進歩党 (日本 1896-1898)

日本の旗 日本政党
進歩党
成立年月日 1896年3月1日
前身政党 立憲改進党
立憲革新党
大手倶楽部
帝国財政革新会
中国進歩党
越佐会[1]
同志会[1]
解散年月日 1898年6月20日
解散理由 新党移行のため
後継政党 憲政党
政治的思想・立場 対外硬
進歩主義[1]

進歩党(しんぽとう)は、明治時代中期に結成された政党1896年3月1日1898年6月20日)。

1896年(明治29年)3月1日、立憲改進党立憲革新党大手倶楽部帝国財政革新会中国進歩党などが合同して代議士99名で結成。大隈重信が事実上の党首であったが正式な役職には就かず、形式的には犬養毅尾崎行雄大東義徹柴四朗(東海散士)・長谷場純孝の5名の総務委員が代表者となっていた。「国権拡張」「責任内閣」「財政整理」などを掲げた[1]。大隈の人気と同党が掲げた対外硬路線に対する支持から結成直後に党員5万人を数え、更に同年成立した第2次松方内閣に大隈が外務大臣として入閣し、高橋健三内閣書記官長神鞭知常法制局長官に任命されたことなど党幹部の政府入りが実現したことで、更に期待が高まって同年中に1万人の入党者があったとされている。

新聞紙条例の改正や金本位制の実現などの成果があったが、松方の政治基盤である薩摩との対立と地租増徴に対する反発から、翌年10月に政権を離脱した。

1897年11月2日、外務省参事官尾崎行雄、農商務省商務局長箕浦勝人、山林局長志賀重昂、鉱山局長肥塚龍ら、進歩党出身官吏が懲戒免官。(政府と絶縁した同党会議に出席したことが理由)。

1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙では議席を103に伸ばしたものの、同年の自由党との合同によって憲政党結成に伴い解散。

脚注

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  1. ^ a b c d 日本大百科全書(ニッポニカ) 2018年5月7日閲覧。

関連項目