雍正帝
雍正帝 愛新覚羅胤禛 | |
---|---|
清 | |
第5代皇帝 | |
王朝 | 清 |
在位期間 |
康熙61年11月20日 - 雍正13年8月23日 (1722年12月27日 - 1735年10月8日) |
都城 | 北京 |
姓・諱 | 愛新覚羅胤禛(アイシンギョロ・インジェン) |
満洲語 |
ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ ᡞᠨ ᠵᡝᠨ(aisin gioro in jen) |
諡号 |
憲皇帝(temgetulehe hūwangdi) 敬天昌運建中表正文武英明寛仁信毅大孝至誠憲皇帝 (abka be ginggulehe, forgon be badarambuha, dulimba be ilibuha, tob be iletulehe, šu horonggo, dacun genggiyen, onco gosin, akdun kulu, amba hiyoošungga, ten i unenggi temgetulehe hūwangdi)[1] 敬天昌運建中表正文武英明寛仁信毅睿聖大孝至誠憲皇帝 (abka be ginggulehe forgon be badarambuha dulimba be ilibuha tob be iletulehe šu horonggo dacun genggiyen onco gosin akdun kulu sunggiyen enduringge amba hiyoošungga ten i unenggi temgetulehe hūwangdi)[2] |
廟号 | 世宗 |
生年 |
康熙17年10月30日 (1678年12月13日) |
没年 |
雍正13年8月23日 (1735年10月8日) |
父 | 康熙帝(第4子) |
母 | 徳妃(孝恭仁皇后) |
后妃 | 孝敬憲皇后 |
陵墓 | 泰陵 (elhe munggan) |
年号 | 雍正 (hūwaliyasun tob): 1723年 - 1735年 |
子 | 愛新覚羅弘暦(乾隆帝) |
雍正帝(ようせいてい)は、清の第5代皇帝。諱は胤禛(いんしん。しん:示+眞)、廟号は世宗、諡号は憲皇帝(temgetulehe hūwangdi)。在世時の元号を取って雍正帝と呼ばれる。
生涯
即位
康熙帝の第4子として生まれる。母は徳妃のウヤ(烏雅)氏(孝恭仁皇后)。
康熙37年(1698年)にドロイ・ベイレ(上から三番目の爵位)として鑲白旗に分封され鑲白旗旗王となり、康熙48年(1709年)に和碩雍親王(hošoi hūwaliyasun cin wang、1番目の爵位)に進められ、満洲ニル6、蒙古ニル3、漢軍ニル3とボーイ・ニルを合わせ成人男子3千名ほどの旗人を従えた旗王となった。
康熙帝は次男で皇后の子の胤礽を寵愛し、2歳で皇太子とした。しかし満州人には長子相続という慣習がなく、中華式の皇太子の地位など他の皇子たちには納得がいかず、各旗の旗人たちは壮烈な党派争いを演じ、陰謀が巡らされ皇太子は孤立して自暴自棄となり、修養を怠って遊び歩き、賄賂を取って政治を歪め、さらには康熙帝を亡きものにするクーデターにまで手を染めたとされた。そこで康熙帝はやむを得ず皇太子を2度も廃太子とし、以後新たに皇太子を置くことはなかった。
康熙61年(1722年)、康熙帝が病を得て崩御すると、ロンコドが受けた遺詔によって胤禛が指名され皇帝に即位した(九子奪嫡)。この時45歳であった。
勢力確立
皇位継承には母親の出自の貴賤が重要であった清において、他の皇子の母親に蒙古王侯や満洲名家の令嬢などが居並ぶ中、雍正帝の母・ウヤ (烏雅) 氏は、家奴で下級旗人であるボーイ・ニル (包衣) の出身と出自が悪かった。雍正帝自身も鑲白旗旗王の中で特に序列が高かったわけでもなく、加えて即位までの経緯から政治的基盤が脆弱であったため、皇帝直属の上三旗 (正黄・鑲黄・正白) の出身者が就くような役職に、鑲白旗旗王時代の部下 (「藩邸旧人」と呼ばれる) を就かせたり、見所のある下五旗の者を上三旗に異動させるなど、上三旗の掌握に腐心した。即位五年目に重鎮・ロンコドを早々に誅殺すると、雍正帝即位後も朋党を形成して相続を争おうとする康熙帝の諸皇子や、上三旗の大臣たちにも容赦せず、康熙帝八子・廉親王胤禩をアキナ (akina、阿其那、犬)、九子・胤禟をセスヘ (seshe、塞思黒、豚) と改名させて監禁し[注釈 1]、その2か月後には朋党の領袖である上三旗大臣のアルスンガとオロンダイを処刑した。さらに独裁権確立を狙い、至る所に密偵を潜り込ませた。1732年に内閣を飛び越えて決裁を行う軍機処を創設し、閣臣たちに口出しさせず政治に当たった。その他、皇帝の諱を忌避する風習から、雍正帝に忠誠を尽くした胤祥(康熙帝十三男)を除く兄弟の字を胤から允に改称させた[3]。
立太子
皇位継承の暗闘を経験したことから、雍正帝は皇太子を擁立しない方針を決めた。代わりの後継者指名法として、皇位継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後、紫禁城乾清宮の玉座の後ろにある「正大光明」と書かれた扁額の裏に隠し、崩御後に一定人数が立ち会った上で勅書を開く、という方法を考案した。これを「密勅立太子法」(太子密建)と言う。それまでは皇太子の周りに次代の権力の座を狙って集まって来る者が追従を繰り返すことによって皇太子の性格が歪んだり、皇帝派と皇太子派の派閥争いが起きる弊害があったが、こういった事態を封じ、皇帝の専制君主の座が確立した。この方法により、清代には暗愚な皇帝が比較的出なかったと言われる。
崩御
1735年、働き続けた雍正帝は崩御した。伝説によれば、かつて処罰した呂留良の娘の呂四娘あるいは反乱を企てた罪で処刑された盧某の妻に殺害され首を奪われ、ゆえに清西陵泰陵に埋葬された雍正帝の首は黄金製の作り物である、とする創作もある。後に紹介する仕事中毒とも言えるような働きぶりによる過労死とする説を支持する者も日本には多い。また、ナポレオン・ボナパルトと同様、重い責務でストレスを溜め、夜遅くまで酒を飲み、脂っこい飯を食べ、昼に眠るという生活が死期を早めたと思われる。現代の中国では、「故宮當案」の研究結果から、道家の神仙思想に凝った結果、不老長寿のために服用したエリクサー(仙丹)による中毒死ではないか、と推測される。なお、雍正帝のお抱え道士たちは、後の乾隆帝によって追放処分を受けた。
為政者像
執務姿勢
雍正帝は単なる恐怖政治家ではなく、史上まれに見る勤勉な皇帝であった。毎日夜遅くまで政務に当たり、大量の上奏文にいちいち目を通し、全て自分で硃批(皇帝自身による朱墨による諾否、その他の書き込み)を満洲語で書かれた上奏文なら満洲語で、漢文で書かれた上奏文なら漢文で書き込み、一日の睡眠時間は4時間に満たなかったという。前述の密偵も、ただ監視をするだけではなく、地方官に業績の優れた者がいればこれを褒賞した。
また、民衆の手本として自ら倹約に努めている。書き物をする時に重要なものでなければ紙を裏返して使い、地方官が手紙を皇帝に送るときに綾絹を用いると「なぜこんな無駄なことをするのか」と言って紙を使わせた。政治の最高機関である軍機処の建物も、みすぼらしいバラックのようなものであった。日本に対しては好意的だった。
国内政策
文字の獄
父の康熙帝が行った文人弾圧を雍正帝も強く行い、何冊もの本が禁書となった。清朝を批判する者には厳罰で臨んだ。
雍正4年(1726年)、江西省で行われた科挙の初期段階の試験である郷試において、内閣学士で礼部侍郎(文部次官に相当)であった査嗣庭という試験官が、『詩経』の一節である「維民所止」という部分を出題した。この一節は清朝を批判するものだとされ[注釈 2][4]、査嗣庭は投獄され病死、死体はさらし者とされた。さらにその息子も死刑、一族も投獄されたり、流罪に処されるという非常に厳しい処分を受けた。この事件は実のところ、ロンコド派閥に属していた査嗣庭らの排除が目的であったとされる。
華夷思想
華夷思想により満州人の支配を良しとせず明の復活を唱える思想家に対しては自ら論破し、討論の経緯を『大義覚迷録』という書物にまとめた。雍正帝は、中国戦国時代の儒学者である孟子の「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ。距離の離れること千余里、時代にして後れること千年あまりだが、志を立てて中国で実行したことは割り符を合わせたように一致している。先の聖人も後の聖人も、みな軌を一にしているのである[5][6]」という言葉をなぞりつつ[7]、「本朝が満州の出であるのは、中国人に原籍があるようなものだ。舜は東夷の人だったし、文王は西夷の人だったが、その聖徳は何ら損なわれてはいない」「徳のあるものだけが天下の君になれるのだ」と強調している[7][8]。
且夷狄之名,本朝所不諱。孟子云:“舜東夷之人也,文王西夷之人也。” 本其所生而言,猶今人之籍貫耳。況滿洲人皆恥附於漢人之列,準噶爾呼滿洲為蠻子,滿洲聞之,莫不忿恨之,而逆賊以夷狄為誚,誠醉生夢死之禽獸矣。
夷狄の名は、本朝は諱むところではない。孟子は、「舜は東夷の人であり、文王は西夷の人である」と言っている。もとの生まれたところは、なお今人の籍貫のようなものである。いわんや満州人はみな漢人の列に附することを恥じている。ジュンガル部は満州人を蛮子と呼び、満州人はこれを聞いて、憤り恨まないものはなかった。それなのに逆賊(の曽静)が夷狄であることを罪としたことは、まことに(『程子語録』にいう)酔生夢死(何も爲すことなく無自覚に一生を送る)禽獣である。 — 大義覚迷録[9]
雍正6年(1728年)に、呂留良の『時文評選』「華夷の弁」を読破してそのそれに感化された曾静という学者が、上記にある雍正帝の著作である『大義覚迷録』を批判し、四川総督岳鍾琪を唆して漢民族の復興をはかったために、岳鍾琪は彼を捕らえて雍正帝の目前に曳きだした。雍正帝は曾静の言い分を聴いて、その処置を考えていた。しかし曾静は臆することなく、毅然として「満洲族は大したことなく、漢民族がいかにすぐれているか」とする持論を唱えたため、雍正帝は特例として彼を赦した(曾静は乾隆帝が即位すると処刑された)。
奴隷解放
雍正帝は、山西省の楽戸、浙江省の惰民および九姓漁戸、安徽省の世僕などの賎民階級を解放し、良民と同等に待遇した。これは、官吏に特権階級が存在することを認めない雍正帝の姿勢から出ている。特権は独り天子が之を有し、天子以外の万民は全く平等の価値しかもたないというのが雍正帝の思想であった。[10]
なお、制度としての奴隷階級は消滅したものの、奴隷に対する蔑視や生活環境の劣悪さはこれ以後も根強く残った。[11]
言語政策
明朝期以前においては、南京の音にもとづく南京官話が規範とされていた。清朝期になると、官話の中心は徐々に南京官話から北京音をもとにした北京官話へと移っていった。そのような中で、雍正帝は中央統制体制を強化するために北京官話の普及をはかり、官話政策を提議した。福建省に「正音書院」と呼ばれる官話の音を学ぶ書院を建て、また広東省の民間の粤秀書院などを支援して官話教育を担わせた。これらの教育機関では、教科書として『正音摂要』『正音咀華』などが用いられた。
対外政策
18世紀初頭以来のチベットの混乱に対し、康熙帝は危機に陥った朝貢国を救援するという立場から介入、ジュンガルの占領軍を撤退に追い込み、ダライ・ラマ位をめぐる混乱を整理、グシ・ハン一族には、ハン位継承の候補者を選出するよう促した。しかし、グシ・ハン一族の内紛は深刻で、ハン位の継承候補者について合意に達することができず、康熙帝はラサン・ハンの死によって空位となったチベットのハン位を埋めることができないまま没した。
雍正帝は、グシ・ハン一族の定見のなさ、ジュンガルと結びつく可能性(グシ・ハン一族がジュンガルと組んで清朝と敵対した場合、アルタイ山脈から甘粛・四川・雲南にいたる長大なラインが前線と化す)などについて強い不信感を有しており、父帝の方針を一転し、即位後ただちにグシ・ハン一族の本拠であった青海地方に出兵、グシ・ハン一族を制圧した。雍正帝はグシ・ハン一族がカム地方の諸侯や七十九族と呼ばれたチベット系・モンゴル系の遊牧民たちに対して有していた支配権を接収、チベットをタンラ山脈からディチュ河の線で二分し、この線の北部は青海地方と甘粛・四川・雲南の諸省の間で分割、この線の南に位置する三十九族やカム地方西部は「ダライ・ラマに賞給」し、その支配をガンデンポタンに委ねた。
外モンゴルにまで勢力を拡大したことで、オイラトや、ロシア帝国との国境を画定する必要が生じた。ロシアとはキャフタ条約を締結して外モンゴルの国境を定めるとともに、両国間での交易に関する協定が結ばれた。かつて康煕帝が結んだネルチンスク条約と同様、国境を画定させるという姿勢は、当時における中国の一般的な対外関係とは違いがみられるものの、対ロシア関係も理藩院において処理されたように、従来の朝貢秩序を揺るがすようなものではなかった。またオイラトとは、ガルダンの後継者ツェワンラブタンとの間で国境交渉を持ち、1730年にアルタイ山脈を境界とする取り決めが成立した。
逸話
- 雲貴総督時代の高其倬よりも「雍正帝の治世、雲南貴州総督の高其倬が密奏を上(たてまつ)り、国境に近い都龍(ドロン)の地には金鉱があるため、明代から越南に侵占されているので、これを恢復したい」との上奏に対して、雍正帝は「遠きを柔らぐるの道は、隣に睦むを以って美となす。都龍、南丹等の処は、明季にありて巳に安南(越南)の有する所たり。是れ侵占は我朝において始まるに非ず。安南は累世恭順なり。其の地、果たして利あらんか、即ち天朝は小邦と利を争うべけんや。若し利なからんか、即ちまた何ぞ必ずしもこれと争わん」とし上奏を退けている[12]。
- 清皇室離宮の円明園は、雍正帝が親王時代に康熙帝から拝領した庭園をもとに造営されたものである。
后妃
- 正室
- 側室
-
孝聖憲皇后 (hiyoošungga enduringge temgetulehe hūwangheo)(ニオフル氏、鈕祜禄氏、熹貴妃、崇慶皇太后)
- 皇四子弘暦(乾隆帝)
- 朧月公主(愛新覚羅綰綰)
-
敦粛皇貴妃(年氏)
- 皇四女(夭逝)、福宜(夭逝)、懐親王福恵(夭逝)、福沛(夭逝)
-
純愨皇貴妃(耿氏)
- 皇五子和親王弘晝
-
斉妃(李氏)
- 皇二女和碩懐恪公主、弘昐(夭逝、昐は日へんに分)、皇二子弘昀(夭逝)、皇三子弘時
- 謙妃(劉氏)
- 皇六子果郡王弘曕(曕は日へんに詹)
- 寧妃(武氏)
-
懋嬪(宋氏)
- 皇長女(夭逝)、皇三女(夭逝)
- 貴人郭氏、貴人海氏、貴人張氏、貴人李氏、貴人安氏、貴人老氏
- 常在那氏、常在李氏、常在馬氏、常在高氏、常在常氏、春常在、吉常在
- 答応蘇氏、答応汪氏、雲答応、蘭答応
- 格格蘇氏、格格張氏、格格伊氏、格格張氏[注釈 3]
-
孝聖憲皇后 (hiyoošungga enduringge temgetulehe hūwangheo)(ニオフル氏、鈕祜禄氏、熹貴妃、崇慶皇太后)
- 猶女
- 和碩淑慎公主 - 父は理親王胤礽
- 和碩和恵公主 - 父は怡親王胤祥
- 和碩端柔公主 - 父は荘親王胤禄
登場作品
雍正帝の生涯を描いたものとして、全44回の連続テレビドラマ『雍正王朝』(1999年)がある。出演:唐国強・焦晃・王絵春・王輝。
他に関連した作品として、雍正帝の“三大模範”(鄂爾泰・田文鏡・李衛)の一人である李衛を扱った作品『李衛當官』(全30回)でも冷徹な人物として登場している。『雍正王朝』と同様、雍正帝を唐国強、十三皇子を王輝が演じた。
また、雍正帝によって造られたと言われている諜報・暗殺などの秘密工作を請け負う秘密組織「血滴子」は、武侠小説や香港映画の題材としてたびたび使われている。映画『空とぶギロチン』(原題:血滴子、1975年)、『続・空とぶギロチン 〜戦慄のダブル・ギロチン〜』(原題:清宮大刺殺、1978年)などがその代表作。
映画
- 『少林寺への道2』(DVD邦題:少林寺への道 十八銅人の逆襲、原題:雍正大破十八銅人、1976年)
- 『カンフーエンペラー』(原題:功夫皇帝、1981年)
- 『少林寺炎上』(原題:火焼少林寺、1976年)
テレビドラマ
- 『雍正王朝』(1999年)
- 『李衛当官』
- 『宮 パレス 〜時をかける宮女〜』(2011年)
- 『宮廷女官 若曦』(2011年)
- 『宮廷の諍い女』(2011年)
- 『宮 パレス2〜恋におちた女官〜』(2012年)
- 『宮廷の秘密〜王者清風』(2013年)
- 『花散る宮廷の女たち〜愛と裏切りの生涯〜』(2017年)
- 『如懿伝 〜紫禁城に散る宿命の王妃〜』(2018年)
- 『瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜』(2018年)
- 『宮廷の茗薇 〜時をかける恋』(2019年)
演劇
- 『君子無朋~中国史上最も孤独な「暴君」雍正帝~』(2021年 演:佐々木蔵之介)
脚注
注釈
- ^ 実際の満洲語で犬は「indahūn」、豚は「ulgiyan」であり、また満洲人は動物の名称を名前に使用することは珍しくないこともありアキナを犬、サスヘを豚としたのは後世での何らかの意訳と思われる。康熙帝九男の息子たちは長男:フシフン fusihūn(卑しい者)、次男:フェチュフン fecuhun(後ろめたい人)、三男:ウビヤダ ubiyada(憎むべき者)、四男:エイメデ eimede(嫌なヤツ)、五男:ハイラン hairan(残念な人)、六男:ドゥンキ dungki(愚か者)、七男:ドゥシヒイェン dusihiyen(馬鹿)、八男:エイフン eihun(愚鈍蒙昧)と改名させられている。
- ^ 「維」と「止」の上にそれぞれ、「なべぶた」と「一」をつけると「雍」「正」になる、つまりこの一節は雍正帝の頭を切り落とし、さらに二文字を「民所」で離して、雍正帝の胴を二つに裂いているのだという。
- ^ 即位前に没した側室たちと思われる。
出典
- ^ "daicing gurun i šidzung temgetulehe hūwangdi i enduringge tacihiyan (大清世宗憲皇帝聖訓)"1740. [1]
- ^ 黄錫惠「清世宗諡宝之満文篆字研究」
- ^ 宮崎(1950)(宮崎(1996)pp.36、44-46、55-56)
- ^ 宮崎(1950)(宮崎(1996)p.158)
-
^ 孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」 — 孟子、離婁下
- ^ 杉山清彦. “第8回 「中華」の世界観と「正統」の歴史” (PDF). 「正統」の歴史と「王統」の歴史 (東京大学教養学部): p. 6. オリジナルの2016年9月10日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 王徳威 (2020年3月16日). “基調講演記録 華夷の変 ―華語語系研究の新しいビジョン―”. 愛知大学国際問題研究所紀要 = JOURNAL OF INTERNATIONAL AFFAIRS (155) (愛知大学国際問題研究所): p. 10-11
- ^ 宋成有 (2010年). “古代中国文化の日本における伝播と変容” (PDF). 日中歴史共同研究報告書 (日中歴史共同研究): p. 114. オリジナルの2021年10月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ 韓東育 (2018年9月). “清朝の「非漢民族世界」における「大中華」の表現 : 『大義覚迷録』から『清帝遜位詔書』まで”. 北東アジア研究 = Shimane journal of North East Asian research (別冊4) (島根県立大学北東アジア地域研究センター): p. 17
- ^ 宮崎, 市定 (1996-5). “七. 独裁政治の限界”. 雍正帝 -中国の独裁君主-. 中央公論新社. pp. 177-178
- ^ 典拠不詳。
- ^ 雑誌「中央公論」1989年8月「中国を叱る」より
参考文献
-
宮崎市定 『雍正帝』 岩波新書、1950年(初版)、復刊1988年/中公文庫、1996年、ISBN 4122026024
- 『宮崎市定全集 14 雍正帝』、岩波書店、1991年
- 宮崎市定 『中国文明の歴史9 清帝国の繁栄』 中公文庫、2000年、ISBN 4122037379
-
増井経夫 『大清帝国』 講談社学術文庫、2002年、ISBN 4061595261
- 『中国の歴史7 清帝国』(講談社、1974年)を改題・文庫化
- 陳舜臣 『中国の歴史 六』 講談社文庫(新版)、1991年、ISBN 4061847872
- 矢沢利彦編訳 『イエズス会士中国書簡集2 雍正編』 平凡社東洋文庫、1971年、ワイド版2003年