高句麗論争

高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と金(後の満洲族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。

高句麗論争(こうくりろんそう)は、かつて朝鮮半島北部から満州南部を支配した高句麗が「朝鮮の歴史」なのか「中国の歴史」なのかという帰属をめぐる論争。

概要

民族言語的観点から現代の韓国北朝鮮の祖とされる新羅と高句麗とでは、民族・言語的に隔たりがあり[1]、高句麗を現在の韓国・北朝鮮へと連続する国家と見なす十全な根拠がなく、満洲族のルーツである女真族と高句麗のルーツは同じツングース民族であり、高句麗の故地を領土に含み、高句麗と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国と韓国・北朝鮮との間で軋轢が生じている。

韓国・北朝鮮の研究者は、698年に建国した渤海の支配層が高句麗人であり、そのため渤海は高句麗の継承国であり、北の渤海・南の新羅が鼎立した南北国時代から、高麗王朝によってはじめて朝鮮は統一したと主張しており、韓国・北朝鮮の研究者が称しているところの高句麗の継承国の渤海が、「朝鮮の歴史」なのか「中国の歴史」なのかという論争もおきている[2]

高句麗を建国した朱蒙生母は、中国英雄河伯の娘である柳花夫人であり、朱蒙が中国人の血を引いていることは議論の余地がない[3][4][5]

三国史記』高句麗本紀・広開土王紀・百済本紀・義慈王紀によると、高句麗王たちは、中国黄帝の孫の高陽氏、中国黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた[6][7][8][9][10]

逸周書』「王会解」は、古代中国少数民族とその分布について述べたものであり、の孔晁による注がつけられているが、「高夷」について「高夷東北夷高句麗」と注しており、高句麗を高夷族の子孫としている。このことから中国学界は、高句麗の先祖である高夷族と高陽氏を接続させ、高夷族の起源を高陽氏に確定、「卵生神話、鳥羽冠(鳥の羽で飾られた帽子 )の風習、鬼神(英語版)思想などが共通している」として、高句麗を高陽氏の子孫と主張する[11]。中国学界はもう一つの証拠として『晋書』「慕容雲載記」を挙げており、慕容雲祖父である高和は高句麗族であるが、高陽氏の末裔であるため高姓を名乗り、慕容雲の本来の名前は「高雲」という記事である。中国学界は、「高陽氏→高夷族→高句麗族」と連結させ、高句麗の祖先は高夷族であり、さらに遡ると高陽氏とみている[11]

三国史記』では高句麗王系について、本紀の始祖王の記載の最初に高句麗では「始祖東明聖王姓高氏。諱朱蒙」と書かれ、王系の姓を明記しているが、高句麗王に対しては始祖王にのみ姓「高」が書かれている。高句麗王の姓「高」は『三国史記』の始祖条と『三国遺事』の王暦と『三国遺事』紀異第一「高句麗」条で書かれているが、『三国遺事』「高句麗」条がもっとも詳しく、「国号高句麗。因以高為氏。本姓解。今日言是天帝子。承日光而也。今自生。故自以高為代。」と記しており、三品彰英は「高句麗の高をとって氏としたというが、句麗王が高氏を称したとする初見は『宋書』高句麗伝に『高句麗王高璉。晋安帝義熙九年』とある高璉(長寿王)である。広開土王(長寿王の父)一七年条に『春三月。遣使北燕。且叙宗族。北燕王雲遣侍御史李抜報之。雲祖父高和句麗之支。自云高陽氏之苗裔。故以高為氏焉』とあり、『三国史記』高句麗本紀のこの記事は『資治通鑑』より引用しているのである。すなわち高句麗王が高氏を称したのは北燕王の高氏に由来するもので、高句麗の高をとったものではない」と述べている[12]

2004年7月中国蘇州で開かれた第二十八回世界遺産委員会で、中国と北朝鮮の二物件として、北朝鮮側の高句麗遺跡群が世界文化遺産として正式登録された。同時に『人民日報』が「紀元前三十七年に、扶餘人である朱蒙西漢玄菟郡高句麗県で建国した高句麗は、時期の中国東北の少数民族政権であった」と報道したほか、中国各誌で「高句麗は中国領」という記事が掲載された[13]

百済の始祖の温祚生母中国人である。『三国史記』によると、百済の始祖の温祚の父は、高句麗の始祖の鄒牟あるいは朱蒙という[14]。『三国史記』百済本紀に、朱蒙卒本(朝鮮語版)夫余に至った際に越郡の娘を得て二子をもうけたとする記事がある[15]

或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」
— 三国史記、巻二十三

「二子」とは、温祚沸流のことであり、井上秀雄は「越郡」について、「中国浙江省紹興地方か」と注記している[15]。すなわち、浙江省紹興の娘が、遼寧省丹東市桓仁県に来て、朱蒙との間に、百済の始祖となる温祚沸流を生む。拝根興(陝西師範大学)および葛継勇(鄭州大学(中国語版))は西安出土の在唐百済人墓誌の釈文のなかで、亡命百済貴族に「楚国琅邪」を籍貫(中国語版)とする人物がいることを指摘している[15]山東半島から江南に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、中国沿海から東渡した集団、山東から遼東を経て朝鮮半島に到達したと考えられる集団と同じ行跡を辿った集団との関連性が指摘されている[15]

考古学的知見

高句麗建国後の発展過程において、漢人をはじめとする諸民族が高句麗に統合され、特に漢人の流入は高句麗社会の発展に重要な役割を果たすことになった。中国から高句麗に渡来した漢人は、渡来の理由が何であれ、次第に現地社会に溶け込み、高句麗の発展に貢献し、奴隷制から封建制への移行に重要な役割を果たし、高句麗人の重要な一員となった[16]

桓仁鎮から西北に3キロの場所にある下古城子土城からは、漢代文化に酷似した遺物が発見されている。1986年、下古城子土城から東へ10キロほど離れた高力墓子村で発見された鉄把は、撫順市蓮花堡遺跡や吉林省梨樹県二龍湖古城で出土した鉄把と酷似しており、年代は少なくとも漢代のものであり、出土した鉄把は漢式である[16]。歴史的記録によると、先史時代の部族時期に、早くも華夏族伏羲に代表される東夷と通婚していた。吉林省集安市にある高句麗3319墓は、墓前の南約9メートルのところの東西両側に、27メートル離れた大きな石が対称的に立っている。その東側に立っている、長さ104センチ、幅54センチ、厚さ109センチ、斜面を神道に向けて設置してある灰色堆積岩に半身人像が彫刻されており、その人身は「十」字文物符號の構造になっている。「十」字文物符號は、中国新石器時代の彩陶紋飾から、漢代銅鏡瓦当壁画の図柄に至るまで多くの文化遺物に残されている。例えば、「十」字文物符號は、紅山文化仰韶文化馬廠文化(中国語版)の彩陶紋飾や、江蘇省将軍崖岩画(中国語版)海西モンゴル族チベット族自治州内モンゴル綏芬河陰山の原始岩画、甲骨文字金文銅鏡壁画に普遍的に大量にみられる[17]美術学的には、「十」字文物符號は、上古時代華夏族が崇拝した万物神である太陽をあらわしている[17]王逸は、『楚辞』の注釈のなかで「高陽,是為帝『顓頊』」と記している。『山海経』海内経は、「黃帝妻雷祖,生昌意……生韓流……生顓頊。」と記している。考証によると、高陽氏は中国古代神話の伝説に登場する太陽神であることから、高句麗3319墓の太陽神は、高句麗人が崇拝した祖先神である高陽氏と推定される。『晋書』慕容雲載記は、「慕容雲字子雨,寶之子也。祖父和,高句麗之支庶,自雲高陽氏之後裔,故以高為氏焉。」とあり[18]、高句麗人慕容雲は、高陽氏の後裔であるがゆえに、「高」をとした。このことから、漢人が高句麗を構成する主要民族であったことが推察される[16]

楽浪郡が存在した平壌周辺では、貞柏里、石岩里、梧野里などで多数の漢墓群が発見されており、大同江にも漢墓群が多数発見されている。この地域の漢墓の総数は、1925年朝鮮総督府がおこなった調査によると1386基であり、漢人が高句麗に多く存在し、高句麗文化に大きな影響を与えたことを証明している[16]漢人が高句麗に入国した情況は、多くの史料に記録されている。後漢末期、戦争の混乱から逃れるために高句麗への亡命者がたくさんいた[19]。『三国史記』は、197年漢人が高句麗に亡命したことを重要事項として叙述しており、「(故國川王)十九年,(漢建安二年)中國大亂,漢人避亂來投者甚多。」と記録している。「来投者が非常に多い」とあるので、混乱期にから数万人が朝鮮に亡命していた[20]ことを鑑みると、その人数も数万人規模とみられる。217年、「秋八月,漢平州人夏瑤以百姓一千家來投,王納之,安置柵城。」と記録しており、漢人夏瑤が一千家の民と来投し、高句麗王がそれを受け入れ、柵城に安置している[21]

集安市の都城にある漢代土城遺跡からは漢代文化と関連する遺物が発見されている。鴨緑江右岸、渾河の東にある集安縣城の高句麗石城で発見された漢代土城遺跡の出土遺物の年代は戦国から漢代にかけてのものであり、土城の構造と形状は前漢のそれと酷似している。周辺では戦国刀銭布幣(中国語版)漢代五銖銭などが発見されている[22]時中郡豊清里33号墳では鉄斧鉄矛が発見されている[23]。時中郡深貴里73号墳からは絆釘が発見された[24]慈江道渭原郡で発見された遺跡からは鉄製の、鎬、シャムシール匕首などが出土した。これらの遺跡の遺物がもつ文化的意味合いは、紀元前3世紀から2世紀ごろのもので、いずれも漢文化に属し、漢人がこの地域で活発に活動していたことを反映している[22]

韓国での高句麗についての見方

韓国メディア東亜日報』は、韓国人が高句麗を韓国の誇らしい歴史として認識しているのは、「私たちの歴史のなかで、ほとんど唯一中国王朝と対立し、中国王朝と戦うことができた国家だから」と報じている[25]

李鍾旭(朝鮮語: 이종욱西江大学)は、高句麗中心史観を廃棄して、渤海も朝鮮史から除外しようと主張しており、「韓国人のルーツは、新羅正統性も新羅にある」「韓国人の姓氏など新羅出身が70%以上である」として、「高句麗と百済が私たちに残してくれた遺産はかすかな血筋と歴史記録だけ」と述べており、年中行事などの多くの遺産は新羅に起源をもち、新羅史を注目していないのは、自らの親を恥ずかしいとして隠す行為と同じであると主張している[25][26]

日本での高句麗についての見方

第二次世界大戦前の日本での研究

戦前に高句麗史・渤海史の研究を行った南満洲鉄道株式会社東京支社内に設置された満鮮歴史地理調査部やその事業を東京帝国大学文科大学で移管調査した研究者(白鳥庫吉箭内亙、松井等、稲葉岩吉池内宏津田左右吉瀬野馬熊和田清)は、高句麗人・渤海人は北方のツングース民族であり、今日の朝鮮民族の主流をなす韓族ではないと認識し、朝鮮古代史の中心を新羅と見て、満州を舞台に活動した高句麗や渤海などは「満州史」の一部であるという認識をしていた[27]

今西龍は、「而して特に注意すべきは檀君は本来 、扶餘・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶餘の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず[28]」と述べている。また、稲葉岩吉は「兎に角三国時代の三分の二は満州民族が此の領土に移住して当時の文化を植付けて居ったということは争われない[29]」と述べている。朝鮮総督府朝鮮史編纂事業によって刊行された『朝鮮史』には、渤海に関する記事はほとんど収録されていないが、その理由は、当時の日本人研究者の間において、渤海が朝鮮史ではなく満州史の一部と認識されていたためである[27]

朝鮮史編纂事業を行った朝鮮史編纂委員会の第1回編纂委員会で、その席上、李能和からの「渤海は何処へ這入りますか」という質問 に対して、稲葉岩吉は「渤海に就きましては新羅を叙する処で渤海及び之に関聯した鉄利等の記事をも収載する積りであります」と回答している[27]

今西龍は、1930年8月22日に開かれた朝鮮史編修会第 4 回委員会の席上、崔南善からの質問に答えて「渤海も朝鮮史に関係ない限りは省きます」と発言している[30]。また、戦前に刊行された朝鮮通史である稲葉岩吉矢野仁一の共著である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない[31]。執筆した稲葉岩吉は、高句麗人や渤海人や女真人といったツングース系満州民族である高句麗と百済を韓族である新羅が統一したと認識していた[30]

第二次世界大戦後の日本での研究

河上洋によると、高句麗は様々な異種族や亡命中国人集団などを含む複雑な社会であった[32]

矢木毅は、朝鮮北西部の箕子朝鮮衛氏朝鮮などが楽浪郡の支配を受け、箕子の末裔意識を有したまま漢人との同化が進む一方、北から高句麗が朝鮮に勢力を伸ばし、313年に楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部を領有してさらに南下の構えを示すと、南の韓族もそれに対抗して国家形成を進めたが、それが新羅百済であり、百済は高句麗に対抗するために高句麗の建国説話に百済の建国説話をつなぎ合わせ、高句麗と同様に自らを夫余の系統に位置づけた[33]。最終的に新羅が朝鮮初の統一国家となり、「朝鮮民族の歴史的・民族的な枠組みを定めた真に画期的な出来事であり、それによって今日につながる韓国・朝鮮の人々の『民族』としての枠組みがはじめて確立したといっても、決して過言ではないであろう」と述べる[34]。朝鮮を一つのまとまりとする国家や社会が成立したのは新羅の統一以後であり、朝鮮史は南の韓族による北進の歴史であり、現在の韓国の歴史学界が自明視する韓民族(朝鮮民族)という概念は、新羅の統一以後に段階的に形成されていった歴史的産物であり、高句麗にそのまま適用できない。それゆえ高句麗は「中国史」か「朝鮮史」かという二者択一は、「近代国家成立以前の領域に近代国家の領域観を押し付ける、極めて不毛な論争」と断じる[35]

高麗を建国した王建は、朝鮮の統一を進めるために女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために自ら高句麗の継承者を標榜し、高句麗にならって国号を高麗とし、北進政策を推進する[36]。しかし、高句麗・高句麗人継承意識は高麗だけでなく渤海人女真人にも受け継がれていた[36]。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである」と述べる[37]。19世紀後半になると朝鮮人が間島沿海州などに移り住むようになり、朝鮮がに対して間島の領有権を主張する[36]1885年1887年に朝鮮は清と国境画定の談判を行うが、領有権主張は受け入れられなかった[36]大韓帝国は、再び間島の領有を目指すが、日本による外交権接収によってその計画は頓挫した[36]1909年の日清間における間島協約1962年の中朝間における中朝辺界条約においても間島に対する領有権主張は受け入れられず[36]、これに対する不満は、国境画定に直接関与できなかった南側の韓国で顕著であり、このような不満が中国と韓国による「高句麗論争」の素地になった[36]

外山軍治礪波護は、高句麗は満州東部から朝鮮半島北東部に移動した貊族の一種であり、その貊族はツングースであるため「半島の南西部を領した百済、東南部を領した新羅と半島を三分しているが、高句麗は他の二国のように朝鮮民族の国ではない。」と述べている。そして、先住地はもっと西南方であり、その住地の関係から「蒙古系遊牧民混血」が生じたとしている[38]

三国史記』巻46巻崔致遠伝では、以下の記述がある。

伏聞 東海之外有三國 其名馬韓·卞韓·辰韓 馬韓則高麗 卞韓則百濟 辰韓則新羅也

古畑徹によると、馬韓=高句麗、弁韓=百済、辰韓=新羅とあり三韓を高句麗・百済・新羅に対応させる歴史意識が見られるが、「実際は、高句麗は韓族と関係なく」、この歴史意識は事実ではなく、別系統の民族である高句麗と韓族の新羅と百済とを同民族とみなす虚構の同族意識であると指摘している[39]。また古畑は、「高句麗人を自らのルーツのひとつと認識している韓国・朝鮮人だけでなく、を建国した満族などの中国東北地方の少数民族もその先祖はその領域内に居た種族の子孫であり、また高句麗・渤海の中核となった人々はその後の変遷を経て漢族のなかにも入りこんでいることが明らかである。したがって、高句麗・渤海とも現在の国民国家の枠組みでは把握しきれない存在であり、かつそれを前提とした一国史観的歴史理解ではその実像に迫り得ない存在」と評している[40]。ちなみに古畑は、北朝鮮学界の高句麗・渤海研究を「北朝鮮の高句麗・渤海研究が高句麗・渤海が中国史ではないという点のみに集中し、論証が自己撞着に陥り、学問的に非常に低い水準となってしまっている」と批判している[40]

河内春人は、「1979年韓国忠清北道で発見された、5世紀前半に立てたと考えられる中原高句麗碑では、高句麗が新羅王を『東夷の寐錦』と呼んでいる。この時期の新羅はまだ『』を名乗っていない。寐錦とは5世紀の新羅の最高首長の称号の一つであった。新羅で『王』を名乗るのは6世紀前半の法興王の時代になってからである。高句麗は新羅を『東夷』すなわち東の野蛮人と見なしており、高句麗を中心とした中華思想に基づいて新羅を夷狄視していた」と指摘している[41]

黄文雄は、「満州族先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている[42]。また、は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている[42]

井上直樹は、高句麗の帰属論争について、一国史的観点から脱却して東アジア史として捉えていく必要性があると述べている[43]

このことは高句麗史研究において、現在の国境ではなく、より大きな観点から高句麗史を理解することが必要であることを端的に示しているといえる。それならば、問題を多数内包しているものの、中国東北地方と朝鮮半島を区別することなく、一体的な歴史地理的空間として高句麗史を把握しようとする満鮮史的視座は、高句麗の史的展開過程を考究する上で、有効な視角の一つとおもわれる。それは高句麗の動向を今日の国家という枠組みを超えて巨視的に理解しようとする試みの一つでもある。今日の高句麗史研究が国境を基準とする一国史的史観にとらわれ論及された結果、冒頭で示したようにさまざまな問題を惹起していることを想起すれば、満鮮史的視座は一国史的史観を克服するものとして、再度、考究される余地があってもよいのではないかと考えられるのである。 — 井上直樹、帝国日本と“満鮮史”―大陸政策と朝鮮・満州認識、p229-p230

金光林は、高句麗は複数の民族・種族から構成された多民族国家であり、高句麗の故地の大半は唐が支配し、一部を新羅が支配した。高句麗人は唐によって中国内地へ移住させられ唐に吸収されたが、一部は新羅に吸収された。しかし、多くの高句麗人が故地に残り渤海などの諸王朝に吸収され高句麗人を継承した。中国の研究者が高句麗の「中国史」への編入を強調するのは、高句麗の故地が現代の中国に存在しており、高句麗人の多くが中国の民族に吸収されたこと、韓国・北朝鮮の学界が古朝鮮の領域を中国東北にまで拡大していることからくる中国東北に領土的野心を持っているという警戒感、現代の領土を統合する中国の多民族一体論が挙げられる[44]。一方、韓国と北朝鮮にも過剰な民族主義史学観、単一民族国家観が存在しており、韓国と北朝鮮において高句麗を中国との独立性を強調するあまり高句麗が中国の歴代王朝と密接に交流していた事実を軽視するのも問題とする[44][45]

武光誠は、「高句麗は騎馬民族の流れをひく国である。かれらは中央アジアと共通の文化をもっており、高句麗の支配層は満州族であった。のちに清朝を立てる人びとと高句麗とは系譜的につながっている。満州族は、あるときは中国の支配下におかれ、あるときは渤海などの独自の王朝のもとにまとまり、近代にいたった」と述べている[46]

松本雅明は、「満州族(夫餘の一派)が独立して、高句麗を建国した[47]」「その王族は夫餘高句麗と同じく満州族[48]」「北部から北朝鮮にかけて、満州族の高句麗がおこり[49]」と述べている。

奈良本辰也が編集した『日本歴史大辞典』には、「北方鴨緑江流域から南下しきた高句麗(満州族)のために滅ぼされた」と記述してある[50]

山田信夫は、「高句麗は漢以降中国王朝と対立することが多かったが、3世紀末には夫余に代わって勢力を伸ばし、南方、半島の韓族も圧迫して大国となった」と述べている[51]

藤田亮策は、「満州族たる高句麗人の馳駆する[52]」「其文化は六朝の夫れをうけ高句麗は満州人によって建てられた最初の大国である[53]」と記述している。

浦野起央は、「高句麗は、朝鮮半島とも漢民族の歴史とも関係のない異民族が建国した国家である。それを中国は、高句麗史を中国の地方政権の歴史として、韓国の歴史認識を封じ込めんとした」として、「高句麗が領土としていた朝鮮半島北部地域が中国人が建国した箕子朝鮮衛満朝鮮の故地であり、漢四郡楽浪郡臨屯郡真番郡玄菟郡)が所在した地域であることから、韓国・北朝鮮が歴史事実による檀君神話をもって建国ナショナリズムの発揚と接合して歴史認識を確認」し、「韓国は、建国神話と歴史事実を混同させつつも、現在の政治イデオロギーを抑え込もうとすることへの対決と走った」と述べている[54]

宮脇淳子は、「このドラマ(『太王四神記』)は済州島ロケをしていて、そのことが日本で大きく宣伝されたりしましたが、ドラマの舞台の大半は今の中国領の話なのです。談徳が本拠にする国内城も、現在の中国の遼寧省にあります。私がそう言うと驚く人が多いのですが、高句麗を舞台にした『朱蒙』や『太王四神記』は、実際は今の北朝鮮よりもさらに北方の話なのです。それを済州島でロケをしていることを強調するなどして、いかにも韓国につながるように印象づけています。国民国家史に沿ってドラマをつくるので、現在の韓国の歴史であるかのように描くしかないのがつらいところで、本気で史実を追求したら、韓国史はメチャクチャなことになる。端的に言えば、『外国』の話になるわけです。要するに、現在の韓国がある土地に住んでいた人々にとって、高句麗人は異民族だったのです。それを何とかして今の韓国に結び付けようとして、彼らは古朝鮮という国家を持ち出して正当化しようとするわけです。そのためドラマの中でも談徳に『昔は高句麗、百済、靺鞨鮮卑兄弟だった』などというセリフを言わせています。こんな理屈がまかり通るなら人類皆兄弟です。その点が大陸と地続きであることの宿命で、朝鮮半島史を書く時は本当に不自由なのです。われわれ歴史家からすれば、韓国史だけを切り離して語るなんてとても無理な話で、シナの歴代王朝ともつながっているし、モンゴルともつながっているし、さらに日本とも一体の話なのです。それを国民国家史に合わせるために、『あそこは切ってこの話だけにしよう』といったように描かざるを得ない。脚本家の縛りはすごく大変だろうなと同情します[55]」「そもそも実際には、『朱蒙』の時代に朝鮮民族という概念はありません。にもかかわらず、ドラマでは夫余までもが朝鮮民族がつくった国にされているのです。朝鮮人は歴史的に満洲人を見下してきましたが、高句麗は夫余から分かれた国で、その夫余は満洲で半農半牧の生活をしていた人々です。バカにしてきた民族を今度は自分たちの祖先だと誇るというのは、どう考えても自己矛盾でしょう。…韓国が高句麗を即自分たちの祖先とするのもかなり無理があるのです[56]」「歴史を遡ってみても、高句麗のように北から入ってきた人たちと、三韓時代に南にいた人たちが、韓国人が言うように本当に同族だったかは非常に怪しいと思います。だからこそ、李氏朝鮮の500年間を見ても階級が固定したままで、奴婢のように人権のない人たちがいる一方、両班はずっと両班であり続けたのだと思います[57]」と述べている。

夏川賀央は、「中国国東北部に住んでいた女真族は、朝鮮半島の高句麗や、満州の渤海、華北に進出した金など、たびたび国家を建国してきました」と述べている[58]

室谷克実は、中国の史書は「春秋の筆法」が基本で当たり前のことは書いていないため、「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」と述べている[59]

宇山卓栄は、「朝鮮半島には、目に見えない分断が元々、ありました。『血の分断』です。古代において、異なる血統の2つの民族が半島に住んでいました。北に住んでいたのが満州人、南に住んでいたのが韓人です。ソウルの南側を東西に流れる大河、漢江があります。大まかに言うと漢江を境にして、北側が満州人のエリア、南側が韓人のエリアでした。長い歴史の中で、この両者が混血し、朝鮮人となり、今日に至ります。韓人は朝鮮半島の南部から中部にいた農耕民族で、半島の中心的な原住民です。満州人は朝鮮半島の北部にいた狩猟民族で、中国東北地方の満州を原住地とします。満州人のエリアには高句麗、韓人のエリアには新羅任那百済が建国されました。古代において、満州人と韓人は南北で争っていました。この『血の分断』を中国の王朝は最大限利用し、朝鮮半島を巧みに支配しました。韓人というのは現在の韓国人の元となった民族です。では、満州人はいったいどういう人たちなのでしょうか。満州人は現在の中国領に属する満州を原住地とする人で、満州平野を中心に、遼東や朝鮮半島北部に分布していました。そのため、満州人は朝鮮人ではなく、中国人ではないのかと多くの人が疑問を持つと思います。17世紀に中国最大の王朝のを築くのも、この満州人です。満州人は中国から朝鮮半島に至るまで広範に分布しており、韓人よりも人口が多く、強大な勢力を誇っていました[60]」「満州人が最初に建国した王国が高句麗です。紀元前1世紀に、朝鮮半島北部に建国され、4世紀末から5世紀に最大版図に達し、満州人の分布エリア全体を国土としました。…満州は中国に属し、そこに暮らす『原満州人』たちも中国に属します。また、高句麗の国土の三分の二が現在の中国領です。このような観点から、中国は『高句麗は中国に属する』と主張しています。中国は朝鮮半島への支配を強化する正当性を歴史的な背景から得ようと企んでいます[61]」「日本としては、高句麗は朝鮮の歴史に属することを暗黙の了解にしています。その証拠に、日本の学校では、高句麗の歴史は朝鮮の歴史というカテゴリーで習いますし、教科書でも朝鮮史として記述されています。そのため、我々は『高句麗が百済や新羅と同じ朝鮮の王国』というイメージを強く持っています。しかし、中国が主張するように、民族の系譜で見てみれば、高句麗は必ずしも、朝鮮史に属するとは言えません。また、中国は百済も中国史に属するという主張をしています。7世紀の中国の史書『周書』や『隋書』では、百済の王族が満州人の一派の夫余族出身で、高句麗王族から派生したと記されています。このことから、中国は『百済は中国人の王国』と主張しています。百済の民の中には、中国の山東半島から移民してきた漢人もいましたが、そのほとんどは韓人であったと考えられます。高句麗が王族も民も満州人だったのに対し、百済は王族の始祖だけが満州人でした。その後の王は現地の韓人と混血し、同化していきます。『百済は中国人の王国』という中国の主張は言い過ぎでしょう[61]」と述べている。

鄭早苗は、「日本でも昨年からこの檀君が実在したというニュース在日韓国・朝鮮人の間でも話題になっている。今から四三二七年前に檀君が古朝鮮で即位したということは『東国通鑑』などで知られ、檀君は『三国遺事』ではじめて登場して以来、古朝鮮の開祖として親しまれ、今も韓国の新聞檀君紀年西暦と併記されているほどであるが、誰も実在の人物とは考えていなかったであろう。檀君陵の真偽はともかくとして、北朝鮮が国家的威信をもって公表した檀君実在説は、神話が形成される社会的状況と政権担当者の史観を検討する上で、現代の私達に示唆を与えているように思われる。北朝鮮の首都平壌は朝鮮民族史にとって古代から発展の中心であったとみなすことが、南北統一にとって必要な論理であると北朝鮮では考えられているのかも知れない。しかし文献から見れば、古朝鮮時代の民族構成だけでなく高句麗の民族構成も不明のままである。発掘されたという『檀君陵』のある平壌は高句麗第二の王都であった中国吉林省集安から四二七年に第三の王都として移され、六六八年に高句麗が滅亡するまで首都であっただけでなく、その後の韓国・朝鮮史のなかでも都市として重要な位置を占めてきた。高句麗や古朝鮮の地域はかつて東夷と呼ばれて来た所で、夫余挹婁粛慎東沃沮辰韓弁辰馬韓加羅百済新羅等多くの民族や国が存亡してきた複雑な歴史が記録されている。文献では檀君伝説は十三世紀末の『三国遺事』以前の記録がないため、いわゆる檀君朝鮮は東夷伝のなかには含まれず、韓国・朝鮮史は箕子朝鮮衛満朝鮮から始まり、漢の四郡の時代から玄菟郡下の県名のひとつとして高句麗の名称が記載され、その後、高句麗の建国から三国時代に入っていく。朝鮮半島中南部の百済、新羅は韓族が主たる住民であったと考えられるが、高句麗は多民族が雑居し、また王系も夫余系であるなど複雑である」と述べている[62]

申瀅植『梨花女子大学コリア文化叢書 韓国史入門』には以下のような文章がある[63]

韓国民族は70万年前の旧石器時代から新石器・青銅器時代へと移り、古代国家を成立させて以後、現在まで東アジアの主役として堂々と固有の歴史を守り続けてきた。特に、古代社会で韓民族は満州大陸を支配しながら中国の東進を防ぎ、近代に入り一時期日本の支配を受けたものの最後まで民族の独自の文化を守り続けてきた。…他の国を侵略した事がない平和を愛する民族である。…満洲で建国した古朝鮮を受け継いだ高句麗と渤海は満洲を支配した東アジア最大の国家だった。 — 申瀅植、梨花女子大学校コリア文化叢書 韓国史入門、p4

この申瀅植『梨花女子大学コリア文化叢書 韓国史入門』に対して、倉山満は、「お国自慢をはじめてしまうのです。『侵略した事がない』と『支配した』に矛盾を感じなかったのでしょうか」「実証主義の歴史専門家からすると、考古学歴史学政治的宣伝が混在していて頭が痛くなります。あえてひとつだけ挙げるとすると、韓国人への啓蒙書なので冒頭は『韓国民族』で始まるのですが、途中の『韓民族』は大韓民国とは無関係です。むしろ、今の北朝鮮の領域の人たちのご先祖さまです。もっと正確に言うと、朝鮮北部と満洲を支配したのがKorea民族であるかは、かなり疑問です」「韓国人は平気で、高句麗や渤海を朝鮮民族に分類し、日本人も言われるままに信じています。しかし、高句麗も渤海も満洲人です。より正確に言えば、満洲から現在の極東ロシアや北朝鮮までに広がって混住・混在・混血している人たちです。少なくとも『純粋Korea人』でないことだけは確かです。中韓の間で、『高句麗は中国か朝鮮か』という歴史論争がありますが、『どちらでもない』が正解です。『今我々が住んでいるところに昔住んでいた人たちの領土は、我々のものだ』という思想を、ナチズムと言います。現在の国境からさかのぼって過去の歴史を考えてはいけません」「高麗とは高句麗の別名です。高句麗は、前述のように朝鮮北部と満洲を勢力圏としていました。のどの民族であるかなど、完全に区切ることはできません」と批判している[63]。また、渤海を「渤海(のちの満州人)」として、「は渤海(のちの満州人)との対立と新羅の謀反で日本どころではなくなります。ついでに言うと、韓国人はこの渤海の歴史も韓民族の歴史に組み込んでいます。渤海の侵略を防いだり、渤海の栄光を誇ったり、忙しいのが韓国人の歴史観です」と批判している[64]

横田安司は、韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化における民族主義史学以降であるため、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している[65]。戦後になると石井正敏をはじめとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。また戦後、満鮮史を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている[66][67]

東京大学社会科学研究所のグレゴリー・ノーブル教授は、高句麗が中国との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に根拠がないわけではない、と述べている[68]

現在の日本の教科書では、高句麗は中国史でもなく朝鮮史でもなく、東アジア世界という地域史として扱われるが[69]、「高句麗や渤海といった古代国家を現在どの国の歴史と見なすかは、複雑な問題だ」という記述の教科書もある[70]

田中俊明は、3世紀朝鮮半島の高句麗・沃沮・濊・の諸民族が併存している様相だけでも、朝鮮半島内の民族が同一民族とは考えられず、そのような意識は存在せず、特に高句麗と韓は、およそ同種とは考えにくく、百済には、始祖が高句麗王から分派した、高句麗と同じ扶余から出た、という百済・高句麗の同源・同族意識を主張しているが、それを歴史的事実とする必要はなく、百済は韓族であり、高句麗とは異民族であり、例えば、広開土王碑には、百済から獲得した領土や人民を「新来の韓濊」と記述しており、高句麗は百済を韓族と認識していた。高句麗による民族識別は代にも残り、中国からの「晋率善濊伯長印」「晋率善高句麗仟長印」の印面を拒否しなかったこと、高句麗が扶余を領土を奪取した際に、「北扶余守事」を派遣したことから、高句麗による扶余支配は異民族統治であり[71]中原高句麗碑には、新羅を東夷と表現しており、新羅王は寐錦の王号で称され、百済王は主と称されており、広開土王が自らの陵を韓・濊から徴発して守らせるように遺言しており、高句麗王の世界観では、新羅・百済を同族と意識することはなく、広開土王碑には、百済・新羅・伽耶・東扶余と倭・稗麗が区別されていることを以て、高句麗と百済・新羅・伽耶・東扶余を同族と認識していたという主張があるが、区別自体が明確ではなく、それが同族認識とどのように関連するのか分からず、分かるのは高句麗が百済を異民族の韓族と認識して属民とみなす認識だけであると述べている[72]

中国での高句麗についての見方

中華人民共和国教育部出版社高等教育出版社(中国語版)が発行している中国の歴史教科書『世界古代史』は、古朝鮮、高句麗、夫余朝鮮の歴史ではなく、朝鮮の歴史のはじまりは統一新羅であるとの主旨で記述し、注釈で「高句麗は当時、中国東北部に存在した少数民族政権であった」と記している。中華人民共和国教育部出版社高等教育出版社(中国語版)が発行している中国の歴史教科書『中国歴史』は、「高句麗は漢代以降、中国の領域であるとみなされた」と記している。中国の大学で使用している福建人民出版社(中国語版)発行の歴史教科書『中国古代史』は、「夫余、高句麗、沃沮濊貊は、中国・漢代の東北地区の少数民族であり、高句麗の先祖は中国の昔の民族である高夷である」と記述している[73]

中華人民共和国国営出版社人民出版社が発行している中国の大学歴史教材『世界通史』は、三国時代から高句麗を除外し、三国時代を「新羅百済伽耶」と規定、「武帝は、衛氏朝鮮を滅ぼした後、その領土に郡県制を施行した。辰国が衰弱して分裂後、新羅、百済、伽耶の三国が形成された」と記述、高句麗を「玄菟郡管轄下の中国少数民族であり、紀元前37年の政権樹立後、魏晋南北朝にいたるまで全て中原王朝に隷属した中国少数民族の地方政権」と記述、唐・新羅戦争を「中国の地方政権である高句麗が分裂傾向をみせると、中央政府である唐が単独で懲罰し、直轄領とした」と記述している[74]

識者の見解

高句麗

  • セルゲイ・シロコゴロフ(英語版)「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている[75]
  • 白鳥庫吉「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう[76]
  • 井上秀雄「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう[77]
  • 加藤九祚「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている[78]
  • 鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国[79]
  • 浜田耕策「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである[80]
  • 村山正雄「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名[81]
  • 佐々木史郎「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている[82]
  • 護雅夫「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族[83]
  • 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族[84]
  • 黄文雄「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である[85]」「そもそも高句麗も渤海国もツングース系の国家であった。女真人や満州人の国家が中国に滅ぼされたあと、清が消えてから、かつてのツングース・女真系の国々は支那と朝鮮のどちらの歴史に属するのか争うことになり、支那は正統なる相続人として、中国一八省以外に満州の地を東北三省として蒙古、新疆、西蔵をも相続し、中華民国から人民共和国の『絶対不可分の神聖なる固有領土』と主張したいのである。コリアは第二次世界大戦後、南北に二分したものの、旧高句麗や渤海の一部だった(北)朝鮮の地を国史(国定官史)にし、牝熊やタマゴという伝説からコリア人の祖先の地と主張するのも、近代国家としての領土観からすれば、実際『キリがない』の一言に尽きる[86]
  • 長野正孝「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった[87]
  • 宮家邦彦「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した[88]
  • 豊田隆雄「高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家[89]
  • 薗田香融「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗[90]
  • 埴原和郎「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている[91]
  • 酒井忠夫「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)[92]
  • 渡部昇一「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである[93]
  • 三上次男「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる[94]
  • 青木慶一「オロッコ - ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った[95]
  • 成瀬治「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族[96]
  • 沖浦和光「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします[97]
  • 白崎昭一郎「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう[98]
  • 水野祐「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている[99]
  • 小島直記「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句麗と、そして漢民族の移民とが住んでいたという[100]
  • 外山軍治礪波護「高句麗を建てたのは、古くから満州東部から朝鮮半島の北東部に移り住んだ貊族の一種である[101]」「貊族はツングース系統に属する[101]
  • 佐々木高明「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている[102]
  • 田中俊明八世紀突厥のいわゆるオルホン碑文キョルテギン碑文とビルゲ可汗碑文)に、七世紀なかばに死んだ突厥可汗葬儀に東方のボクリ(bokli)からの使者が参列していることや、突厥軍がボクリにまで遠征したことが記されている。これについて護雅夫は『bok eli』と読むべきで、 高句麗を指すことはまちがいないが、『貊の国』を意味するものであろう、とした。それに従えば、突厥も、高句麗を貊族の国と称したことになる[103]
  • 村上四男「高句麗の国都が鴨緑江辺の丸都から大同江畔平壌に移ったのは長寿王代427年のことであるが、広開土王の没後まもなき414年に建立された広開土王碑に見られる始祖伝説や、さらに長寿王代の高句麗人が北魏に使した時に、かの地において物語ったところを、そのまま伝えたと思われる『魏書』高句麗伝に記載されている始祖伝説をば、後漢王充が著わした『論衡』や、魚豢が著わした『魏略』に引かれている旧志の始祖伝説と比較検討すれば、高句麗の始祖神話は元来はツングース系の感精型であったのが、5世紀入って南方系の卵生型に加え、いわゆる複合型に発展していったことが知られる。高句麗は小獣林王代に中国から仏教を受けいれ、また律令を採用し太学を建てて国家組織を整えたが、広開土王代には国勢が飛躍して、その領土は南方では漢江流域におよび、さらに長寿王代には百済を打倒して漢江流域を確保し、満洲では遼東を占領した。かくて高句麗国はまったく農業国家と化した。この王代に高句麗が南方型の卵生神話を採り入れたのは、卵生神話を奉ずる韓民族(すなわち農耕民族)の地を支配するようになった政治的背景の生じたことに由来したのである[104]
  • 布目潮渢山口修「ところで公孫氏はほろびたものの、鴨緑江の中流域には、高句麗の国がある。ツングース系の民族が建てた国であった[105]
  • 宇山卓栄「朝鮮の歴史書『三国史記』によると、扶余の王族朱蒙紀元前37年に高句麗を建国したとされます。さらに、扶余族は南方に拡散し、朝鮮半島南西部に百済を建国します。7世紀の中国の史書『周書』や『隋書』では、百済の王族が扶余族出身で、高句麗王族とも血縁関係があったことが記されています。百済の都は当初、ソウルを流れる漢江の南の漢城に定められました。その後、高句麗に圧迫されて、475年、南の錦江中流の熊津、つまり現在の公州に遷都し、更に538年に、錦江下流の泗沘に遷都しています。泗沘は新羅時代の8世紀半ばに、彼らの民族名を偲び、『扶余』と名付けられて、今日に至ります。百済の最後の都の扶余は百済歴史遺跡地区として、2015年世界遺産に登録されています。高句麗や百済の歴史からもわかるように、古代朝鮮半島はツングース系の扶余族によって支配されていました。扶余族は濊や貊から派生した部族であり、これが朝鮮人のルーツであると言うことができます[106]

渤海

  • 森安孝夫「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家[107]
  • 和田萃「【渤海】7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された[108]
  • 藤本和貴夫「【シベリア】7世紀~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた[109]
  • 黄文雄「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である[85]
  • 佐々木史郎「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている[82]
  • 安藤達朗「7世紀に満州で建国したツングース族の渤海は、唐や新羅に対抗するため、727(神亀4)年に朝貢してきた[110]
  • 田村実造「渤海人はもともとツングース系の狩猟民である[111]
  • 渡部昇一「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである[93]
  • 埴原和郎「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている[91]
  • 中国研究所「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある靺鞨族により創建された渤海国[112]
  • 今西正雄「遼の契丹族に遂はれたツングース系渤海の後身で女眞族[113]
  • 佐々木高明「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている[102]

脚注

  1. ^ 金芳漢 『韓国語の系統』三一書房、1985年11月1日。 ISBN 978-4380852312 
  2. ^ 田中俊明 『朝鮮地域史の形成』岩波書店〈世界歴史〉、1999年、156頁。 ISBN 978-4000108294 
  3. ^ “유화부인 柳花夫人,?~?”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210825225652/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000865259 
  4. ^ “하백 河伯”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210825230752/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000761986 
  5. ^ “하백(河伯)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210825232039/http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/SearchNavi?keyword=%ED%95%98%EB%B0%B1&ridx=0&tot=8 
  6. ^ 金光林 (2014年). “A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names” (英語) (PDF). Journal of cultural interaction in East Asia (東アジア文化交渉学会): p. 30. オリジナルの2016年3月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160327222247/http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf 
  7. ^ “三國史記 卷第二十八 百濟本紀 第六”. 国史編纂委員会. オリジナルの2017年9月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170906135037/http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&itemId=sg&synonym=off&chinessChar=on&position=0&levelId=sg_028_0020_0430 
  8. ^ “三國史記 卷第十八 髙句麗本紀 第六”. 国史編纂委員会. オリジナルの2017年9月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170906134738/http://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&setId=2&prevPage=0&prevLimit=&itemId=sg&types=&synonym=off&chinessChar=on&levelId=sg_018_0050_0170&position=1 
  9. ^ “의자왕 義慈王”. 韓国人文古典研究所. オリジナルの2021年8月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210829203730/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642804&mobile=&cid=49615&categoryId=49800 
  10. ^ “광개토왕 廣開土王”. 韓国人文古典研究所. オリジナルの2021年8月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210829205717/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642754&mobile=&cid=49615&categoryId=49799 
  11. ^ a b “"고구려는 조기 중국의 소수민족정권입니다.””. 京郷新聞. (2014年10月8日). オリジナルの2021年10月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211014140335/https://www.khan.co.kr/culture/culture-general/article/201410081001581 
  12. ^ 三品彰英 『三国遺事考証〈上〉』塙書房、1975年1月1日、392-393頁。 
  13. ^ 中村修也「『日本書紀』編纂と亡命百済知識人」『歴史読本』第51巻第3号、新人物往来社、2006年2月、 173頁。
  14. ^ 豊田有恒 (2001年3月30日). “魏志「東夷伝」における原初の北東アジア諸民族に関する論攷”. 北東アジア研究 1 (島根県立大学): p. -100-101. http://id.nii.ac.jp/1377/00001456/ 
  15. ^ a b c d 伊藤英人 (2021年7月). “濊倭同系論”. KOTONOHA (古代文字資料館): p. 12 
  16. ^ a b c d 『高句麗人口中的漢族構成小考』每日頭條、2014年8月27日。 
  17. ^ a b 何新 『中國遠古神話與歷史新探-十子圖紋與中國古代的日神崇拜』黒龍江教育出版社、1989年。 
  18. ^ 『慕容雲載記』中華書局〈晋書 巻124〉、1975年、3108頁。 
  19. ^ 孫文范 『三國史記』吉林文史出版社、2003年、202頁。 
  20. ^ 礪波護武田幸男 『隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社〈世界の歴史 6〉、1997年、266頁。 ISBN 978-4124034066 
  21. ^ 孫文范 『三國史記』吉林文史出版社、2003年、205頁。 
  22. ^ a b 姜孟山 『試論高句麗族的源流及其早期國家』〈朝鮮史研究〉1983年。 
  23. ^ 朝鮮社会科学院歴史研究所 編 『朝鮮全史』〈第一巻〉1985年、58頁。 
  24. ^ 朝鮮社会科学院歴史研究所 編 『朝鮮全史』〈第三巻〉1986年、4-6頁。 
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参考文献

関連項目