年)- 立教大学創設者チャニング・ウィリアムズがウィリアム・アンド・メアリー大学に入学。
- 1852年(嘉永5年)- チャニング・ウィリアムズ、バージニア神学校に入学。
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- 1853年(嘉永6年)
- 7月 - マシュー・ペリー(米国聖公会信徒)が浦賀に来航。サミュエル・ウィリアムズが主席通訳官として帯同。
- 秋 - 初代海外伝道主教のウィリアム・ブーンが母校のバージニア神学校を訪れ、チャニング・ウィリアムズは海外伝道を決意する[13]。
- 1854年(嘉永7年)- 日米和親条約が調印。
- 1856年(安政3年)
- 6月 - ジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズが米国聖公会宣教師として中国・上海に到着。
- 8月21日 - タウンゼント・ハリス(米国聖公会信徒)[注釈 37]が初代米国総領事として下田に来航。
- 1858年(安政5年)
- 7月29日 - 日米修好通商条約が調印。
- 9月10日 - 米国軍艦ポウハタン号付きの牧師ヘンリー・ウッドが来日し、長崎奉行の要請により英語学校を開設し、長崎通詞に2か月間英語教育を行う[注釈 38][117][116]。活動にはタウンゼント・ハリスのサポートがあった[116]。
- 9月20日 - 米国軍艦ミネソタ号が長崎に入港。エドワード・サイル(米国聖公会遣清宣教師)と、サミュエル・ウィリアムズが日本宣教の可能性を探る目的を持って来日[117]。サイルはウッドの英語学校を見学。サイルが長崎奉行に英語学校の開設を提案[116]。
- 9月30日 - サミュエル・ウィリアムズが、米国聖公会内外伝道協会外国委員会宛に、江戸か長崎で宣教師が英語を教え、長崎で学校を開設する有効性を伝える[注釈 39][119]。
- 11月13日 - 米国総領事ハリスが、エドワード・サイル(米国聖公会遣清宣教師)宛の返書で神奈川で英語教育の学校開設を勧める[119]。

- 1859年(安政6年)
- 2月 - 米国聖公会は、日本が開国する状況下、米国聖公会内外伝道協会外国委員会で日本ミッション開設を決議[120]。
米国聖公会宣教師として1856年(安政3年)より中国・上海で活動するジョン・リギンズ、チャニング・ウィリアムズおよび医療宣教師の日本への派遣を決定[注釈 40][注釈 41][注釈 42]。 - 5月2日 - リギンズが長崎に来日[注釈 43][13][120][116]。米国聖公会日本ミッションの開設。立教大学の起源[注釈 44]。(日本で最初のプロテスタントミッション[注釈 30])
- 6月末 - ウィリアムズが米国軍艦ジャーマンタウン号で長崎に来日[注釈 45][122][116]。
- 11月 - グイド・フルベッキが長崎へ来日[注釈 46]。崇福寺広徳院に居住するリギンズ、ウィリアムズに迎えられ同居[注釈 47][123][118]。
- 長崎奉行からの要請もあり、リギンズは長崎通詞の教師として英語を教え、ウィリアムズも長崎洋学所などで英語を教える[注釈 48][129]。
- リギンズ、ウィリアムズ、フルベッキが何礼之に英語を教える[130]。
- 2月 - 米国聖公会は、日本が開国する状況下、米国聖公会内外伝道協会外国委員会で日本ミッション開設を決議[120]。
- 1860年(万延元年)
- 1861年(文久元年)
- 1862年(文久2年)
- 1863年(文久3年)- 荘村助右衛門がウィリアムズの元で学ぶ[注釈 31]。
- 1864年(文久4年、元治元年)
- 1865年(元治2年)- 何礼之の私塾が、長崎奉行から支援を受けて塾舎を新設。準官立となり、塾生は百数十名を数えた[139]。
- 1866年(慶応2年)
- ウィリアムズ、米国に帰国[13][140]。
- 10月 - ウィリアムズ、米国聖公会第2代中国・日本伝道主教に任命される[122]。
- 合衆国大統領アンドリュー・ジョンソンと国務長官ウィリアム・スワードと面会。日本の禁教撤廃にむけて米政府に要請[13]。
- 1867年(慶応3年)- ウィリアムズ、米国コロンビア大学より神学博士号を授与される[141]。
- 1868年(慶応4年、明治元年)
- 1869年(明治2年)7月 - ウィリアムズ、大阪に活動拠点を移す(日本と中国間を往来)[注釈 55][142][145]。
- 1870年(明治3年)
- 1871年(明治4年)
- 1872年(明治5年)
- 1873年(明治6年)
- 1874年(明治7年)
- 2月3日 - ウィリアムズが東京・築地の外国人居留地に私塾を開設[注釈 59] [122]。
年末までに立教学校と命名する[151]。
初代校長はクレメント T. ブランシェ[注釈 60][153]。 - 4月末または5月初め - アメリカ公使館が築地居留地1番・2番・21番・22番で構成される地所(現在の聖路加ガーデンの場所)に開設[注釈 3]。
- 12月 - 東京の塾は築地入舟町5丁目1番地(内外人雑居地)に移転[122]。
- ジェームズ・クインビーがモリスの後任として大阪の聖テモテ学校の校長となる[144][145]。
- 英国聖公会福音宣布協会(SPG)のアレクサンダー・クロフト・ショーが福沢諭吉家の家庭教師になり、慶應義塾の英語教師となる。
- ウィリアムズ、この年に初代日本伝道専任主教となる[122]。
- 2月3日 - ウィリアムズが東京・築地の外国人居留地に私塾を開設[注釈 59] [122]。
- 1875年(明治8年)
- 1月 - エレン・ガードルード・エディ(1874年11月、大阪に着任)が手伝っていた聖テモテ学校の女子生徒を引き取り[注釈 61]、大阪でエディの学校を開校[13][144][145]。
- 7月11日 - 日本人のための聖公会最初の教会「長崎出島教会」が設立。英国聖公会宣教協会(CMS)のヘンダーソン・バーンサイドが設立に尽力[154][155]。
- 9月 - エディの学校が照暗女学校(のちの平安女学院)と改称[注釈 62][注釈 63][注釈 64]。
- 12月 - アメリカ公使館が築地居留地(現在の聖路加ガーデンの場所)で新築し形容を整えた[注釈 3]。
- 立教学校、東京・入船町6丁目に校舎兼寄宿舎を開設。
- 官立学校の発展などもあり、大阪の聖テモテ学校の生徒数が減少する[144][145]。
- 1876年(明治9年)
- 1877年(明治10年)
- 1878年(明治11年)
- 11月 - 大阪から上京した宣教師ジェームズ・クインビーによって東京の私塾、立教学校が再開[122]。
- 11月24日 - テオドシウス・ティングが大阪に来日[162]。
- 1879年(明治12年)
- 1880年(明治13年)
- ジョン・マキムが来日。大阪、大和地方で活動する。
- 2月 - ウィリアムズ、第五回築地外国人居留地の区画競貸(せりがし)で私財を投じ、築地居留地37番区画(のちの「立教大学校」敷地)、38番区画を購入[112][164]。米国聖公会から新大学校舎の建設費を支出するとの連絡があり、この土地にアメリカのカレッジのようなキャンパス施設群を計画[13]。
- 6月 - ショーが福沢諭吉の援助を受け、芝に聖アンデレ教会を設立。
- 10月 - ウィリアムズの要請[注釈 66]によりジェームズ・ガーディナーが来日し、立教学校の初代校長に就任[122][165]。
- 大阪・英和学舎が風雲館[注釈 67]という学校と合併して江戸堀北通に移転[144]。
- 1881年(明治14年)10月 - 大阪・英和学舎[注釈 68]を川口居留地21番に新築し、移転[144]。
- 1882年(明治15年)
- 1883年(明治16年)
- 1884年(明治17年)
- 1885年(明治18年)
- 1887年(明治20年)
- 1888年(明治21年)
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)
- 1892年(明治25年)
- 7月 - ティングがガーディナーの後任として校長に就任[122]。
- 築地居留地53番に三一神学校(新校舎)・附属図書館が竣工。築地居留地54番に三一会館が竣工。
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)
- 1900年(明治33年)2月2日 - ジョン・マキムの米国聖公会本部への要請が実り、ルドルフ・トイスラーが夫妻で来日[177]。
20世紀
- 1901年(明治34年)
- 2月12日 - 米国聖公会宣教医ルドルフ・トイスラーが築地病院を前身とする聖路加病院(現:聖路加国際病院)を開設する(築地居留地37番)[177]。
- 3月 - 立教専修学校閉校。
- 1903年(明治36年)4月 - タッカーが総理に就任。ロイドが小泉八雲の後任として、東京帝国大学英文学科で夏目漱石、上田敏とともに英文学を教える。
- 1904年(明治37年)6月 - 東京三一神学校、専門学校令により認可される[183]。
- 1906年(明治39年) - ウィリアムズ、京都聖ヨハネ教会の創立資金を出す。ガーディナーに設計依頼[141]し、翌年教会堂が完成(現在、博物館明治村に移築展示されている)。
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 4月 - ウィリアムズがアメリカに帰国。
- 10月 - 立教大学英語会成立。
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 1912年(大正元年)
- 予科を1年制とする。
- 聖公会神学院の校舎が池袋に竣工。
- 9月 - チャールズ・ライフスナイダー[186]が総理に就任。
- 1915年(大正4年)4月 - 大学学友会結成。
- 1916年(大正5年) - 医学部開設の計画を進め、文部省内でも立教大学医学部創立論があったが、欧州での第一次世界大戦の影響から募金が集まらず、設置に至らなかった[187]。
- 1918年(大正7年)9月 - 北豊島郡西巣鴨町の新校地(池袋)に移転。本館、図書館、寄宿舎(現2号館、3号館)、食堂が竣工。

- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年)
- 1月 - 立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパス)聖別式挙行。
- 4月 - 文科を文学部、商科を商学部とし、予科を2年制とする。
- 1921年(大正10年)
- 6月 - 財団法人日本聖公会教学財団を財団法人聖公会教育財団と改称。
- 10月 - 野球部、四大学野球連盟に加盟。
- 校友会館が竣工(のちの診療所)。
- 1922年(大正11年)5月 - 大学令による大学へ昇格。文学部(英文学科、哲学科、宗教学科)、商学部、予科を発足。
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正15年)
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)- 聖路加国際病院設立者、ルドルフ・トイスラー[注釈 74]の依頼により、ポール・ラッシュが関東大震災後の聖路加の新病院建設募金活動に尽力(1931年まで)。
- 1931年(昭和6年)
- 4月 - 商学部を経済学部に改称。
- 8月 - 財団法人聖公会教育財団を分離し、財団法人立教学院(8月7日認可)と財団法人聖公会神学院を設立。立教学院の理事長にマキム、学院総長にライフスナイダーが就任。
- 10月 - 野球部が六大学リーグ戦で初優勝。
- 12月30日 - J・V・W・バーガミニー設計の宣教師館(のちの立教学院校宅11号館・12号館)が竣工する[199]。
- 1932年(昭和7年)
- 1934年(昭和9年)
- 1930年(昭和5年)5月26日 - ライフスナイダー総長が、米国大使館の定礎式で日米関係者が300人以上参加する中、司会進行と祈祷を行う[8]。
- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年)
- 1939年(昭和14年)9月 - アメリカ研究所開設[205]。
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 6月 - 立教大学報国団結成。
- 7月 - 本国政府の指示により米英人教員の帰国が相次ぐ。
- 10月 - ライフスナイダーが米国へ帰国。
- 12月 - 太平洋戦争勃発。翌年3月の卒業式を繰上げ挙行。大学・専門学校の修業年限を半年短縮。
- 1942年(昭和17年)
- 2月 - 遠山郁三の尽力により文部省へ医学部設置の認可申請を行い、5月に厚生省へも認可申請を行う。文部省の了承を得たが、聖路加の施設が戦時下の医療拠点として期待されていたことなどの阻害要因から厚生省の了承が得られず設置に至らなかった[207]。
- 6月 - 日本に最後まで留まっていたポール・ラッシュ教授が交換船により強制送還される[208]。ラッシュは米国送還後、米国陸軍日本語学校に志願し日系2世兵を指導し、米国各地の教会で戦争後の日本救済への支援協力を訴えるため講演活動を行う。
- 9月 - 理事会が寄付行為目的を「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」への変更を決議し、11月に申請(翌年2月15日認可)[122]。
- 9月 - 修業年限短縮に伴い卒業式を挙行。
- 10月 - チャペルを閉鎖し、「修養堂」と改称。一般教職員・学生の礼拝等に用いないといった内規も理事会で決定した。
- 校歌「栄光の立教」の「自由の学府」の文言が問題視され斉唱禁止。12月10日に戦時下の状況が反映される準校歌が制定される[209]。戦後になって、準校歌は制定を解除され、校歌「栄光の立教」を再び斉唱できるようになった。
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)4月 - 立教理科専門学校設置。
- 1945年(昭和20年)
- 4月 - 理科専門学校を工業理科専門学校に改組。
- 8月15日 - 終戦。
- 9月 - 授業が再開される。
- 10月15日 - 「文部省訓令第8号」の発布。これによって1899年(明治32年)から存続し続けた「文部省訓令第12号」が無効になった[181]。この発布はダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官の命によるものと伝えられている。1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法とともに、信教の自由が保障される。
- 10月20日 - GHQから2人の係員が立教大学を視察。一人はかつて立教大学で教鞭を執っていたポール・ラッシュであった[114]。ラッシュはマッカーサーの理解を得ながら、立教大学、日本聖公会、聖路加国際病院の再生とともに、アメフトや清里の復興にも多大な貢献をすることになる。
- 10月24日 - GHQの覚書『信教の自由侵害の件』により2代目総長の三辺金蔵ほか11名が追放される[212][180][114]。
- 11月7日 - 理事会は寄附行為目的を「基督教主義ニヨル教育」に復帰することを可決。
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)4月 - 文学部社会学科設置。新制「立教中学校」開設。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)4月 - 新制大学として認可・発足。文学部(基督教学科、英米文学科、社会学科、史学科、心理教育学科)、経済学部(経済学科、経営学科)、理学部(数学科、物理学科、化学科)が開設。医学部の開設も決定されたが、聖路加の病院施設が1956年までGHQの接収を受けており、実現には至らなかった[214]。
- 1950年(昭和25年)4月 - 立教工業理科専門学校を廃止[215]。
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)
- 5月 - 7号館開館。
- 10月 - 博物館講座を開設[216]。
- 12月 - バスケットボール部が全日本大学バスケットボール選手権大会で初優勝。
- 1953年(昭和28年)
- 4月 - 大学院に原子物理学科新設。
- 7月 - 8号館開館。
- 8月 - 野球部が第2回全日本大学野球選手権大会で初優勝。
- 1954年(昭和29年)
- 1月 - サッカー部が、1953年度全日本大学サッカー選手権大会で初優勝。高林隆が活躍し優勝に貢献。日本代表にも選出。
- 9月 - チャペル会館落成。
- 11月 - サッカー部が関東大学サッカー1部リーグで初優勝。
- 12月 - タッカーホール落成。
- 1955年(昭和30年)4月 - 一般教育課程を一般教養部と改称。
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)5月 - 米国聖公会の寄付により原子力研究所設立(神奈川県横須賀市)[217]。
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 1960年(昭和35年)
- 4月 - 立教高等学校を新座へ移転。
- 12月 - 旧:図書館本館・新館新築落成(現:メーザーライブラリー記念館新館)。
- 1961年(昭和36年)12月 - 立教大学原子炉、臨界試験成功[219]。
- 1962年(昭和37年)4月 - 文学部心理教育学科を心理学科・教育学科に分割。キリスト教教育研究所を設置[220]。
- 1963年(昭和38年)4月 - 文学部ドイツ文学科、フランス文学科設置。立教学院聖パウロ礼拝堂(新座キャンパス)聖別式、落成式挙行。
- 1964年(昭和39年)
- 1966年(昭和39年)6月 - 新座グラウンド開設。東長崎グラウンドを売却[222]。
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
- 1月 - 東京都へセントポール・グリーンハイツの土地と工作物等を返還。
- 10月 - サッカー日本代表として、メキシコオリンピックにサッカー部OBの鈴木良三、渡辺正、横山謙三が出場。銅メダル獲得(渡辺、横山はのちにそれぞれ日本代表監督に就任)。
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
- 1月1日 - 天皇杯・全日本サッカー選手権大会で、サッカー部が準優勝。現時点(2020年度大会終了時)で学生チームによる最後の天皇杯決勝進出。
- 4月 - 東京都に返還されたセントポール・グリーンハイツが東京都立城北中央公園となる。
- 1971年(昭和46年)11月 - タッカー主教像建立[225]。
- 1972年(昭和47年)
- 1月 - 大学計算センターを設置。
- 4月 - 立教英国学院開校。
- 1973年(昭和48年)9月 - 大場事件起こる[226]。
- 1974年(昭和49年) - 創立100周年記念式典を挙行。
- 1975年(昭和50年)7月 - 最初の非信徒総長・尾形典男就任。
- 1978年(昭和53年)
- 1980年(昭和55年)7月 - コンピュータ・センター開設。
- 1982年(昭和57年)
- 1985年(昭和60年)10月 - 大学院社会学研究科で社会人入試と外国人入試を実施。
- 1988年(昭和63年)12月 - 法学部国際・比較法学科設置。
- 1990年(平成2年)4月 - 新座キャンパス開設。各学部(当初は経済学部を除く)1年次生が週1日通学を開始。
- 1992年(平成4年)3月 - ウィリアムズホール竣工。
- 1994年(平成6年)
- 5月 - 7号館竣工。
- 12月 - 全学共通カリキュラム運営センター発足。
- 1995年(平成7年)3月 - 大学一般教育部解散。
- 1996年(平成8年)
- 2月 - 16号館竣工。
- 4月 - 法学部政治学科設置。
- 8月 - 太刀川正三郎の夫人、太刀川あさ子の寄付によって太刀川記念館竣工。
- 1997年(平成9年)4月 - 全学共通カリキュラム始まる。
- 1998年(平成10年)
- 4月 - 39年ぶりの新学部、観光学部(観光学科)・コミュニティ福祉学部(コミュニティ福祉学科)設置。新座キャンパスを武蔵野新座キャンパスに名称変更。
- 9月 - 17号館竣工。
- 2000年(平成12年)
- 4月 - 池袋、新座の各キャンパスで中高一貫教育を開始し、立教中学校は「立教池袋中学校・高等学校」、立教高等学校は「立教新座中学校・高等学校」となる。
- 8号館竣工。
- 6月16日 - ビル・ゲイツ(米マイクロソフト創業者)に名誉博士号授与。タッカーホールで立教学院創立125周年記念特別講演を開催[注釈 25]。
21世紀
- 2001年(平成13年)
- 2002年(平成14年)
- 3月 - 江戸川乱歩の邸宅と書庫として利用していた土蔵が立教大学に譲渡される。
- 4月 - 経済学部会計ファイナンス学科、社会学部現代文化学科、理学部生命理学科設置。21世紀社会デザイン研究科、ビジネスデザイン研究科、異文化コミュニケーション研究科が、独立研究科として昼夜開講で授業開始。
- 2004年(平成16年)4月 - 法科大学院設置[228]。
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
- 4月 - 法学部の国際・比較法学科を国際ビジネス法学科に名称変更。
- 7月 - 太刀川正三郎の夫人、太刀川あさ子の寄付によって太刀川記念交流会館竣工(新座)。
- 8月 - 大学院理学研究科が順天堂大学大学院医学研究科と協定を締結し、医学物理士養成プログラムを設置。
- 12月 - J・V・W・バーガミニー設計の立教学院校宅11号館・12号館(旧宣教師館)が新校舎建設のため解体。移築できるよう2007年9月下旬からの解体工事とともに保存調査が行われ、部材を倉庫に保管。(移築先は未定)
- 2008年(平成20年)4月 - 異文化コミュニケーション学部(異文化コミュニケーション学科)設置。コミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科設置。立教セカンドステージ大学開校。
- 2009年(平成21年)
- 3月 - 14号館竣工。
- 4月 - 文学研究科組織神学専攻募集停止、キリスト教学研究科設置。
- 9月21日 - 日本聖公会宣教150年を記念して来日した第104代イングランド国教会カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ師に名誉博士号を授与。カンタベリー大主教による記念講演を開催。
- 2010年(平成22年)3月 - 7号館B棟竣工。社会情報教育研究センター (CSI) を開設。
- 2011年(平成23年)3月 - マキムホール竣工(15号館)。8号館、4号館新築部分竣工(新座)。富士見総合グラウンド「クラブハウス」および「馬術部関連施設」竣工。
- 2012年(平成24年)9月 - ロイドホール竣工(18号館)、池袋図書館開設。
- 2013年(平成25年)
- 3月 - ポール・ラッシュ・アスレティックセンターおよび立教池袋中・高教室棟竣工。
- 4月 - グローバル教育センター開設。旧図書館本館(旧館・新館)の名称をメーザーライブラリー記念館へ変更。
- 6月 - チャペル会館竣工。
- 10月 - 立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパスチャペル)に新パイプオルガン導入。

- 2014年(平成26年)
- 創立140周年。
- 1月 - 立教学院聖パウロ礼拝堂(新座キャンパスチャペル)に新パイプオルガン導入。
- 1月21日 - 池袋キャンパスで駐日米国大使館首席公使カート・トンを招いて「日米友好の木 ハナミズキ」の植樹式を開催。学校法人として初めての受贈[注釈 5]。
- 4月 - メーザー・ラーニング・コモンズ開設。
- 5月 - 立教学院展示館が開設。
- 7月 - セントポールズ・フィールド完成。
- 9月 - 文部科学省「スーパーグローバル大学創成支援」に採択。
- 2015年(平成27年)3月 - セントポールズ・アクアティックセンター竣工。
- 2016年(平成28年)
- 4月 - 社会学部に「国際社会コース」、異文化コミュニケーション学部に「Dual Language Pathway」を設置。
- 11月 - 東京オリンピック・パラリンピックプロジェクトが発足。
- 2017年(平成29年)
- 2月 - ポールラッシュ・アスレティックセンターがパラリンピック水泳競技のナショナルトレーニングセンター競技別強化拠点施設に指定。
- 4月 - Global Liberal Arts Program (GLAP) 開設。岩手県陸前高田市に岩手大学と共同で「陸前高田グローバルキャンパス」開設(立教大学陸前高田サテライトを含む。東日本大震災を教訓とした防災教育などを実施)[広報 2][229]。
- 4月 - 大学院理学研究科に順天堂大学大学院医学研究科と連携した医学物理学副専攻を設置。
- 5月 - 2018年度以降の法科大学院の学生募集の停止を決定[228]。
- 6月 - 野球部が全日本大学野球選手権で優勝。1958年以来59年ぶり4回目の日本一の栄冠。
- 6月 - ブラジルオリンピック委員会と施設利用等に関する覚書を締結。
- 7月 - 西武ライオンズと地域社会の発展、教育振興への寄与を目指し「連携協力に関する基本協定」を締結。
- 7月 - 豊島区と「2020年の東京オリンピック・パラリンピック事業における連携協力に関する協定」を締結。

- 2018年(平成30年)
- 2019年(平成31年)
- 2月 - 理学部の研究室が開発に協力した光学航法カメラを搭載した小惑星探査機「はやぶさ2」が小惑星リュウグウの着地に成功。
- 12月 - 聖路加国際大学と医療的な支援および協力に関する協定を締結。
- 2020年 (令和2年)
- 2021年 (令和3年)
- 2月 - 理学部の研究グループが「金属クラスターを用いた近赤外-可視光変換」に世界で初めて成功[78]。
- 3月 - 金沢大学と観光分野を中心とする中核人材育成のため、連携・協力に関する協定を締結。
- 8月 - 2020年東京オリンピックで、池袋キャンパスで練習を行っていた野中生萌が、新競技となるスポーツクライミング女子複合で銀メダルを獲得。
- 11月2日 - 文部科学省「大学の世界展開力強化事業」に採択[36]。
- 11月3日 - 立教大学の前身の1つである英和学舎のあった川口基督教会の地に「大阪の近代教育発祥の地 記念碑」が建立。コロナ禍のため1年延期となっていた川口基督教会「宣教150周年記念感謝式」が行われる[231][232]。
- 2022年 (令和4年)
- 2023年 (令和5年)4月 - コミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科を改組し、「スポーツウエルネス学部」を設置予定。同学部の設置に伴い、コミュニティ福祉学部を福祉学科とコミュニティ政策学科の2学科に改編予定[233]。
創生期の歴史
築地キャンパス(立教と聖路加)
立教大学の前身の一つである立教学校は明治初期に築地居留地に開設されたが、1880年(明治13年)には、米国聖公会から新大学校舎の建設費を支出するとの連絡があり、ウィリアムズは築地居留地に学校、教会、病院からなるアメリカのカレッジ型のキャンパス施設群を計画した[13]。その後、拡張計画を踏まえ施設を構築するため、居留地の区画競売で新規に土地を入手し、立教大学校、聖三一大聖堂などを建設。湯島で設立された立教女学校も築地に移転し、築地居留地に聖公会の拠点を増やしていく。明治中期には、大隈重信の尽力もあり、総計約2万1476平方メートル、築地居留地全体の約22.2%を聖公会の土地とし、立教と聖路加の聖公会関連の建物が立ち並ぶ築地キャンパスを構成することとなった[注釈 32]。
- 慶應義塾発祥の地
築地居留地37番~40番の「立教大学校校舎、主教館、聖三一大聖堂、ガーディナー邸」(現在の聖路加国際病院の敷地内)は、1858年(安政5年)に岡見彦三が福澤諭吉を講師として慶應義塾の起源となった蘭学塾を設立した場所(中津藩中屋敷跡地)でもあり、立教大学と慶應義塾大学は同じ地で創生期が形づくられた[234]。当地にある慶應義塾発祥の地記念碑は、当初聖路加国際病院敷地内に建立されたが、区の道路整備に伴い、従来の位置から病院前(南西側)の現在の場所に移転されている[234]。
- 築地居留地鳥瞰図
上記絵図は、ジェームズ・ガーディナー立教学校初代校長が描いたもので、1894年(明治27年)のSpirit of Missionsに掲載され、当時の立教築地キャンパスと築地居留地の全体像がよく分かる貴重な資料となっている。中央部に立教大学校校舎(築地居留地37番)、主教館(築地居留地38番)、聖三一大聖堂(築地居留地39番)、三一神学校(築地居留地53番)、三一会館(築地居留地54番)などが確認できる。1894年(明治27年)以前に描かれた絵図のため、それ以後(1895年以後)に竣工した立教中学校寄宿舎(築地居留地59番、60番)、立教中学校校舎「六角塔」(築地居留地57番、58番)などは完成予想図として実際に建てられた建物とは異なる構造物として描かれている。また、聖三一大聖堂の横に描かれている居留地内でもひと際高い尖塔は、その他の写真資料でも確認できず、実際には建築されなかったものと考えられる。
1894年(明治27年)6月の明治東京地震で、立教大学校校舎などの初期のガーディナー設計の作品が被害にあった。そのため、以後ガーディナーは耐震性に配慮した設計を行うことになるが、絵図中に完成予想図として描かれた立教中学校寄宿舎、立教中学校校舎「六角塔」は、実際には、当初の設計・構造を変更し、建物上部に軽量の木材を利用し、絵図とは異なる形状の建物として建築されることとなったと考えられる。ガーディナーの当時の設計変更が汲み取れる資料ともいえる。1896年(明治29年)には、聖公会の愛恵病院[注釈 76]が立教大学校校舎があった築地居留地37番に移転し、築地病院と改称して開設され、その後1899年(明治32年)に一度は閉院するが、1901年(明治34年)には、ジョン・マキムの要請により来日したルドルフ・トイスラーが、同じ築地居留地37番に築地病院を前身とする聖路加病院(現在の聖路加国際病院)を開設し、病院を再建した[235]。こうして当初のウィリアムズの計画通り、学校、教会、病院からなる米国聖公会のキャンパス施設が整備されていったのである。
1910年(明治43年)には、学生数の増加に伴いさらなる設備拡充が求められたことから、北豊島郡巣鴨村大字池袋(現在の池袋)に大学移転用地を購入。1919年(大正8年)に池袋キャンパスを開設し、大学施設は築地から池袋へ移転することになるが、その後も築地キャンパスには立教中学校や立教女学校、清国留学生のための志成学校、聖路加の病院施設等は所在しつづけていた。1920年(大正9年)には築地に聖路加国際病院付属高等看護婦学校が設立された。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災により築地の校舎群が損壊、焼失したことから、中学校と女学校は築地から移転、志成学校は閉校し、築地キャンパスには看護学校以外の学校施設は姿を消すこととなった。聖路加の病院施設も倒壊するが、入院患者80名を青山学院の寄宿舎に移送、後に仮設病院を建設して診療を継続した。また、震災後も築地には立教幼稚園があった[194]。
現在、築地の立教の関連施設があった場所には聖路加国際病院と聖路加国際大学に加え、隣接して建っていた米国公使館跡には聖路加タワーなどが所在している。聖路加国際病院礼拝堂、トイスラー記念館、聖路加国際病院旧病棟の建物は、池袋の立教学院公宅(旧宣教師館、解体材が倉庫保存)や立教女学院高等学校校舎、聖マーガレット礼拝堂等も設計したJ・V・W・バーガミニーの作品である。
立教大学と大隈重信(長崎から続く歴史)
大隈重信は、幕末に長崎でチャニング・ウィリアムズから英語、数学など英学を学び、のちに東京専門学校(現・早稲田大学)の2代目校長となる前島密らとともに立教大学創設者ウィリアムズの最初の弟子の一人であった[13][111][112]。
大隈はウィリアムズの盟友のグイド・フルベッキにも英語を学んだ。ウィリアムズとフルベッキは共に長崎洋学所で教鞭を執った[236][237]。当時の教材は新約聖書や合衆国憲法に加え、アメリカ独立宣言であった。独立宣言の「人は平等に生れ、生命と自由と幸福の追求は天与不抜の権利である。」との声明は、近世封建社会下にあった日本の青年の心に火をつける。かくして、大隈は日本の政治上の近代化のために大志を抱くこととなり、生涯に渡って大きな影響を受けることとなった[238]。アメリカ独立宣言起草者のトーマス・ジェファーソンはアメリカでハーバード大学に次いで2番目に古い歴史を持つ、ウィリアムズが卒業したウィリアム&メアリー大学の卒業生でもあり、ウィリアムズにとっても同郷バージニア出身の立志伝中の英雄であった。
大隈は、「ジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには、青年を教育することの必要を感じてバージニア大学を設立した。ジェファーソンと同じ考えで、早稲田大学を創設した。」と語っている[238]。ジェファーソンの「人間精神の無限の自由」は、立教大学では『自由の学府』に受け継がれ、早稲田大学では建学的基本精神なる『学問の独立』に受け継がれている[238]。
立教大学も早稲田大学も、ともに長崎に源流を持つ。大隈は、長崎洋学所に加え個人的にウィリアムズとフルベッキから英学を学んだ後、1867年(慶応3年)、同じく長崎で早稲田大学の源流となる佐賀藩の英学校「蕃学稽古所(翌1868年に致遠館と改称)」をフルベッキを教師に迎えて開設のために尽力したのち、教頭格として指導にあたったが[143]、立教大学の源流も1859年(安政6年)にジョン・リギンズとウィリアムズが長崎に開設したプロテスタント初のミッションにあり、両大学ともに幕末の長崎からの歴史をこれまで繋いできたのである[239]。ウィリアムズもフルベッキも来日後、同じ崇福寺に住み[123][118]、その後、外国人のために整備された長崎・東山手外国人居留地でも、それぞれ五番館と三番館と近所に居を構えた[134][注釈 77]。1862年(文久2年)に、東山手居留地内(11番地)に設立された日本で最初のプロテスタントの教会である英国聖公会会堂の初代チャプレンをウィリアムズが務め、2代目チャプレンはフルベッキが務めた[120][132]。坂本龍馬が中心となって結成した亀山社中や、長州藩の伊藤博文や井上馨とも取引を行ったグラバー商会も隣接する大浦居留地の2番にあり[240]、トーマス・グラバーは英国聖公会会堂の管理人の一人であった[137]。大隈も他の志士と同じようにウィリアムズとフルベッキの住居にも通い、教えを乞うたことであろう。ウィリアムズを訪れる日本の志士は、公式な訪問を避けるために、夜間に訪れるなど、秘密裏に情報交換をすることもあった[116]。
後年、大隈は1919年(大正8年)に開催された立教大学池袋校舎落成式に来賓として出席する。そこで長崎時代から続く大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から、立教大学との縁故に及び、さらに50年来の日米両国人の交誼を説く演説を行った[4]。
大隈が立教築地キャンパスの形成に尽力したことは立教大学との縁故の一つである[注釈 32]。アメリカ合衆国式のカレッジを日本に建設するとの計画のもと、新たな施設建築のため、土地を必要としていたウィリアムズの要請を受け、大隈は、1888年(明治21年)から枯渇状態であった築地居留地の予備地の造成に尽力し、ウィリアムズが計画した学校、教会、病院からなる米国聖公会のキャンパス拡張に大きく貢献したのである。大隈は早稲田大学を創設した人物であるが、立教大学にとっても創生期の発展に貢献した重要な人物であった。
また、大隈重信は聖路加病院の国際病院化と新病院建設計画を支援するため、1914年(大正3年)に聖路加国際病院設立評議会を設立し会長に就任した。評議会の実行委員として立教大学校出身の阪井徳太郎も活躍し、政財界の有力者たちによる支援の輪が広がっていく。こうしてウィリアムズの元で学んだ大隈と阪井の尽力により、聖路加病院は新病院を建設し、聖路加国際病院へと発展していくこととなった[241][242]。
聖公会ミッションの医療活動の歴史
ミッションの医療活動
立教大学は、開設以来、幾度と医学部の開設を構想してきた[207]。立教大学を創設した米国聖公会のミッションは、伝道を行い、教育活動と医療活動を展開していくことが活動の本質であった(#年表を参照)。ミッションにおいて教育活動の中心となるのが学校や寄宿舎で、医療活動の中心となるのが病院や診療所であり、米国聖公会は1859年(安政6年)、幕末の長崎で日本ミッションを開設した当初から、これらの開設と運営を進めてきた[116]。
米国聖公会伝道本部から宣教師に任命されたジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズによって、日本でプロテスタント初となるミッションが開設され、早速二人は教育活動を始めたが、同時に医療宣教師(宣教医)であるハインリッヒ・シュミット医師が任命され、日本で医療活動と医療従事者向けに教育活動を始めた。シュミットは長崎に診療所を開設し、治療活動を行うとともに、地元の医師に西洋医学と英語を教え、近世日本の布教史における最初の宣教医となったのである[121][134]。その後、米国聖公会の活動の中心は、のちに初代日本伝道専任主教となるウィリアムズの動きに伴い、長崎から、大都市の大阪、東京へと移っていく。
大阪では、1870年(明治3年)にウィリアムズが、川口居留地近くの与力町に礼拝堂と英語塾を開設したことを足掛かりにミッション拠点を構築していくと[13]、1873年(明治6年)に、米国聖公会伝道本部から宣教医に任命されたヘンリー・ラニング医師(M.D.)が診療所を開設し、医療活動を始めた。1883年(明治16年)には、大阪・川口居留地8番に木造2階建ての病院が新築され、ラニング医師が院長を務めたが、この病院が現在の聖バルナバ病院となった[149]。
東京では、1874年(明治7年)に、築地居留地にウィリアムズが私塾(立教学校)を開設し拠点を築いていくと、1883年(明治16年)に、フランク・W・ハレル医師(M.D.)が宣教医に任命され、翌1884年(明治17年)に来日し、深川聖三一教会近くに「大橋診療所」を開設する[150][149]。ハレル医師の医療活動は進展し、患者数も増えていくが、1887年(明治20年)にハレルの日本政府への赴任が決まり、宣教医を辞職しミッションから退くこととなった[149]。しかし、1890年(明治23年)になるとウィリアムズの要請により、医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英語名:Tokyo Dispensary)を新たに開設して院長となり、医療活動を再開する。その後、前項「#築地キャンパス(立教と聖路加)」の記述の通り、愛恵病院は、立教大学校校舎(現・立教大学)があった築地居留地37番に移転し、「築地病院」(英語名:St. Luke's Hospital)と改称して開設。一旦閉鎖した後、ジョン・マキムの要請により来日したルドルフ・トイスラーが1901年(明治34年)、同地に「聖路加病院」(英語名は同じくSt. Luke's Hospital)を設立して、閉鎖していた病院を再興し、現在の聖路加国際病院へ繋がっていくこととなった[235]。
このように聖公会のミッションの教育事業と医療事業はセットであり、学校の開設とともに医師を育成する医学部開設構想の流れはミッションにおいて自然なことであった。
医学部開設構想
1916年(大正5年)に、築地にあった立教大学に医学部の開設が計画される。当時、聖公会の築地キャンパスには、大学に隣接して、聖路加病院(現:聖路加国際病院)が設置されており、連携を取りながら運営が可能であった。学校を管轄する文部省内でも、立教大学医学部創立論があり、設立に向かって計画が進み出したが、当時欧州での第一次世界大戦の影響から医学部開設のための募金が集まらず、設置に至らなかった[187]。 その後も、聖路加病院の院長で、立教学院の理事でもあったトイスラーと医学部設置構想を進めるなど、大正から昭和に至るまで度々計画が具現化される問題であった[207]。
1941年(昭和16年)には、理事会において立教学院総長兼大学学長であった遠山郁三より「多年ノ懸案タル」医学部設置の提案がなされた。聖路加国際病院(当時・財団法人聖路加国際メディカルセンター)との協力のもとで実現しようとする計画であった。理事会において、聖路加国際病院院長の橋本寛敏も出席し、必要性などについての発言を行った。その結果、医学部を聖路加国際病院と協力して設置することに一致決定したのであった。この立教側の決定を受けて、聖路加側でも理事会によって、協同により立教大学に医学部を新設することを決定した。認可申請の手続きは、立教大学側に一任するととともに、認可の際には、聖路加を立教学院に合併することとされた。申請の構想によると、予科(三年制)を1942年(昭和17年)4月から池袋に開設し、その卒業生が出る1945年(昭和20年)4月から、聖路加国際病院がある京橋区明石町に学部(四年制)を開設する予定であった。学生定員は予科が100名、学部が80名という規模であった。1942年(昭和17年)2月19日に、文部省に対して医学部設置の認可申請が行なわれ、同年5月30日に、厚生省に対しても申請が行われた。しかし、文部省の了承は取り付けたものの[注釈 78]、聖路加国際病院が戦時下の医療拠点として期待されていたことなどの阻害要因があったと考えられ、厚生省において了承が得られず、開設には要らなかった。医学部設置のために精力を傾けてきた遠山は、学院総長・理事、大学学長というすべての職を辞し、立教を去ることになった[207]。(戦後になって、遠山は聖路加国際病院顧問として皮膚科診療に従事している。)
戦後の学制改革による新制大学の設置(1949年)に際しても、医学部の開設が決定され、理学部がその前段階教育を担うものとされた。しかし、肝心の聖路加の病院施設が、GHQによる接収(1956年まで)を受けていたこともあり、実現に至らなかった[214]。
2022年 (令和4年)現在、医学部は開設されていないが、スポーツ医学の分野では2019年(令和元年)から聖路加国際大学と協定を締結し、聖路加国際病院スポーツ総合医療センターの医療スタッフからスポーツにおける医療的な支援や協力を受けられる体制を整備している。また、大学院理学研究科では、順天堂大学大学院医学研究科と協定を締結し、医学物理士養成プログラムである医学物理学副専攻を設置している。2017年(平成29年)には、聖路加国際大学に日本で5番目となる公衆衛生大学院(専門職大学院公衆衛生学研究科)が開設されている[243]。
基礎データ
所在地
- 池袋キャンパス(東京都豊島区西池袋3-34-1)
- 新座キャンパス(埼玉県新座市北野1-2-26)
- 陸前高田サテライト(岩手県陸前高田市米崎町字神田113番地10)[244]
- 富士見総合グラウンド(埼玉県富士見市下南畑1343-1)
象徴
校歌
- 校歌『栄光の立教』
- 作詞:諸星寅一、補作詞:杉浦貞二郎、作曲:島崎赤太郎。1921年(大正10年)に野球部が五大学リーグに加わったのをきっかけに作られた。歌詞は学内より募集したが、集まった歌詞に名作がない中、商学部2年永井一郎の草案が三等として採用された[245]。しかし充分大学の精神を表現していないとのことで、当時の学長事務取扱・杉浦貞二郎が改めて立教中学校教諭の諸星寅一に依頼[246]。出来上がった歌詞の各節末尾に杉浦学長の発案で「自由の学府」の文句を付け加え完成した。歌詞の中には、当初の三等の草案にあった語彙も含まれており、諸星が草案に配慮して作詞したと思われる。当時の立教大学新聞にも、歌詞は学内より募集したものを改定、修正したとあることから、草案から修正を加え作詞したものと考えられる[247]。作曲は、東京音楽学校(現:東京芸術大学)教授の島崎赤太郎[注釈 79]が行い、1926年(大正15年)2月27日、大学歌発表会が開催され、校歌「栄光の立教」が披露された[247]。その年の卒業式で初めて公に歌われた。校歌は、スマートフォンや携帯電話の着信メロディとしてもダウンロードできる。
- 旧校歌の存在
- 1919年(大正8年)5月31日に開催された池袋校舎落成式に来賓として参加した渋沢栄一の伝記資料に、『校歌を合唱して閉会したるは晩景なりき。』との記述があり、1926年(大正15年)に校歌「栄光の立教」が作られる以前に別の校歌が存在していたことが考えられる[189]。立教大学新聞第29号(1926年3月15日刊行)に「栄光の立教」が作られる以前に英語の校歌や数種のカレッジソングがあったとの記述がある[247][249]。
- 第一応援歌『行け!立教健児』
- 作詞:小藤武門、作曲:土橋啓二。1946年(昭和21年)、太平洋戦争で中断していた東京六大学野球が復活した。「新しい時代には、新しい応援歌を」と当時の応援団団長・小藤武門が古今聖歌集の聖歌300番を基に作詞をした。
- 第二応援歌『St.Paul's will shine tonight』
- 1927年(昭和2年)、米国カリフォルニア州フレズノで日系二世を中心に結成された野球チーム「the Fresno Athletic Club」が来日し、本学バスケットボール部とバスケットボールの親善試合を行った。試合後、フレズノ側が自チームの応援歌「セント・フレズノ ウィル シャイン…」を「リッキョー ウィル シャイン…」と歌い、勝った立教を祝福した。この歌はバスケ部歌となり、やがて大学の応援歌となった。授業開始・終了時のチャイムとしても使われている。詳細は「フレスノ野球団」を参照。
- 第三応援歌『若き眉』
- 第四応援歌『栄光立教』
- 第五応援歌『勝ちて歌わん』
- 第六応援歌『輝く栄光』
- 学生歌『紫の旗』
楯のマーク
オフィシャル・シンボルである楯のマークは、建学の精神を具体的に表現するものとして、1918年(大正7年)にライフスナイダー総理が定めたものといわれている。楯のマークには「立」の文字の下に十字架と聖書がデザインされている。現在のマークは紫と白の2色が基本デザインで、紫は「王の色」、白は「清純の象徴」、白色の十字架は「キリストの純潔」を意味している[注釈 80]。楯の中に書かれている「PRO DEO ET PATRIA」という言葉は「神と国のために」というラテン語で、「普遍的なる真理を探究し、私たちの世界、社会、隣人のために」ととらえ、立教学院の目的として位置づけている[251][252]。
ユリの紋章
百合紋章(フルール・ド・リス)を楯のマークに次ぐセカンダリ・シンボルとして採用している[251]。立教の学生や生徒、児童、各校の卒業生に広く愛用されているユリの紋章は、1932年(昭和7年)、学生キリスト教団体「立教大学ローバース」によって使用され始めた。立教ローバースは、2021年で創設97周年を迎えた歴史ある団体で、学内では学生キリスト教団体、山岳関係団体にも所属し、日本ボーイスカウト東京連盟城北地区豊島第8団に所属する、ボーイスカウト団体である。
ユリは純潔の象徴とされ、キリスト教と深いつながりを持つ。元来、ユリの紋章は神の三位一体性を象徴したもので、キリスト教国では勝利の記号に用いられるが、立教大学では知・徳・善あるいは、愛・正義・誠を象徴するものとして使用されてきた。
スクールカラー
スクールカラーは紫色。楯のマークの色に由来する[251]。紫色は「王の色」を意味する[252]。また紫は、校歌の歌詞に「紫匂える武蔵野原」とあり、武蔵野の代表的植物「ムラサキ」としても歌われる[注釈 81]。
校旗
紫紺地に白色の十字架と左肩に金色の「立」が描かれている。楯のマークに由来し、楯と同じく、紫色は「王の色」、白色は「純潔・正義」を象徴し、十字架は「イエス・キリストとその愛」を、「立」の金色は研究・教育を通して追究すべき「真の価値」を象徴している。1924年(大正13年)にライフスナイダー総理と杉浦貞二郎学長とによって立案、制定された[252]。
本館 モリス館(池袋キャンパス)
1918年(大正7年)、米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリスが遺した寄付によって建てられた本館(1号館)は「モリス館」と呼ばれている。ニューヨークのマーフィー・アンド・ダナ建築事務所によって設計された。かつて米国で流行っていたカレッジ・ゴシック様式であり、米国のセントルイス・ワシントン大学やプリンストン大学でも見ることができる。
創建当初は、中央の時計塔が現在よりも荘厳な3層構造の建物で、周囲よりも高層なシンポリックな「塔」であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で塔の上層が被害を受けたため、その後、修復する際に1層低い現在の2層構造で再建されることとなった。屋根も再建時にチューダー様式の特徴の一つであった切妻から寄棟に変更された[253][254]。 創建当時の姿である3層構造の建物で比較すると、アーサー・ロイドも学んだ英国ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジやクイーンズ・カレッジの建物に酷似しており、マーフィー・アンド・ダナ建築事務所が設計の際に参考にしたものと思われる。時計塔の時計は、南北の文字盤を親時計が動かしている。動力には分銅(重り)が使われており、現在も担当者が分銅を引き上げる作業を行っている。当初は1週間に1度程度行っていたものが、3層構造から2層構造への減築時に塔の高さが短くなったことから、現在の3~4日に1度の作業となった。親時計は、イギリスの国会議事堂に付属するビッグ・ベンと同じ、E・デント社製である。大正期において、時計塔は立教の誇りであり、「自由の塔」と呼ばれていた[255]。
モリス館は2012年に耐震補強と内装改修が行われたが、3層の時計塔「自由の塔」の再建はなされなかった。モリス館は東京都選定歴史的建造物に選定されている建物であるが、選定基準にある保存状態について、「外観・敷地の状況が建設当時の状態で保存されているもの」とされていることに加え、近年、三菱一号館や東京駅丸の内駅舎[注釈 82]など明治期や大正期の建物を創建当時の姿に蘇らせる復元プロジェクトが全国的に進んでいることから、今後立教大学のシンボルとして復元される可能性がある[257]。
ツタと赤レンガ
本館正門から見て右側のツタは、1924年に聖公会神学院のチャペルから移植されたキヅタで、一年中緑色をしている。左側は、フランク・ロイド・ライトが設計した目白・自由学園明日館から1925年に移植された。本館全体に這っているのはナツヅタで、秋には葉を落とす。池袋キャンパスを象徴するレンガ建造物は、「フランス積み」と呼ばれる、一段に長手面と小口面が交互に並ぶ組積法で構築されている。非常に手間がかかる施工方法で明治中期以降はほとんど用いられていないが、大正期になってあえてこの方法を採用したのは、装飾面でより優れている点を見越してのことだったと言われている[258]。
クリスマスイルミネーション
本館前の2本のヒマラヤ杉は、1920年ごろ植林された。高さは約25メートルで、現在も成長を続けている。このヒマラヤ杉を用いたクリスマスイルミネーションはクリスマスの時期、池袋のランドマークとなる。イルミネーションの始まりは、戦後間もない1949年ごろ。当時、400個余り取り付けられていた色電球は、現在は1,000個以上である[258]。
立教学院諸聖徒礼拝堂(チャペル/池袋キャンパス)
1916年に定礎式が行われ、1919年に他のレンガ建物群とともに落成。東京都選定歴史的建造物に選定されている。1923年の関東大震災後に改修され、1998年に免振工事が施された。日々の礼拝をはじめ、創立記念やクリスマスなどさまざまな礼拝が行われている。また、パイプオルガンやハンドベルなどのコンサートや、結婚式も行われている。
立教学院聖パウロ礼拝堂(チャペル/新座キャンパス)
チェコ出身の建築家アントニン・レーモンドの設計により1963年に建てられた。礼拝のほか、コンサートなども開かれている。1967年にチャペル会館、回廊、ベルタワーなどが完成。チャペルとチャペル会館は五角形の回廊でつながれ、上空から見ると「立」の字のロゴの形となるように配置されている。ベルタワーは高さ31m。大・中・小3種類の鐘が礼拝前に鳴り響く。
パイプオルガン
池袋キャンパスにあるチャペル「立教学院諸聖徒礼拝堂」には、2013年にイギリスのティッケル社が製作したイギリス・ロマン派様式の新パイプオルガンが導入されている。導入に伴い、それまで設置されていたドイツ・バロック様式のベッケラート社製のパイプオルガンは2013年に竣工した池袋キャンパス・チャペル会館2階にあるマグノリア・ルームに2014年6月末に移設された。新座キャンパスにあるチャペル「立教学院聖パウロ礼拝堂」には、2014年にアメリカのフィスク社が製作したフランス・ロマン派様式の新パイプオルガンが導入されており、立教大学には3つの異なるタイプのパイプオルガンが設置されている。また、大学には教会音楽の研究・教育活動を行う「教会音楽研究所」[259]があり、日本における教会音楽の充実と発展のため、研究に加え資料収集や教会音楽に携わる方との交流や研修を行い、一般の方向けにもオープンなプログラムを提供している。
立教学校初代校長のジェームズ・ガーディナーが設計した東京・本郷の聖テモテ教会聖堂に設置されていたパイプオルガンは、1932年に設置された日本楽器(現:ヤマハ)製の国産第1号のパイプオルガンであったが、1945年の戦災で聖堂とともに焼失。パイプオルガンの音色を再び響かせたいという想いの下、2002年に新パイプオルガンが設置された。聖堂は1950年に再建されている。
教育および研究
組織
学部
- 文学部(池袋キャンパス)詳細は「立教大学大学院文学研究科・文学部」を参照
- 異文化コミュニケーション学部(池袋キャンパス)詳細は「立教大学異文化コミュニケーション学部」を参照
- 異文化コミュニケーション学科[注釈 83]
- 経済学部(池袋キャンパス)詳細は「立教大学大学院経済学研究科・経済学部」を参照
- 経済学科
- 経済分析コース
- 経済社会コース
- 国際経済コース
- 2年次から各コースに分かれる
- 経済政策学科[注釈 84]
- 会計ファイナンス学科[注釈 85]
- 経済学科
- 経営学部(池袋キャンパス)詳細は「立教大学大学院経営学研究科・経営学部」を参照
- 「リーダーシップの育成」を目標に掲げ、グローバル化する社会に資する人材を育成すべく、独自のプログラムを展開している。学外の高校や企業とのコラボレーションも盛んで、学部生は一年生の段階から、授業を通して企業から提示されたプロジェクト課題に取り組み、問題解決やプレゼンテーションなど実践的なスキルを身につけていく。
- 社会学部(池袋キャンパス)詳細は「立教大学大学院社会学研究科・社会学部」を参照
- 国際社会コースは、1学年各学科15名、計45名により構成される。1年次に書類を提出し、志望理由、全般的な成績、英語力等に基づく選抜の上、2年次からコースを選択することができる(なお、国際社会コース入試による入学者は、国際社会コース選択があらかじめ決定している)。
- 法学部(池袋キャンパス)詳細は「立教大学大学院法学研究科・法学部」を参照
- 法学科
- 国際ビジネス法学科
- 政治学科
- 観光学部(新座キャンパス)詳細は「立教大学大学院観光学研究科・観光学部」を参照
- 観光学科
- 交流文化学科
- コミュニティ福祉学部(新座キャンパス)
- グローバルリベラルアーツプログラム(池袋キャンパス)
- 2017年より開設。原則、英語で授業が行われる科目の履修だけで学位の取得が可能となっている。2年次の秋学期から始まる留学までは、GLAP生全員が寮で生活する。その上で、2年次の秋学期から3年次の春学期までの1年間、全員が海外の協定校に留学する。帰国後は「Humanities」「Citizenship」「Business」という3分野から専門領域を選択し、4年次には「Final Year Seminar」を履修しつつ、卒業論文を執筆する。文部科学省「スーパーグローバル大学創成支援」採択を受けて開設された。
研究科
- キリスト教学研究科(博士前期課程・後期課程)
- 文学研究科(博士前期課程・後期課程)詳細は「立教大学大学院文学研究科・文学部」を参照
- 日本文学専攻
- 英米文学専攻
- ドイツ文学専攻
- フランス文学専攻
- 史学専攻
- 超域文化学専攻
- 2010年4月に地理学専攻から名称変更。人文地理学、文化人類学、考古学、民俗学、地域研究を融合した研究、教育を実施。
- 教育学専攻
- 比較文明学専攻
- 「現代文明学領域」「文明工学領域」「言語多文化学領域」「文明表象学領域」という4つの研究領域(科目群)を設置。
- 経済学研究科(博士前期課程・後期課程)詳細は「立教大学大学院経済学研究科・経済学部」を参照
- 経済学専攻
- 前期課程に社会人コースを設置。夜間や土曜日に展開される科目を中心に履修することが可能となっている。
- 本学唯一の院生による自治会を有している。
- 経済学専攻
- 経営学研究科詳細は「立教大学大学院経営学研究科・経営学部」を参照
- 経営学専攻(博士前期課程・後期課程)
- 前期課程のコース
- アカデミック・コース - 研究者養成のためのコース
- プロフェッショナル・コース - 高度職業人養成のためのコース
- リーダーシップ開発コース - 人づくりと組織づくりの高度専門人材育成のためのコース
- 専門分野
- マネジメント分野
- マーケティング分野
- アカウンティング&ファイナンス分野
- 前期課程のコース
- 国際経営学専攻(博士前期課程)
- 全科目が英語で開講
- 経営学専攻(博士前期課程・後期課程)
- 理学研究科(博士前期課程・後期課程)詳細は「立教大学大学院理学研究科・理学部」を参照
- 物理学専攻
- 理論物理学研究室、原子核・放射線物理学研究室、宇宙・地球系物理学研究室がある。
- 化学専攻
- 数学専攻
- 生命理学専攻
- 教員は「分子生物学」「生物化学」「分子細胞生物学」の3領域に分かれている。
- 物理学専攻
- 社会学研究科(博士前期課程・後期課程)詳細は「立教大学大学院社会学研究科・社会学部」を参照
- 社会学専攻
- 2006年に、社会学専攻と応用社会学専攻の2専攻体制から1専攻体制に改編。「社会研究領域」「政策研究領域」「文化研究領域」「都市研究領域」「メディア研究領域」「コミュニケーション研究領域」という6つの研究領域がある。
- 社会学専攻
- 法学研究科(博士前期課程・後期課程)詳細は「立教大学大学院法学研究科・法学部」を参照
- 法学政治学専攻
- 2006年に、比較法専攻、民刑事法専攻、政治学専攻を法学政治学専攻に改編。法学・政治学の垣根を越えた科目履修による、基礎的研究能力の育成と高度の専門知識の修得を教育目標としている。
- 法学政治学専攻
- 観光学研究科(博士前期課程・後期課程)詳細は「立教大学大学院観光学研究科・観光学部」を参照
- 観光学専攻
- 「観光行動・観光文化研究」「観光地域・観光地計画研究」「観光産業・観光事業経営研究」の3分野がある。
- 観光学専攻
- コミュニティ福祉学研究科(博士前期課程・後期課程)
- コミュニティ福祉学専攻
- 「社会福祉学系」「コミュニティ政策学系」「スポーツウエルネス学系」「福祉人間学系」の4分野からなるカリキュラムを展開。
- コミュニティ福祉学専攻
- 現代心理学研究科(博士前期課程・後期課程)
- 心理学専攻
- 臨床心理学専攻
- 映像身体学専攻
- 研究領域は「基盤研究系」(理論研究)、「制作・表現系」(実践研究)、「プロデュース系」(芸術制作の運営研究)の3部門からなる。
- ビジネスデザイン研究科(博士前期課程・後期課程)詳細は「立教大学大学院ビジネスデザイン研究科」を参照
- ビジネスデザイン専攻
- 社会人のためのビジネススクール型大学院で、就業経験が2年以上あることが応募要件となっている。
- ビジネスデザイン専攻
- 21世紀社会デザイン研究科(博士前期課程・後期課程)
- 比較組織ネットワーク学専攻
- 研究領域には「コミュニティデザイン学」「危機管理学」「社会組織理論」がある。
- 比較組織ネットワーク学専攻
- 異文化コミュニケーション研究科
- 異文化コミュニケーション専攻(博士前期課程・後期課程)
- 「異文化コミュニケーション」「環境コミュニケーション」「言語コミュニケーション」「通訳翻訳コミュニケーション」の4分野を複合的に研究。
- 言語科学専攻(博士前期課程)
- 2012年4月に開設。「言語科学」と「言語教育」の2領域を設置。
- 異文化コミュニケーション専攻(博士前期課程・後期課程)
- 法務研究科(法科大学院)詳細は「立教大学大学院法学研究科・法学部」を参照
- 人工知能科学研究科(2020年4月開設)
- 人工知能科学専攻
- 日本初のAIに特化した大学院
- 人工知能科学専攻
附属機関

- 総合研究センター
- 社会デザイン研究科附属機関
- 社会デザイン研究所
- コミュニティ福祉学部附属機関
- コミュニティ福祉研究所
- 経営学部附属機関
- リーダーシップ研究所
- 経済学部附属機関
- 経済研究所
- 法務研究科附属機関
- 法曹実務研究所
- 理学研究科附属機関
- 先端科学計測研究センター
- 未来分子研究センター
- 生命理学研究センター
- 数理物理学研究センター
- 現代心理学部附属機関
- 心理芸術人文学研究所
- 心理教育相談所
- 原子力研究所(神奈川県横須賀市長坂2-5-1)
- 1957年に設立。米国聖公会から寄贈された原子炉は1961年に初臨界に達したが、2001年に稼働を停止。現在は廃止措置中。
- ジェンダーフォーラム
- 立教学院史資料センター
- ビジネスクリエイター創出センター
- 平和・コミュニティ研究機構
- 江戸川乱歩記念大衆文化研究センター
- 共生社会研究センター
- 社会情報教育研究センター
- 観光ADRセンター
- 全学共通カリキュラム運営センター
- 全学共通カリキュラム運営センター
- 英語教育研究室
- ドイツ語教育研究室
- フランス語教育研究室
- スペイン語教育研究室
- 中国語教育研究室
- 諸言語教育研究室
- 総合教育科目構想・運営チーム
- 人文学系サポートグループ
- 自然・情報科学系サポートグループ
- 社会科学系サポートグループ
- スポーツ人間科学系サポートグループ
- 全学共通カリキュラム運営センター
- ランゲージセンター
- 英語ディスカッション教育センター
- 日本語教育センター
- 学校・社会教育講座
- 教職課程
- 学芸員課程
- 司書課程
- 社会教育主事課程
- 総長室
- 教務部
- 学生部
- キャリアセンター
- 新座キャンパス事務部
- 保健室
- 国際センター
- メディアセンター
- ボランティアセンター
- 入学センター
- リサーチ・イニシアティブセンター
- 大学教育開発・支援センター
- 人権・ハラスメント対策センター
- グローバル教育センター
- 立教セカンドステージ大学
- 礼拝堂
- 立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパス)
- 立教学院聖パウロ礼拝堂(新座キャンパス)
- 図書館
- 池袋図書館
- 2012年、本館、池袋メディアライブラリー、人文科学系図書館、社会科学系図書館、自然科学系図書館が統合して誕生。
- 新座図書館
- 新座保存書庫
- 池袋図書館
- 旧江戸川乱歩邸
- 立教大学出版会
教育
1997年から始まった全学共通カリキュラムは一般教養科目の新しい展開方法として導入された仕組みであり、このカリキュラムに含まれている「立教科目」と呼ばれる科目群は「特色ある大学教育支援プログラム」に採択されている。
- 現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)
- バイリンガル・ビジネスパーソンの育成~多層イマージョン教育プログラム~(2004年採択)
- 理数教育連携を通じたCBLSプログラム~豊島区との理数教育連携による専門教育プログラム「Community-Based Learning in Science Education」~(2005年採択)
- 国際ビジネスにおける知財活用人材の養成(2006年採択)
- 特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)
- 立教科目――建学の精神から学ぶ科目展開(2005年採択)
- 学生相談を核とした全学的学生支援の展開(2006年採択)
- 派遣型高度人材育成協同プラン
- CSR (Corporate Social Responsibility) インターンシップ・プログラム(2005年採択)
- ビジネスデザイン研究科による派遣型ビジネスクリエーター養成プログラム(2006年採択)
- 法科大学院等形成支援プログラム
- 原訴訟資料オンライン共有システムの構築(2004年採択)
- 「魅力ある大学院教育」イニシアティブ
- 持続可能な未来へのリサーチワークショップ(異文化コミュニケーション学構築をめざして)(2005年採択)
- 大学院教育改革支援プログラム
- 観光学研究科によるツーリズム・イノベーターの戦略的育成(2007年採択)
表彰
- 辻荘一・三浦アンナ記念学術奨励金
学生生活
学園祭
立教大学の学園祭は池袋キャンパスではSt.Paul's Festival (SPF)、新座キャンパスではIVY Festaと呼ばれ、毎年秋に両キャンパスで開催される。
St.Paul’s Festivalは学園祭のNo.1を決定する「学園祭グランプリ」で2019年にMVPを獲得。「ベストオブ学園祭」でも2017年に大賞に選ばれるなど、注目度が高い学園祭で、来場者数は毎年5万人を超える。立教大学広告研究会が主催するミス立教コンテストが同時開催され、ミスキャンパスのグランプリを選出する。ミス立教出身者の多くは、アナウンサーやモデル、タレントなどで活躍している。同時に、ミスターキャンパスのミスター立教コンテストも開催されている。
St.Paul's Festivalは東京六大学学園祭連盟に加盟している。
- 立教祭の廃止とSPFとしての復活開催
立教大学の学園祭であった『立教祭』は学生運動の影響により、1976年から1983年まで廃止されていたが、のちにリクルートホールディングスの役員となった冨塚優を始めとする学生有志たちの尽力により、1984年にSPF(セントポールズフェスティバル)として復活することとなった。この活動は現在のSPF運営委員会の母体となっている[264][265]。
クラブ・サークル活動
学術・文化・スポーツの分野にわたり、様々なクラブ・サークル活動団体がある。そのうち大学の公認団体としては、約200余りの団体があり、学生の自主的な運営によって学内外で活発に活動している。
主なクラブ・サークル
- 立教大学体育会応援団
- 1931年、東京六大学野球リーグ戦初優勝を機に、応援に来る学生を統率していこうと、当時柔道部の根本享有ら体育会各部の有志が集まり立教大学体育会応援団が創設された。東京六大学応援団連盟に加盟する。リーダー部、吹奏楽部、チアリーディング部の三部から組織されており、野球部をはじめ体育会各部の応援を行っている。
- 「立教スポーツ」編集部
- 体育会本部の情報宣伝部として体育会機関紙「立教スポーツ」を発行している立教大学公認団体。体育会51部55団体の情報を体育会各部やOB・OG、一般読者に伝え、立教大学体育会の発展と向上に寄与するという目的の下日々取材を行っている。
音楽系
- 立教大学交響楽団
- 1919年(大正8年)に発足して以来、第2次世界大戦による活動停止などの時代を経て、今日までその伝統と音楽を受け継ぎながら積極的な演奏活動を行う。同志社大学と合同で行われる「同立交歓演奏会」、定期演奏会、メサイア演奏会、卒業演奏会などの演奏会があり、年間を通じた演奏活動を行っている。
- 立教大学マンドリンクラブ
- 1964年創部で、マンドリンを中心としたオーケストラ、ポップ、クラシック、マンドリンオリジナルなど様々なジャンルを演奏している。8月のサマーコンサートや、1年間の集大成を披露する定期演奏会などの演奏活動を行っている。
- 立教大学スペインギタークラブ
- 1960年の発足した部活で、クラシックギターやフラメンコギター、またウッドベースやパーカッションなどを用いて音楽を創り出している。プロの世界で活躍するギタリストやフラメンコバイラのOB・OGもいる。
- 立教大学グリークラブ
- 1923年創立の歴史ある大学公認合唱団。年4つの演奏会をメインに活動しており、混声、女声、男声などその内容は多岐にわたる。
- 立教大学軽音楽部
- R&B, FUNK, JAZZ, SOUL, POPS, FUSION, BLUESなどのブラックミュージックを中心に、幅広いジャンルを演奏している。
- 作詞作曲部OPUS
- 立教大学のバンドサークルでは最も部員の多いサークルのうちのひとつとなっており、メジャーなものからマイナーなものまで、幅広い趣味を持った部員が在籍する。アーティストとして活躍するOB・OGも多い。
- クラブDJ
- 40年以上の歴史を誇るサークルで、週に2回の練習会、月に1回のイベント開催などの活動をしている。
- えどむらさき
- 池袋キャンパスを中心に活動するアカペラサークル。総勢約180名。年に2回の外部の大ホールを借りて行う「サークルライブ」の企画・運営を中心に、各バンドのライブハウスでのライブや学園祭での教室ライブ・屋外ライブ、その他外部のイベント・大会への参加など様々な場所で活動を行っている。
- L'espoir(レスポワール)
- 総勢100名ほどのアカペラサークル。主に3人から6人で、1人1パート担当して活動している。学園祭での教室ライブや屋外ステージにも参加する。様々なジャンルの歌を声のみで表現し、アカペラの魅力と楽しさを伝えられるよう日々練習を行っている。
- 立教大学JAZZ研究会
- 立教大学唯一のコンボジャズサークル。セッションは毎週水曜・木曜の17:00~20:00、新座キャンパスのユリの木ホール地下練習室で行っている。
学生キリスト教団体
- 立教学院諸聖徒礼拝堂 聖歌隊
- 礼拝で聖歌やアンセムなどを歌う団体。混声聖歌隊と女声聖歌隊という二つのグループによって構成されているが、現在は両グループ合同で活動している。
- 立教大学オーガニスト・ギルド
- オーガニスト・ギルドは、池袋・新座両キャンパスで行われる礼拝で、パイプオルガンの奏楽をもって奉仕する団体。
- 立教学院諸聖徒礼拝堂ハンドベルクワイア
- 立教学院のチャペルに属するサークル。年3回チャペルで開催されるコンサートに向けて日々練習を重ねるとともに礼拝での奉仕に勤しんでいる。
- 立教ローバース
- 2019年で創設95周年を向かえた歴史ある団体で、立教大学内では学生キリスト教団体、山岳関係団体にも所属し、日本ボーイスカウト東京連盟城北地区豊島第8団に所属するボーイスカウト団体。
演劇系
- 立教大学劇団テアトルジュンヌ
- 1954年(昭和29年)4月に創立。公演は4月、10月、12月の年3回、1公演あたり5~6ステージを行っている。ウイリアムズホール4階スタジオを使い、舞台・客席とも全て自分達で作り、公演を行っている。
- 演劇研究会
- 6月、11月、3月の年3回、本公演を行っている。池袋キャンパス内ウィリアムズホール4階のスタジオを公演場所として使用し、恵まれた環境で芝居をすることができる。
- 劇団志木
- 立教大学唯一のミュージカルサークル。主に新座キャンパスのユリの木ホールで活動している。年3回の公演を目標に、公演に向けた練習に取り組んでいる。
創作・表現系
- アルバム制作委員会
- 立教大学の卒業アルバムの制作・販売を行っているサークルである。アルバムを撮影から編集、販売まで全てを手掛けている。
- St.Paul's Campus (SPC)
- 「好き」を「行動」につなげる「好動提案マガジン」をコンセプトとしたフリーペーパーを創るサークル。年3回(春・夏・冬)発行する本誌と、秋に1年生だけで作る増刊号を発行している。
- サパンヌ美術クラブ
- 1920年頃設立された総合芸術サークル 『セントポール美術倶楽部』を前身に、1959年に美術部門が独立して『サパンヌ美術クラブ』となった歴史ある美術系サークルである。
- SPF(セントポールズフェスティバル)運営委員会
- 池袋キャンパスの学園祭であるSt.Paul's Festivalを運営する団体。
- IVY Festa(アイビーフェスタ)実行委員会
- 新座キャンパスの学園祭であるIVY Festaを運営する団体。
- 立教大学放送研究会
- 音声番組や映像番組を企画・撮影・編集して、年に数回学内外に向けて番組発表会を開催するなどしている。池袋キャンパスの学園祭 (St.Paul’s Festival) でのステージイベントも行っている。
- 立教大学広告研究会
- 広告に関する研究を行うとともに、学園祭のイベントであるミス立教、ミスター立教コンテストなどを企画・運営する。
- 立教大学英語会(E.S.S)
- 2018年に100周年を迎えた歴史あるクラブ。Debate・Discussion・Drama・Speechの4つのセミナーのどれかに属し、それぞれのセミナーにおいて専門的な知識を深める。
- 立教大学茶道部
- 流派は裏千家。毎週水・木・金曜日の3~5限に池袋キャンパスのウィリアムズホール一階にある和室で稽古している。
- 立教大学茶道研究会
- 新座キャンパスで活動する表千家茶道のサークル。日々の稽古のほか、新座キャンパスの学園祭であるIVYフェスタでのお茶会や、新座市の寺にある庵で地域住民のためのお茶会も開催している。
学術・研究系
- 立教大学法学研究会
- 法学研究会(法研)は自主ゼミナールを主体としたサークル。ゼミは1~2年生の必修科目にあわせたものや、一つのことについて深く学んでいくものなどバリエーションに富んだ内容を展開する。どのゼミもアットホームな雰囲気で、ゼミのあとの懇親会を有志で開いたりしている。また、関東学生法学連盟の活動にも力を入れている。
- 立教大学学生法律相談室
- 立教大学公認団体として運営されている団体。弁護士の指導の下、学生が民法および借地借家法関係の相談を行っている。
- 立教大学ジャーナリズム研究会
- 1958年に平井隆太郎教授の元に集まった社会学部の学生が始めたサークル。普段は社会問題や学部の授業で感じたことなど 好きなテーマをサカナにして「ミーテ(ミーティングの略)」と呼んでいる議論を行っている。新歓や学祭の時期にはフリーペーパー「JET」を配布する。
- 立教大学考古学研究会
- 時代も国も問わず歴史について研究をしているサークル。週1、2回、昼休み、又は授業後に活動している。
ダンス系
- 立教大学D-mc
- D-mcは、500人以上が所属する立教大学のインカレダンスサークル。立教大学D-mcは優勝経験も多く、大学ダンス界でもトップを争うサークルである。
- JG
- 立教大学公認のストリートダンスサークル。現在は1~3年生の3学年で、新座キャンパスのユリの木ホール地下で、週2日~4日程活動している。ジャンルはhiphop、jazz、house、breakなど9つに分かれており、各ジャンルが練習を行っている。
スポーツ
体育会の各種目において同志社大学との定期戦が古くから行われているほか、明治大学との定期戦も歴史がある。また、六大学による対抗戦が野球以外の種目でも行われているのに加え、水泳部の日本大学、立教大学、明治大学による日立明三大学水泳対抗戦、法政大学・明治大学・立教大学による三大学定期戦、ボート部の日本大学、立教大学、明治大学による日立明三大学レガッタなど、各種目によって多くの大学と定期戦を行っている。
- 硬式野球部
- 1909年(明治42年)創部[266]。東京六大学野球連盟に所属し、多くの卒業生がプロ野球へ進んでいる。創生期の全日本大学野球選手権大会で3回優勝している。ユニフォームは上下とも白地に紺色の縦ストライプが入ったシンプルなデザインで、ニューヨーク・ヤンキースのユニフォームを模して作られている。帽子には百合紋章(フルール・ド・リス)がマークとして用いられている。胸の校名の表記は「RIKKIO」となっており、ローマ字表記と異なるが、IとKが左右対称 (IKKI) になるようにデザインされたロゴである。2017年には東京六大学野球春季リーグで優勝し、続いて出場した第66回全日本大学野球選手権で、1958年以来59年ぶりに4回目の優勝を飾った。
- 陸上競技部
- 1920年(大正9年)に創部し、2020年に創部100周年を迎えた伝統ある団体である[267]。OB・OG会である紫聖会と協力して活動を行っている。男子長距離は、箱根駅伝で、第33回大会総合3位を最高位に27回出場の記録があるが、1968年(昭和43年)を最後に箱根路から遠ざかっている。2018年から立教箱根駅伝2024事業が開始し、創立150周年を迎え第100回大会となる2024年の箱根駅伝出場を目標に、立教の誇りと伝統校復活のため、強化を進めている。
- 水泳部
- 1921年(大正10年)に創部し、2020年に創部100周年を迎えた伝統のあるチームである[268]。現在、競泳部門とシンクロ部門から構成されている。過去には1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレーで在校生2名の世界新での金メダル獲得をはじめ、日本選手権水泳競技大会、日本学生選手権水泳競技大会などで活躍し、水泳立教と呼ばれ、日本水泳界をリードする時代もあった。長らく低迷する時代が続いたが、近年有望選手が入部し、ユニバーシアード日本代表や日本選手権に出場する選手が出てきており、強化が進んでいる。男子部員は、新座キャンパス近くの「水交寮」(2016年竣工)で合宿生活を送り、チーム力の向上を目指している。
- アメリカンフットボール部 (St.Paul's Rushers)
- 関東学生アメリカンフットボール連盟1部Bブロックに所属。日本のアメリカンフットボールの歴史は、立教大学教授であったポール・ラッシュの尽力により1934年12月8日に実施された日本発の公式戦、立教大学対明治大学との対戦から幕を開けた。以来、立教ラッシャーズは、日本最古のアメリカンフットボールチームとして学生日本一を争う甲子園ボウルに6回出場、内優勝4回という輝かしい成績を残している伝統のある強豪クラブである[101]。また、ポール・ラッシュは「日本アメリカンフットボールの父」と呼ばれ、ライスボウル(日本選手権)の最優秀選手には、氏の名を冠したポール・ラッシュ杯が授与される。ラッシャーズの愛称もラッシュに因んでいる。
- ラグビー部
- 関東ラグビーフットボール協会に所属。関東大学ラグビー対抗戦グループで戦っている。ラグビー草創期の1923年(大正12年)に創部された伝統を誇る。長く低迷していたが近年になって復調の兆しを見せている。2020年度にBグループからAグループに昇格。
- サッカー部
- 1922年(大正11年)創部。1933年(昭和8年)、2代目部長ポール・ラッシュの下、関東大学サッカーリーグ1部昇格。1953年度全日本大学サッカー選手権大会で優勝。関東大学サッカーリーグ1部で過去3回優勝(1954年、1959年、1970年)。多くの日本代表選手を輩出し、メキシコオリンピック銅メダル獲得に貢献。OBも日本代表監督を複数名が務めた伝統あるチーム[100]。現役の学生選手が日本代表チームに選出されていたことから、日本サッカーの父と呼ばれるデットマール・クラマーは大学関係者の家に寄宿し、クラマーもサッカー部の発展に寄与した。クラマーはバイエルン・ミュンヘン監督時代にはUEFAチャンピオンズカップでチームを優勝へと導いている。サッカー部は1970年の天皇杯では、準優勝。現時点(2020年度大会終了時)で学生チームによる最後の天皇杯決勝進出である。1990年代には現日本サッカー協会会長の田嶋幸三がサッカー部コーチを務めていた。長らく低迷していたが、2018年に41年ぶりに関東大学サッカーリーグに復帰した。2021年現在、関東大学サッカーリーグ2部に所属。
- バスケットボール部
- 1921年(大正10年)創部。全日本バスケットボール選手権大会で優勝7回、全日本大学バスケットボール選手権大会で6回優勝した古豪で、日本代表監督・選手、協会会長職を輩出するバスケットボール界屈指の伝統校[101]。長い低迷が続いていたが、近年は強化が進み、2021年現在、関東大学バスケットボールリーグ3部に所属している。
- 山岳部
- 1922年(大正11年)に創部した歴史ある部で、堀田弥一が隊長を務め日本人として初めてヒマラヤ山脈での登頂(ナンダ・コート 標高6867メートル)を果たすなど、海外でも大きな功績を残している。一年を通じてオールラウンドに活動しており、登山を中心に、ロッククライミング、沢登り、雪山登山、アイスクライミングなど季節に応じた活動を行っている。2017年には「ナンダ・コート初登頂80周年記念事業」として、堀達憲ら立教大学OB2人を含む少数精鋭5名の登山隊を編成し、81年ぶりにナンダ・コートへの遠征を行った。その模様はBS11の開局10周年の特別番組として放送された。
- 相撲部
- 1919年(大正8年)創部。1964年の全国学生相撲選手権大会にて、立教大学から初の学生横綱を輩出した。1980年~1990年代前半、部員不足に陥り、他の部から「助っ人」も多く出場していた。その様子は、映画「シコふんじゃった。」(1992年 脚本・監督 周防正行)のモデルになり、第16回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品になった。2018年には、学生相撲の男子相撲部にて、初の女性主将が誕生し、話題になった[269][270]。この年、インカレ団体戦Bクラス(2部リーグ)にて、40年ぶりにベスト8に進出した[271]。
- ボート部
- 1948年(昭和23年)創部。埼玉県戸田市に艇庫と合宿所があり、戸田漕艇場で練習を行っている。歴史のある日立明三大学レガッタ(日本大学、立教大学、明治大学の3校によるボート対抗戦)も行われている。全日本大学選手権大会では、2002年、2015年、男子舵手なしフォア、2019年、女子エイトが優勝。全日本選手権では、2016年に、創部68年目で初めて実業団などを抑えて男子舵手なしフォアで優勝、2019年には女子ダブルスカルで優勝するなど、近年は強豪校である。2021年には、コロナ禍で同時開催となった「第99回全日本選手権大会 兼 第48回全日本大学選手権」で、男子フォアで優勝、女子舵手付きフォアで準優勝を果たした。
- 馬術部
- 1927年(昭和2年)創部。富士見総合グランドにある馬場で練習活動を行っている。2019年には「第69回全日本学生賞典障害馬術競技大会」で杉本瑞生が創部以来初となる個人優勝を果たした。
- 剣道部
- 1928年(昭和3年)創部。2019年には、第38回全日本女子学生剣道優勝大会で創部初の全国優勝。1968年に剣道部に最初の女子学生が入部してから初の快挙となった。
- 卓球部
- 1918年(大正7年)創部の歴史ある団体。現在関東学生リーグにおいて、男子、女子ともに3部に在籍している。
- ホッケー部男子
- 1924年(大正13年)創部。2021年度関東学生ホッケー春季リーグ2部で優勝し、入替戦にも勝利し、25年振りに1部昇格を決めた。
- 女子ラクロス部
- 2019年、第11回ラクロス全日本大学選手権大会で、創部初の全国優勝をした強豪チームである。
- ボクシング部
- 1923年(大正12年)創部。1965年には全日本大学ボクシング王座決定戦に出場。現在関東大学リーグ2部に在籍。
- レスリング部
- 1938年(昭和13年)創部。2018年に80周年を迎えた伝統と歴史のあるクラブで、日本の大学レスリング界において5番目に古い歴史を持つ。長らく東日本学生リーグ二部リーグに所属していたが、2022年、二部リーグで優勝し、1962年大会から61年ぶりに一部リーグ復帰を果たした[272][108]。2016年の慶應義塾大学の「45年ぶり」を上回り、最長の期間を乗り越えての一部昇格となった[108]。
- 自転車競技部
- 1936年(昭和11年)創部。公道などで行われるロードレースとヴェロドローム、自転車競技場などで行われるトラックレースを中心に取り組む。近年では、RCS(ロードレース・カップ・シリーズ)総合での表彰、「ツールドフランス in さいたま」への出場、「アジア大学自転車選手権」への出場など、伝統校としての歴史を脈々と受け継いでいる。「全日本学生ロードレース・カップ・シリーズ2021」では、中島渉が総合優勝を果たし、創部初となるRCS年間チャンピオンとなった。
大学関係者と組織
大学関係者組織
- 立教大学の同窓会として「立教大学校友会」が設置されている。校友会員数は2019年時点で約21万人。校友会会員相互の親睦を図り、立教大学の発展に寄与することを目的に、校友会報「セントポール」の送付や、会員総会、ホームカミングデー、年次別校友の集い、地区校友の集い、卒業祝賀パーティ、企業等立教会交流会などを開催している。「校友会奨学金」「校友会外国人留学生奨学金」などの各種奨学金による学生支援、「体育会活動奨励金」を通じて大学への支援も積極的に行っている。
- また、全国と世界に「立教会」と呼ばれる校友組織が広がっており、各地域立教会と海外立教会に加えて、企業・職域の立教会、立教経済人クラブ、立教大学体育会OB・OGクラブなどが組織されている。
- 1907年(明治40年)に立教学院校友会が設立され、1939年(昭和14年)に立教大学同窓会として独立。1960年(昭和35年)に立教大学校友会と改称。以来、校友会は立教大学(立教学校、立教大学校、大阪英和学舎、立教専修学校、東京英語専修学校、立教工業理科専門学校および立教大学大学院)全卒業生・修了者で組織・構成されている。
- 1977年(昭和52年)11月に落成したセントポールズ会館は、校友各位の募金により建築されたもので、クラス会やOB・OG会の会場や恩師や友人との語らいの場として利用され、レストランとして日比谷松本楼の「立教大学 セントポール会館店」も置かれている。
- 2016年には、立教生のキャリア形成支援を目的として、卒業生ネットワーク組織「立教グローバル/ローカルキャリア支援ネットワーク(GLCネットワーク)[28]」が発足。GLCネットワークの発足は、2024年の創立150周年に向けた中長期ビジョン「RIKKYO VISION 2024」で掲げたアクションプランの一つで、グローバルあるいはローカルな視点から、立教大学および立教生を支える新たな支援層集団の創出を目指している。メンバーは、メーカー、金融、商社、マスコミ、外資系IT企業、地方公務員など多種多様な業界で活躍する卒業生である。GLCネットワークは、立教大学校友会や、学部・学科・ゼミナール、体育会OB・OGクラブなどの卒業生ネットワークを補完あるいは連携する形で、新たな活動を展開する。
大学関係者一覧
施設
キャンパス
池袋キャンパス
- 所在地:東京都豊島区西池袋3-34-1
- 池袋駅西口より徒歩約7分。
- 学部(文学部、経済学部、理学部、社会学部、法学部、経営学部、異文化コミュニケーション学部)
- 大学院(文学研究科、経済学研究科、理学研究科、社会学研究科、法学研究科、経営学研究科、ビジネスデザイン研究科、21世紀社会デザイン研究科、異文化コミュニケーション研究科、法務研究科(法科大学院)、人工知能科学研究科)
- 池袋駅西口の商店街では立教大学のスクールカラーである紫のペナントが使用されている。
- 池袋キャンパスは蔦を絡ませた赤レンガの概観が特徴で、「本館」(別名モリス館)と「第一食堂」「2号館」「3号館」「メーザーライブラリー記念館本館(旧図書館本館旧館)」および「立教学院諸聖徒礼拝堂(チャペル)」は東京都選定歴史的建造物である。また、「メーザーライブラリー記念館新館(旧図書館本館新館)」は建築家・丹下健三の設計である。
- 独特の雰囲気から、映画やドラマのロケーション撮影によく利用される。
- 立教大学は日本聖公会系であるため、キリスト教を信仰している立大生たちは、池袋に近い目白聖公会などにおいて、積極的に教会活動を行っている。無論、立大は積極的に学生たちの教会活動を支援している。
新座キャンパス
- 所在地:埼玉県新座市北野1-2-26
- 学部(観光学部、コミュニティ福祉学部、現代心理学部)
- 大学院(観光学研究科、コミュニティ福祉学研究科、現代心理学研究科)
- 2006年に新座キャンパス全体がグッドデザイン賞建築・環境デザイン部門を受賞している。
陸前高田サテライト(陸前高田グローバルキャンパス)
- 岩手大学との共同開設。
田町サテライトキャンパス(キャンパス・イノベーションセンター東京)
- 田町サテライトキャンパスは、文部科学省が「知の集積拠点」として田町駅至近に構えたキャンパス・イノベーションセンター東京(東京都港区田町)内に置かれ、ビジネスデザイン研究科シードマネージメントコースの拠点となっていたが、2007年度末で閉鎖した。
学生寮
より充実した学生生活を支援するために学生寮を設けている。学生寮には専用寮(立教大学国際交流寮)と推薦寮がある。専用寮は、立教大学の学生と交換留学生とが入居する国際交流も目的とした寮で、「RIR椎名町」(2013年度開設)、「RUID朝霞台」(2008年度開設)、「RUID志木」(2010年度開設)および「立教グローバルハウス」(2017年度開設)の4棟が設置されている。立教グローバルハウスは交換留学生とGlobal Liberal Arts Program(GLAP)の学生のみ入居可能。推薦寮は他大学の学生も入居する寮で、様々な学生と交流することができる。
スポーツ施設
池袋キャンパス内の主な施設
- ポール・ラッシュ・アスレティックセンター
- 地下2階地上5階建ての総合体育館。アリーナ、トレーニングルーム、ランニングコース、50メートル温水プール、クライミングウォール、屋上にはテニスコート兼フットサルコートなどが整備されている。館名は1925年に来日し、日本にアメリカンフットボールを普及させるとともに、戦後のスポーツ復興にも努めた元立教大学教授であるポール・ラッシュ博士に由来している。
新座キャンパス内の主な施設
- セントポールズ・フィールド
- 総面積約15,299m2の規模を誇り、400mトラックを6レーン(直走路8レーン)、跳躍場、投擲場、ラグビー・アメリカンフットボール兼用のインフィールド(人工芝)を備えた全天候型の陸上競技場。
- セントポールズ・アクアティックセンター
- 日本水泳連盟より、競泳用の国内基準プールとして公認されている室内温水プール。用途に合わせてレイアウト(50m×10コース、25m×8コース[2面])の変更が可能で、水深を6段階に設定することが可能。新座市民へも開放されている。
- 野球部グラウンド
- 1966年に完成し、8,400平方メートルの人工芝を備えた野球部の専用グラウンド。2016年に改修され、全面人工芝化、バックスクリーン張替、観覧席増改築などが行われた。人工芝は2015年3月に改修された明治神宮野球場と同じ、ハイブリッドターフExcitingが使用されている。近くには、硬式野球部の選手たちが生活する智徳寮や、人工芝が整備された全天候型の室内練習場も置かれている。室内練習場にはトレーニングルームやブルペンも併設されている。
- 体育館
- 室内競技用のアリーナ5面を擁する巨大な体育館。トレーニング室、シャワー室、ボクシング場、レスリング場、土俵などの専用施設がある。
- 富士見総合グラウンド(埼玉県富士見市下南畑1343-1)
- 野球場、テニスコート、アメリカンフットボール場、ホッケー場、サッカー場、ラグビー場、洋弓場、射撃場、自動車部ガレージ、馬場、馬術部部室棟、ポニーリンク、厩舎、トレーニング棟、クラブハウス、クラブハウスアネックスなど体育会各部専用の体育施設。
歴史資料館
- 立教学院展示館(池袋キャンパス内)
- 立教の歴史と伝統、教育と研究の取り組みを発信する場として、2014年に開館。旧図書館の趣を残した2階の展示スペースでは、貴重資料の展示、タッチパネルディスプレーや映像、写真を通して、立教学院の歴史を学ぶことができる。
- 旧江戸川乱歩邸 - 大衆文化研究センター(池袋キャンパス内)
- 推理小説家江戸川乱歩が、1934年から移り住んだ邸宅、書庫として使われていた土蔵、および4万点近くの蔵書等が、2002年に立教大学へ譲渡され、2006年に江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが設立。土蔵は豊島区指定有形文化財に指定。センターでは現在研究・保存を進めており、一般公開もされている。
その他施設
- 太刀川記念館(池袋キャンパス内)
- ソニー創設メンバーで、立教大学OBの太刀川正三郎の夫人、太刀川あさ子の寄付によって、1996年に建てられた記念館。3階のカンファレンス・ルームでは、各種講演会やシンポジウムなどが開催される。
- 太刀川記念交流会館(新座キャンパス内)
- 太刀川記念館と同じく、太刀川正三郎夫人の太刀川あさ子の寄付により建てられた多彩な交流活動を目的としたコミュニケーションセンター。2007年竣工。宿泊施設もあり、ゼミナール・クラブ・サークル活動、会議、会合、講演会など様々な用途で利用されている。
- 太刀川記念上大崎交流会館(品川区上大崎)
- 立教学院に関わる人々のための多目的研修施設であり、「交流」を目的としたセミナーハウス。
- スタジオ棟(新座キャンパス内)
- 広さ約200m2、照明下の高さ約5mを持つ映像制作のためのスタジオ。2面R仕様の白ホリゾント壁を設置し、5m×5mのクロマキー合成用のブルーバック幕を備えている。基本となる照明設備は備えつけで、本格的な映画・ビデオ・スチール写真などの撮影が可能。
- ロフト教室(新座キャンパス 6号館内)
- 最新の自動収納式の観客席(176席)を備え、舞台エリアではダンスや演劇の本格的な公演が可能。座席を収納すると約300m2のフラットな板張り空間としても利用できる。
- シアター型教室(新座キャンパス 6号館内)
- 4Kデジタルプロジェクターを備えたシアター型教室。デジタルシネマの最先端スペックを備えた上映用施設として利用される。
対外関係
外国の拠点
拠点の名前 | 所在地 |
---|---|
上海事務所 | 上海市楊浦区国賓路18号 五角場万達広場A座20階 (株)GES 上海事務所内 |
香港事務所 | c/o Find Asia Limited,Suite 305, 3/F, Far East Finance Centre, 16 Harcourt Road, Admiralty, Hong Kong |
ASEAN事務所(ジャカルタ) | Jl. Sawo Kecik I, Eramas 2000, Jakarta, 13950 |
ロサンゼルス事務所 | c/o Takuyo Corporation (Lighthouse), 2958 Columbia Street, Torrance, CA 90503, USA |
ニューヨーク事務所 | Colleges and Universities of the Anglican Communion, 815 Second Avenue New York, NY 10017-4503, USA |
国際交流
- 陸前高田プロジェクト
- 東日本大震災の被災地である陸前高田市でフィールドワーク(4泊5日)を行い同市の現状や課題を共有した上で、魅力を伝えるコンテンツを作成するという課題に取り組む課題基盤型学習 (Project-based Learning) 授業。国際化戦略「Rikkyo Global 24」の取り組みの一つとして、海外からの留学生を含む立教大学生が、被災地の現状を広く知り、復興における課題の共有を通じて陸前高田市の復興支援に寄与していくことが目的。2015年度より、本授業の趣旨に賛同したスタンフォード大学から毎年学生が派遣されている。2018年度には立教大学へのインターンシップや学生交流で関係の深まった香港大学から、2019年度はシンガポール国立大学から学生が派遣され、4大学によるプロジェクトとなった。
- 延世・慶應・立教・復旦リーダーシップフォーラム
- 2002 FIFAワールドカップの日韓共催をきっかけとして、延世大学の発案により実現し、延世大学・慶應義塾大学・立教大学の3大学が協力して始まったプログラム。グローバル化の進む社会で活躍するリーダー育成を目的として毎年開催されている。2006年度には、中国の復旦大学が加わり、東アジア地域の学生が集い、真剣に政治・経済・社会・文化を議論する貴重な機会となっている。
地方自治体との協定
自治体 | 協定内容 |
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他大学との協定
- F-Campus
- 聖路加国際大学
- 単位互換制度(2001年度開始)
- 医療的な支援および協力に関する協定(2019年協定締結)
- 順天堂大学(2007年協定締結)
- 順天堂大学と立教大学との間における研究教育に関する協定書
- 埼玉大学(2015年協定締結)
- 相互協力・連携協定 (学術研究、教育、地域貢献、その他)
- 岩手大学(2016年協定締結)
- 陸前高田市、岩手大学及び立教大学における地域創生・人材育成等の推進に関する相互協力及び連携協定書
- 横浜国立大学(2016年協定締結)
- 相互協力・連携協定(学術研究、教育、FDおよびSDの共同実施、教育研究施設・設備の共同利用)
- 金沢大学(2021年協定締結)[273]
- 連携と協力に関する協定(観光を中心とする学術研究、教育、人材育成)
- 図書館閲覧協定締結校
- 山手線沿線私立大学図書館コンソーシアム加盟校
- 学習院大学(上記、山手線沿線私立大学図書館コンソーシアムも加盟)
- 埼玉大学
- 埼玉県大学・短期大学図書館協議会加盟校(新座キャンパスのみ)
- 東京12大学広報連絡協議会
- 大学情報サミット
- 全国私立大学FD連携フォーラム
- 日本聖公会関係学校協議会
- 世界聖公会大学連合 (Colleges & Universities of the Anglican Communion)
系列、姉妹校
系列校
学校法人立教学院では、設置している教育機関を全て同格に扱っており、大学を頂点とする附属学校は設置していない。そのため、本節にてまとめている。
姉妹校
学校法人立教女学院とは、創立者が同じであることから基本的な信条を同じにしている。
- 立教女学院小学校
- 立教女学院中学校・高等学校 - 立教女学院高等学校からは、毎年6割近くの生徒が推薦入学で立教大学へ進学している。
- 香蘭女学校中等科・高等科 - 立教大学へ97名(学年の半数以上)の推薦入学枠がある。現在は聖公会系の学校法人香蘭女学校が運営するが、立教大学と同じ経営母体が運営していた時期がある。
- 立教英国学院 - 立教大学へ25名(学年の半数以上)の推薦入学枠がある。
関係校
立教大学はキリスト教の一派である日本聖公会に所属している。
- 聖路加国際大学
- 平安女学院中学校・高等学校
- 平安女学院大学
- 桃山学院中学校・高等学校
- 桃山学院大学
- 桃山学院教育大学
- プール学院中学校・高等学校
- 神戸国際大学附属高等学校
- 神戸国際大学
- 松蔭中学校・高等学校
- 神戸松蔭女子学院大学
- 名古屋柳城女子大学
- 名古屋柳城短期大学
- 聖十字看護専門学校
- 聖ステパノ学園小学校・中学校
社会との関わり
立教と映画
- 立教大学は、多数の映画人を輩出してきた。1970年代から1980年代にかけて、大学の一般教養科目に「映画表現論」の講義があり、映画好きの学生たちは、講師をしていた蓮實重彦(のちの東大総長)に影響を受け、一定の思想性、党派性を持った活動を行った。サークル活動としては、映画制作サークルである立教SPP(セント・ポールズ・プロダクション)やSPPから独立した自主映画制作サークル「パロディアス・ユニティ」などがあった。
一連の映画活動は、立教ヌーヴェルヴァーグともいわれ、日本映画に記憶を残す作品を発表する監督たちが多数卒業生の中から生まれている。当時の立教大学には映画関係の学部や学科がなかったにも関わらず、多くの映画人を輩出してきたのは蓮實重彦の影響力の大きさに加え、蓮實に呼応した学生たちの自主的な活動が生み出したものといえる[274]。
2006年には、新座キャンパスに現代心理学部・映像身体学科が設置され、映画・映像制作が学べる環境が整っており、気鋭の若手映画監督も生まれている。
立教と避暑地リゾート
- 日本の避暑地リゾートを開拓した立教大学ゆかりの人物
- 日光を生涯にわたって愛したジェームズ・ガーディナー(立教学校初代校長)をはじめ、聖公会神学院の前身の一つである聖教社神学校を設立したアレクサンダー・クロフト・ショーは、軽井沢に教会(軽井沢ショー記念礼拝堂)を設立し、地域を有名にしたことから「軽井沢の父」と呼ばれ親しまれている[275]。また、立教大学教授を務めたポール・ラッシュは、清里を開拓し、キープ協会を創設した。彼ら、立教大学ゆかりの人物たちによって、日本の避暑地リゾートが開拓されている。
- 軽井沢ショー記念礼拝堂は現存し、日光にはガーディナーが設計した日光真光教会礼拝堂やエマーソン邸(上赤門)が現存する。清里にはキープ協会により運営されている宿泊研修施設「清泉寮」とラッシュを中心に設立された清里聖アンデレ教会がある。
- 日本アルプスの父
- 英国聖公会の宣教師ウォルター・ウェストンは、日本の山々や上高地を世界中に紹介した登山家でもあり、「日本アルプスの父」、「日本近代登山の父」と称されている[276][277]。ウェストンは、まだ登山という概念がなかった明治時代に日本人に先駆けて各地の山に登り、その体験を1896年(明治29年)に「日本アルプスの登山と探検」という本にまとめ、ロンドンで刊行し世界に紹介した。ウェストンは、英国の歴史あるパブリックスクールの名門ダービー校の卒業生で、スポーツを通じた人間教育を受けており、スポーツとしての登山の醍醐味を日本人に教えた[278][279]。また、日本山岳会の設立を提唱し、ロック・クライミングを日本で初めて行った人物でもある。上高地にある彼のレリーフの前で毎年「ウェストン祭」が開かれている[280]。
立教とクラシックホテル
現存する日本最古のリゾートホテルである日光金谷ホテルや箱根のランドマークでもある富士屋ホテルを始め、以下のとおり、日本を代表するクラシックホテルの多くで立教大学の卒業生が経営に携わり、歴史を創ってきた。2017年には、これらのホテルを含む日本のホテル黎明期に創業し、戦前・戦後を通して西洋のホテルのライフスタイルを具現化してきた9つのホテルで「日本クラシックホテルの会」が設立された。人材交流や訪日外国人へ向けた共同PRなどの連携を通じて、先人たちから創り上げてきたホテル文化を次世代へと繋ぐ取り組みを進めている[281][282]。
- 日光金谷ホテル - 金谷眞一(元社長)
- 富士屋ホテル - 山口正造(元社長)、勝俣伸(会長)
- 万平ホテル - 佐藤泰春(元会長)
- 東京ステーションホテル - 藤崎斉(総支配人)
- ホテルニューグランド - 青木宏一郎(総支配人)
- 蒲郡クラシックホテル - 山下智司(社長)
ポーター賞受賞企業
一橋大学大学院経営管理研究科が運営するイノベーションによって独自性ある戦略を実行し、高い収益性を達成している企業を表彰する「ポーター賞」を立教大学の卒業生が経営する企業が受賞している[283]。ポーター賞は、ハーバード大学教授のマイケル・ポーターの名前に由来し、2001年7月に創設された[284]。
受賞年度 | 企業名 | 代表者名 | 大学卒業年 |
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2016年度受賞[285] | ピジョン株式会社 | 山下茂 | 1981年卒 |
2018年度受賞[286] | 株式会社MonotaRO | 鈴木雅哉 | 1998年卒 |
脚注
注釈
- ^ 1870年(明治3年)大阪・川口の与力町に設立した英語塾「のちの英和学舎」も、立教大学の前身の一つである。また、設立時期が現在のところ不明だが、明治初期に大阪の北浜にあった風雲館(1880年・明治13年に大阪・英和学舎と合併)も前身の一つとして考えられる。 1874年(明治7年)に東京・築地の外国人居留地に設立された立教学校は、開校当初、主教らの公的書簡では「Day school for boy」または「Boys school」などと記されていた[1]が、年末までには「立教学校」と命名された。
- ^ a b c ブリテン諸島ではローマ・カトリックより前から独自のキリスト教文化があったとして、のちの時代の聖公会においてケルト系キリスト教にアイデンティティーを見出す動きが一部に見られ、近代に建てられた各国の聖公会の聖堂や墓碑などにも、ケルト十字が好んで用いられるという傾向もある[3]。立教大学のチャペルや立教大学の前身の1つである英和学舎のあった地に建つ大阪・川口基督教会の建物にもケルト十字が用いられている。
- ^ a b c d 明治中期には、立教築地キャンパス(現在の聖路加国際病院と聖路加国際大学の場所)の近く、現在の聖路加ガーデンの場所にアメリカ公使館が建っていた。幕末の日米和親条約により、当初アメリカ領事館は、伊豆下田の玉泉寺に置かれ、米国聖公会の信徒であり、日本への米国聖公会による学校開設を勧めたタウンゼント・ハリスが初代駐日領事として赴任した。その後、日米修好通商条約が結ばれ、ハリスは初代駐日公使となり、下田の領事館を引き払い、1859年(安政6年)、現在の東京元麻布の善福寺にアメリカ公使館を開設。1863年(文久3年)5月、善福寺の建物が庫裏からの出火で消失したため、横浜の山手居留地に公使館施設を設けたり、関内居留地の海岸通り20番に開業したばかりのグランドホテルに公使が滞在するなどしたのち、1874年(明治7年)4月末または5月初め、米国公使館は築地居留地1番・2番・21番・22番で構成される地所(現在の聖路加ガーデンの場所)に移転。(のちに3番も敷地に加えた。)1875年(明治8年)12月には、同地に公館を新築し形容を整えた。その後、築地の公使館は手狭となり、1890年(明治23年)3月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転した[5][6][7]。(外務省調査月報 2013 No.1には、1890年(明治23年)5月15日まで、公使館は築地に置かれていたとある。)
築地のアメリカ公使館跡には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国の最初の13州を示す。8個の石標のうち3個は1984年(昭和59年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されている。残る5個は、築地居留地時代を伝えるものとして中央区民文化財に登録されており、3個は聖路加国際病院敷地に、2個は聖路加ガーデンに設置されている。
1930年(昭和5年)5月26日には、ライフスナイダー総長が、米国大使館の定礎式で日米関係者が300人以上参加する中、司会進行と祈祷を行っている[8]。1939年(昭和14年)には、日本で最初のアメリカ研究の機関として「アメリカ研究所」が設立された[9]。 - ^ 1919年(大正8年)の立教大学池袋校舎落成式では、会場正面に大型の日米国旗を交差する中で開催され、大隈重信、渋沢栄一、外務大臣などとともに駐日米国大使も出席し祝辞を述べ、日米両国の友好の証として式典が盛大に祝われた[4]。また、卒業式などの学校行事においても、アメリカ国旗を日本国旗とともに会場に掲揚し、式典が行われた[10]。
- ^ a b 2014年1月21日には池袋キャンパスで駐日米国大使館首席公使カート・トンを招いて「日米友好の木 ハナミズキ」の植樹式が開催された。植樹は日本から米国に3000本のサクラを寄贈してから100周年を記念して、米国民から日本への返礼として3000本のハナミズキを贈る取り組み「友好の木 - ハナミズキ・イニシアチブ」の一環として行われた。同イニシアチブは、日米の国民同士の異文化および教育交流を体現するものとして、米国政府と日米交流財団が共同で設立した官民パートナーシップにより運営される。立教大学は米国聖公会から派遣された宣教師によって創設された学校で、2014年当時で140年に渡る米国との深い関係が続いていることから、学校法人としては初めて、40本のハナミズキの寄贈を受けた。また、日米両国の友好と親善に尽力された功績に敬意を表し、立教大学は1965年にライシャワー駐日大使、2000年にフォーリー駐日大使、2013年にルース駐日大使に名誉博士学位を授与している[11]。
- ^ a b c 立教大学校は、1883年(明治16年)に米国式カレッジとして東京・築地に設立され、東京大学とともに明治中期の日本を代表する最高レベルの高等教育機関である。角帽(モルタルボード型)を最初に着用して都内を闊歩したのは、立教大学校生といわれる。新校舎は美しい尖塔を有し、東京見物の人々も訪れるほどであったいう。カリキュラムは全て英語の教科書を用い、教員も主に外国人であった。 当時、最高学府としての大学の名を有する高等教育機関は、1877年(明治10年)設立の東京大学と立教大学校のみで、「東京に大学校二あり、一は本郷に又た一は築地に在り」と呼ばれ、東京大学と立教大学校の二つをもって大学校の代表とし、日本屈指の教育機関であった。同時期、1877年(明治10年)に工学寮を改称して生まれた工部大学校(のちの東京大学工学部)もあったが、技術者養成の教育機関であった。また、1880年(明治13年)に開校した築地大学校も存在したが、1883年(明治16年)には横浜の先志学校と東京一致神学校へ人材を供給することを目標に統合され、東京一致英和学校となり、大学という名称から変更している[12]。立教大学校は、国粋主義が広がり出したことによるキリスト教への圧力や、日本の教育制度の変更などから、その後カレッジ構想を断念せざるを得ない状況となったが、日本の教育制度に合わせる対応をするなど、障壁を乗り越え、日本での教育を維持した[13]。
- ^ 東京六大学の括り自体は、日本に現存する大学野球の対校リーグ戦では最も古い東京六大学野球連盟を発祥とする。
- ^ 「本気で勉強したくなる図書館」とは、大学側が用意したコンセプトではなく、学生のツイートから始まったコンセプトである。図書館の開館前に比べて、利用率は増えており、学習教育と研究の基盤になっている[25]。
- ^ 立教大学校時代には、教員は主に外国人で、カリキュラムも全て英語の教科書が用いられていた[12]。
- ^ 例として、ウィリアムズ主教が卒業したウィリアム&メアリー大学でも、主専攻+副専攻(メジャー、マイナー)の学部課程履修プログラムが設けられており、文系科目、理系科目に問わず、多くの副専攻が用意されている[34]。また別の例として、コーネル大学では、主専攻とともに多くの副専攻が設置されているのに加え、2つの主専攻を学ぶdual-degree programs(2重学位プログラム)があり、従来の部門の境界を超える学際的な履修プログラムが設けられている[35]。
- ^ 4大学共同で開発する教育プログラムによる相互質保証の上で、4大学間長期交換留学、インターンシップ、インテンシブプログラム、共同オンライン科目群で構成する「国際共同副専攻 (ALIS)」を開設し、アジア文化圏の学生や多様な人々との協働を通じて、国際社会の諸問題の解決について思考し、行動できる人材を育成することとしている。
- ^ その頃、日本国内には学部レベルのリーダーシップ教育の科目はなく、社会心理学的、組織行動論的な科目はあったが、学生にリーダーシップを身に付けさせる科目は皆無であった[39]。
- ^ 授業のアシスタントを務める学生。SAを希望する学生は多く、学内応募・選考を経て、研修を行った上で授業のサポートにあたる。
- ^ 1509年に創設された英国のパブリックスクールの名門校で、ラグビースクールとともにラグビー競技のルーツ校の一つである「セント・ポールズ・スクール」の名称は、セント・ポール大聖堂に由来し、同校は大聖堂の主任司祭であったジョン・コレットによって創設された[50][51]。1904年には、女子校である「セント・ポールズ・ガールズ・スクール」が創設されている。
- ^ 京都大学でも立教大学と同じく、創立以来「自由の学風」を基本理念に掲げている。研究の自由と自主の環境の中で、世界的な研究者を生み出してきた。
- ^ コロンビア大学でも学んだ元田作之進(立教大学の初代学長)は、立教中学の校長時代に、立教の教育の方針を「徳育に重きを置き、人格の完全した生徒を養成するといふこと」にあるとして、「聖書クラスなどが設けてあるとは云っても、これは生徒の徳育に資せやうとするので、如何してもこれに加はらねばならぬと云うものではない。生徒各自が宗教に就いての信仰を持つ、持たぬは各自の自由である。従つて普通の宗教学校にやうに、朝祈祷もせなければ礼拝も行はぬ。」と語っている[12]。
- ^ 米国コネチカット州の伝統あるリベラルアーツ・カレッジのトリニティ・カレッジも立教大学と同じく米国聖公会によって設立された大学であるが、宗教的および学問の自由の原則に根差している。トリニティ・カレッジの憲章は、創立当時の宗教的多様性と寛容性と一致して、学生、教職員、または大学の他のメンバーに宗教的基準を課すこと禁じている。また、立教大学はトリニティ・カレッジと大学間協定を締結している。
- ^ a b 経営学部は、2006年に経済学部経営学科と社会学部産業関係学科を母体として開設された学部である。
- ^ a b 当時は「進学相談会 on Campus」という名称であった[67]。
- ^ ホテル講座は、当初、コーネル大学のホテル経営学校をモデルとしたホテル経営業務を主としたカリキュラムであった[71]。
- ^ 明治期に立教学校(立教大学の前身の一つ)の初代校長を務め、建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーは、現存する日本最古のリゾートホテルである「日光金谷ホテル」の経営者であった金谷善一郎に、日光を訪れる外国人向けに本格的なホテルが必要となることを助言し、善一郎の長男、金谷眞一はガーディナーが教えていた築地の立教学校に1892年(明治25年)に入学し、英学を学んだ。その後、眞一は、ホテル経営が厳しくなる中、ホテルに戻って経営者として金谷ホテルを改革し、名門ホテルとしての礎を築いた。こうして日光は外国人向け観光地、避暑地として名を馳せることとなった[72]。
善一郎の次男、金谷正造も、立教に進学した。正造は卒業後、イギリスに長期滞在するなど外国を旅したあと、帰国した翌年の1907年(明治40年)に、箱根の富士屋ホテルの創業者、山口仙之助の長女と結婚し、山口家に婿入りして、富士屋ホテルの経営に取り組んだ。山口正造は、『We Japanese』という日本を紹介する記事を発行するとともに、『ホテル実務学校』を開設した。正造は1944年(昭和19年)に亡くなるが、戦後まもなく、『正造記念育英会事業』が始まり、1946年(昭和21年)に、正造の遺族と日本ホテル協会の人が立教大学を訪ね、正造の遺志を継いで、母校の立教大学でホテル関係の人材育成活動を続けてほしいとする申し出を行った。こうして大学に開設されたのが『ホテル講座』であった[73]。 - ^ 当時の1980年代初頭の日本には、野田が教える以外にアントレプレナーシップ(起業家精神)教育は存在していなかった。日本ではアントレプレナー(起業家)の育成は中小企業で行っており、アントレプレナーの先生はアントレプレナーであり、大学で教授が教えることはなかったのである。当時のアントレプレナーはブルーカラーの世界だったが、徐々にホワイトカラーの方に移っていく契機となったのが、ベンチャー企業であった。知的レベルが上がっていくとビジネススクールでスキルを教える必要性が出てきたのである。1992年になると、法政大学教授の清成忠男(のちに法政大学総長)の尽力により法政大学大学院に企業家教育コースが開講し、人気を集め、ほぼ同時期に早稲田大学教授の松田修一がアントレプレナー研究会を始めて、ようやく起業家教育が全国に広がっていくこととなった。また、立教大学教授を1989年3月に定年退職した野田一夫は、同年4月に開校した多摩大学の初代学長として、ベンチャー型起業家を生み出すアントレプレナー教育を開始し、その後、学長となった事業構想大学院大学でも教育の基本に据え、立教大学でさきがけとして始めたアントレプレナーシップ教育を拡大していった[89][86]。
- ^ 野中は、マネジメントは新たな教養であるとし、以下のようにに述べている。「ドラッカーという人と思想を見ていくときに、哲学・歴史・文学からのとらえ方も有効であろう。それともう一つ、マネジメントとはリベラル・アーツなのだということを提唱したのが、ドラッカーの見逃しえない功績と思う。豊かな現実を経験しながら、同時にその現実の背後にある本質を直観する。それを言語化するときの基礎が教養、リベラル・アーツである。生き生きとした現実、プロセスのなかで本質を直観することは、科学のみになしうることではない。人間の生き方に深く関わる洞察であるがために、科学よりはむしろリベラル・アーツである。すなわち、アートとなる。マネジメントを教養とするのはまさにそのためである。」[91]
- ^ ドラッカーは、1985年に発行した『イノベーションと企業家精神』の中で、「企業家精神の特性は、性格の問題ではなく、行動様式の問題である。しかも、企業家精神の基礎となるものは、直感的な能力ではなく、じつに論理的かつ構想的な能力なのである。」と述べ、企業家精神は極めて体系的なものであり、学習することで身に着け、実践することができるものとしている[94]。
- ^ a b ビル・ゲイツは、「今日は名誉ある博士号授与だけでなく、皆さんとの対話を楽しみにして来た。私自身は大学を卒業できなかったのでうれしい。父は喜ぶだろう。」と講演の冒頭で語った。
- ^ CSIは2010年3月に開設された。
- ^ 大学院学生・教職員・学内組織に対して、調査・統計技法を活用して、日々の研究活動を生かしたいというニーズに応じて相談業務を行う。
- ^ 日本のアメリカンフットボールの歴史は、1934年春頃から、ポール・ラッシュ博士(立教大学教授)、ジョージ・マーシャル(立教大学体育主事)、松本瀧藏(明治大学教授)、小川徳治(立教大学教授)、アレキサンダー・ジョージ(アメリカ大使館付武官)、メレット・ブース(アメリカ大使館付武官)、加納克亮(朝日新聞記者)らが立教大学に集まり、我が国でのフットボール競技活動開始を協議したことに始まる。ラッシュの尽力により、同年10月28日に東京学生アメリカンフットボール連盟(現・関東学生アメリカンフットボール連盟)が結成され、11月29日には全東京学生選抜チーム(立教、明治、早稲田)と横浜カントリイ・アスレチック・クラブ(YCAC)との間で、明治神宮競技場において日本初の公式試合が開催された。観客は約2万人で、開会式ではジョセフ・グルー米国大使が祝辞を述べた。同年12月8日には、我が国最初のリーグ戦である東京学生リーグが開幕し、立教大学池袋グラウンドで初戦の立教大学対明治大学戦が開催された[102]。
- ^ a b オーガスティンは、同年(西暦597年)に、英国のパブリックスクールであり、世界最古の現役の学校の1つと評される「キングス・スクール」を創設[110]。キングス・スクールはカンタベリー大聖堂に隣接して設置されている。
- ^ a b 琉球王国で伝道活動した英国聖公会のバーナード・ジャン・ベッテルハイムを日本における最初のプロテスタント宣教師とすることもあるが、琉球王国は1879年になって日本の沖縄県になることから、正式に日本ミッション開設のために米国聖公会から派遣されたジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズを日本における最初のプロテスタント宣教師とする。
- ^ a b 荘村助右衛門は肥後藩士で、長崎でウィリアムズに学んだ。1866年(慶応2年)2月にはウイリアムズより洗礼を受ける(日本における聖公会初の受洗者)。荘村は、藩では兵学者で西洋流砲術、洋式操練の研究担当し、佐久間象山の塾や、長崎海軍伝習所で学んだ。ウィリアムズからは軍事書を手に入れたほか、フルベッキやグラバーに加え桂小五郎、坂本龍馬とも親交を持ち、坂本龍馬とは肥後藩を薩長同盟に参加させようと画策した[138][111]。
- ^ a b c d e f g 大隈重信は、立教築地キャンパスの形成に大きく貢献をした。築地居留地は、「狭義の居留地」と「相対借り地域」に分けられるが、1884年までに狭義の居留地に造成された計52の地所は外国人の手で全てせり落とされていた。米国聖公会はスタッフが増加し、居留地に建設した建物に収容できなくなったことと、さらなるキャンパスの拡張を行うため、敷地の拡充が必要となっていた。1888年6月29日にウィリアムズは、築地居留地の予備地の購入を求め、米国公使のハバードに要請した。要請を受けたハバードは、1888年7月3日、大隈重信外相に書簡249号を送り、ウィリアムズの書簡のコピーを付して、大隈の長崎時代の恩師であるウィリアムズの要請を伝達した。当時米国公使館は、ウィリアムズが住む築地居留地にあったので、ウィリアムズとハバードは事前に何回か会って打ち合わせを行ったと思われる。
大隈は、1888年7月17日にハバード宛に予備地を築地居留地の拡張部分として日本の行政権から切り離す用意があると回答し、ただちに山県有朋内相、東京府の高崎知事にその内容を通知した。1888年11月2日には、大隈は山県に書簡を送り、おそくとも同年12月15日までに予備地を居留地に充用するために競売に付するべく準備するよう訓令することを求めた。1888年11月28日には訓令が出され、住人には移転料が支払われたが、ある住人は1889年4月までの立ち退き延期が認められた。この年の4月1日、高崎知事は、1889年5月16日に造成する53番から56番までの4つの地所を競売に付したい旨、上申した。同年5月16日に予定通り競売が行われ、4つの地所をいずれもウィリアムズが競り落とした。こうして大隈の尽力により米国聖公会は、キャンパス拡張用地として、住宅用1つ、病院用2つ、神学校用1つの土地を既にある居留地の拠点に隣接して、入手するに至ったのである[164]。 - ^ アメリカの自由と民主主義の象徴であり、ニューヨーク港内に建つ『自由の女神像』の左手には、ウィリアムズが卒業したウィリアム・アンド・メアリー大学の卒業生で、第3代合衆国大統領を務めたトーマス・ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言書を持っている。右手には、たいまつを持ち、足元には引きちぎられた鎖と足枷があり、それを踏みつけるような恰好となっている。これは、一切の弾圧や抑圧からの解放を表し、独立宣言書ととともに、『人類は、皆自由で平等である』ことを象徴している。女神像の正式名称は『世界を照らす自由』で、冠の7つのトゲのような突起は、7つの大陸と7つの海に自由が広がることを示している[113]。また、立教大学の本館(モリス館)の中央にある塔は、大正期において『自由の塔』と呼ばれていた。(#本館 モリス館(池袋キャンパス)を参照)
- ^ 米国コネチカット州の聖職者で、スコットランド聖公会によって主教に按手。
- ^ 新しい教会のための聖公会祈祷書の改訂版が書かれる。
- ^ のちにブーンの後任として、チャニング・ウィリアムズが中国・日本伝道主教となる。
- ^ ハリスは、ニューヨーク市立大学シティカレッジの創設者でもある。来日する以前の1846年にニューヨーク市教育局長となったが、その頃(1840年代)のニューヨークは人口増加にも関わらず、高等教育機関が2校しかなく、経済的に困難な移民や労働者階級の子弟にはほとんど教育の機会が与えられていなかった。ハリスは、ニューヨークの発展に寄与する人材育成を目指し、「社会に開かれた高等教育の場」を理念に、1847年に無償の学校であるニューヨーク市「フリーアカデミー」(現:ニューヨーク市立大学シティカレッジ)を創設する。当時、このハリスの挑戦に対し、貧困層への無料教育が役に立つのかと周囲の風当たりは相当強いものであったが、学校はのちにニューヨーク市立大学へ発展し、多数のノーベル賞受賞者も輩出することとなり、ニューヨークのみならず世界的にもハリスの功績は多大なものとなった。現在のニューヨーク市立大学シティカレッジの学生数は1万6千人ほどであるが、ニューヨーク市立大学群で見ると、学生数は50万人を超え、世界有数の大学群となっている。
- ^ 長崎奉行から奉行所の長崎通詞に英語の教授するように要請を受けたタットノール提督 (Josiah B.Tatnall) は、英語教師としてヘンリー・ウッドを任命した。英語学校は、ポウハタン号艦上で開校。その後、ロシア交易場(Russian Bazaar) の2階の和室へ移った。カリキュラムは、英単語の発音から始まり、リーディング、文法と進み、算術、地理、天文学、キリスト教育など多彩な内容であった。学校名は母校のダートマス大学に因み、Dartmouth College, Juniorと命名した。
- ^ エドワード・サイル(米国聖公会)、サミュエル・ウィリアムズ(長老派教会)、ヘンリー・ウッド(長老派教会)の3名が長崎でオランダ商館長ドンケル・クルチウスとの会談を行ったことにより日本側の対応を知り、それぞれが所属する母国の伝道協会宛てに宣教勧告書簡を送り、日本に派遣する宣教師を任命するように促した[118]。3名の連名による書簡であったとする資料が多いが、連名による書簡ではなかったようである。事実、ヘンリー・ウッドは、エドワード・サイルとサミュエル・ウイリアムズが長崎に来る前に、既に書簡を送っている[117]。また、サミュエル・ウイリアムズは宗派を超えて、米国聖公会へ向けて書簡を送っている[119]。ヘンリー・ウッドの宗派はオランダ改革派であったとする資料もあるが、当初は会衆派の牧師で、のちに長老派の牧師となった[117]。こうした背景には、会衆派、長老派、オランダ改革派などで結成された無宗派的な海外伝道組織であるアメリカン・ボードの影響も考えられる。
- ^ ジョン・リギンズは日本における最初のプロテスタント宣教師とされるが、療養のため、チャニング・ウィリアムズより1ヵ月早く来日し、英語教師および伝道師として精力的に活動したが、病気のため来日から1年も経たず1860年2月に日本を離れた。ウィリアムズも、リギンズとともに米国聖公会から同時に派遣を決定された人物であり、来日後長らく日本で活動したことから、日本における最初のプロテスタント宣教師である。リギンズとウィリアムズはヴァージニア聖公会神学校の同級生である[13]。
- ^ 米国聖公会は同行する医療宣教師として、H.E. シュミットを人選する[121]。
- ^ ミッションの場所はエドワード・サイルが推奨した長崎となる[116]。
- ^ 長崎に到着したリギンズは長崎奉行の要請で、早速、英語教師として8人の公式通訳(長崎通詞)を指導した。長崎奉行からは3部屋ある家を提供された。ウィリアムズが来日してから、両者は長崎の崇福寺の境内に滞在した。
- ^ 開設されたミッションは伝道に加え、教育活動と医療活動を目的としており、リギンズとウィリアムズは来日後、英語教育を開始する。これが教育機関としての立教大学の起源である。
- ^ ウィリアムズは、サイルの家族の病気で、リギンズより日本への出発が遅れた[116]。
- ^ フルベッキはオランダ改革派の宣教師として来日し、早稲田大学の建学の祖とされる人物。チャニング・ウィリアムズと親交が深く、子供たちはウィリアムズより洗礼、堅信を受け聖公会員となる。次男はチャニング・ムーア・ヴァーベックと命名(ウィリアムズは遺産の一部と金時計を与えると遺言状で指示)。二女のエマ・フルベッキは聖公会の婦人伝道師となり、立教女学院、立教学校で教えた[123][124][125]。
- ^ フルベッキはリギンズ、ウィリアムズと同居した後、崇福寺近くの住居に引っ越した。しかし、妻が神経痛となり、1860年8月に来日したハインリッヒ・シュミット医師から、神経痛の原因は寝室の湿度の高さにあると説明され、シュミットの薦めで、1860年11月15日に環境の良い崇福寺広福庵へ転居した。広福庵は、最初の住まいであった崇福寺広徳院と同じ境内の高台にあった[126]。
- ^ ウィリアムズは、長崎の漢方医、笠戸順節や佐賀藩の碩学、谷口藍田と交流している。笠戸順節は、漢文に長けた人物で、リギンズ、ウィリアムズ、フルベッキに、日本語や日本に関する書籍を供給した。リギンズ、ウィリアムズは中国で漢文を習っていたため、笠戸とコミュニケーションが取りやすかったと思われる。笠戸順節は、シーボルトにも資料を提供していたとされる。
ウィリアムズは、谷口藍田に英語や海外事情を教え、藍田からは和漢の学について教えを受けたという。谷口藍田は東京専門学校(のちの早稲田大学)でも教鞭を執っている[127][128]。 - ^ シュミットは来日してから2か月後には診療を開始している。翌年7月に東山手居留地四番館に引っ越した際には、診療所が整備されたと考えられる。
医学と英語教育については、日本人医師たちに英語で現代医学を教えるクラスと、医学とは関係なく英語だけを教えるクラスを持っていた。 - ^ ウィリアムズは東山手居留地の五番館に住んだ。シュミットの住む四番館に隣接する三番館には幕府の「済美館」と佐賀藩の「致遠館」で英語などを教えるフルベッキが居住していた。また、現在の東山手にはC.M.ウィリアムズ宣教師館跡の石碑が建てられている。
- ^ 何礼之、平井義十郎などの唐通事たちが世話人となっていた。ウィリアムズやフルベッキも英語を教えたと考えられる。
- ^ 高杉晋作はチャニング・ウィリアムズから「アメリカでは、階級間に差別がなく一般人から大統領が生まれ、また大統領も、辞めれば一般人となること」など欧米の状況を聴き、知識を学ぶ(これが奇兵隊の発想の基にもなったといわれる)[111]
- ^ チャニング・ウィリアムズの元で学んだ大隈重信は早稲田大学を設立し、前島密は早稲田大学(当時東京専門学校)の校長を務め、建学にも大きく関わっており、ウィリアムズが設立した立教大学と教え子が設立した早稲田大学は歴史的に深い関係がある。大隈重信はアメリカ独立宣言を知り、その後の人生に大きな影響を受けたが、アメリカ独立宣言の起草者であるトーマス・ジェファーソンはウィリアムズが卒業したウィリアム・アンド・メアリー大学の卒業生であり、大隈にアメリカ独立宣言を最初に教えたのはウィリアムズであった可能性が高い。1888年(明治21年)、大隈はウィリアムズからの要請により築地キャンパスの拡張のため尽力する[注釈 32]。大隈は、1919年(大正8年)5月31日に開かれた池袋校舎落成式にも来賓として出席し、大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から立教大学との縁故に及ぶ大演説を行った[4]。前島密はチャニング・ウィリアムズから郵便制度についても学び、後に日本の近代的郵便制度の基礎確立につながった[111]。漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けた。また、早稲田大学建学の祖であるフルベッキとウィリアムズは深い親交で結ばれた盟友であった。
- ^ 土地は928坪、借地名義人は英国領事モリソン、所要経費は整地費を含め銀1782分。ジョージ・スミス主教の寄金と居留外国人の献金によって献堂された[132]。
- ^ ウィリアムズは、1868年11月には住む場所を探すため大阪に来ていた[144]。フルベッキも1868年10月に大阪を訪れており、ウィリアムズとフルベッキは大阪でも親密に情報交換をしていたと考えられる[143]。
- ^ 与力町は、川口居留地に程近い雑居地(のちの本田三番町付近、現在の川口3丁目付近)にあった。川口居留地は、当初わずか26区画しかなく、競売で土地を落札することができなかった外国人は隣の梅本町、与力町等の雑居地に住むようになった[146]。そのため、ウィリアムズは当初、与力町に居を構えたと考えられる。
- ^ アーサー・ラザフォード・モリスは米国聖公会の宣教師で、立教大学池袋キャンパスの本館(1号館)はモリスが遺した寄付により建てられたことから、「モリス館」とも呼ばれ、立教大学のシンボルになっている。
- ^ 午後2時間のみの男子学校[13]で、英語に加えて数学や理化学なども教える私塾として開設。ウィリアムズは数学、理化学を教えた。また、ウィリアムズが担当する聖書は選択であったが、初級クラスは全員が履修し、上級生も多数が履修した[142]。モリスが英語の教師として教壇に立った[149]。
- ^ 築地の外国人居留地にあった詩人ヘンリー・ロングフェローの子息邸を借用して塾を開設した。
- ^ ウィリアムズが最初に任命した実際の初代校長はジェームズ・ガーディナーである。ブランシェ(初代立教学校長)やクインビー(立教学校長)は、統括者ウィリアムズが不在時の主任者として位置づけられる[152]。
- ^ 先に来日(1872年)して指導していたJ.H. クインビー夫人の生徒3名を引き受けた。
- ^ この改称と同時に学校の場所を川口居留地14番に移したと考えられる。照暗女学院は、1879年6月には川口居留地6番の元オーサカホテルを購入し移転[144][145]。
- ^ 日本で初めて制服にセーラー服を採用した学校は諸説あるが、平安女学院は、その内の一つである。
- ^ 明治8年、照暗女学校のミス・エディの記録では、生徒に讃美歌を歌わせているとき、日本の子供たちはオルガンのどこから音が出るのか不思議がっていたという[156]。
- ^ 立教女学校は、1877年(明治10年)6月に、湯島天神町(現在の文京区湯島二・三丁目)にあったブランシェ夫妻の仮住居で始められた生徒わずか6名の私塾として開始。初代校長はブランシェ(ブランシェ夫人だと思われる)。米国聖公会から派遣され、来日したばかりの宣教師ミス・フローレンス・ピットマンがブランシェの働きを支え、生徒数は15名となり、2代目校長を務める。学校創設当初、設置場所が居留地外であったので、外国人教師は校主、若山儀一に雇用されるという形をとっていた。
立教女学校は翌1878年(明治11年)には神田川を渡った神田駿河台東紅梅町(現:神田淡路町)のブランシェ夫妻の新居に移る。ピットマンも同居した。
さらに生徒数が21名に増えたことから、1879年(明治12年)12月に隅田川に近い築地(京橋南小田原町「現:中央区築地7丁目」)へ移っている。
1882年(明治15年)には、ピットマンは立教学校の校長として築地の校舎などを設計したガーディナーと結婚。同年6月には、ガーディナー夫妻が住む築地居留地26番の住居の2部屋が女学校の教室として使用された。1884年(明治17年)にはガーディナーの設計で、築地居留地内26番に念願の新校舎を建設。校舎は洋風三階建ての美しい建物で、居留地内でも評判の建物であったといわれている。 - ^ ウィリアムズは度重なる校舎の損失を踏まえ、米国聖公会に、建築家で、文学と化学にも造詣が深い人物の派遣を要請し、ジェームズ・ガーディナーが人選された[13]。
- ^ 風雲館は立教大学の源流の一つと考えられる。日本英文学会の会長を務め、同志社でも教鞭を執った清水泰次郎の経歴によると、明治10年11月より明治11年9月まで、「大阪の北浜風雲館にて独逸学・漢学を修めた」とあり、風雲館は、当時大阪・北浜にあり、独逸学・漢学も教えていたことがわかる。清水は明治11年11月より明治12年3月までは、風雲館の館主・中島の請求に応じ英学部の教頭になっており、風雲館は館長が中島という人物で英学部も設置していたことが分かる。明治14年7月より明治16年12月までは、大阪川口の英和学舎で論理心理学を講授するとあり、英和学舎では論理心理学も教えていたことが分かる。出典資料の付記によると、「明治十年以降、大阪に於て北浜風雲館英語部教頭、英和学会教頭、ヘール氏塾(ウィルミナ女学校、現:大阪女学院)主任、照暗女学校(平安女学院前身)教頭を歴任し、なお関西英学校、開成学館、専修学校の教頭を兼ね、私立日本英文学会を創立しその会長となる。」とあり、清水は風雲館だけでなく、英和学舎でも教頭を務めたことが分かり、立教創設期での関わりが大きい。また、清水は英国留学で休職する第五高等学校(現:熊本大学)教授であった夏目漱石の後任として第五高等学校で教授を務めた[166]。
- ^ 英和学舎は天文学、生理学、論理学、歴史学、本草学(医薬に関する学問)など高度な学問を教授し、のちに立教大学の初代学長となる元田作之進、日本聖公会大阪教区主教となった名出保太郎、南海鉄道の社長を務めた大塚惟明などの人材を輩出した[144]。
- ^ ケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業したロイドは、学士、文学修士を取得、15か国語に通じていたといわれ、来日わずか7か月目には早くも日本語で説教を行っている。福澤諭吉から慶應義塾の教員の中で唯一真の学者と当初から認められていたロイドは、慶應義塾で11年にわたり(1885年-1890年、1893年-1898年、1904年)教鞭を執った[168]。
慶應義塾で教えるかたわら、福沢諭吉はロイドに三田キャンパス内の西洋館を与えるなど厚遇し、ロイドは慶應義塾の敷地内に喜望教会を創設した。福沢諭吉と聖公会の関わりは、英国聖公会福音宣布教会 (SPG) の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーとの関わりからあり、福沢の三女と四女と孫の清岡暎一(慶應義塾大学名誉教授)は日本聖公会の信徒となっている[169][170]。 - ^ ウィリアムズ主教は辞表を提出し、主教団は十分な審議の後、彼の長年の奉仕に感謝の意を表し、10月8日に辞表を受理した。この情報を日本で受け取った常任委員会は、全会一致で、「正当に資格を与えられた後継者がその職務に就くまで、主教としての職務を継続すること」をウィリアムズ主教に要請し、ウィリアムズ主教はこれに同意した[149]。
- ^ 聖別式には日本人を中心に700人が出席した。音楽を担当したのは、フルベッキの二女エマとミセス・フォールスだった。エマは築地の立教女学院でも音楽を教えていた。大聖堂は、ゴシック様式、身廊の長さは78フィート(約26メートル)、フランス製のステンドグラスがあり、塔の高さは地上から51フィート(約17メートル)だったという。オルガン部屋はコワイヤー(聖歌隊席)の北側にあって11×12フィートだったと記録されている。ガーディナーは日本音楽協会会員でもあったので、音楽的にも注意が払われていたらしく、その音響効果は立派だったと記録されている[172]。
- ^ 月刊として1931年(昭和6年)5月の300号まで続いた。その時々の立教のキャンパス全体の状況を知る唯一の雑誌として貴重である[178]。
- ^ 文部大臣(代理)、内務大臣(代理)、外務各大臣、米国大使、井上府知事等の祝辞に次ぎ、大隈重信、金子堅太郎、渋沢栄一の演説があった[189]。
- ^ ルドルフ・トイスラーは米国聖公会の宣教医で、聖路加国際病院の設立者。1927年から1934年まで立教の経営法人の理事を務めた。
- ^ 八代斌助は、イギリス国王ジョージ六世宛の天皇陛下のメッセージを伝達し、ロンドンで開催された全世界の聖公会の会議であるランベス会議に出席した。
- ^ 愛恵病院(英語名:Tokyo Dispensary)は、1890年(明治23年)ウィリアムズの要請により医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に開設[235]。
- ^ 三番館に隣接する四番館には、米国聖公会宣教医のハインリッヒ・シュミットが住んだ[134]。
- ^ 文部省内での医学部設置の認可手続きは完了した[207]。
- ^ 島崎赤太郎は杉浦学長の夫人ちか(旧姓高木)の東京音楽学校時代の先輩であることから作曲を依頼した[248]。
- ^ 2009年(平成21年)の創立135周年を機に、立教学院各校のシンボルデザインの一体化を図り、現在の2色のデザインが基本デザインとなった。チャペルのステンドグラスにある楯のマークなど別のカラーリングのデザインもある。当初のデザインは、紫・白・金の3色によるデザインで、金色は「真正の価値」を表している[250]。
- ^ ムラサキの花自体は白色だが、根は古くから紫色の染料として用いられてきた。紫色とはもともとムラサキの根を原料として染め上げた色である。
- ^ 1914年(大正3年)に創建された東京駅丸の内駅舎は、辰野金吾により設計され、その堂々たる姿で、多くの人々に愛されてきた。1945年(昭和20年)、戦災により南北のドームと屋根・内装を焼失。戦後、3階建ての駅舎を2階建て駅舎で復元し長らくそのままの建物であった。しかし、2017年に、戦災で失われた箇所を復元し、創建当時の美しい3階建てのレンガ造りの姿が見事に再現された。特にドーム部分の復元は大きな話題となった[256]。
- ^ 専門科目群として、言語研究関連科目群、通訳翻訳研究関連科目群、コミュニケーション研究関連科目群、グローバル・スタディーズ研究関連科目群がある[広報 3]。また、2012年度以降の入学生に対しては、選択科目の領域専門科目として、複合地域文化領域、異文化コミュニケーション領域、言語教育領域がある[広報 4]。
- ^ 学科選択科目は「公共サービスと生活」「競争と規制」「グローバル化と地域」「政策関連科目」に分かれている[広報 5][広報 6]。
- ^ 学科選択科目は「アカウンティング」「ファイナンス」「マネジメント」がある[広報 5][広報 6]。
- ^ 選択科目の一つで、2年次から始まるコンセントレーション科目は、マーケティング領域、マネジメント領域、アカウンティング&ファイナンス領域、コミュニケーション領域に分かれている[広報 7]。
- ^ 代数系研究室、解析系研究室、幾何系研究室、計算数学系研究室がある[広報 8]。
- ^ 理論物理学研究室、原子核・放射線物理学研究室、宇宙地球系物理学研究室がある[広報 8]。
- ^ 教員は「反応解析化学グループ」「構造解析化学グループ」「物性解析化学グループ」に分かれている[広報 8]。
- ^ 分子生物学系の研究室、生物化学系の研究室、分子細胞生物学系の研究室がある[広報 8]。
- ^ 「社会学部共通・社会学科科目」や「学科展開・自由科目」は「理論と方法」「自己と関係」「生活と人生」「公共性と政策」「構造と変動」の5領域に分かれている[広報 9]。
- ^ 「社会学部共通・社会学科科目」や「学科展開・自由科目」は「価値とライフスタイル」「環境とエコロジー」、「グローバル化とエスニシティ」「都市とコミュニティ」の4領域に分かれている[広報 9]。
- ^ 「社会学部共通・社会学科科目」や「学科展開・自由科目」は「情報社会」「マス・コミュニケーション」「メディア・コミュニケーション」の3領域と、「メディア実習科目群」に分かれている[広報 9]。
- ^ 専門科目は、(1)理論・制度・サービスの理解、(2)援助の方法や技術の理解、(3)実習・演習等による理解という3つの柱に基づき配置[広報 10]。
- ^ 専門科目は「コミュニティ政策学」領域、「コミュニティ形成学」領域、「コミュニティ人間学」領域の3つの教育研究領域を柱に配置[広報 10]。
- ^ 専門科目は「健康運動」領域、「スポーツパフォーマンス」領域の2つの教育研究領域を柱に配置[広報 10]。
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<文部省訓令第8号>
私立学校ニ於テハ自今明治32年文部省訓令第12号ニ拘ラズ法令ニ定メラレタル課程ノ外ニ於テ左記条項ニ依リ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ得- 生徒ノ信教ノ自由ヲ妨害セザル方法ニ依ルベシ
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- ^ PORTER RRIZE・ピジョン株式会社
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広報資料・プレスリリースなど一次資料
関連文献
- 立教学院百年史編纂委員会『立教学院百年史』学校法人立教学院、1974年
- 立教学院百二十五年史編纂委員会 『立教学院百二十五年史 図録:Bricks and Ivy』学校法人立教学院、2000年
関係プロジェクトリンク
- ウィキブックス (Wikibooks)
- 立教大学対策
外部リンク
- 立教大学
- 立教大学池袋キャンパス ストリートビュー
- 立教学院史資料センター|立教大学
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