箕子朝鮮
箕子朝鮮 | |
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![]() 箕子朝鮮 | |
各種表記 | |
ハングル: | 기자조선 |
漢字: | 箕子朝鮮 |
発音: | キジャジョソン |
日本語読み: | きしちょうせん |
2000年式: MR式: | Gija Joseon Kicha Chosŏn |
![]() 朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 BC | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
史前 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 | 沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 | 百済 前18-660 | 高句麗 前37-668 | |||||||
新羅 前57- | ||||||||||
南北国 | 唐熊津・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 | 安東 都護府 668-756 | 渤海 698 -926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 | 後 百済 892 -936 | 後高句麗 901 -918 | 遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 | 高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治時代の朝鮮 1910-1945 | |||||||||
現代 | 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
アメリカ占領区 | ソビエト占領区 | |||||||||
北朝鮮人民委員会 | ||||||||||
大韓民国 1948- | 朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal:朝鮮 |
箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀? - 紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ箕子が建国した朝鮮の古代国家。古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに具体的な記述があり、考古学的発見からは、箕の姓を持つ人々が殷朝から周朝にかけて中国北部に住んでおり、殷周革命により、満州、朝鮮へと移住した可能性が指摘されている。
概要
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれた。
建国後の動向はほとんど伝わらない。『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになり、周王朝を尊んで燕を攻撃しようとした。しかし大夫の礼(人名)[8]が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆に燕に礼を派遣したので燕は朝鮮を攻めるようなことはなかった。以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里の領土を奪われ、満潘汗(平安北道の博川江の西岸)を国境に定めた。そのため朝鮮はついに弱体化した。秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させた。ところが紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びた。
『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。
矢木毅によると、箕子が朝鮮において、人民教化したことは、『漢書』巻二十八下、地理志下、燕に、
殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮義・田作・織作を以てす。…貴ぶべきかな、仁賢の化するや。 — 漢書 巻二十八下 地理志下 燕
とあり、楽浪郡支配下の朝鮮人に箕子の人民教化による公序良俗が残存していることを伝えており、楽浪郡支配下の朝鮮の豪族たちが、自らのルーツを箕子による人民教化に結びつけ、周辺民族よりも文明人であると自負しており、この白負は、楽浪郡滅亡後、漢人の支配から解き放たれた朝鮮の豪族たちが、高句麗の支配下で、三韓の支配下で、高句麗や三韓の豪族たちに継承され、後の新羅による三韓統一により、箕子朝鮮は三韓全体のルーツとして位置づけられることになった[9]。
『旧唐書』東夷伝によると、遼東の地は、周代は箕子の国、漢代は玄菟郡であった[10]。『隋書』裴矩伝には、高麗の地はもともと孤竹国で、周代にその地に箕子を封じ、漢代は三郡に分かれて、晋も遼東を支配したと記録されている[11]。このような箕子朝鮮に関する遼東の歴史記述は、李氏朝鮮時代の学者たちに多くの混乱をもたらした[12]。
1955年、遼寧省凌源市海島営子村の村民である唐永興と張懐仁によって、殷周時代の青銅器16点が発掘された。現在青銅器は、遼寧省博物館に所蔵されている。青銅器の特徴は、同時期の殷周の青銅器と酷似しており、この時期の中国東北部ではこのレベルの青銅器を鋳造できなかったことから、遼西周辺に殷人が移住したと考えられる[12]。1973年春、遼寧省カラチン左翼モンゴル族自治県北洞村で考古学者が発掘した青銅器の方鼎には「㠱侯」と銘文されていた。殷代の甲骨文字卜辞に「㠱侯、王其」の文字があることから、「㠱」とは「箕」のことであることがわかる。すなわち、「箕侯」の意味を持つ「㠱侯」と方鼎に銘文されていた。また、河南省安陽市で出土した「父己」の方鼎と形状が酷似していることから、殷末から周初にかけての方鼎であることも確認された[12]。同年、同県でさらに6つの青銅器が発掘されたが、発掘された罍の青銅器には「父丁、孤竹、亞微」と銘文されており、罍は、孤竹国の君主亞微が父丁のために鋳造したことが示されている。箕侯と孤竹国の君主の同時期の青銅器が遼寧省西部にあることは、「箕子朝鮮は孤竹国にあった」という史料を裏付けるものである[12]。
『庾開府集・週隴右總管長贈少保豆盧公神道碑』には、「朝鲜微(「微」は「箕」の誤記)子之封,孤竹伯夷之国。」とある[13]。孤竹国は遼西に位置していたが、殷の祖先が住んでいたのも遼西であり、遼西で出土した箕侯の青銅器と孤竹国の青銅器は酷似しており[13]、遼西で出土した箕侯の青銅器と孤竹国の青銅器の出土場所は近接している[13]。すなわち、「窖藏」という所謂「孤竹銅器」の一号坑と「箕侯銅器」の二号坑の距離は僅かに3.5メートルである。
箕子朝鮮の境界は、当初は遼西の孤竹国に位置していたが、時代とともに変遷したという説がある[13]。このことは、遼西で出土した後期殷代の青銅器の方鼎の底部中央に「亚侯」と刻まれていることからも窺える[13]。その後、燕国が強大化するにつれ、朝鮮北部に退却した。
箕子が封ぜられた箕子朝鮮領(現在の遼東・北朝鮮)から出土した青銅器は、琵琶形銅剣は同時期の殷周の類似武器とは異なり地方色がみられるが、祭祀用・生活用の青銅器は同時期の殷周の青銅器と同じであり、それらの殷周と同じ青銅器が多く出土している[14]。
王統
箕子朝鮮は、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡の発掘が相次いだ。また、箕子の王統は『盎葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。
各国の見解
箕子にはそれなりの歴史的背景が考えられる[15]。中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の斉の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた[15]。燕人・斉人の東来は、古くから存在した[15]。北京市順義県、河北省東部、遼西大凌河で其や箕侯という銘の西周初の箕子の時代の青銅器が多数発掘され、箕子と関係づけてとらえる意見がある[16]。『魏略』は「(箕準一族の)子と親族でそのまま朝鮮に留まった者は、みだりに韓姓を称している」と記している。箕子の後裔の箕準一族を名乗り、韓姓を称した者が存在したが、楽浪郡以後、王姓の次に圧倒的な勢力は韓姓だった[15]。現在の韓国の学界では後世の創作として否定しているが、中国の学界では実在したと考えられており、真っ向から対立する。日本の学界では意見が割れており、史料にあらわれる記録は実在の要素と架空の要素が入り混じっているとする説と、周代(紀元前11世紀)頃から朝鮮半島西北部に中国人が一定の集団をなして定住したと思われる周様式に酷似した出土物の顕著な増加を認め大筋に於いて信憑性を認めようとする説とがある。日本の学界は架空性を重視する者でも韓国史学界のような全くの創造とは見倣さず、中国からの移民集団の存在を認める点では日本の学界は中国に近い。
金日成は、「箕子朝鮮は、古朝鮮を侵略するために、前漢がでっち上げた『捏造』であり、朝鮮民族を箕子の子孫とみなすことは、半万年の悠久の歴史をもつ朝鮮民族に対する侮辱である」と述べている[17]。1959年に金日成は、北朝鮮当局によると骨も遺物もないと主張している平壌の箕子陵の取り壊しを命じた[17]。当然のことながら、北朝鮮の公式の朝鮮の歴史の年表には、箕子朝鮮は記載されていない[18]。
1973年には韓国の考古学者である金貞培は、朝鮮半島では先秦時代の青銅器はみつかっていないと主張している[17]。
韓国・北朝鮮の学者とは対照的に、中国の学者の多くは、箕子朝鮮は実在したと考えており、檀君朝鮮は「国史を強調する」ために韓国の民族主義者が創作したと考えている[19]。
王国維や顧頡剛は、箕子朝鮮を根拠に、殷人の起源は中国東北部にあるのではないかと指摘した[20]。その後、傅斯年は著書『夷夏東西説』において、王国維や顧頡剛の主張を支持した。
張哲鈞(北京師範大学)は、箕子朝鮮の最後の王である準王が王険城(おそらく現在の平壌)に都を置いていたことから、箕子朝鮮が常に遼西に存在していたとは必ずしもいえず、箕子朝鮮は中原諸侯に侵略され、漸次朝鮮半島に東遷させられ、その後、衛氏朝鮮によって朝鮮半島の最南端に駆逐された可能性があると指摘している[12]。
中国吉林省通化市にある通化市博物館の展示物は、箕子が濊貊の始祖であるように描写している[21]。
宋成有(北京大学)は、「紀元前11世紀に殷が滅亡して周が興った際には、箕族が東夷の故郷に帰還して漢字伝播の先行役を果たした。紀元前3世紀、秦と漢の時代の境目には、大陸の人々は秦の労役と戦乱から逃れるために次々と朝鮮半島に移住し、日本列島に南下していった。渡来人として、漢字を弥生時代の日本に持ち込んだのである。紀元前2世紀末、漢四郡が設置され、倭人が遠く楽浪にまで献見することで、絶え間なく漢字が日本列島に入るための機会がますます増えていった」と述べている[22]。
東北工程と箕子朝鮮
中国社会科学院を中心に、古朝鮮・高句麗・扶余・渤海まで歴史が一脈相通じる朝鮮民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国歴史であるという東北工程の史観に対して韓国は大きく反発している。「高句麗の住民は中国の少数民族であって韓国とは無関係である」「そもそも漢江北部までが中国領土だったが、新羅や百済などの侵奪で領土を失った」「渤海建国の主導勢力は高句麗人だけでなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚栄は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」など[23]、その内容が実証的であるとしても朝鮮半島の人々にとって面白いものではない。
2006年9月、中国辺疆史地研究センターは、ウェブサイトに中国東北部の歴史をまとめた論文18編を発表し[24]、渤海建国の主導勢力は高句麗人ではなく、靺鞨族であり、大祚栄政権は渤海初期に「靺鞨」を正式国号としていたと紹介し、「渤海は完全な主権を持つ独立国家ではなく、唐に間接支配された地方政権」であり、渤海の墳墓形態と葬儀、器物と陶器、冠婚葬祭の風習などを高句麗と比較することにより、高句麗と渤海の違いを浮き彫りにさせ、渤海は建国以来、唐の属国・冊封国であり、中国の歴史と切り離すことができず、渤海滅亡後、渤海人は遼と金に移民し、中華民族に統合されたと発表した[24]。さらに箕子朝鮮について、殷の甲骨文字と前秦の記録から箕子朝鮮の実在を確認することができ、中国人が朝鮮半島の最初の国家を建国したと主張し、箕子朝鮮は周と秦に服属しており、その後衛満のクーデターで滅亡したとして、箕子朝鮮が衛氏朝鮮、漢四郡、高句麗、渤海へとつながる始点の役割を果たしたと主張した[24]。
韓国文化財庁は、「朝鮮民族の歴史が(満州などの)東北地域につながっているという事実とそれを主張する『縁故権』を払拭するために開始されたもの」という韓国独自の民族主義史学を主張して大きく反発した。
日帝植民史観と箕子朝鮮
政治性向を問わず、箕子朝鮮は実在しなかったというのが韓国歴史学界の主流であるが、これは日帝植民史観の残滓という反論がある[25]。박대종(大鐘言語研究所所長)は、「夫余、高句麗、高麗、李氏朝鮮は箕子を朝鮮の祖先と認識しており、箕子朝鮮は朝鮮の歴史と認識していた」「今日、韓国人は世宗を朝鮮民族の英雄と称えているが、その世宗は『箕子朝鮮』を『檀君朝鮮』を継承した朝鮮として『後朝鮮』とし、箕子を『後朝鮮の始祖』と称した」と指摘しており、『三国史記』巻三十二「唐書云,高句麗俗多淫祠,祀靈星及日箕子可汗等神。[26]」『旧唐書』高麗伝「其俗多淫祀,事靈星神,日神,可汗神,箕子神。[27]」『旧唐書』高麗伝「食用籩豆,簠簋,尊俎,罍洗,頗有箕子之遺風。[28]」『新唐書』高麗伝「俗多淫祠,禮靈星及日,箕子,可汗等神。[29]」とあるように、高句麗は箕子を民族の祖先として崇めており、高句麗は箕子朝鮮の継承国であることを主張していた[25]。
中国戦国時代の思想家鄒衍は、五徳終始説を説き、「土・木・金・火・水」の五徳や、それに対応した王朝交替の歴史観(「虞土・夏木・殷金・周火」)を説いた。「土・木・金・火・水」にはそれぞれ、黄、青、白、赤、黒の色があてられ、周の影響を受けて赤を好む中国とは異なり、白を崇める朝鮮の文化は箕子朝鮮から始まる。박대종(大鐘言語研究所所長)は、「殷の白を継承した箕子朝鮮は白を崇め、それ以来近代まで朝鮮は一貫して『白衣民族』だった。染色技術の不足や貧困のため白衣を着用したのではなく、伝統的に『白衣文化』だったからである」と述べている[25]。重要なのは、箕子に教えを乞うた周の武王に洪範九疇を教えた箕子は武王の臣下ではなく、武王の師という立場で独立主権国家として朝鮮に封ぜられたという事実であり、箕子朝鮮と夫余が周暦ではない殷暦を固守し(殷滅亡1000年後の夫余において、殷暦が使用されていたことは、『三国志』巻三十に「以殷正月祭天[30]」という記録があることからも伺える)、周の赤を拒否して殷の白を崇めたことが独立主権国家であることの証拠であり、박대종(大鐘言語研究所所長)は「換言すれば、周に服従する諸侯国であるなら、当然周暦を使用して赤を崇めるはずであるが、そうではないことから臣下として封ぜられたのではない。古代には諸侯国でもこのような性質の国家はいくらでも存在するから韓国人の自尊心が傷つけられたと恥じる必要はない」「李氏朝鮮が、夫余や高句麗のように、国家的次元で箕子の継承を標榜した事実は、当時の史料におびただしくある。周の武王は、悪逆な暴君を打倒した儒教の聖人であり、箕子はそんな聖王に政治を教えたのだから、儒教=中華文明の起点に位置し、そうした人物が建国した箕子朝鮮を継承した李氏朝鮮は中華的な価値を共有し、小中華と自称できた」と述べている[25]。
箕子朝鮮は朝鮮の歴史であるという歴史観は、李氏朝鮮から日本統治時代まで継承されており、1921年9月21日の『毎日新報』「朝鮮の歴史的観察」社説は、「朝鮮史上では、殷の帝辛が暴君化すると、箕子が帝辛を何度も諫めるが、聞き入れてもらえなかったことから、箕子が朝鮮に来て平壌を都を定めた。これが朝鮮の歴史の始まりだと長い間朝鮮史書に記録されている。…加えて、朝鮮の歴史は、箕子朝鮮から始まったと大多数は信じている」とあり、1925年6月、日帝は植民地支配の正統性を付与するため朝鮮史編修会を設置し、1934年7月30日の朝鮮史編修会第8回委員会の席で、修史官の稲葉岩吉は「箕子は、中国人であるため、箕子朝鮮は朝鮮の歴史から除外せねばならず、中国の歴史の一部として扱わなければならない」と報告している[25]。日帝は数千年間固く一体のように結合されている朝鮮と中国を離間させなければ、「日鮮同祖論」に立脚した内鮮一体が成立しないため、中国と朝鮮の歴史的紐帯を切断するため、箕子を執拗に否定した[25]。박대종(大鐘言語研究所所長)は、「このような一連の過程で、日帝植民史観に相槌を打った朝鮮人学者がいた。代表的人物が李丙燾だ。朝鮮史編修会嘱託にもあった李丙燾は、箕子東来を積極的に否定することにより、朝鮮の歴史から箕子朝鮮を除外することを目的とする日帝植民史観の先頭に立った。李丙燾は『韓国古代史研究』(1976年)において『今日の箕子東来を否定する立場からみると、いわゆる楽浪郡民の犯禁八条を箕子とは全く関係のない朝鮮本有本来の法禁であることを否認するのは虚言である』と批判した」「愛国歴史家たちは、日帝植民史観は一日も早く清算しなければならないと主張する。歴史教科書で箕子朝鮮を朝鮮の歴史から除外し、箕子朝鮮の固有の法令である犯禁八条が檀君朝鮮の法令に化けた出発点に日帝植民史観があることを知らないのか。日帝の企みを喝破できず、その罠から抜け出せない場合、我々は、思想的に日帝の支配下にあることになる」と述べており、箕子朝鮮と東北工程は別個の事案であり、中国が箕子朝鮮を政治利用するのであれば、漢字の起源である甲骨文字の王国殷は私たちの直系先祖国だから中国は韓国の文化従属国である、中国は赤を崇拝する周のように現在でも赤だらけなのに、白を崇拝する殷が先朝だから、文化的正統性は白衣民族である韓国であるという式に逆攻勢すればよいだけであると指摘している[25]。
中国学界でも、箕子を否定する行為は「中国と朝鮮の歴史的紐帯を切断するため」という主張があり、中国の学者である姜維東は、論文「高句麗研究的若干問題」において、白鳥庫吉の論文「箕子は朝鮮の始祖に非ず」(1910年)を、それは「朝鮮と中国の悠久の歴史的深淵を割断している」と批判している[31]。姜維東は、白鳥庫吉の1894年以降の「檀君考」「朝鮮古伝説考」「朝鮮古代地名考」「朝鮮古代王号考」「高句麗の名称に就きての考」などの諸論考ついて、「朝鮮と中国の歴史的・文化的関係を過小評価し、古朝鮮と満州・蒙古との関係を粉飾し、努めて朝鮮人の民族意識を宣伝強調し、『韓国の独立』と『満州の中立地区化論』を主張した」と論断している[31]。この姜維東の主張について、浦野起央は「この指摘は、歴史に対する妄言というほかはなかろう」と評している[31]。
韓国・北朝鮮での捉え方
論点
李氏朝鮮では、箕子朝鮮は無批判的に朝鮮の歴史に取り入れられ、実学者の安鼎福の『東史綱目』にすらその巻頭に「殷太師箕子東来。周天子因以封之」と記されている[32]。これほど信奉された箕子朝鮮であったが、民族意識の高揚した近代以降においてはまったく逆に、中国人起源の箕子朝鮮は顧みられぬこととなった。韓国・北朝鮮ともに、神話上の太白山(現・白頭山。中国と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる檀君朝鮮こそが朝鮮の始まりと主張、現在の歴史教科書にも記述されている。
カーター・エッカートによると、19世紀以前には、「国民国家としての『朝鮮』という抽象概念や、『朝鮮人』としての半島の仲間の住民に対する忠誠心は、たとえあったとしても、ほとんどなかった。庶民にとっては、村、家族、王への忠誠が優先され、一方、朝鮮のエリートは、自分自身が『中国を中心とする世界文明』の一員だと考えた」[33]。李氏朝鮮中期、歴史家の間で確立された見解は、朝鮮の起源を中国の難民にさかのぼり、朝鮮の歴史を中国とつながる王朝の長い連続だと考えた。殷からの難民の箕子朝鮮と新羅(新羅の前身の辰韓は秦からの難民)はこのように価値づけられ、檀君朝鮮と高句麗は重要だとは考えられなかった[34]。この見解によると、箕子が朝鮮半島に詩、音楽、医学、貿易、政治システムを持って来た物語は、トロイの難民アイネイアースによるローマ建国と同様に考えられていた[35]。しかし1930年代に、申采浩の歴史の影響を受けたナショナリズムの高揚から、中国の箕子朝鮮の建国物語より、虎と熊の子で朝鮮半島に文明をもたらした神話上の檀君の建国物語の方が重要視されるようになり[35]、檀君朝鮮は民間信仰を、箕子朝鮮は儒教を背景にして、韓国では自国文化尊重ということから、民族文化を形成する檀君朝鮮がだんだん有利となる[36]。箕子朝鮮の歴史は「封建的支配階級、事大主義信者、大国至上主義者によって、不道徳に歪められた」と主張する北朝鮮の歴史家によって攻撃され続けている[37]。
中国や日本の学界では「古朝鮮とは、14世紀以後の李氏の朝鮮王朝に対して呼ぶもので、檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮をまとめた呼称である。」というような理解の仕方が一般的であるが[38]、中国系の箕子朝鮮と衛氏朝鮮は朝鮮のナショナリズムからは都合が悪いため、韓国の学界は古朝鮮から箕子朝鮮と衛氏朝鮮を取り除こうと主張している。古朝鮮=三朝鮮は、朝鮮の歴史とアイデンティティと領域問題と緊密に連結され、箕子朝鮮を認めれば、紀元前11世紀以前の檀君朝鮮も認めることになるが、この時から中国の支配を認める計算になる[39]。したがって、韓国の学界は、箕子朝鮮の歴史性を否定するため、三朝鮮の枠組みで古朝鮮を捉えることを批判して、箕子朝鮮は古朝鮮に「割り込んできた」のだから、古朝鮮から檀君朝鮮は含んだまま箕子朝鮮、あわよくば衛氏朝鮮も取り除こうとする[39]。
檀国大学の尹乃鉉は、箕子朝鮮の存在を認めるが、韓半島の外側、古朝鮮西部辺境で古朝鮮と並存した小国であり、箕子朝鮮を継承した衛氏朝鮮まで共にくくって一緒に朝鮮半島の歴史から抜いてしまえば良い、と主張する[39]。これは、檀君朝鮮の正統性を優先視する在野史学界の立場が反映されたものである[39]。高麗大学のパク・デジェは、三朝鮮は高麗後期から朝鮮時代初期に構成を整え、李承休は『帝王韻記』で古朝鮮を檀君と箕子を分離した。これが朝鮮時代初期の『高麗史』や『東国通鑑』などで檀君(前朝鮮)-箕子(後朝鮮)-衛氏朝鮮の三朝鮮を同等に連結する体制が確立され、それ以前には古朝鮮を三朝鮮と把握しなかった。したがって、パクは「箕子朝鮮が私たちの歴史に体系化されたのは伝統的古朝鮮史に小中華主義を背景に脈絡なしに割り込んだ『闖入』過程」「それでも三朝鮮説体系が維持されるのは学界がじっくり考えなければならない問題」と古朝鮮=三朝鮮をあえて守る必要があるのかと批判している[39]。
申采浩は『読史新論』『朝鮮上古史』などで箕子を檀君の臣下とみて、箕子朝鮮を歴史叙述から最初から抜いてしまうこともあり[39]、箕子は「千余年朝鮮を統理した檀君後裔扶余王朝の命令」を奉ずる諸侯の一人に過ぎなかったと主張している[40]。申采浩にとって、箕子朝鮮の否認は朝鮮史の自主性を確立するうえで、また反事大主義を構築するうえで不可欠のことであった。申采浩は、朝鮮の正統は扶余であり、箕子正統説は「わが国の史家の蔑識」のせいであるとして、箕子朝鮮を否定するに至った[41]。そこで「箕子一守尉」を主張し、箕子が東来した時代は、扶余の光栄が朝鮮に及んでいたため、箕子が東来したとすれば、扶余王の封爵を受けて平壌に住んでいただけに過ぎず、「封地は10里に過ぎず、職位は一守尉に過ぎない」として、殷の国教は檀君の宗教「スドウ教」であり、殷が周により滅ぼされたことから禁教とされたため箕子は朝鮮に逃れたと解釈して、「プル朝鮮」の支配者の姓が箕子であったため、東来した箕子の子孫と呼ばれるようになり、したがって箕子はせいぜい朝鮮侯と呼ぶべきであると主張している[41]。
韓国の教科書における箕子朝鮮
韓国の教科書の高等『国史』は、古朝鮮は紀元前2333年に成立し、その支配は中国遼寧から朝鮮半島まで及んでいたと記述され、古朝鮮の根拠を琵琶形銅剣の分布にもとめて、古朝鮮建国の根拠として檀君神話を紹介している[42]。このように檀君についての記述が小学『社会』からみられるのに対して、箕子についての記述はない[38]。わずかに中学『国史』「学習の手助け」において、文献上ではそのような理解があったことを記すにとどめる[38]。
文献にみえる古朝鮮は、檀君朝鮮―箕子朝鮮―衛満朝鮮へと政治的変化を遂げた。 — 中学国史、学習の手助け
文献史料が不足しているため、古朝鮮の領土を知るためには、考古学的史料を利用しなければならない。 — 中学国史、学習の手助け
古朝鮮の史料は乏しく、箕子朝鮮は史実性に問題があるため補足にとどめたと考えられるが、この場合、同じように史実性に問題のある檀君朝鮮は『三国遺事』を引用して詳細に記述するのは、史実性、史料上の制約、箕子朝鮮に関する記述とのバランスを考慮すれば箕子朝鮮に関する記述がないのはいかにもアンバランスな印象を与える[38]。箕子は中国系に属するのに対して、檀君は朝鮮系に属する[43]。中国系よりも朝鮮系が重視され、中国系の記述は朝鮮系に比べて少ないか、ほとんど無視され、現在の韓国人につながる朝鮮系諸民族は重視される一方、朝鮮半島で活動して、朝鮮史に大きな影響を与えた中国系を含む諸民族が捨象される[44]。
韓国の教科書における箕子朝鮮の変遷
檀君王倹が平壌を中心に初めて国家を立てた(前2333年)=前朝鮮。 — 震檀学会、国史教本、1946年
震檀学会『国史教本』は、紀元前2333年に檀君によって建国されたとして、檀君の建国した朝鮮を「前朝鮮」として、後の「後朝鮮」と区別する。これは『新増東国輿地勝覧』巻51・平壌条の檀君の建国した朝鮮を「前朝鮮」、箕子の建国した朝鮮を「後朝鮮」とするのに由来する[44]。しかし、震檀学会『国史教本』は、「後朝鮮」の記述は認められるが、建国者の箕子の名前はなく、箕子が中国系であることと無関係ではない[45]。それゆえ『国史』において箕子について論及しない、という選択肢も存在したが、1940年代-1950年代の『国史』では、箕子について過小評価して論及する。
漢族は衛満の侵入から楽浪の滅亡まで、500余年もの間、朝鮮半島の一角を占め、わが民族と互いに交戦したので、楽浪の漢人たちは平壌一帯の占領を合理化するために、箕子が朝鮮半島を開拓した、と創作した。 — 申奭鎬、中等国史、1948年
箕子朝鮮は先秦文献にみえず、漢人の政略的な意図から作られたものか、あるいは中国の影響を受けた「後朝鮮」系統の人々が箕子をその祖先としたのではないか。 — 金庠基、国史、1957年
伝説によれば殷の箕子が朝鮮へ東来.....信じがたい。漢民族の朝鮮支配のために造作されたもの。 — 曺佐鎬、中等国史、1959年
1940年代から1950年代には、箕子東来説が後世、漢人によって造作されたとして、積極的に史実性が否定される[46]。それは、史料批判からされたが、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮…」とあり、箕子が朝鮮王として冊封されたという記事が現実に存在する以上、それをどう解釈すべきか、という教科書執筆者の関心とも関わっている[46]。ところが1960年代半ばから、箕子東来は最初から史実性を認めないという解釈から、教科書にはみられなくなる[46]。わずかに、1960年代半ば以降の教科書では、1982年国史編纂委員会『国史』が註において、
古朝鮮の発展と関連して箕子朝鮮に関する記録もある。中国の「史記」、「漢書」地理志、そして「三国遺事」には中国の箕子が朝鮮王となり冊封され東来したとするが、箕子東来説は認定できない。 — 国史編纂委員会、国史、1982年
帝王韻記」には箕子朝鮮を後朝鮮とし、準王の時に滅亡したと記録している。 — 国史編纂委員会、国史、1982年
それまで論じられてきた箕子東来説の造作に関する記述もなくなり、箕子は1960年代半ばから教科書にはみられなくなる[46]。このように檀君朝鮮についてはほぼ一貫して重視されるが、箕子朝鮮は当初からほぼ一貫して軽視される[47]。また、箕子東来説は1940年代から1950年代では積極的に否定するが、やがてみられなくなる。このようにして、教科書におけるおおよそ中国系に関する記述は徐々に減少していく[47]。
北朝鮮による箕子陵の破壊
北朝鮮では1959年に箕子信仰を「封建的支配階級の事大主義の産物であり、朝鮮民族への侮辱」[48]と看做す金日成の指示によって平壌の箕子陵は破壊され[49]、跡地は凱旋青年公園となった。
1994年には檀君陵を建設して、檀君こそ実在の古朝鮮建国の始祖であると主張した。
箕子朝鮮に対する評価
満洲の歴史 | |||||||||||||
箕子朝鮮 | 東胡 | 濊貊 沃沮 | 粛慎 | ||||||||||
燕 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
秦 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
前漢 | 遼西郡 | 遼東郡 | 衛氏朝鮮 | 匈奴 | |||||||||
漢四郡 | 夫余 | ||||||||||||
後漢 | 遼西郡 | 烏桓 | 鮮卑 | 挹婁 | |||||||||
遼東郡 | 高句麗 | ||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
魏 | 昌黎郡 | 公孫度 | |||||||||||
遼東郡 | |||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
西晋 | 平州 | ||||||||||||
慕容部 | 宇文部 | ||||||||||||
前燕 | 平州 | ||||||||||||
前秦 | 平州 | ||||||||||||
後燕 | 平州 | ||||||||||||
北燕 | |||||||||||||
北魏 | 営州 | 契丹 | 庫莫奚 | 室韋 | |||||||||
東魏 | 営州 | 勿吉 | |||||||||||
北斉 | 営州 | ||||||||||||
北周 | 営州 | ||||||||||||
隋 | 柳城郡 | 靺鞨 | |||||||||||
燕郡 | |||||||||||||
遼西郡 | |||||||||||||
唐 | 営州 | 松漠都督府 | 饒楽都督府 | 室韋都督府 | 安東都護府 | 渤海国 | 黒水都督府 | 靺鞨 | |||||
五代十国 | 営州 | 契丹 | 渤海国 | 靺鞨 | |||||||||
遼 | 上京道 | 東丹 | 女真 | ||||||||||
中京道 | 定安 | ||||||||||||
東京道 | |||||||||||||
金 | 東京路 | ||||||||||||
上京路 | |||||||||||||
東遼 | 大真国 | ||||||||||||
元 | 遼陽行省 | ||||||||||||
明 | 遼東都司 | 奴児干都指揮使司 | |||||||||||
建州女真 | 海西女真 | 野人女真 | |||||||||||
清 | 満洲 | ||||||||||||
東三省 | ロマノフ朝 | ||||||||||||
中華民国 (東三省) | ソ連 (極東) | ||||||||||||
満洲国 | |||||||||||||
中華人民共和国 (中国東北部) | ロシア連邦 (極東連邦管区/極東ロシア) | ||||||||||||
中国朝鮮関係史 | |||||||||||||
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- ハワイ大学マノア校のMiriam T Starkは、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題があります」と評する[4]。
- ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は韓国が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となりました。箕子神話は韓国が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用でした」と評する[5]。
- ホーマー・ハルバートは、「選択が、それらの間でなされることになっているならば、檀君が、彼の超自然的起源により、明らかに箕子よりも神話の姿であるという事実に人々は直面します」と評する[6]。
- 武田幸男は、箕子は礼儀・田作・織作を教え、犯禁八条をつくって生活の規範とした「中国きっての聖人」であり、箕子東来説は中国の有名な故事として知られ、箕子は朝鮮教化の開祖として、朝鮮人から後々まで尊崇され、箕子朝鮮は紀元前4世紀から3世紀ごろには実在しており、前漢の司馬遷は『史記』世家に「武王は箕子を朝鮮に封ず」とし記述し、班固は『漢書』地理志で「箕子は殷を去って朝鮮にゆく」と記述し、犯禁八条を特筆大書して箕子の人民教化を賛美しており、箕子朝鮮には歴史的背景があり、中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀の後、「山東地方斉に根拠を持つ箕族集団が、殷・周の権威のもとで燕に服属しながら、朝鮮の西部に接する遼寧地方で活動」しており、燕・斉人の東来は、古くから認められている、とする[50]。
- 李栄薫によると、18、19世紀に幾人が白頭山登山記を残したが、ある人は白頭山を天下一の名声高い中国の崑山の脈を正統に受け継ぐ山であると言い、ある人は白頭山から朝鮮領を見下ろし、箕子の国が広がっていると詠ったといい、李朝時代の白頭山は、性理学の自然観と歴史観とを象徴する山であり、「李朝の性理学者たちは、朝鮮の文明は古代中国の聖人である箕子が東遷し建てた箕子朝鮮から始まった」と信奉しており、それによると、「朝鮮の歴史の伝統が、箕子朝鮮から馬韓へ、新羅へ、高麗へ、そして李氏朝鮮へ受け継がれた」。李朝の歴史学が文明の正統は箕子朝鮮から出発したという箕子正統説を信奉して、15世紀初期両班たちが箕子正統説を導入したのかは、当時の人口の3割から4割が奴婢だっため、両班たちは自分たちが奴婢を思うままに支配してもよい根拠がどこにあるのかという問いにぶつかり、そこで聖人箕子が朝鮮にやって来て犯禁八条を定めたが、その中に窃盗したら奴隷にされるとある。だから奴婢はもともとは聖人の教えを破った野蛮人であり、両班は聖人の教えを悟った文明人である。だから、両班が奴婢を奴隷にするのは朝鮮人を教化しようとした聖人箕子の思し召しであるというのが箕子正統説が出現した現実的な理由であり、また、王が交替するとき天子から冊封されるが、それは朝鮮王が享受する揺るぎない権威の土台であり、李朝が自主独立し繁栄を謳歌できたのは、中華帝国の国際秩序の中でのことであり、箕子正統説は中華帝国の国際秩序に裏打ちされた歴史観であり、解放後、天皇の臣民だった朝鮮人を大韓民国の国民に転換するため、国民所得が40ドルから60ドルであり識字率が3割である前近代的な零細農民を近代的な国民にするため、民族という旗印を高く掲げ、「李承晩政権は李朝時代に箕子にはじき出されていた檀君を、こんどは国の祖先として崇め」て箕子が忘却されるようになった[51]。
- 田村実造は、『史記』と『漢書』によると、戦国時代には、平壌に燕や斉などからの移住者が支配層となって箕子朝鮮国を建国して、紀元前206年に秦が滅亡して漢がおこると、この戦争の避難民の衛満が亡命してきて、箕子朝鮮をほろぼして衛氏朝鮮を建国した、と評する[52]。
- 藤堂明保は、扶余人が「殷暦を用い、殷人と同じく白い肌を尊んだ(三国志扶余伝)」とあるのをみると、箕子が箕子朝鮮を建国したという伝説の裏には、大昔から中国人が朝鮮へと移住していた事実が横たわっており、そして、漢初期に燕人の衛満が、斉と燕の亡民を率いて、狽水を渡り衛満朝鮮を建国した、とする[53]。
- 宋成有(北京大学)は、韓国の民族主義史学を「1910年に日本が朝鮮半島に侵入した後に、韓国の歴史学者で亡命して中国に来たものたちは、侵略に抵抗するためナショナリズムを喚起し、歴史の中からそのような傾向をくみ取って、韓国の独立性を強調した。それらは韓国の歴史学界の中の民族主義史学の流派へと発展した。1948年の大韓民国創立の後、民族主義史学は韓国の大学の歴史学の三大流派の一つになったが、民間のアマチュア史学や神話や伝承や講談などの作り物と、真実とを混同して、社会的な扇動におおきな力を振るっている」と批判している[19]。
- 中国社会科学院の張碧波研究員は、箕子を殷代の甲骨文字と前秦の記録から確認できる、箕子が朝鮮半島に最初の地方政権を建てたとする[23]。
- 金両基は、「三韓の領域や国境は、、後世のように明確ではなく、おおざっぱであった。国境には、どちらの国からも干渉されない、緩衝地帯のようなものがあったらしい。そこに亡国の流民が三々五々集まって、一種の多文化圏を構成していた。異国文化や新しい文化がそこに集まり、そこから三韓へ伝わったのであろう。『辰韓は馬韓の東にある。そこの老人が語るところによれば、その昔、中国の秦国の苦役に服することを嫌って逃亡した流民たちが韓に渡ってきた。馬韓では東の国境地帯の土地を割いてかれらに与え、住まわせた(『三国志』「魏書」東夷伝・辰韓条)』。そのような緩衝地帯にも、自然に流民を束ねる実力者が生まれる。王や君長の経歴をもったものが、そこで実力を争い、支配者となることは当然考えられる。衛満に王位を奪われた準王がそういう地位をえたと考えても、べつにおかしくはない」と評する[54]。
- 浜田耕策は、韓国の歴史教科書は、日本(倭)に対する文化的優越意識が露骨だが、「しかし、伝統的な朝鮮の『小中華意識』は唐が新羅を『君子国』と評した事例や、朝鮮時代に自らを『東方儀礼之国』と認識した事例等、枚挙にいとまがないが、この意識の根底には周の武王によって東方朝鮮の地に封ぜられた『聖人箕子』が民に『八条之教』と農業・養蚕・機織りを教えたという中国古典にみられる東方聖地の評価にあることが忘れられ」ており、韓国の歴史教科書は「東アジアにおける韓国古代史の視点が弱い」と評する[55]。
- 矢木毅は、朝鮮北西部の箕子朝鮮・衛氏朝鮮などが漢四郡設置後には楽浪郡の支配を受け、箕子の末裔意識を有したまま漢人との同化が進んだ。北方から高句麗が朝鮮半島に勢力を伸ばし、313年に楽浪郡を滅ぼすと、箕子の末裔意識を有した楽浪遺民たちは遼東・遼西へ撤退して、箕子東来説を生んだと分析する[56]。
- 森鹿三は、燕が秦に滅ぼされると、亡命者が満州や朝鮮に流入し、また秦末期から前漢初期にかけても、戦乱を避けて大量の難民が朝鮮へ移動したとき、「殷の箕子の子孫と称するものが支配者になっていたが、燕人の衛満が亡命してきてついに箕子を追いだし」たとする[57]。
- 朝鮮総督府が編纂した『朝鮮史』の委員会において、崔南善は、「正篇や補篇の形で檀君と箕子に関する内容を編纂したらどうか」「檀君と箕子に関するものはその史実だけにこだわらず、思想や信仰の側面で発展してきたことなどをまとめて別篇として編纂したほうがいいだろう」と意見をすると[58]、黒板勝美は「檀君と箕子は歴史的な実在の人物ではなく、神話の人物として、思想や信仰の側面で発展してきたわけだから、編年史として扱うのは無理だ」と応じた。対して崔南善は、「檀君と箕子が歴史的に実在していた人物なのか、神話の人物なのかは1つの研究課題にもなりますが、少なくとも朝鮮人の間では、これが歴史的事実として認識されてきたのです。しかし、本会が編纂する『朝鮮史』にこの内容を入れないということは、私たち朝鮮人としては非常に残念でなりません。ですから、本会編纂の『朝鮮史』が朝鮮人にあまり読まれていないわけです」と抗弁した。このように『朝鮮史』で檀君は非歴史的存在として扱われ、歴史上の居場所を失った[58]。
- コロンビア大学のオンライン百科事典やアメリカ議会図書館の朝鮮古代史のくだりには、「古朝鮮も中国の植民地」=「古朝鮮は紀元前12世紀に、中国人、箕子が韓半島北部に建てた国だ。その当時、韓半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている[59]。
- ヒストリーチャンネルは「平壌は紀元前1122年に中国商王朝の子孫によって誕生した都市で、平壌付近には都市の伝説的設立者である中国学者の箕子の墓がある」とし、「紀元前108年に平壌は中国の植民地となり、文化の中心地になった」と説明している[60]。
- 国際児童救護機構SOS子供の村は、「中国の箕子が韓半島に国家を初めて建てた」と説明しており、朝鮮史が中国の支配から始まったとしている[61][62]。
- 黄文雄は、「これまで清国の伝統的な属国であったベトナムはフランスに横取されてしまったが、残る伝統的属国の朝鮮は、もう誰にも渡すわけにはいかない。(中略)そこで、新疆や台湾のように、朝鮮も中国の属領から正式な領土にするため『朝鮮省』を設立し、郡県制とする断行案を検討した。そうすることで、列強諸国に対して朝鮮は清国の絶対不可分で永久割譲の固有領土だとアピールした。(中略)なかでも有名なのは、科挙状元出身のエリートで、呉長慶の幕下に身を投じて積極的な対外政策を論じてきた張謇の『朝鮮善後六策』である。(中略)中国人からすれば、朝鮮は漢の時代から中国の一部なのだ。中国の歴代王朝の封国といえば、漢時代の呉楚七国の乱で知られる呉(劉濞)や楚(劉戊)が挙げられるが、それよりもさらに一段下の外藩、つまり外様大名ていどしか見なされていなかった。そもそも、朝鮮をつくったのは中国の箕子だと、中国人は主張するほどなのだから。そのため、張謇の『朝鮮善後六策』のような考え方は、中国人の一般的な伝統的朝鮮属国観なのだ。中国が中華民国になった近現代でも、この中国人の朝鮮版図観はたいして変わっていない。たとえば、蔣介石は、太平洋戦争後の対日処理を協議した1943年11月のカイロ会談に出席した当時、船上にてルーズベルト大統領に高麗の返還を要求している。もちろん、ルーズベルト大統領は、このとんでもない要求を拒んでいる。朝鮮人も属国であることにマヒしているため、『朝鮮省』の設置をむしろ、『小中華』から『大中華』への昇格だと喜び、中国を恨むどころか、恩恵と謝恩を感じるべきだと思っていた。とくに、これまで大中国人やら大中華人になりたくてもなれなかった支那人かぶれの両班にとっては、願ってもない恩寵なのである」と述べている[63]。
- 韓国人学者である鄭容和は、李氏朝鮮の建国者たちが東周を建設し、中原の大中華に次ぐ一つの小中華を建立するという「ある種の意志」があったことを指摘しており、これについて東北師範大学副学長の韓東育は、「(周(東周)の武王によって箕子は朝鮮に封ぜられたが、その東周を建設し、中原の大中華に次ぐ一つの小中華を建立するという意志が李氏朝鮮の建国者たちにあったという)こうした事実は、なぜ朝鮮が積極的に中華秩序、すなわち中国を中心とした世界秩序に参与したのかを理解させる重要な鍵となる。したがって、朝鮮は『檀君朝鮮』ではなく『箕子朝鮮』を根拠として、当時の文明基準であった中華文明秩序の関係の中において文明国家としてのプライドを表現しようとした。すなわち、朝鮮は中国との同質化を通じて周辺国家との格差を浮き彫りにし、朝鮮の東アジア文明共同体内における地位を高めようとしたのである。こうした理由によって、朝鮮国家の根本大法である『経国大典』「礼典」の中に事大的内容を付け加え、それを国内法のシステムとして実際に運用した。朝鮮の為政者たちは、事大表現として朝貢は理の当然なることを認め、『小国の大国に侍奉するは、まさに朝聘と貢献の儀礼を保持すべし』『朝貢は臣下の応に做すべきの事なり』と述べている」と評している[64]。
- 金翰奎(朝鮮語: 김한규、西江大学)は、高句麗人は箕子を祭祀しており、このことから箕子朝鮮を継承したという歴史意識を表明しており、さらに、自らの建国神話を夫余の建国神話に関連付けており、高句麗滅亡後、渤海人が高句麗継承意識を表明することで、箕子朝鮮、夫余、高句麗、渤海と繋がる遼東的歴史共同体が形成されたと主張している[65]。
- 林泰輔は、箕子朝鮮について「昔殷ノ亡ブルニ当リテ箕子避テ朝鮮ニ王トナリ…千有余年間ハ皆支那人ノ制スル所ト為ル[66]」「箕子中国ノ五千人ヲ率ヰテ地ヲ朝鮮ニ避ケ平壌ニ都ス。其民ヲ導クニ徳化ヲ以テシ礼譲ノ風漸ク行ハレ朝鮮是ニ於テ始テ興ル[32]」と述べている。
- 宇山卓栄は、「史書に登場する朝鮮のはじまりは箕子朝鮮とされます。紀元前12世紀頃、中国人の箕子が建国し、都は王険城(現在の平壌)に置かれました。『史記』や『漢書』には、箕子が中国の殷王朝の王族で、殷の滅亡後、殷の遺民を率いて、朝鮮に亡命したと記されています。箕子は中国の文化や技術を朝鮮に持ち込み、善政を敷き、朝鮮をよく統治したようです。朝鮮半島西北部を中心に、紀元前11世紀頃のものと思われる中国様式の出土物が多く出ており、この時代に、中国からの大規模な移民があったことを示しています。こうしたことから、今日の学界では、箕子朝鮮が実在した可能性が高いと見られています。ただし、未だそれを裏付ける史跡が乏しく、実在が確定されているわけではありません。中世以降、中国文化を崇める朝鮮王朝は箕子を聖人化し、朝鮮の始祖とすることで、中国と一体化し、中国を中心とする『中華文明』の一員になろうとしました。箕子陵などが盛んに建設され、箕子が各地に祀られました。普通、中国人が朝鮮を支配したというようなことは、侵略と捉え、恥とするものですが、それを朝鮮の起源として誇るという朝鮮王朝の考え方そのものが、中国の奴隷に成り下がっていたこと表す証拠と言えます。しかし、現在の韓国や北朝鮮は一転して、箕子朝鮮を中国側の「作り話」として否定しています。民族意識を高揚させなければならない政権にとって、中国人起源の箕子朝鮮は都合が悪いのです。散々、それまで箕子を持ち上げておきながら、実に虫のいい話です。彼らは代わりに、檀君朝鮮が正式な朝鮮の起源であると主張しはじめました。檀君は天神の子であり、紀元前2333年、平壌城で朝鮮を建国したとされます。この話は『三国遺事』に記述されていますが、『三国遺事』は正史の『三国史記』(1145年完成)からこぼれ落ちた説話集です。 朝鮮人の始祖とされる檀君は民間で信仰されてきた伝説に過ぎませんが、韓国の学校の歴史教科書では、『歴史的事実』と教えられ、箕子朝鮮が『伝説』と教えられます」と述べている[67]。
脚注
- ^ 現在の平壌
- ^ 十六年 箕子來朝(<<竹書紀年>> 卷下 <周武王>)
- ^ 箕子は、『史記』宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮…」とあり、殷を出自とする中国人である。
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- ^ 礼は人名であるが礼儀をわきまえた徳のある人という寓話とみる説がある。
- ^ 矢木毅 2008, p. 45
- ^ 舊唐書/卷199上 . "侍中裴矩、中书侍郎温彦博曰:‘辽东之地,周为箕子之国,汉家玄菟郡耳。’"
- ^ 隋書/卷67 . "矩因奏状曰:‘高丽之地,本孤竹国也。周代以之封于箕子,汉世分为三郡,晋氏亦统辽东。今乃不臣,别为外域。’"
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— 旧唐書、高麗伝 - ^ 俗多淫祠,禮靈星及日,箕子,可汗等神。
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参考文献
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- 李萬烈 (2005年6月). “近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究). オリジナルの2015年9月8日時点におけるアーカイブ。
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- 池明観「申采浩史学と崔南善史学」『東京女子大学附属比較文化研究所紀要』第48巻、東京女子大学、1987年、 135-160頁、 ISSN 05638186、 NAID 110007187643。
関連項目
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