関東大震災
関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒(11時58分31.6秒、日本時間、以下同様)に発生した関東大地震によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。
概要
神奈川県および東京府(現:東京都)を中心に隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。
一般に大震災と呼ばれる災害ではそれぞれ死因に特徴があり、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では圧死、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では溺死が多かったのに対し、本震災では焼死が多かった[7]。これは本震災発生時に日本海沿岸を北上する台風が存在し、その台風に吹き込む強風が関東地方に吹き[8](風害参照)、木造住宅の密集していた当時の東京市(東京15区)などで火災が広範囲に発生したからである。正午前ということもあり、昼食の準備のためにかまどや七輪に火を起こしている家庭も多かった。また可燃物の家財道具(箪笥や布団)を大八車などに載せて避難しようとした者が多く、こうした大量の荷物が人の避難を妨げるとともに、火の粉による延焼の原因となったとされる[9][10]。強風に加えて水道管の破裂もあり、火災が3日間続いた。近代日本において史上最大規模の被害をもたらした。
府県をまたいだ広範囲にわたる災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、政府機関が集中する東京を直撃して国家機能が麻痺したことから、政府も大規模な対応に追われた。しかし、内閣総理大臣の加藤友三郎が震災発生8日前の8月24日に急死していたため、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を臨時兼任して職務執行内閣を続け、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任(大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣の後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。
震災後、日本で初めてラジオ放送が始まった。避難の教訓からラジオは急速に普及し、国威発揚にも利用された[11]。
金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた[注釈 2]。モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものだった[12]。引受にはロスチャイルドも参加した[13]。金策には森賢吾が極秘で奔走した[14]。
日英同盟のころから政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月~)、1930年(昭和5年)に行われた金解禁[15]は世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出禁止[16]になった。
この震災により、東京市・横浜市から大阪府や愛知県など、のちに三大都市圏となる地域に移住する者も多くみられた。明治時代、東京にあった明治政府による藩債処分により大打撃を与えられた大阪市であったが当時は経済的に回復していた。特に1925年に近隣の郡部を編入した大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた(参照)。また、東京市電の機能不全を肩代わりさせるため、東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始[17][18](円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まり、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した[18]。電話の自動交換機も普及した[19]。
状況
東京帝国大学理科大学教授の寺田寅彦も、上野で開催されていた二科会の招待展示会に出向き、喫茶店で知人の画家津田青楓と歓談中に被災している。その時の状況を以下の通り詳細に記録している。
T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。 — 寺田寅彦、『震災日記』
− 駐日フランス大使だったポール・クローデルは、罹災しながら、
被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。 — ポール・クローデル、『孤独な帝国 日本の1920年代―ポール・クローデル外交書簡1921‐27』
と当時の日本人の様子を書いている[20]。
避難
東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査[21]によれば、9月5日に避難民1万2千人以上を数える集団避難地は160か所を記録。もっとも多い場所は社寺の59か所、次いで学校の42か所だった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受け、明治神宮外苑、宮城前広場などに設営された。9月4日からは、内務省震災救護事務局と東京府が仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮や日比谷公園などには瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の11月15日の被災地調査[22]では、市・区の管理するバラックが101か所、収容世帯数2万1,367世帯、収容者8万6,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化した。一部ではスラム化の様相を見せた[23]ため、翌年には内務省社会局・警視庁・東京府・東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去にあたっては、東京市が月島・三ノ輪・深川区・猿江に、東京府が和田堀・尾久・王子に小規模住宅群を造成した[24]。また義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。
東京の被害が大きかったことから内務省は地方へ受け入れを指示し、最大で100万人が東京外へ疎開した[25]。11月15日時点でも78万人が東京と神奈川以外に避難していた[25]。
救護活動
軍で組織的な震災救護を行った[26]。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」という評価は、町にも、マスコミにも溢れた[27]。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた[28]。各地の在郷軍人会から8400人以上が集結し救護活動を行った[26]。
被害
190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」「日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」といった凄惨なものがみられた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる 東京」 などという見出しが続いた。中でも殺到した数万の避難者を火災旋風が襲った本所被服廠跡地の状況は凄惨をきわめ、9日付大阪朝日新聞で「一万五千坪に三万五千の死体」と報じられた[29]。
住宅被害棟数 | 死者行方不明者数 | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
地域 | 全潰 | 非焼失 | 半潰 | 非焼失 | 焼失 | 流失埋没 | 合計 | 住宅全潰 | 火災 | 流出埋没 | 工場等 | 合計 | |
神奈川県 | 6万3577 | 4万6621 | 5万4035 | 4万3047 | 3万5412 | 497 | 12万5577 | 5795 | 2万5201 | 836 | 1006 | 3万2838 | |
東京都 | 2万4469 | 1万1842 | 2万9525 | 1万7231 | 17万6505 | 2 | 20万5580 | 3546 | 6万6521 | 6 | 314 | 7万0387 | |
千葉県 | 1万3767 | 1万3444 | 6093 | 6030 | 431 | 71 | 1万9976 | 1255 | 59 | 0 | 32 | 1346 | |
埼玉県 | 4759 | 4759 | 4086 | 4086 | 0 | 0 | 8845 | 315 | 0 | 0 | 28 | 343 | |
山梨県 | 577 | 577 | 2225 | 2225 | 0 | 0 | 2802 | 20 | 0 | 0 | 2 | 22 | |
静岡県 | 2383 | 2309 | 6370 | 6214 | 5 | 731 | 9259 | 150 | 0 | 171 | 123 | 444 | |
茨城県 | 141 | 141 | 342 | 342 | 0 | 0 | 483 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | |
長野県 | 13 | 13 | 75 | 75 | 0 | 0 | 88 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
栃木県 | 3 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
群馬県 | 24 | 24 | 21 | 21 | 0 | 0 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
合計 | 10万9713 | 7万9733 | 10万2773 | 7万9272 | 21万2353 | 1301 | 37万2659 | 1万1086 | 9万1781 | 1013 | 1505 | 10万5385 |
- 非焼失の全潰・半潰は焼失および流出、埋没の被害を受けていない棟数。
- 津波:静岡県熱海市 6m。千葉県相浜(現在の館山市) 9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で300人あまりが行方不明。関東大震災では建物の倒壊と火災による被害が甚大で、津波と地震動の被害を分離することが困難なため、津波に関する報告は断片的で全体像が明確になっていなかった。津波の高さは鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子・鎌倉・藤沢の沿岸では5mから7mの津波が到達した。江ノ島電鉄の由比ヶ浜の停留所(現在の長谷4号踏切付近)に津波が到達し、中村菊三の手記『大正鎌倉餘話』で、中村は津波の被害者とみられる女性の遺体が由比ヶ浜滞留所にあったと書いている[31]。
この震災の記録映像として、記録映画カメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。また横浜シネマ商会(現:ヨコシネ ディー アイ エー)の手による『横浜大震火災惨状』が、同社および横浜市中央図書館に所蔵されている。これ以外にも数本記録映画が存在しているが、オリジナルといえる作品は少ない[32]。
人的被害
2004年(平成16年)ごろまでは、死者・行方不明者は約14万人と推定されていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし近年になると、武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘された。その説が学界にも定着したため、理科年表では2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千あまり」としている[33]。
地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は、太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村では鉄道事故で100人以上の死者、また土石流で数百名の犠牲者を出した。
関東大震災により死去した著名人
- 寛子女王(閑院宮載仁親王第4女子)- 小田原市の閑院宮御別邸へ避暑のところ、別邸が倒壊。
- 師正王(東久邇宮稔彦王第2王男子)- 避暑先の藤沢市にある別荘が倒壊。
- 佐紀子女王(山階宮武彦王妃)- 鎌倉市の山階宮別邸へ静養のところ、別邸が倒壊。
- 近衛秀俊(近衛秀麿子爵長男) - 父の訪欧のため鎌倉の公爵邸滞在のところ、津波に巻き込まれる。
- 松岡康毅(枢密顧問官、日本大学総長)- 葉山の別邸が倒壊。
- 園田孝吉(実業家、男爵)- 二宮にある別荘が倒壊。
- 磯部四郎(政治家、法学者、弁護士)- 避難先の被服廠跡で焼死。
- 厨川白村(英文学者、評論家)- 鎌倉で津波に巻き込まれ、翌2日に死去。
- 辻村伊助(園芸家、登山家)- 小田原の自宅裏のがけ崩れに巻き込まれ、妻子とともに犠牲となる。
- 富田木歩(俳人)- 向島の自宅で被災し、避難の途中で退路を断たれ焼死。
- 五代目麗々亭柳橋(落語家)- 避難先の被服廠跡で焼死。
- ウィリアム・ヘーグ(イギリス外交官、草創期のサッカー振興に関与)- 勤務先の横浜の領事館が倒壊。
- ジェニー・カイパー(フェリス和英女学校校長) - 卒業生の相談に乗っていたところ、倒壊した校舎の下敷きに。生徒や教職員の安否を気掛かりにしながら、讃美歌を歌いつつ焼死。
- 村岡斎(日本の印刷業者、村岡花子の夫・村岡儆三の実弟)- 横浜工場の社屋が倒壊し、社員約70名とともに犠牲となる。
- 當り矢信太郎(元力士) - 死没地は不明。
- 梅垣直治郎(元力士)- 死没地は不明、妻子とともに死亡したという。
- 三遊亭花遊(落語家、音曲師)- 死没地は不明。
- 安田善雄(実業家) - 本所横網の安田家本邸で妻子ともに火災に巻き込まれ、陸軍軍医学校で死亡が確認された。
- 五明楼国輔(落語家)- 諸説あり。
関東大震災犠牲者の慰霊施設
- 東京都慰霊堂(旧震災記念堂)- 身元不明の遺骨を納め死者の霊を祀る。1948年(昭和23年)からは東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、その死者の霊も合祀している。
- 大正拾二年九月帝都震災殃死(おうし)者之霊供養碑 - 東京大田区の池上本門寺境内。
鉄道事故
神奈川県足柄下郡片浦村(現・小田原市の一部)の根府川駅では、そのときちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出した。さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。
この震災により、小田原電気鉄道(現・箱根登山電車)も路盤やトンネルの崩壊、車両の脱線・埋没など甚大な被害を受け、復旧に1年を要している。
火災
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。一部の火災については工藤美代子が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、火薬類は保管していない)など発火原因が不明なところがあり、2日の午後に新しい火災が発生するなど不審な点も多い」と主張している[34]。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園。ほか、現在の墨田区立両国中学校や日本大学第一中学校・高等学校などもこの場所に含まれる[注釈 3])で起こった火災旋風を引き起こしながら[35]広まり、旧東京市の約43%を焼失し[36]鎮火したのは40時間以上経過した2日後の9月3日10時ごろとみられる。火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5,385人のうち、火災が9万1,781人を占めた)ともいわれている[37]。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた市川まで吹き飛ばされた人もあった[38]。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は、東京都復興記念館に収蔵・展示されている。
-
本所被服廠跡地の避難民を襲う火災旋風を描いた図
-
大日本麦酒吾妻橋工場(現・リバーピア吾妻橋)内鉄柱
-
丸善ビル
建物の倒壊
東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破[39][40][41]、建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊し作業員約300名が圧死した。さらに大蔵省・文部省・内務省・外務省・警視庁など官公庁の建物や、東京帝大、帝国劇場、日本橋三越本店などの教育・文化・商業施設の多くを焼失した。神田神保町や帝大図書館、松廼舎文庫、大倉集古館も類焼し、多くの貴重な書籍群や文化財が失われた。
震源に近かった横浜市では、官公庁やグランドホテル[注釈 4]、オリエンタルパレスホテル[注釈 5]などが石造・煉瓦作りの洋館であったことから一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。さらに火災によって、外国領事館のすべてを焼失、工場・会社事務所も90%近くを焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行・房州銀行(ともに現在の千葉銀行の前身の一つ)が辛うじて残った以外は郡役所・停車場などを含むすべての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど、壊滅的被害を出した。
なお地震後も気象観測を続けた中央気象台(現在の気象庁、位置は現在とほぼ同じで若干濠寄り)では1日21時ごろから異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している[42]。このころ気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失し多くの地震記録を失った[43]。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。
首都機能の麻痺
震災当時、通信・報道手段としては電報と新聞が主なものだった(ラジオ放送は実用化前で[注釈 6]、電話も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに大火によって13社を焼失、報道機能は麻痺した。東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)・報知新聞・都新聞は焼け残り、もっとも早く復旧した東京日日は9月5日付夕刊を発行した。
郵便制度も同様だった。普通切手やはがき、そして印紙も焼け、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、糊や目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。
11月に発行を予定していた、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との結婚式の記念切手「東宮御婚儀」4種類のほとんどが逓信省の倉庫で原版もろとも焼け、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった[44]。その後、当時日本の委任統治領だった南洋庁(パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。
関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、赤城山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などといった噂やデマの情報が取り上げられた[45]。
震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、熱海線(現在の東海道線)小田原-真鶴間で、11本あるトンネルのうち7本に大規模な損傷がでる被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川-根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖-藤野間)、南無谷トンネル(現在の内房線:岩井-富浦間)[46]。
土砂災害
丹沢山地では多くの表層崩壊を生じた[47]。特筆する災害の例として、神奈川県小田原市白糸川では地震発生当日に主震動によって斜面の崩落や崩壊が生じ山津波(岩屑流)となり、小田原市根府川沿い集落の123戸中64戸を埋没させ300人を超える犠牲者があった[48]。この山津波は約6kmを5分程度で流下した。なお、この山津波と根府川駅列車転落事故を生じた地滑りとは別のものである[48]。
更に、9月12日から9月15日の大雨によって 166箇所の土砂災害、12箇所の河道閉塞が発生し、土砂災害による死者は1,053人以上、建物約500戸に被害が及んだ[49]。
現在の秦野市では地震動によって市木沢(いちきさわ)最上部付近の丘陵が200mにわたって崩落し、下校途中の女児2名が行方不明となった。崩落土の河道閉塞で、新たな湖が生まれた[50]。この湖は「震生湖」と命名され、令和の現在では市民の憩いの場となっている。
地震の混乱で発生した事件
司法・法制の動き
司法省および法曹会の下で、受刑者を一時解放した刑務所もあった。横浜刑務所では受刑者を名古屋へ移送することが9月7日になって決まり、同日に貼り紙による告知が行われたものの解放された受刑者821名のうち、翌日早朝の期限までに戻ってきた受刑者は565名のみだった。
なお、この9月7日は治安維持法の前身となる緊急勅令が出された日でもあった。
- 9月3日 亀戸事件(当事者は警察署と自警団)、東京地方裁判所管
- 9月6日 福田村事件(当事者は自警団)、千葉地方裁判所管
- 9月7日 『治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件』(勅令第403号)が発布。
- 9月16日 甘粕事件(大杉事件、当事者は憲兵隊)、東京地方裁判所管
軍活動
陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きもみられた。
甘粕事件(大杉事件)では、大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが憲兵隊の甘粕正彦らに殺害され[52]、亀戸事件では、労働運動の指導者である平澤計七ら13人が亀戸警察署で近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤は斬首された。
震災後の殺傷事件
震災発生後、混乱に乗じた朝鮮系日本人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり[54][55][51][56]、民衆・警察・軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した[57][58][59]。
これらに対して9月2日に発足した第2次山本内閣は9月5日、民衆に対して朝鮮人に不穏な動きがあれば軍隊および警察が取り締まるため、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した[60][61]。
內閣告諭第二號今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ
大正十二年九月五日 內閣總理大臣
この内閣告諭第二号と同じ日、官憲は臨時震災救護事務局警備部で「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ[53]。協定の内容は、官憲・新聞などに対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである[53]。こうした対応について、金富子は日本政府が国家責任回避のため、自警団・民衆に責任転嫁し、また実際に朝鮮人がどこかで暴動を起こしたという事実がないか必死に探し回ったものだとしている[53]。
軍は流言が救護活動に支障を来さないように、在郷軍人会の救援隊に「朝鮮人全てが不良ではない。『博愛衆に及ぼす』は国民道徳の神髄」など教育勅語を引用した「心得」を配布していた[26]。
流言の拡散と検証、収束
一方で震災発生後、内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた[59]。具体的には、戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。
「 | 東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし | 」 |
「 | 鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし | 」 |
と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた[62]。また警視庁は「デマをばら撒くことは処罰される」というビラを貼り付けた。
当時はテレビはむろん、ラジオも日本にはなく新聞のみが唯一のマスメディアだった。記事の中には「内朝鮮人が暴徒化[注釈 7]した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞・東京日日新聞・河北新聞で報じられている。大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。また、相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された[57]。海軍無線電信所船橋送信所は流言をそのまま伝えたため、後日、所長の大森大尉は免職になったという[63]。
これらの情報の信憑性については2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始めた。2日に届いた一報に関しては第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている[64]。5日になり、見解の統一の必要性に迫られた官憲内部で精査のうえ、戒厳司令部公表との通達において
「 | 不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう | 」 |
と発表[54]。「朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。
治安維持緊急勅令の発布
こうした流言の存在をきっかけとして、前内閣では廃案となった司法省作成の「過激社会運動取締法案」の代わりに、7日には緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が出された(この時の司法大臣は、前日まで大審院長だった思想検事系の平沼騏一郎、枢密院議長は司法官僚の清浦奎吾だった)。これがのちの治安維持法の前身である。8日には東京地方裁判所検事正南谷智悌が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言と否定する見解を公表した[65]。
震災後1か月以上が経過した10月20日、日本政府は「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実だったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が「でっち上げた」ものとの説もある[53]。
当時、警視庁官房主事だった正力松太郎は、「朝鮮人来襲騒ぎ」について、来襲は虚報だったとし、警視庁も失敗したと述べている[66][67]。
緊急勅令による戒厳令の一部規定の適用
警視総監の赤池濃が「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令による戒厳の布告を建言した。水野も朝鮮総督府政務総監時代の1919年9月2日(地震の4年前)、独立党党員に爆弾を投げられ重傷を負ったことがある[68]。これを受け、9月2日には、東京府下5郡に緊急勅令により戒厳令の一部規定適用を布告し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた[57]。この戒厳令規定一部適用の勅令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は後藤新平に引き継がれた[69]。一方で戒厳令のほか、経済的には非常徴発令・暴利取締法・臨時物資供給令・モラトリアムが施行された[70]。陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し、軍隊の到着を人々に知らせたがこのことは人々に安心感を与えつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植えつけたとも考えられる[57]。この戒厳令により、警官の態度が高圧化したとの評価もある[57]。
自警団による暴行
軍・警察の主導で関東地方に4,000もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した[58][71]。横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかった[72]。これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり[73]、朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている[注釈 8]。「白い服装だから朝鮮人だろう」という理由で、日本海軍の将校ですら疑われた[63]。また福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、東京聾唖学校の生徒の約半数が生死がわからない状態になり、卒業生の一人は殺された[74]。9月4日、埼玉県の本庄町(現本庄市)で、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた(本庄事件)。同日、熊谷町(現熊谷市)、5日には妻沼町でも同様の事件が発生している。9月5日から6日にかけて、群馬県藤岡町(現藤岡市)では藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる(藤岡事件)[75]。
横浜市の鶴見警察署長・大川常吉も保護下にある朝鮮人ら300人の奪取を防ぐために、1千人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升びんの水を飲み干したという[注釈 9]。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとみられている[59]。また軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[45]などのデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった[73]。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している[76]。現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した[59]。また朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った[59]。
警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され、偶然居合わせた幼なじみの海軍士官に助けられたという逸話もある[77]。当時早稲田大学在学中だったのちの大阪市長・中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中で群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」するほどの暴行を受けたという[78]。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている[59]。
10月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった[58][79]。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[79]。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。
被害者数
殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない[80]。中央防災会議(事務局は内閣府)は虐殺による死者は震災による犠牲者の1から数パーセントに当たるとする報告書を作成している[57]。吉野作造の調査では2,613人[注釈 10]、上海の大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』社長の金承学の調査では6,661人という数字があり[注釈 11]、幅が見られる[81]。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官[注釈 12]による1959年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある[82]。内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名だった[81]。なお立件されたケースの被害者数を合算すると233人となる[83]。
2013年6月には、韓国の李承晩政権時代に作成された被害者289人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された[84]。2015年1月18日に第1次検証結果では名簿からは289人のうち18人が虐殺されたもの、名簿にない3名が新たに被害者として確認されたと韓国政府は主張した[85]。最終的に2015年12月に検証結果が報告され、韓国政府発表では名簿からは289人のうち28人が虐殺されたものと主張を確定した[86]。
岸田内閣・松野官房長官の発言
岸田文雄内閣の官房長官・松野博一は、震災発生100年を2日後に控えた2023年8月30日、首相官邸での記者会見において、共同通信の記者から、関東大震災の記録について「当時、被災地ではデマが広がり、多くの朝鮮人が、軍、警察、自警団によって虐殺されたと伝えられています。政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか」などの質問を受けた[87][88][89]。
これに対して、松野は「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」などと述べた[87][88][89]。
なお、安倍晋三内閣においても、2019年3月8日、参議院議員有田芳生に対する質問主意書に対する答弁書において、「御指摘の「関東大震災時に軍隊が朝鮮人等を虐殺したこと」については、調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と答弁している。また、2017年にも、衆議院議員初鹿明博に対する質問主意書に対する答弁書において、お尋ねの「関東大震災に際し、流言蜚語による殺傷事件が発生し、朝鮮人が虐殺されたという事実」、「中国人、朝鮮人と間違えられた日本人も犠牲になっているという認識」、「関東大震災に当たって発生した殺傷事件による犠牲者の総数」、「政府として把握している犠牲者の数」及び「関東大震災時のような流言蜚語を原因とする殺傷事件」については、調査した限りでは、政府内にそれらの事実関係を把握することのできる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である。としている。
紙幣の焼失
日本銀行本店は火災の被害を受けたが、銀行券は8.5%が損傷したのみに留まった[90]。ただ、当時の唯一の紙幣印刷工場であった東京市大手町の印刷局(当時は内閣の外局)は、証券印刷部や工場、約730台の機械設備、銀行券原版、製造中や製造完了の銀行券をほぼ焼失し、東京市王子の印刷局抄紙部も建物が全面倒壊した。9月下旬の大阪時事新報によれば、印刷局の焼け跡では奇跡的に1円、5円、10円、20円、100円の原版が無傷で発見され、日本銀行の金庫に保管された。
当初は緊急紙幣の発行は行われなかったが、10月中旬に一部の銀行で預金の払出しが相次いだため、日本銀行は11月6日に大蔵大臣に対し、未発行の高額紙幣「甲200円券」の発行申請を行い、大阪の証券印刷会社である昌栄堂印刷所が下請工場として製造を開始した。しかし年末にはそれほど需要がないことが判明し、甲200円券は発行が中止となった(1926年にすべて焼却処分された)。
1924年には朝鮮総督府の印刷局が東京の印刷局へ、アメリカ製の凹版速刷機やパンタグラフを搬送し、その後に新たに発注されたアメリカ製の凸版・平版印刷機も次第に到着して、印刷局の業務は1926年3月には復旧した。
復興
山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」の創設により、大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京市街地の大改造を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことから、1923年(大正12年)に1万2,765台だった自動車保有台数が震災後激増、1924年(大正13年)には2万4,333台[91]、1926年(大正15年)には4万0,070台となっていた[92]。1929年の世界恐慌など逆風が続くなか、その後も漸増した。
その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、のちの昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。震災直後の7日には緊急勅令によるモラトリアムが出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による損失を政府が補償する体制がとられたが、その過程で戦後恐慌に伴う不良債権までもが同様に補償され、これらの処理がこじれ、1927年には昭和金融恐慌を起こすことになる。
震災復興事業として作られた代表的な建築物には、同潤会アパート、聖橋、復興小学校、復興道路、復興公園、震災復興橋(隅田川)、九段下ビルなどがある。また復興のシンボルとして、震災前は海だったところをがれきで埋め立てた山下公園が作られ、1935年には復興記念横浜大博覧会のメイン会場となった。同公園内には1939年にインド商組合から市に寄贈された水飲み場(インド水塔)が設置されているが、これは在留インド人の事業復活のため、低利融資や商館再建などに尽力した横浜市民らへのお礼として寄贈されたものである。現在この水飲み場は使用されていないが、イスラームのモスクを思わせる屋根をした建造物が今も残されている[93]。
横須賀軍港では、ワシントン海軍軍縮条約に従って巡洋戦艦から航空母艦に改装されていた天城型巡洋戦艦「天城」が[94]、地震により竜骨を損傷して修理不能と判定された[95]。代艦として解体予定の加賀型戦艦加賀が空母に改装された[95][96]。加賀と天城の姉妹艦赤城はのち空母に改装され、太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦で活躍した。
震災発生時、連合艦隊は大連沖で訓練中であった[63]。地震発生の報告を受け連合艦隊各艦は訓練を中止、救援物資を搭載して東京湾に向かった[63]。このとき戦艦長門(連合艦隊旗艦、対外公称速力23ノット)が大隅海峡で26ノットの速力を出していたのがイギリス海軍に目撃されている[63]。
9月27日、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により帝都復興計画が提案された。それは、被災地を一旦すべて国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路の計画(道路の計画には震災前の事業計画だった低速車と高速車の分離も含まれていた)、ライフラインの共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画だったが、当時の経済状況や当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強にまで削られて議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては神田駿河台の住民が猛反発した。この復興計画を縮小したことにより、図らずも東京大空襲時の火災の広がり方や、戦後の高度経済成長期以降の自動車社会になって、計画を縮小した影響が出てしまった。たとえば道路については首都高速などを建設するにあたって、防災のために造られた広域避難のための復興公園(隅田公園)の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を利用などして建設する必要があった。
-
赤十字病院を慰問する貞明皇后(1923年9月15日)
-
摂政宮(後の昭和天皇)による横浜視察(1923年9月15日)
-
関東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している。
1930年(昭和5年)3月24日、昭和天皇が復興した東京を巡幸した[97]。26日には二重橋前広場で帝都復興祭が挙行された[98]。
帝都復興完成に就き賜はりたる勅語(昭和5年3月26日)[99]
帝都復興ノ事業ハ官民協同ノ努力ニ賴リ歲月ノ短キ克ク此ノ偉績ヲ效セリ 朕深ク之ヲ懌フ 朕今親シク市容ノ完備大ニ舊觀ヲ改ムルヲ覽テ專ラ衆心ヲ一ニシ更ニ市政ノ伸展ヲ致サムコトヲ望ム
同年8月には帝都復興記念章が制定され(昭和5年8月13日勅令第148号「帝都復興記念章令」第1条)、帝都復興事業に直接または伴う要務に関与した者(同第3条1号2号)に授与された(同第3条)。
9月は台風災害なども多いことから、関東地震のあった9月1日を「防災の日」と1960年(昭和35年)に定め、政府が中心となって全国で防災訓練が行われている。ただし、宮城県沖地震を経験している宮城県、桜島を擁する鹿児島県などのように、独自の防災の日を設けてその日に防災訓練を行っている地域もある。
国外の反応と支援
地震の報を受けて、多くの国から日本政府に対する救援や義捐金、医療物資の提供の申し出が相次いだ[100]。特に太平洋を隔てた隣国で、第一次世界大戦時にともに戦ったアメリカ合衆国の支援は圧倒的で[101]、さらに「なお希望品を遠慮なく申出られたし」との通知があった[102]。
義捐金の多くはイギリスやアメリカ合衆国、中華民国から送られ、ほかにもインド、オーストリア、カナダ、ドイツ、フランス、ベルギー、ペルー、メキシコなどからも救援物資や義捐金が送られた[103][104]。アメリカやイギリスの軍艦が救援物資や避難民を運んだことも記録に残っている[105][106]。
この当時、即時に海外に伝達される情報手段は実用的でなかったが、日本から長波無線を使って磐城国際無線電信局原町送信所からアメリカに情報が伝達され、無線電信による非常時の情報伝達の有効性が日本で初めて確認された。東京の新聞社は被害を受けていたため、河北新報の記事が打電された[107]。
当時、日本とアメリカと結ぶ通信線は海底ケーブルか長波無線だったがこの時、地震で海底ケーブルは不通になっており、残るは長波無線しかなかった。日本でアメリカと交信ができる長波無線は、福島県の磐城国際無線電信局しかなかった。当時、磐城国際無線電信局では被害はなかったものの、大変な被害が関東で発生しているという情報がかすかながら伝わってきた。電話などはすべて不通になっているため、急遽国内向けの無線情報を入手すべく機械を改造して情報を入手し、アメリカに向けて緊急情報を発信した。またこのアメリカ向けに発信された情報が、たまたま日本が中国北京に建設し試験中だった無線局で傍受されたため、その情報が中国国内および欧州にも伝わることになった。結果的に唯一の海外への情報連絡局となった磐城国際無線電信局だったが、当時の磐城国際無線電信局長だった米村嘉一郎は非常時の無線の活躍について「素晴らしい活躍をする手段だったが、日本では磐城一か所しか国際通信ができない設備不足、および非常時の通信体制をどのようにしておくべきかまったく準備ができていなかったことを悔いている」とのちに述べている[108][109]。
しかしこの情報により、上記の各国による多大な援助が迅速に行われることになったのである。
- 中華民国
清朝の元皇帝で、当時中華民国内で「大清皇帝」となっていた愛新覚羅溥儀も、地震の発生を聞くと深い悲しみに打ち沈んだ[110]。溥儀は日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、あわせて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金として使うように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額(20万ドル相当)と同じ金額を皇室から拠出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。その後、1923年11月に日本政府は代表団を溥儀の下に送り、感謝の意を表した[110]。
溥儀はのちに日本の協力のもとで満州国皇帝となるが、この時点において溥儀は「何の政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちを持って行った」と溥儀の帝師のレジナルド・ジョンストンは自著の中で回想している[111]。
- アメリカ合衆国
第一次世界大戦においてともに戦った日本に対するアメリカの政府、民間双方の支援はその規模・内容ともに最大のものだった。有名なスローガン「Minutes make lives(数分が生死を分ける)」はこのときのもの。全米で被災者に対する募金活動が行われたほか、当時アメリカの植民地だったフィリピンのアメリカ陸軍基地からもさまざまな物資が送られた。さらにアフリカ系アメリカ人指導者のマーカス・ガーベイも、大正天皇あてに電報を送るかたわら募金活動を行った。アメリカ海軍は、アジア艦隊から多数の艦船を派遣し、避難民や物資の輸送にあたらせている。
震災直後、ベルギー政府は「日本人罹災者救援ベルギー国内委員会」を組織し、ベルギー王室のすべてのメンバーとベルギー赤十字委員会がこれを支援し、日本への支援を積極的に行った。民間もこれに応じて募金活動やコンサート、バザーによる多額の収益金を同委員会を通じて寄付したほか、画家のエミール・バースは自らと友人の作品を提供し義捐金にあてるなど、官民一体となって支援活動が行われた。
- 弔慰金
拳骨拓史の談話によると、朝鮮総督府は「精細に調査した結果」としたうえで、地震による倒壊での圧死、火事での焼死など死亡や行方不明の朝鮮人を約830名と発表。この結果に基づき、震災のため死亡または行方不明になった朝鮮人の遺族に対し、一人につき200圓の弔慰金を贈り、地方官を派遣して弔門させている。その支給数は約830名分で、弔慰金の総額は16万6,000円と発表した[113]。
一方日本人の場合は、
- 死亡者・行方不明者 - 16円
負傷者 - 4円 住宅の全焼(1世帯)- 12円 住宅の全壊(1世帯)- 8円 住宅の半焼・半壊(1世帯)- 4円[114]
影響
諸国住民からの援助
9月3日、ジェノバにおいて第4回国際連盟総会が開催された。総会では大震災に同情する決議や、各国が帝国図書館に書籍寄贈を行うための決議が行われ、また日本国は各国代表から個人的に集められた救援金の提供も受けた[115]。
世界中の個人や企業、都市・機関・国から提供された援助は、10月の時点の内容や経緯が『我震災に対する諸外国の同情及救援の記録』としてまとめられた[116]。この目録を掲載した冊子には日本政府関係者も次のような謝意の言葉を寄せた。
支那(中国)は恰も排日運動を行っていた最中にも拘らず、震災の報一度伝わるや、南北を通じ、昨日の排日論者は直ちに今日の義捐者となった。…又米国は大統領クーリッジ氏が9月3日早くも教書を発して日本震災に対する同情を表明し、米国民に日本救済寄付金の応募を宣伝するや、全米の同情として集まり、1000万円の予定額は既に1600万円を算するに至った。其他同国赤十字社及各種団体の活動に至っては自身の災厄のような真面目と努力とを以って行われた。寄付金以外の衣服、食料品建築材料等…其他の諸国、英、仏、伊、白、印度等の遠隔の地にあるものも、電報その他の慰問又は応分の資を送って、我が国民の不幸を援助せられた- 渋沢栄一『国際共助精神の顯現』
こうした個人や団体からの援助活動に対し、貴族院は1923年12月11日、衆議院は12月13日に、謝意を示す決議を行った。また昭和5年には「市民の謝恩心伝える優雅なる英語が話せる良家の子女」として、4名(芦野きみ・徳田純子・佐藤美子・松平佳子)が選ばれ、遣米答礼使としてアメリカに派遣された[117]。
耐震建築と不燃化
上述の通り、大震災ではレンガ造りの建物が倒壊した。また鉄筋コンクリート造りの建物も大震災の少し前から建てられていたものの、建設中の内外ビルディングが倒壊したのをはじめ日本工業倶楽部や丸ノ内ビルヂングなども半壊するなど被害が目立った。そんな中、内藤多仲が設計し震災の3か月前には完成していた日本興業銀行本店は無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。
すでに1919年(大正8年)には市街地建築物法が公布され1920年(大正9年)に施行されていたが、1924年(大正13年)に法改正が行われ日本で初めての耐震基準が規定された。同法は、のちの建築基準法の基となった。1925年(大正14年)には耐震耐火建築のさきがけとなったW・M・ヴォーリズ建築事務所設計の主婦之友社本社建物(現お茶の水スクエア)が竣工し、ほかに初の洋風アパートとなった御茶ノ水文化アパートも完成した[118]。
一方で震災では火災による犠牲者が多かったことから、燃えやすい木造建築が密集し狭い路地が入り組んでいた街並みを区画整理し、燃えにくい建物を要所要所に配置し、広い道路や公園で延焼を防ぐ「不燃化」が叫ばれるようになった。内藤と対立していた佐野利器らが主張し、のちに後藤新平によって帝都復興計画として具体化する。
鉄道省でもこの震災で多くの木造客車が焼けた教訓から、より安全な鋼製車への切り替えを研究するようになった。1926年9月に発生した山陽本線特急列車脱線事故で木造客車が脱線大破し多数の犠牲者を出したこともあって、電車・客車ともに1927年度発注の新車からは鋼製車体への全面切替が実施されている。
遷都論議
震災直後には、このような大地震が周期的に発生するおそれがある東京からの首都の移転(遷都)が日本国内で検討された[119][120][121][122]。
政府内や各所で遷都の是非について議論され[119][120]、また陸軍の参謀本部は3つの遷都候補地を報告した[119][120][121][122]。
しかし、震災11日後の9月12日には天皇の詔書により「東京を引き続き首都として復興を行う」旨が宣言され[123]、遷都は立ち消えとなった[120]。
遷都への賛成意見
内務省による紹介
内務省の復興事務局による『帝都復興事業誌』(1932年)では、当局の調査による『遷都ニ関スル論議』を引用する形で、主たる遷都すべき理由および遷都せざるべき理由を紹介している。東京から遷都すべき理由としては、以下のものがあげられた[119]。
- 百年毎に大地震を免れない、
- 国防上不適当(東京は太平洋に近すぎる)、
- 帝国の版図全体より見て不適当(当時の大日本帝国は朝鮮を併合し、満州や南方までも拡大していたため、東京よりも南西の場所が好ましい)、
- 大都市発展の将来に鑑み不適当(東京市内の下町は地盤が弱く建築物の高層化が難しい。山手は水利運輸の便が悪い)
陸軍による意見書
陸軍の参謀本部では、震災5日後の9月6日に、参謀次長の武藤信義の命令により参謀本部員で少佐の今村均が遷都先についての意見書案を作成した。今村は文献を参考にして震災対応や防空、また大陸進出について考慮した[120]。
今村は「東京は震災や防空対策の上で首都として不適格」とした上で、具体的な移転先候補を次のように報告した[119][120][121][122]。
マスメディアによる論説
大阪朝日新聞(現在の朝日新聞)も、震災8日後の9月9日の朝刊で「論説 帝都復興と遷都論 国民多数の希望を容れよ」と報じた。内容は次のようなものであった[120]。
- 近畿地方は関東地方に比べて大きな天災が少ない。
- (当時の日本では)台湾と朝鮮半島が支配下にあることから、(東側の関東よりも西側の近畿のほうが)地理的に日本の中心といえる。
- 再び京都への遷都を求める声が出ている。大阪や神戸にも近く、物資も安定供給できる。
- 引き続き首都は東京にすると速断せず、広く国民の意見をいれて決めてほしい。
遷都への反対意見
内務大臣による基本方針
しかし、内務大臣の後藤新平は『帝都復興根本策』により「遷都をせずに東京を復興する」という基本方針を次のように発表した[119]。
天皇による命令
さらに、震災11日後の9月12日には大正天皇の詔書によって「(東京は)国都たるの地位を失わず」と発表された。この詔書の内容は次の通りであった[119]。
- 「東京は帝国の首都にして政治経済の枢軸となり国民文化の源泉となりて民衆一般の瞻仰する所なり」
- 「一朝不慮の災害に罹りて今や其の舊形を留めずと雖我が国都たる地位を失わず」
- 「以て其の善後策は独り舊態を回復するに止まらず進んで将来の発展を圖り以て巷衢の面目を新たにせざるべからず」
この天皇の命令により、遷都しないことが正式に決定された。以後、遷都に関する議論は下火となった[119]。
人口動態
震災による被害の大きかった東京市・横浜市の市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだ。前年の1922年(大正11年)から田園都市会社によって洗足田園都市住宅地の分譲が始まり、同じ年には箱根土地による目白文化村の分譲が始まったが、いずれも被害が限定的だったことから震災後は人口が増加する。さらには常盤台や国立学園都市など郊外での住宅開発が相次ぎ、郊外に居住して都心部の職場へ通うことが一種のステータスとなった。震災をきっかけに東京府多摩地域・埼玉県南部・千葉県西部・神奈川県東部では急速に都市化し、首都圏が形成されていくようになる。
その一方で、大阪市は東京・横浜からの移住者も加わって人口が急増し、一時的に大阪市が東京市を抜き国内でもっとも人口の多い市となった[注釈 13]。名古屋市・京都市・神戸市も関東からの移住者によって人口が一時的に急増した。この状況は1932年(昭和7年)に東京市が近隣町村を大規模編入するまで続いた。
歴史認識問題
関東大震災時における朝鮮人殺害事件は、現在、歴史認識問題ともなっている。
横浜市立中学校の副読本の内容について、当該の副読本の出版社は2011年(平成23年)に、関東大震災の折にデマが原因で朝鮮人が殺害されたことについて、従来「自警団の中に朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」との内容だったのを、「軍隊や警察、自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行った。横浜でも各地で自警団が組織され、朝鮮人や中国人が虐殺される事件が起きた」とする内容に改定した[126][127]。市議会ではこの変更が問題となり、横浜市教育委員会は「横浜でも軍隊や警察による虐殺があったと誤解を受ける」として、当時の指導課長を2012年9月に戒告処分としたほか、当時の指導主事らも文書訓戒とした[127]。
2013年(平成25年)2月3日、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルが岡田紅陽が東京府の委嘱を受け撮影し、震災の89日後に発売した『大正大震災大火災惨状写真集』と私家版のアルバム所収の「吉原公園魔ノ池附近」と記された吉原遊女犠牲者の写真[注釈 14][注釈 15]を、関東大震災における朝鮮人虐殺時の写真として公開し、韓国の聯合ニュースで報道された[129][124][注釈 16]。
文化
谷崎潤一郎やプラトン社の面々など関東の文化人が関西に大勢移住して阪神間モダニズムに影響を与えるなど大大阪時代に拍車をかけた。震災によって職を失った東京の天ぷら職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが広まったり(反面、関西の割烹料亭が東京へ進出)、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風のおでん種が関東に伝わったり[130]、客に相対してのカウンター文化が関東に広まったり(それまでは関東は客は席に座ってから店が注文を取るやり方が主流だった)と、震災は文化面でも様々な影響を与えた。
関東大震災に関するフィクション一覧
- 帝都物語(荒俣宏) - 帝都・東京の滅亡を目論む魔人、加藤保憲が大地を巡る龍脈を操作して関東大震災を起こした。
- 復活の地(小川一水、ハヤカワ文庫、全三巻) - SF小説。架空の惑星の大都市を襲った巨大地震とその後の復興を描く。後藤新平と帝都復興院をモデルにした人物・機関が登場する。
- 大虐殺 - 1960年の日本映画。新東宝。関東大震災後の亀戸事件や甘粕事件、朝鮮人虐殺事件が描かれるギロチン社を題材とした作品。後に『暴圧 〜関東大震災と軍部〜』のタイトルでVHSが販売されるも現在は廃盤。2021年6月に公開時と同じ『大虐殺』のタイトルでDVD化された。
- 実録飛車角 狼どもの仁義 - 1974年の日本映画。関東大震災から1年後の横浜が舞台。
- 道〜白磁の人〜 - 2012年の日本映画。植民地朝鮮にいる主人公の浅川巧が日本にいた妻の弟から関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件について聞くシーンがある。
- 金子文子と朴烈(パクヨル) - 2017年の韓国映画。主人公の朴烈と金子文子が遭遇した関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件が描かれている。
- 菊とギロチン - 2018年の日本映画。関東大震災後の大正時代末期が舞台。朝鮮人虐殺を生き延びた朝鮮出身の遊女も登場する。
- 福田村事件 - 2023年の日本映画。関東大震災後の福田村事件を描く。また事件に至るまでの朝鮮人・社会主義者に対する流言が言及されており、亀戸事件や別件の朝鮮人犠牲者も描写されている。
-
連続テレビ小説
- おはなはん(1966年放映) - 大震災により一家と親戚付き合いをしていた細倉を亡くす。
- おしん(1983年放映) - 大震災によって事業財産を全て失うことになり、夫の故郷の佐賀県に家族共々身を寄せることになる。
- 凛凛と(1990年度前期放映) - 同年9月1日放送分に大震災のエピソードとなった。
- あぐり(1997年度前期放映) - 岡山であぐりの「おめでた」が明らかになった頃に、大震災が起こる(夫のエイスケは東京で大震災に見舞われ消息不明になるが、森潤の計らいであぐりと再会した)。
- ごちそうさん(2013年度後期放映) - 主人公・西門め以子(杏)の「おめでた」が明らかになり様子を見に行けないため、め以子の夫の大阪市職員・西門悠太郎(東出昌大)が救援のため上京する。その後め以子の親友・室井桜子がめ以子の高等女学校の恩師・宮本先生が火事に巻き込まれて亡くなったことを知らせる。
- 花子とアン(2014年度前期放映) - 大震災により大森に居を構える村岡宅が半壊。近所の被災者に炊き出しを行い、被災した子供たちには童話の読み聞かせをしていた。また親戚付き合いをしていた郁弥(夫の弟)を亡くす。
- わろてんか(2017年度後期放映) - 東京にいる、藤吉の芸人仲間のキースの安否を確かめようと、主人公・北村てんの従兄・風太が被災地の派遣のため上京する。
- らんまん(2023年度前期放映) - 大震災によって槙野邸が倒壊し、妻の勤め先である渋谷に家族共々身を寄せることになる。
-
天皇の料理番(杉森久英)- 同著者の小説を原作としたテレビドラマ。
- 2015年版 - 6月28日放送分の第10話の劇中で関東大震災が起こり、皇居前広場に避難した人々に炊き出しを行う。
-
大河ドラマ
- いだてん〜東京オリムピック噺〜(2019年) - 第23話「大地」で関東大震災が発生、地震発生時の美濃部孝蔵(後の古今亭志ん生 (5代目)、森山未來)・りん(夏帆)夫妻の様子、孝蔵の語りによる焼け野原になっていく東京の描写、焼け野原になった浅草で増野シマ(杉咲花)を探す金栗四三(中村勘九郎)の姿、金栗に「日本人か?」と詰め寄る自警団などが描かれている。
- 青天を衝け (2021年) - 最終回の第41話、中盤以降に関東大震災が起き、渋沢栄一(吉沢亮)が内外の実業家に寄付を呼びかけ、救援の最前線に立つ場面が描かれている。
- 不思議な少年(山下和美) - 6巻 ムメキクと周平
- はいからさんが通る(大和和紀) - 物語のクライマックスで関東大震災が起こる。2018年公開の劇場アニメ後編でも描写されている。
- RIM(アレクサンダー・ベッシャー) - 西暦2026年に起こった関東大震災で行方不明になったソニーのモリタアキオ会長を東京大学バークレイ校の教授が探すSF小説。
- 風立ちぬ (宮崎駿の漫画)、風立ちぬ (2013年の映画)(宮崎駿) - 物語序盤で主人公が関東大震災に遭遇し、ヒロインと最初に出会う。
- ふしぎ遊戯 白虎仙記(渡瀬悠宇) - 漫画。主人公(大杉鈴乃)の父・大杉高雄が四神天地書を封印する紐で本を縛って触れさせないようにしていたが、四神天地書の力を抑えきれず、封印が解けたときに関東大震災が発生する。
- タイムスリップ1923-守のミラクル地震体験-(1994年、日本シネセル) - 防災アニメ。小学5年生の主人公が突如、関東大震災当日の東京へタイムスリップしてしまう。
- MAO(高橋留美子) - 漫画。タイムスリップしたヒロインが関東大震災に巻き込まれ、タイムスリップしてきた幼い頃の自分と邂逅し、幼い頃に巻き込まれた事故の真相が判明する。
- MARS RED - 音楽朗読劇を原作とするTVアニメ。関東大震災の混乱の中、伝染病のワクチンとして吸血鬼の血が人々に投与され、多数の市民が吸血鬼となる。当時の帝国ホテルや東京駅、遊郭等が舞台として描かれる。
- すずめの戸締まり - 新海誠のアニメーション映画。本作では戸締まりと地震が関連付けられており、2023年の100年前に関東で起こった震災について語られるシーンが在る。
- 紡ぐ乙女と大正の月(ちうね)- 現代から大正時代へタイムスリップした少女と華族令嬢のエスを描いた漫画。現代に戻った主人公・藤川紡は、恋仲であった末延唯月が大震災により落命したのを知り、彼女を救うべく再び大正時代へのタイムスリップを試みる。
- 大正処女御伽話
上記以外に現代もしくは近未来の関東における大震災を描いた作品も多い。それらについては南関東直下地震の関連作品を参照。
関連文献
- 東京震災録 前輯(東京市役所、昭和2(1927)年) - Google ブックス
- 東京震災録 中輯(東京市役所、昭和2(1927)年) - Google ブックス
- 東京震災録 後輯(東京市役所、昭和2(1927)年) - Google ブックス
- 東京震災録 別輯(東京市役所、昭和2(1927)年) - Google ブックス
- 竹久夢二 「東京災難画信」『都新聞』(9月14日?10月4日)[131]
論文
- 印藤和寛「関東大震災時の朝鮮人虐殺はなぜ起こったか : 朝鮮独立戦争と日本帝国」『教育科学セミナリー』第44号、関西大学教育学会、2013年6月3日、15-28頁、 hdl:10112/7771。
脚注
注釈
- ^ この地震の震源の位置は研究者によって見解が異なっており、相模湾のほぼ中央部を震源とする説(今村明恒[1924]の北緯34.98度、東経139.37度、ハーバート・ターナー[1927]の北緯35.0度、東経139.5度)、相模湾の北部を震源とする説(Matuzawa[1928]の北緯35.27度、東経139.33度、ベノー・グーテンベルグ、チャールズ・リヒター[1954]の北緯35.25度、東経139.5度、宇佐美龍夫[1966]の北緯35.2度、東経139.3度)、神奈川県秦野市付近を震源とする説(金森博雄、宮村摂三[1970]の北緯35.4度、東経139.2度)、山梨県の河口湖付近を震源とする説(Hirano[1924])などがある。また震源の深さについては金森と宮村が0-10kmと推定している[3]。地震の規模を表すマグニチュード(M)は、7.9から8.3の推定が有る[4][5][6]。
-
^ 当時の電力会社の外債発行状況は以下のように英米向けである。復興に不必要な最新設備をゼネラル・エレクトリックなどから購入する費用も含まれている。NHK 1995.
- 東京電灯 大正12年(1923年)6月 300万ポンド
- 大同電力 大正13年(1924年)8月 1500万ドル
- 東京電灯 大正14年(1925年)2月 60万ポンド
- 宇治川電気 大正14年(1925年)3月 1400万ドル
- 東邦電力 大正14年(1925年)3月 1500万ドル
- 東邦電力 大正14年(1925年)7月 30万ポンド
- 大同電力 大正14年(1925年)7月 1350万ドル
- 東京電灯 大正14年(1925年)8月 2400万ドル
- 信越電力 昭和2年(1927年)12月 675万ドル
- 日本電力 昭和3年(1928年)1月 900万ドル
- 東京電灯 昭和3年(1928年)6月 7000万ドル
- 東京電灯 昭和3年(1928年)6月 400万ポンド
- 東邦電力 昭和4年(1929年)7月 1145万ドル
- 日本電力 昭和6年(1931年)2月 150万ドル
- 台湾電力 昭和6年(1931年)7月 2280万ドル
- 東京電灯 - 1890年(明治23年)から死去までリチャード男爵が社長だったAnglo-American Debenture; The Whitehall Trust; モルガンのギャランティ・トラスト; ラザード; ディロン・リード(ディロン債は信越電力より債務承継)
- 大同電力 - ディロン・リード
- 宇治川電気 - Lee, Higginson & Co.
- 東邦電力 - ギャランティ・トラスト; Pludencial Assurance Co.; ギャランティ・トラスト
- 日本電力 - Harris, Forbes & Co.
- 台湾電力 - JPモルガン; クーン・レーブ; ナショナル・シティー; ニューヨーク・ファースト・ナショナル; 横浜正金銀行
- ^ 陸軍本所被服廠跡地の面積が東京ドームの1.5倍であるため。
- ^ 場所は現在の横浜人形の家のあたりにあり、ドイツ人が経営していた。震災後に開業したホテルニューグランドとの経営的な繋がりはない。
- ^ 震災で全壊し廃業したが、その跡地にはホテルニューグランドが建設された。
- ^ 日本におけるラジオ放送開始は1924年(大正13年)(ラジオ#日本初のラジオ放送)。
- ^ 関東大震災犠牲同胞慰霊碑を参照。
- ^ 日本共産党員で詩人の壺井繁治の詩「十五円五十銭」による。ただし創作以上のものは未確認。
- ^ 実際は、4合ビンに入った井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部との検証もある(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版2006年9月9日朝刊)
- ^ 朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたという伝聞(「朝鮮人虐殺事件」吉野作造 『現代史資料(6) 関東大震災と朝鮮人虐殺』P357)
- ^ この調査では「屍体を発見できなかった同胞」数が2,889人として、これも「虐殺数」に計算している。
- ^ 当時および2017年(平成29年)現在の大韓民国政府の「部」は日本の「省」に相当し、その長官は日本の大臣に相当する
- ^ 大阪市は1925年(大正14年)に近隣の東成郡・西成郡全域を編入したため、単純に市の面積が東京市より広いということもあった。
- ^ 岡田紅陽写真美術館による[125]。
- ^ 同写真は東京大学社会情報研究所廣井研究室のウェブページに 「東京吉原遊郭内池中より水死者引上の惨状」]として掲載されている[128]。
- ^ 明治44年(1911年)の吉原大火時の写真を捏造したものではないかとも話題になった[124]。
出典
- ^ “関東大震災の被害状況”. 国立研究開発法人 防災科学技術研究所 自然災害情報室 (2012年9月4日). 2021年2月14日閲覧。
- ^ “震度データベース検索”. 気象庁. 2021年2月14日閲覧。
- ^ 金森博雄、宮村摂三「Seismomentricak Re-Evalution of the Great Kanto Earthquake of September 1, 1923」『東京大学地震研究所彙報』第48冊第2号、東京大学地震研究所、1970年6月10日、115-125頁、 ISSN 09150862。
- ^ Kawasumi(1951): 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値, 東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482.
- ^ Richter, C. F., 1958, Elementary Seismology, W. H. Freeman Co., San Francisco.
- ^ Duda, S. J., 1965, Secular Seismic Energy Release in the Circum-Pacific Belt, Tectonophysics, 2, 409-452.
- ^ 3.4 過去の大災害との比較 (PDF) (総務省消防庁)
- ^ デジタル台風:関東大震災と天気 - 過去の天気図
- ^ 武村雅之、草野満代「特集 関東大震災90年 対談「被災の実態に学ぶ地震対策」」『KAJIMAダイジェスト』、鹿島建設、2013年9月、2023年9月21日閲覧。「大八車の悲劇」の項。
- ^ 「(関東大震災100年 都市防災の今:中)帰宅困難453万人、どう誘導」『朝日新聞東京朝刊』、2023年9月1日、37面。
-
^ 平野聖; 石村眞一 『大正・昭和前期における扇風機の発達 (PDF) 』 国立科学博物館 産業技術史資料情報センター、2004年。
平野聖, 石村眞一「大正・昭和前期における扇風機の発達 : 扇風機のデザインにおける歴史的研究(2)」『デザイン学研究』第55巻第2号、日本デザイン学会、2008年、29-38頁、doi:10.11247/jssdj.55.29_1。 - ^ NHK取材班 『金融小国ニッポンの悲劇』 角川書店 1995年 pp.48-51.
- ^ 日本興業銀行 『日本外債小史』 同行外事部 1948年 4章2節1
- ^ 「故森賢吾叙勲ノ件」
- ^ 昭和4年大蔵省令第27号
- ^ 昭和6年大蔵省令第36号
- ^ 写真で見るバスの歴史Ⅰ(公益社団法人日本バス協会)
- ^ a b エネルギー-科学技術の進歩と現代生活(財団法人日本原子力文化振興財団)
- ^ 田原啓祐 関東大震災後における逓信事業の復旧と善後策 科学研究費補助金若手研究(B)「戦前期における郵便事業の展開と社会への普及過程」(研究課題番号:23730332)による研究成果の一部。p.36.
- ^ 『孤独な帝国 日本の1920年代―ポール・クローデル外交書簡1921‐27』 ポール クローデル、奈良道子 翻訳
- ^ 東京大正震災誌、大正14年4月
- ^ 東京市震災状況概要、1923年(大正12年)12月
- ^ 東京大正震災誌、1925年(大正14年)4月
- ^ 東京市社会局年報、東京府社会事業協会一覧(1927年〔昭和2年〕)
- ^ a b “広域避難:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2023年9月7日閲覧。
- ^ a b c “関東大震災100年 宮城・大崎の在郷軍人、救援に力 活動資料を石巻で初公開”. 河北新報オンライン (2023年8月25日). 2023年9月7日閲覧。
- ^ 佐藤春夫「サーベル礼讃」、雑誌『改造』大震災号
- ^ 鈴木淳 『関東大震災』 筑摩書房、2004年、P224
- ^ 『記事「3万8千の焼死体/関東大震災」(6)より』。朝日新聞。
- ^ 諸井.武村(2004).
- ^ 神奈川県逗子市,鎌倉市,藤沢市における 1923年大正関東地震による津波
- ^ 関東大震災記録映像「横浜大震火災惨状」について - 土木学会
- ^ 鹿島小堀研究室の研究成果を基に、理科年表が関東大震災の被害数を80年ぶりに改訂
- ^ 工藤「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」産経新聞出版
- ^ 相馬清二「被服廠跡に生じた火災旋風の研究」『地學雜誌』第84巻第4号、1975年、204-217頁、doi:10.5026/jgeography.84.4_204。
- ^ 目黒公郎、柳田充康、高橋健文、関東大震災の延焼火災に与えた建物被害の影響について 生産研究 Vol.55 (2003) No.6 P577-580, doi:10.11188/seisankenkyu.55.577
- ^ 関東大震災 学ぶべき教訓 朝日新聞DIGITAL
- ^ 竹久夢二、川村花菱、山村耕花『夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ』クレス出版、2003年9月1日(原著1923年)、66頁。 ISBN 4877331956。全国書誌番号: 20469876。
- ^ 小破・中破・大破とは 鹿島建設 日本建築学会「1978年宮城県沖地震被害調査報告」
- ^ 岡田成幸、高井伸雄、地震被害調査のための建物分類と破壊パターン 日本建築学会構造系論文集 64巻 (1999) 524号 p.65-72, doi:10.3130/aijs.64.65_5
- ^ 高井伸雄、岡田成幸、地震被害調査のための鉄筋コンクリート造建物の破壊パターン分類 日本建築学会構造系論文集 66巻 (2001) 549号 p.67-74, doi:10.3130/aijs.66.67_4
- ^ 藤原咲平編『関東大震災調査報告(気象篇)』中央気象台刊行
- ^ 武村雅之:1923年関東地震の本震直後の2つの大規模余震 強震動と震源位置 地學雜誌 Vol.108 (1999) No.4 P440-457
- ^ “まぼろしの切手|郵政博物館 Postal Museum Japan”. 郵政博物館 Postal Museum Japan. 2022年1月21日閲覧。
- ^ a b 草鹿龍之介『一海軍士官の反省記』176頁
- ^ 山岳トンネルの地震被害とそのメカニズム
-
^ 田中正央「丹沢山地の崩壊地における岩屑生産」『地理学評論』第48巻第4号、日本地理学会、1975年、261-274頁、doi:10.4157/grj.48.261、
ISSN 0016-7444、
NAID 130003567577。
八反地剛, 森脇寛「丹沢・箱根地域における地すべり地形斜面の地形的特徴と運動特性 : 特に等価摩擦係数と土塊の拡散率について」『地すべり』第48巻第1号、日本地すべり学会、2011年1月、45-51頁、doi:10.3313/jls.48.45、 ISSN 13483986、 NAID 10027884626。 - ^ a b 小林芳正「1923年関東大地震による根府川山津波」『地震 第2輯』第32巻第1号、日本地震学会、1979年、57-73頁、doi:10.4294/zisin1948.32.1_57、 ISSN 0037-1114、 NAID 130006784513。
-
^ 井上公夫『関東大震災と土砂災害』古今書院、2013年。
ISBN 9784772231534。
NCID BB13347169。全国書誌番号:
22295903。
秋山怜子「井上 公夫 編著 『関東大震災と土砂災害』」『砂防学会誌』第67巻第1号、砂防学会、2014年、61-61頁、doi:10.11475/sabo.67.1_61、 ISSN 0286-8385、 NAID 130005172356。 - ^ “震生湖”. 秦野市観光協会. 2021年2月23日閲覧。
- ^ a b 『関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ:放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団(記事差止め昨日解除)』その1 東京時事新報1923.10.22
- ^ #正午二分前252-253頁
- ^ a b c d e 金 2014, p. 7
- ^ a b 報知新聞1923年9月5日号外
- ^ 報知新聞1923年10月20日
- ^ 八島有佑 (2019年11月23日). “関東大震災で朝鮮人が危険視されたワケ 今なお残る虐殺事件の影響”. コリアワールドタイムズ. 2020年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月30日閲覧。
- ^ a b c d e f 中央防災会議 (2008年3月). “1923 関東大震災【第2編】”. 内閣府. 2013年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月17日閲覧。
- ^ a b c 師岡康子 (2013-12-20), ヘイト・スピーチとは何か, 岩波書店, ISBN 978-4-00-431460-8
- ^ a b c d e f “関東大震災における朝鮮人虐殺――なぜ流言は広まり、虐殺に繋がっていったのか”. 株式会社シノドス (2014年11月10日). 2014年11月17日閲覧。
- ^ 「鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件: 內閣告諭第二號」 アジア歴史資料センター Ref.A01200507700
- ^ 東京市編 『大詔を拝して』 1923 (一部に誤字・脱字・異字あり)
- ^ 『現代史資料 第6巻-関東大震災と朝鮮人』みすず書房
- ^ a b c d e 福留繁『海軍生活四十年』時事通信社、1971年5月、167-170頁。
- ^ 『東京震災録』 東京市役所編・刊、1926年、P292、303、305
- ^ 山田昭次 (2015年9月1日). “関東大震災・朝鮮人虐殺は「正当防衛」ではない 工藤美代子著『関東大震災――「朝鮮人虐殺」の真実』への批判”. 2016年9月4日閲覧。
- ^ 西崎, 2018 & pp129-130.
- ^ 石井光次郎『回想八十八年』カルチャー出版刊、1976年発行
- ^ #正午二分前149頁
- ^ #正午二分前149-150頁
- ^ 『経済学辞典・中』経済学全集、第57巻、改造社、1933年、545頁,大正大震災(関東)の項。
- ^ 日本弁護士連合会人権擁護委員会 (2003-08-25), 関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件調査報告書, 日本弁護士連合会
- ^ #正午二分前152-150頁
- ^ a b 草鹿『一海軍士官の反省記』177頁
- ^ 1923年10月6日付読売新聞
- ^ 藤岡町役場文書に残された「藤岡事件」行政文書に残された朝鮮人虐殺事件
- ^ 草鹿『一海軍士官の反省記』179頁
- ^ 草鹿『一海軍士官の反省記』177-178頁
- ^ 中馬馨『市政に夢を』大阪都市協会(昭和47年(1972年))、p.563
- ^ a b 福田村事件(香川人権研究所)
- ^ #正午二分前156頁
- ^ a b 姜徳相『新版 関東大震災・虐殺の記憶』 青丘文化社
- ^ 在日韓人の北送問題に対する政府の立場
- ^ 司法省「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」
- ^ 関東大震災時の朝鮮人虐殺名簿 韓国政府機関が検証開始, YONHAP NEWS AGENCY, (2014-07-07), オリジナルの2014-12-23時点におけるアーカイブ。
- ^ 関東大震災時の朝鮮人虐殺名簿 第1次検証結果発表=韓国, YONHAP NEWS AGENCY, (2015-01-18), オリジナルの2015-01-21時点におけるアーカイブ。
- ^ 関東大震災時の朝鮮人虐殺犠牲者 40人確認=韓国政府, YONHAP NEWS AGENCY, (2015-12-16), オリジナルの2015-12-16時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 「朝鮮人虐殺でコメントせず 松野官房長官「政府記録なし」」『47NEWS』、2023年8月30日。2023年8月30日閲覧。
- ^ a b “朝鮮人虐殺「事実関係を把握できる記録ない」と松野官房長官が発言→誤り。防衛省も「文書保管」を認める国会答弁”. ハフポスト (2023年9月1日). 2023年9月1日閲覧。
- ^ a b “令和5年8月30日(水)午前 官房長官記者会見”. 首相官邸 (2023年8月30日). 2023年9月1日閲覧。
- ^ 植村峻 2015, p. 136.
- ^ 『外国車ガイドブック1991』p.196
- ^ 『外国車ガイドブック1980』p.44
- ^ せき止め湖・壁の亀裂…神奈川、関東大震災のつめ跡 日経新聞 2013/8/31 6:30
- ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.5
- ^ a b 大内健二『航空母艦「赤城」「加賀」 大艦巨砲からの変身』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年2月、73-75頁。 ISBN 978-4-7698-2818-1。
- ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.1
- ^ 昭和5年3月26日『官報』第969号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ27「◯宮廷錄事 ◉御巡幸 天皇陛下ハ一昨二十四日午前九時四十五時御出門復興帝都御巡幸(九段坂上近衞歩兵第一聯隊內御展望所、東京府立工藝學校、上野公園、隅田公園、震災記念堂、東京市立千代田尋常小學校及東京市立築地病院ニ御立寄)午後二時三十分御還幸アラセラレタリ」
- ^ 東京市編『帝都復興祭志』 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 三浦藤作『歴代詔勅全集』第7巻 国立国会図書館デジタルコレクション コマ160
- ^ 「米国救護作業」pp.15「諸外国の同情」
- ^ 「米国救護作業」pp.27「米国の驚くべき供給品の数量」
- ^ 「米国救護作業」pp.48
- ^ 「米国救護作業」pp.45-46
- ^ 「大正大震災大火災」215-218頁
- ^ 「英」(大正12年 公文備考 巻161変災災害)
- ^ 「米国救護作業」pp.2、23
- ^ “沿革|河北新報社”. www.kahoku.co.jp. 2023年9月7日閲覧。
- ^ 米村嘉一郎「電波界50年」(連載「思い出の記」第11回)『電波時報』1959年9月号
- ^ 米村嘉一郎「電波界50年」(連載「思い出の記」第12回)『電波時報』1959年10月号
- ^ a b p254 『新訳紫禁城の黄昏』 レジナルド・フレミング・ジョンストン著 岩倉光輝訳 本の風景社 2007年
- ^ 『紫禁城の黄昏(下)』レジナルド・フレミング・ジョンストン著 中山理訳 祥伝社 2005年
- ^ 関東大震災における日米海軍の救援活動について
- ^ 拳骨拓史『韓国が次に騒ぎ出す「歴史問題」』PHP研究所、P106
- ^ 拳骨拓史『韓国が次に騒ぎ出す「歴史問題」』PHP研究所、P109、P110
- ^ 国際連盟協会 1923, p. 22.
- ^ 国際連盟協会 1923, p. 21.
- ^ 婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)
- ^ 国立国会図書館、2002年。
- ^ a b c d e f g h 一般財団法人 日本開発構想研究所. “Webニューズレター 新時代 vol.77 - 東京遷都の経緯及びその後の首都機能移転論等”. 国会等の移転ホームページ. 国土交通省. 2021年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g 高島靖賢 (2014年10月25日). “ことばマガジン - 昔の新聞点検隊|幻の遷都論/関東大震災(12)”. 朝日新聞社 2021年8月28日閲覧。
- ^ a b c 『今村均回顧録』 今村均、芙蓉書房、1980年
- ^ a b c 『遷都 - 夢から政策課題へ』八幡和郎、中央公論社、1988年
- ^ 関東大震災直後ノ詔書
- ^ a b c 韓国記録写真研究家が関東大震災の朝鮮人虐殺写真を訴える 別の写真を使い捏造の可能性? ガジェット通信 2013.02.03
- ^ a b “美術館日記: 岡田紅陽が撮影した関東大震災の写真について” (2013年2月4日). 2013年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月26日閲覧。
- ^ “<関東大震災>虐殺の主体鮮明に…横浜市教委が中学生用副読本を改訂”. 民団新聞 (Mindan). (2012年6月13日). オリジナルの2013年5月3日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “中学校副読本:誤解招く表現 横浜市教委が処分”. 毎日新聞. (2012年9月29日). オリジナルの2012年10月31日時点におけるアーカイブ。 2016年9月15日閲覧。
- ^ 東京大学社会情報研究所廣井研究室のウェブページ内「災害情報資料室」の「02関東大震災絵葉書」写真54
- ^ 関東大震災朝鮮人虐殺当時の写真か 韓国研究家が公開 2013年2月3日
- ^ おでんの変遷とこれから、紀文食品、2013年6月18日閲覧。
- ^ 竹久夢二美術館監修 『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』 河出書房新社、2014年1月
参考文献
- 大曲駒村『東京灰燼記』(東北印刷株式会社出版部、1923年)NDLJP:981826 (中公文庫、2006年)ISBN 4-12-204733-1
- 宮武外骨『震災画報』(半狂堂、1923-1924年)NDLJP:981867,NDLJP:981868,NDLJP:981869,NDLJP:981870,NDLJP:981871,NDLJP:981872 (ちくま学芸文庫、2013年)ISBN 978-4-480-09567-1
- 田山花袋『東京震災記』(博文館、1924年)NDLJP:1183855 (河出文庫、2011年)ISBN 978-4-309-41100-2
- 夢野久作(杉山萠圓名義)『街頭から見た新東京の裏面』『東京人の堕落時代』(九州日報連載)
- 加藤直樹『九月、東京の路上で―1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから、2014年)ISBN 9784907239053
- 寺田寅彦 『震災日記より』:新字新仮名 - 青空文庫
- 西崎雅夫編著『関東大震災朝鮮人虐殺の記録:東京地区別1100の証言』(現代書館、2016年)ISBN 978-4768457900
- 諸井孝文, 武村雅之「関東地震 (1923年9月1日) による被害要因別死者数の推定」『日本地震工学会論文集』第4巻第4号、2004年、21-45頁、doi:10.5610/jaee.4.4_21。
- 西崎雅夫 編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』筑摩書房〈ちくま文庫(に-19-1)〉、2018年8月10日。 ISBN 978-4-480-43536-1。
公的資料
- 『治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件』(勅令第403号)、1923年9月7日 - ウィキソース。
- 『震災豫防調査會報告 第百號(戊)』(震災豫防調査會、1925年3月31日)
- 藤原咲平『関東大震災調査報告(気象篇)』(中央気象台編、中央気象台発行、1924年8月20日)NDLJP:984965
- 『震災叢書 第1編 震災後公布の新法令集』(新生社編、新生社刊、1923年12月2日)NDLJP:981830
- 「1923 関東大震災 第1編」『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』中央防災会議、平成18年(2006年)7月
-
アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『公文備考 艦船1 巻26:軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件』。Ref.C04015098600。
- 『公文備考 艦船1 巻26:軍艦加賀を航空母艦に改造する件』。Ref.C04016182200。
- 『大正12年 公文備考 巻156 変災災害:救護品輸送(其の他)』。Ref.C08050971600。
- 『大正12年 公文備考 巻161 変災災害:英』。Ref.C08050982100。
- 『大正12年 公文備考 巻161 変災災害:米国救護作業』。Ref.C08050982700。
- 『鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件: 内閣告諭第二號』。Ref.A01200507700。
-
国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館)
- 永田秀次郎; 穂積重遠 著「内閣告諭第二號」、東京市 編『大詔を拝して』帝都復興叢書刊行会〈帝都復興叢書 ; 第1輯〉、1923年、17-18頁。 NCID BA56201226。全国書誌番号: 43040575。NDLJP:977182 。
- 国際連盟協会『国際聯盟協会パンフレット第38輯 我国の震災に対する諸外国の同情と震災に関する諸名士の所感』国際連盟協会、1923年。
- 新生社 編『震災叢書 第1編 震災後公布の新法令集』新生社、1923年。
- 『大正大震火災誌』警視庁、1925年。
- 内務省社会局 編『大正震災志』内務省社会局、1926年。
- 『帝都復興祭志』東京市、1932年。
- 三浦藤作『歴代詔勅全集 第7巻』河出書房、1940年。
- 『官報』
参照文献
- 国立国会図書館(2002年)『日本の集合住宅 - アパート、マンションに見る20世紀』。『119回常設展示』。
- 吉村昭『関東大震災』(文藝春秋、1973年) NCID BN02582117
- 上山明博『関東大震災を予知した二人の男 ─大森房吉と今村明恒』(産経新聞出版、2013年)ISBN 978-4-8191-1224-6
- 上山明博『地震学をつくった男・大森房吉 ─幻の地震予知と関東大震災の真実』(青土社、2018年)ISBN 978-4-7917-7081-6
- 姜徳相編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房、1963年)NDLJP:2990288
- 高木隆史『大震災 1923年東京』(原書房、1983年)978-4562013722
- 姜徳相『関東大震災』(中央公論社、1975年) NCID BN00851670
- 姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社、2003年)ISBN 4-87924-088-5
- 草鹿龍之介『一海軍士官の半生記』(光和堂、1973年) NCID BN03239335
- ノエル・F・ブッシュ、向後英一訳『正午二分前 外国人記者の見た関東大震災』早川書房、2005年8月(原著1967年10月)。 ISBN 4-15-208659-9。
-
工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版、2009年)ISBN 978-4-8191-1083-9
- 加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック 新書判、2014年。改版に際し改題 加藤は工藤の夫)ISBN 978-4898317037
- 『外国車ガイドブック1980』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
- 『輸入車ガイドブック1991』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
- 内田宗治『関東大震災と鉄道』(新潮社、2012年)ISBN 978-4-10-332561-1
- 金富子「【特集】関東大震災90年 : 朝鮮人虐殺をめぐる研究・運動の歴史と現在(2) 関東大震災時の「レイピスト神話」と朝鮮人虐殺 : 官憲史料と新聞報道を中心に」『大原社会問題研究所雑誌』第669号、法政大学大原社会問題研究所、2014年7月、1-19頁、 NAID 120005524575。
- 関口安義「恒藤恭と芥川龍之介 —蘆花『謀叛論』を介在として—」『大阪市立大学史紀要』第3号、大阪市立大学、2010年10月30日、40-55頁、 NAID 120005266439。
- 児玉千尋「関東大震災と文豪 : 成蹊大学図書館の展示から」『成蹊國文』第47号、成蹊大学文学部日本文学科、2014年3月15日、56-86頁、 NAID 120005436758。
- 川端俊英『人権からみた文学の世界【大正篇】』ゴマブックス、2015年1月8日。ASIN B00RXHZ4M2 。
- 『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』新潮社、1970年10月。 NCID BN04731783。
- 『川端康成全集第26巻 随筆1』新潮社、1982年4月。 ISBN 978-4106438264。
- 『川端康成全集第29巻 評論1』新潮社、1982年9月。 ISBN 978-4-10-643829-5。
- 井上謙 編『新潮日本文学アルバム43 横光利一』新潮社、1994年8月。 ISBN 978-4-10-620647-4。
- 小久保実 編『新潮日本文学アルバム17 堀辰雄』新潮社、1984年1月。 ISBN 978-4-10-620617-7。
- 植村峻『紙幣肖像の近現代史』吉川弘文館、2015年。 ISBN 4642038450。
関連項目
- 震災内閣
- 地震
- 地震の年表 (日本)
- 関東地震
- 元禄地震
- 南関東直下地震
- 復興局疑獄事件
- 東京大空襲 - アメリカ軍は関東大震災の被害実態を検証し、爆弾・焼夷弾の選定や攻撃目標の決定に反映させた。
- 将門塚
- 防災の日
- 歴史教科書問題
- シャープ - 当時筆記用具を製造していたが関東大震災で工場を焼失、拠点を大阪へ移し家電メーカーとして再出発する。
- パニック
- 仙山線 - 関東大震災によって着工延期になった。
- 大森房吉
- 今村明恒
- 寺田寅彦
- 後藤新平
- 添田唖蝉坊 - 「この際」という言葉が飛び交う後藤新平指揮下の復興政策を風刺した演歌「コノサイソング」を歌った社会主義の風刺演歌師。
- 佐野利器
- 内田祥三
- 乞食谷戸
- 上原敬二
- 熊本地震 (2016年) - 地震直後に本震災の出来事を模して「熊本の朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」旨のデマがインターネット上に投稿され問題となった。
外部リンク
- 「関東大震災100年」特設ページ - 内閣府
- 「関東大震災から100年」特設サイト - 気象庁
- 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災 第1編(第2編・第3編) - 中央防災会議(事務局 内閣府)
- 特集:関東大震災を知る - KAJIMAダイジェスト(鹿島建設)
- 資料が語る関東大震災 - リサーチ・ナビ|国立国会図書館
映像資料
- 関東大震災映像デジタルアーカイブ / Films of the Great Kanto Earthquake of 1923 < 国立映画アーカイブ
- 関東大地震写真
- 1923年関東大震災写真集 - ハワイ大学マノア校図書館アジアコレクション
- 関東大震災・写真と地図のデータベース
- 東京関東地方大震災惨害実況 - 動画データベース 兵庫県篠山市
- 武部正「関東大震災」写真資料 京都府立京都学・歴彩館
- 実写 関東地方大震災,1923.35mmフィルム 京都帝国大学工学部建築学教室
その他
- Largest Earthquakes in the World Since 1900(1900年以降の大地震上位10位) - ウェイバックマシン(2009年11月1日アーカイブ分) アメリカ合衆国地質調査所 USGS