第二次世界大戦
第二次世界大戦 | |
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左上:万家嶺の戦い 右上:エル・アラメインの戦い 左中:スターリングラード攻防戦 右中:ドイツ空軍の爆撃機 左下:無条件降伏するドイツのヴィルヘルム・カイテル 右下:フィリピンの戦い | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1939年9月1日 - 1945年9月2日 | |
場所:ヨーロッパ、アジア、太平洋、中東、北アメリカ、アフリカ等 | |
結果:連合国側の勝利。 | |
交戦勢力 | |
連合国 | 枢軸国 |
指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
各国軍隊、民間人 | 各国軍隊、民間人 |
損害 | |
犠牲者 軍人1700万人 民間人3300万人 (諸説有り) | 犠牲者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説有り) |
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第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英: World War II、略称:WWII)は、1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)までの6年余りにわたって続いたイギリス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦、中華民国、フランスなどの連合国陣営とドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営との間で戦われた戦争で、第一次世界大戦以来の世界大戦となった。
概略
1939年8月23日の独ソ不可侵条約と付属の秘密議定書に基づいた、1939年9月1日に始まったドイツ軍によるポーランド侵攻と同年9月17日のソビエト連邦によるポーランド侵攻が発端であり、終結後の2019年に欧州議会で「ナチスとソ連という2つの全体主義体制による密約が大戦に道を開いた」とする決議が採択されている[1]。そしてイギリス・フランスによるドイツへの宣戦布告により、ヨーロッパは戦場と化した。
その後、以前から日中戦争を戦っていた日本の1941年12月8日のマレー作戦による、イギリスやオランダの東南アジア植民地地域とオーストラリアへの攻撃。そして同日に行われた真珠湾攻撃によるアメリカとの開戦により、いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦した。これを皮切りに、交戦地域は全世界へと拡大し、人類史上最大の戦争となった。
この戦争は当初枢軸国軍が優勢を保ったが、1942年中半にはヨーロッパ戦線で、1943年中半にはアジア太平洋戦線で連合国軍が反攻に転じ、1945年5月にドイツが敗北、枢軸国陣営で最後まで抗戦していた日本が1945年9月2日に降伏文書に調印したことで、終結した。また、1945年8月には原子爆弾のリトルボーイが広島に、ファットマンが長崎に投下され、核兵器の運用が行われた史上唯一の戦争となった。
参戦した国
枢軸国とは1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。一方、連合国とは枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。また、日本と中華民国のように、第二次世界大戦前より戦争状態(1937年に始まった日中戦争。アメリカも義勇軍という形で事実上参戦していた[注釈 1])を継続している国もあった。
全ての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。しかし1943年にイタリアが降伏し、大戦末期の1945年には、占領地を除いた国家の大部分が連合国側に立って参戦した。
枢軸国の中核となったのは参戦順に日本、ドイツ、イタリアの3か国で、連合国の中核となったのは中華民国、ソビエト連邦、イギリス、フランス、アメリカ合衆国の5か国である。また、イタリアなどのように、連合国に降伏した後、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国と呼ばれ、連合国の一員とは見なされなかった。
戦域
第二次世界大戦の戦域は、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一帯(欧州戦線)と、東アジア・東南アジアと太平洋・北アメリカ・オセアニア・インド洋・東南アフリカ全域の一帯(太平洋戦線)に大別される。
欧州戦線ではドイツ、イタリアなどを中心にイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いが、太平洋戦線では日本などを中心にイギリス、アメリカ、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなどとの戦いが繰り広げられた。
欧州戦線はドイツやイタリアを中心とした枢軸国とイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、カナダ、アメリカ、ブラジルなどが戦った西部戦線および北アフリカ戦線と、同じくドイツやイタリアを中心とした枢軸国とソ連が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。
太平洋戦線は連合国により太平洋戦争と呼称され(日本側の呼称は「大東亜戦争」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカ、ニュージーランドなどが太平洋の島々とアラスカやハワイを含むアメリカやその領土のフィリピン、カナダなどで戦った太平洋戦域、オランダ領東インドやイギリス領マラヤ、フランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカ、フランスなどが戦った南西太平洋戦域、イギリス領ビルマやイギリス領インド帝国、イギリス領セイロンやフランス領東アフリカで日本がイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどと戦った東南アジア戦域、そして中国大陸などで日本や満州国が中華民国とアメリカ、イギリスなどと戦った日中戦争に分けられる。
しかし、これら以外に中東や南米、中米、カリブ海、アリューシャン列島、アラスカなどでも枢軸国と連合軍の戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的、物的資源の全面的な動員、投入が行われた。当時の独立国のほとんどである世界61か国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
比較
第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦ではあったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦とケーブル切断、戦艦を主体に展開されたが、第二次世界大戦では無線通信と空母を用いた機動戦の結果、戦線が拡大した。また、無線は電信と違い敵に傍受されるため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果がもたらされた[2]。
使用された兵器には、著しく発達した航空機や戦車、潜水艦などに加え、レーダーやジェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾つまり核兵器という大量破壊兵器がある。
被害
総力戦も航空機の発達により、第一次世界大戦より徹底された。この戦争では主に航空機の進化により戦場と銃後の区別がなくなり、民間人が住む都市への大規模な爆撃や人類史上初の原子爆弾投下により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、戦争と並行して、自国および占領地でユダヤ人・ロマ・障害者の組織的大量虐殺を進めた。これはホロコーストと呼ばれる。これらによる大戦中の民間人の死者は、総数約5500万人の半分以上の約3000万人に達した。
また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1200万人のドイツ人が追放され[3]、その途上で200万人が死亡している[3]。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制収容が行われた。またアジア、太平洋、オセアニア、アメリカなどでは日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。
戦後
戦争中から連合国では、国際連合の設立など戦後の秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパと日本では戦後の国力は著しく低下しており、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出して大きくなった。この両国は戦後世界に台頭する超大国となり、覇権争いで対立し、その対立は1990年代に至るまでの長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。
第二次世界大戦の結果により、アジア、アフリカ、中東、太平洋諸国で欧州の植民地であった地域では、白人諸国家に対する民族自決そして独立の機運が高まり、大戦終結後数年から十数年後に多くの国々が独立した。その結果、大航海時代以来の欧州列強の地位は著しく低下した。
こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦中の対立を乗り越え、さらに1990年代まで続いた冷戦を超えて欧州統合の機運が高まった。
経過(全世界における大局)

1939年9月1日早朝 (CEST)、ドイツ国とスロバキア共和国がポーランドへ侵攻。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もドイツの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。ソ連はこの侵略行為を非難され、国際連盟から除名された。
1940年3月に、ソ連はフィンランドからカレリア地峡などを割譲した。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはデンマーク、ノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐した。さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行ったが、大損害を被り(バトル・オブ・ブリテン)、その結果9月にヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始める。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。
1941年にドイツ軍はユーゴスラビア王国やギリシャ王国などバルカン半島、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻した。6月にドイツはソ連への侵攻を開始した(独ソ戦)。これによりドイツによる戦いは東方にも広がったため、戦争はより激しく凄惨な様相となった。日中戦争で4年間戦い続けていた日本は、12月8日午前1時(日本時間)にイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカのハワイも奇襲し(真珠湾攻撃)勝利を収める。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、世界大戦となる。日本軍は12月中に早くもイギリスの植民地の香港やアメリカのグアムを瞬く間に占領し、アメリカ西海岸で通商破壊戦を開始した。
1942年に入っても戦勝を続ける日本軍は、イギリスの植民地のマレー半島一帯やビルマ、オランダ領東インド、アメリカの植民地のフィリピンを占領した。さらに日本軍による本土への空襲や砲撃を数度に渡り受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本陸軍上陸対策を検討するほどになった。同時期のドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。しかし日本軍は勢いを増しインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカル島まで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。日本軍は6月にミッドウェー海戦で敗北するものの、同月にアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領しアメリカ領を初占領した。9月にアメリカ本土への空襲を数回にわたり行うなど勢いを増した上に、アメリカ海軍も各地で日本軍との戦いで敗北を続け、年末には稼働空母が皆無になるなど各地で勝ち進んだ。
1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、また各地でイギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、中盤になるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。またインド洋では日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍の共同作戦が活発になるが、イタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。ヨーロッパ戦線においては同年には枢軸国が完全に劣勢となり、ドイツは2月にスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄。1943年7月に敗色が濃い中イタリアのベニート・ムッソリーニは失脚し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国(サロ政権)が北イタリアを支配する状況になる。また日本軍はガダルカナル島の戦い[4] で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて延び切ったため、同年後半には勢いを失い以降劣勢となり、日本軍はついに11月にオーストラリア本土への空襲を中止する。
1944年にイギリス軍が日本軍にビルマでインパール作戦に勝利し、イギリス領インド帝国への侵略を阻止した。6月に行われたマリアナ沖海戦でアメリカ軍が勝利するなど連合軍の勢いがさらに増した。これに対し7月に日本陸軍が中華民国軍とアメリカ軍に対して中華民国内で行った大陸打通作戦でかつてない大勝利を収めたが、大勢には変わりなかった。ヨーロッパの連合軍はついにフランスに上陸し、マーケット・ガーデン作戦など勝利を重ねオランダ、ベルギーなどを開放した。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では8月のサイパン島陥落後、日本本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となる。10月に行われたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗北を喫するなど勢いは完全に連合軍に傾いた。冬にはアメリカ軍によるフィリピンへの再上陸と、小規模ながら日本本土への空襲が始まった。
1945年初頭に日本軍はフランス領インドシナに侵攻し(明号作戦)これに成功したが、もはや劣勢を変えるには至らなかった。連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、同政権は崩壊しイタリア社会共和国も崩壊、ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏しヨーロッパ戦争は終結した。日本も5月以降連日アメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権をほぼ失った。さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし6月の沖縄戦で初めて国土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態にようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾。15日に玉音放送で降伏を全国民に伝える。連合国は多くの将兵や武器を残した日本への上陸を慎重に進め、降伏から2週間後の28日に初上陸し、9月2日に降伏文書に両軍が調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。
背景(欧州・北アフリカ・中東)
ヴェルサイユ体制とドイツの賠償金
1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日に同条約が発効、ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領域の一部を喪失し、それらは民族自決主義の下で誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領域に組み込まれた。
しかしそれらの領土では多数のドイツ系人種が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土は全て没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約により巨額の賠償金が課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとなった[5]。
1921年、賠償の総額が1320億金マルクに定められた。1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると[6]、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行[6]。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した[7]。これによりハイパーインフレが発生し、軍事力のないドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[6]。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。
国際連盟設立
第一次世界大戦の戦勝国のイギリス、フランス、大日本帝国、イタリア王国といった列強が、常設理事会の常任理事国となり1920年に国際連盟が作られた。講和会議後に締結されたヴェルサイユ条約・サン=ジェルマン条約・トリアノン条約・ヌイイ条約・セーヴル条約の第1編は国際連盟規約となっており、これらの条約批准によって連盟は成立した。
戦勝国は現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、戦勝国のアメリカの当初の不参加や、新興国のソビエト連邦や敗戦国のドイツの加盟拒否によってその基盤が当初から十分なものではなく、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。
モンロー主義の動揺
ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資を共にしてフランスとの関係が深まった。
そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、主にカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、限時法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。
欧州大陸でのドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。
共産主義の台頭
ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これの阻止を狙った欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した[8]。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1450万人が命を落とし(ホロドモール)[9]、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務人民委員部 (NKVD) と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。
旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばす。
ヴェルサイユ体制下の安定
戦勝国のイタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気により政情が不安定化した。このような状況でイギリスの支援[10] により勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。しかしこの頃のムッソリーニとファシズム体制は、イギリスやアメリカなどでも「新しい流れ」だと期待され、チャーチルさえも大いに絶賛した。
同じく戦勝国の日本では議会制民主主義化が進み、1918年9月、日本で初めての本格的な政党内閣である原内閣が組織された。「平民宰相」と呼ばれた原敬は1921年に暗殺されたが、その後1922年に日本はワシントン海軍軍縮条約に調印し、1923年には、四カ国条約の成立に伴い日英同盟が発展的解消された。1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入された。政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「大正デモクラシー」の興隆の中で外相幣原の推進する国際協調主義が主流となり、このまま議会制民主主義が浸透していくかに見えた。
一方、敗戦国のドイツでは、破滅の底に落ちたドイツ経済はルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、戦勝国のアメリカやイギリスなどの資本も入り、一応は平静を取り戻し相対的安定期に入った。1925年にロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。
世界恐慌

しかし、1929年10月24日から起きた一連のニューヨーク証券取引所、ウォール街から世界に広がった大暴落を端緒とする世界恐慌は、このような世界の状況を一変させた。
ニューヨーク証券取引所1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多かった。アメリカは1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。また1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況であった。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれた。
世界恐慌を受けて英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中頃になってからであり、それまでに資金が世界中から引き上げられ、1929年から1932年の間に世界の国内総生産は推定15%減少し、アメリカの失業率は23%に上昇し、一部の国では33%にまで上昇した。恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴となった。
ファシズムの選択

第一次世界大戦で戦勝し列強となった国のうち植民地を持っていなかった国では、世界恐慌のあおりを受けて植民地を獲得すべく海外へ侵攻し、その結果軍事が権力を持ち、軍事独裁政権への移行が見られるようになる。
ファシスト党のムッソリーニ率いるイタリアは、1935年に植民地を獲得すべくエチオピアに侵攻し、短期間の戦闘をもって全土を占領した。
敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対して全土を占領したイタリアは、イタリア王兼アルバニア王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国させた。結果として国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だが、イタリアに対して実効的ではなかった。第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国に侵攻したイタリア王国は1937年に国際連盟を脱退した。

金解禁によるデフレ政策を採っていた日本の状況も深刻だった。大恐慌により失業者が激増した(昭和恐慌)。さらに黄禍論が渦巻くアメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌と人種差別による打撃を受けてしまう。そのような中で、イタリアやドイツ同様解決策を海外へと向けた日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ1932年(昭和7年)3月1日、満州国を建国した。満州国を主導する関東軍は陸軍中枢の言うことを聞かずなすがままにされた。翌年には国際連盟を脱退、さらに日中戦争が勃発するなど軍の暴走が止まらず、中華民国に利権を持つイギリスやアメリカ、イタリアからも大きな反発を食らった。
さらに既存の政党政治や議会制民主主義に不満を持つ軍部の一部が起こした「五・一五事件」や「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰された。これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、軍部のプレッシャーから広田弘毅内閣時に軍部大臣現役武官制を再度導入し、その後の近衛文麿政権とともに政党政治を基にした議会制民主主義がわずか20年にも満たないまま終焉を迎える。
第一次世界大戦の敗者で、総額が1,320億金マルクと到底支払うことができないと思われた賠償金の支払いを続けながら、アメリカの資金で潤っていたドイツでも失業者が激増した。
政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、つまり大恐慌下においても第一次世界大戦の莫大な賠償金の支払いを続けることに対する反発と、さらに反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた[11]。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1932年、その時点でのドイツの支払い額は205.98億金マルクに過ぎなかったが、国際社会の援助により、賠償金の支払いはようやく一時停止されることとなった。
1933年1月にナチ党は、民主的選挙でドイツ国民の圧倒的な支持を得て政権獲得に成功。ナチ党はその後全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。英仏米など列強は圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦を牽制する役割をナチス政権下のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整え始めた。イギリスはドイツと英独海軍協定を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にラインラント進駐を強行。これによりロカルノ条約は崩壊した。
日本とイタリア、ドイツは、イギリスやフランス、アメリカなどと違い、莫大な富と雇用を生み出す植民地をほとんど持たず、国外進出は国際連盟を脱退または国際連盟からの経済制裁を浴びることとなり、孤立し、共通点を持つ3国は急接近を始める。
ドイツに対する宥和政策とその破綻
これらに対し国際連盟は効果ある対策を採れず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年に日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。
ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、周辺国でドイツ人居住者が多い地域のドイツへの併合を要求した。
1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝によりオーストリアを併合。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、英首相ネヴィル・チェンバレンと仏首相エドゥアール・ダラディエは、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。
しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。
勃発直前
ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。
4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約 (en) を結ぶことでこれに対抗した。
1939年夏、アメリカの大統領ローズベルトは、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した[12]。
独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。
経過(欧州・北アフリカ・中東)
1939年9月1日、ドイツ国軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスでは首相チェンバレンがベルリンの大使館経由で呼びかけたものの、ヒトラーからの返事がないことを理由に、またフランスも9月3日にドイツに宣戦布告した。ポーランドは独ソ両国により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため国際連盟から非難・除名されたが[13]、1940年3月にフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国に1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。
ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日にドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月にドイツ空軍機がイギリス本土空爆を開始したが、航空戦(バトル・オブ・ブリテン)で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。
1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月、北アフリカ戦線でドイツ・イタリア両軍が敗北。9月にイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。
1944年6月にフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。
1939年
9月1日早朝 (CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。
ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた(偽旗作戦)。
ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。
ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。
一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。

一方ヒトラーも、英首相ネヴィル・チェンバレンと仏首相エドゥアール・ダラディエはそれまで宥和政策を行っていたため、宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。
9月3日までにアイルランド、オランダ、ベルギー、アメリカは中立を宣言した[14]。

国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。
ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵が殺害され(カティンの森事件)、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。
ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず[15]、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春まで西部戦線に大きな戦闘は起こらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「クリスマスまでには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。
11月8日、ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で爆発があり、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。その後も国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画が何回か計画されたが、全て失敗に終わった。
ソ連はバルト三国およびフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。
しかし、フィンランドはソ連の基地使用およびカレリア地方割譲等の要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日にフィンランド侵攻(冬戦争)を開始した。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。
1940年
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。
さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国にベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコヴィナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており[注釈 2]、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本の杉原千畝領事に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。杉原の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。
なお、杉原同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山[16] や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデス[17] がおり、ともに戦後のイスラエルの諸国民の中の正義の人に認定されている。
4月、ドイツは中立国デンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。脆弱なドイツ海軍はノルウェー侵攻で多数の水上艦艇を失った。
5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアのオランダ植民地は亡命政府に準じて連合国側につくこととなり、オランダ植民地に住むドイツ人は抑留され、外交官と婦女子のみが解放されドイツの同盟国の日本に送られた。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチルが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能といわれていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた(ダンケルクの戦い)。ここで、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開する。急遽860隻の船舶を手配し、ドイツ軍は消耗した機甲師団を温存し救出作戦に投入しなかったため、イギリス空軍の活躍により多くの兵器類は放棄したものの、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を9日間でフランスのダンケルクから救出し、精鋭部隊を撤退させることに成功した。この作戦では様々な貨物船、漁船、遊覧船および王立救命艇協会の救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(主に大型の駆逐艦)へ運んだ。イギリスの首相チャーチルはのちに出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中でもっとも成功した作戦であった」と記述している。
さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しかできず、6月10日にはパリを戦火から守るべく無防備都市宣言をした。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告した。
6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言を行ったことで、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した[注釈 3]。
その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーがパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。その後、ドイツはフランス全土を占領し、その直後に講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。
これに対抗してフランス人の手でフランスを取り戻すべく、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールは「自由フランス国民委員会」を組織し、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取りつけてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。
なお、フランス主要植民地のアルジェリアやモロッコ、インドシナ、マダガスカルなどはヴィシー政権につき、それぞれドイツ軍や日本軍との友好関係や軍の駐留を引き受けた。
7月3日、フランス領アルジェリアがドイツ側の戦力になることを防ぐため、イギリス海軍H部隊がメルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。にもかかわらず、多数の艦艇が破壊され、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。
西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指した。イギリスは降伏勧告に近い和平案に対する回答を延ばすことで時間を稼いだ。その間、イギリス特有の悪天候によりドイツ空軍の港湾や船団への攻撃は低調に終わった。しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れた。同月25日のイギリス海軍駆逐艦が護衛する輸送船団への攻撃では10隻近い艦船が被害を受け、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。
上陸作戦「ゼーレーヴェ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日に、本格的に対イギリス航空戦を開始するよう指令(ザ・ブリッツ)。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施した。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。
イギリス空軍は、スーパーマリン スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケル He 111やユンカース Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。しかし、メッサーシュミット Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)。しかし性急で準備も不十分なままであり、11月にイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有様であった。
9月27日にはドイツとイタリア、そしてまだ第二次世界大戦に参戦していないものの2国の友好国である日本は、日独伊防共協定を強化した相互援助である日独伊三国同盟を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。
1941年
イギリスはイベリア半島先端の植民地[注釈 4]ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど東地中海[注釈 5] を確保し反撃を企図していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。
一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍を支援するため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日に撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退する。
中立国のアメリカは3月11日にレンドリース法を成立させ、自らは参戦しない代わりに、ドイツや日本、イタリアとの交戦国に対して、ソ連やイギリス、中華民国などへの大規模軍事支援を開始する。
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国(ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島(バルカン戦線)、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国、ブルガリア王国、ルーマニア王国を枢軸国に加えた。
6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、イタリア、ハンガリー、ルーマニア等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった[注釈 6]。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは6月26日、ソ連に宣戦布告した(継続戦争)。開戦当初、赤軍(当時のソ連地上軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かったウクライナ、バルト三国等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願した。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍 (fr) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。
ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたクイビシェフへ疎開した。ドイツ軍は急速に侵攻していたが、秋の雨の時期から泥まみれの悪路に悩まされ、補給も滞り、進撃の速度が緩んだ。また戦場に出現したソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車や、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。そして冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。その厳寒の中、ドイツ軍は11月半ばにモスクワへの進攻を再開し、近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退し、第二次世界大戦勃発以来、ドイツ軍はかつてない深刻な敗北を喫した。
8月9日、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を発表した。8月25日、ソ連・イギリスの連合軍は中立国イランに南北から進撃し、占領した(イラン進駐)。イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、米大統領ルーズベルトは拒否した。ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離を置いていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。イランを占領しペルシア回廊を確保した上で、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。またアフガニスタンはこのような中でも第二次世界大戦の終戦まで独立を守った。
一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の4月13日に日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。ソ連は日本に送り込んだリヒャルト・ゾルゲら、スパイの情報から日本の動向を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。
ドイツの占領地では、秘密国家警察ゲシュタポとナチス親衛隊が住民を監視し、ユダヤ人やレジスタンス関係者へ過酷な恐怖政治を行った。特に独ソ開始後、アインザッツグルッペンと呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。そのため軍部の中でヒトラー暗殺計画を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。
12月7日(現地時間)、日本軍がマレー半島のイギリス軍を攻撃し(マレー作戦)ここに太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発した。またマレー半島を攻撃した数時間後に、日本軍はアメリカのハワイにある真珠湾のアメリカ海軍の基地を攻撃した。これに対し12月8日にアメリカとオランダが日本に宣戦を布告[18]。日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。
1942年
1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにナチス党の重要幹部が集結し「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議が行われた。これ以後、ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行した。
ドイツのみならず、ドイツの占領下のポーランドやチェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニア、フランス、オランダ、ベルギー、ギリシア、ノルウェーのみならずイタリアでも行われた大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の強力な支持または黙認の元に継続された。最終的に、上記の地域におけるホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、6百万人に達するといわれている。
また、アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、ブラジルは1942年1月に連合国として参戦することを決定し、ドイツやイタリア、日本との間に参戦したが、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ヨーロッパ戦線に参戦した。なおドイツやイタリア、スペインと友好関係を保っていたアルゼンチンは中立を保った。
北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、1月20日に再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日に開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。
同盟国イタリア軍は終始頼りなく、欧州戦域を事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見ることとなる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。
さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。
イギリス軍は、ヴィシー政権の植民地であるアフリカ沖のマダガスカル島を、南アフリカ軍の支援を受けて占領した。これに対しドイツからの依頼もありインド洋からイギリス海軍を駆逐した日本軍は、5月にマダガスカル島へ進出、日本軍の特殊潜航艇がディエゴ・スアレス港を攻撃、イギリスのタンカー1隻を撃沈、イギリス海軍の戦艦を1隻大破し、さらに上陸した日本軍兵士が陸戦を行いイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果を上げている。しかしアフリカはドイツ軍の作戦範疇であったため、日本軍はこれ以上の攻撃は避けている。
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋や東南アジアにまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(大西洋の戦い)。しかし、この頃より英米両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定されることになる。
ここで日本海軍とドイツ海軍は、利害が一致し、互いの最新の軍事技術情報を入手し、両国の武官や技術者の交換をしたいという思惑があり、日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった。互いの潜水艦をドイツはドイツ占領下にあるフランスのキール、日本は日本の占領下にある昭南やペナンに送り、日本からドイツへ酸素魚雷や無気泡発射管などの技術が、ドイツから日本へはウルツブルク・レーダー技術や暗号機等の最新の軍事技術情報がもたらされた。遣独潜水艦作戦の1回目として、伊号第三十潜水艦が8月6日にフランスのロリアンに入港した。
またドイツ海軍は、大西洋とインド洋の一部地域における連合国の海上封鎖を突破して、同盟国である日本から酸素魚雷や小型船舶エンジン、水上飛行機などの設計図を、日本はそのほぼ全域を支配していたアジアおよびインド洋水域からゴム、スズ、モリブデン等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。往路には日本の必要とする工作機械等の軍需品を日本にもたらした。日本海軍はドイツ船舶を「柳船」という秘匿名称で呼び、昭南やペナンなどの基地を提供しただけでなく、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日に攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス地方の油田地帯を目指す。
一方ドイツ軍に追い立てられたソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。8月9日、マイコープ油田を占領した。
8月23日にスターリングラード攻防戦が開始された。まずドイツ軍は空軍機で爆撃し、9月13日に市街地へ向けて攻撃を開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まっていく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に冬の装備に弱い枢軸国軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。
1943年
1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。
しかし、ドイツ軍は3月にマンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることはなく、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。
北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、イタリアとドイツ両軍はチュニジアのボン岬で包囲された。5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。アメリカ軍は、アメリカへ移民したマフィアとの連携でシチリア島内で兵を進めた。8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシーナを占領した。
各地で連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、ムッソリーニの後任、元帥ピエトロ・バドリオ率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリアの降伏を発表した。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王と首相バドリオらの新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。
逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国」(サロ政権)を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日にドイツへ宣戦布告したが、これは形だけのものであった。
日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキールに連絡潜水艦を送っていたが、この3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった)。
なお船員らは日本軍に一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、サロ政権についた者はそのまま枢軸国側として従事し、日本軍およびドイツ軍の下で太平洋およびインド洋の警備にあたった。しかし、イタリア租界のあった天津港などで活動していたイタリア海軍の艦船のうち「カリテア2」、「エルマンノ・カルロット」、「レパント」が、日本軍やドイツ軍の指揮下に入るのを拒否し神戸港や上海港などで自沈し、「エリトレア」がインド洋で「コマンダンテ・カッペリーニ」を護衛中に逃亡し、イギリス軍に降伏している。この突然の自沈と逃亡は、サロ政権につかなかったイタリア軍将兵に対する日本軍および政府の感情悪化につながり、その後のイタリア軍将兵の捕虜収容所での過酷さにつながった。
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦を指導した。
さらにこの年、連合国の首脳および閣僚は1月14日カサブランカ会談、8月14日 - 24日ケベック会談、10月19日 - 30日第3回モスクワ会談、11月22日 - 26日カイロ会談、11月28日 - 12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行った。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。
1944年
1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間に及ぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日に夏季攻勢(バグラチオン作戦)が開始され[注釈 7]、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、さらにソ連軍はバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。

1月17日にイタリアのモンテ・カッシーノで、連合国軍のイタリア戦線における、ドイツ軍のグスタフ・ラインの突破およびローマ解放のための戦いが開始された。
2月15日にカッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し修道院は破壊された。ブラジル軍も参戦し、5月19日に連合国軍は勝利する。
一方、本格的な反攻の機会を窺っていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍の指揮の下、北フランス・ノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻を目的としたオーヴァーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出しながらフランスに上陸した。
ノルマンディー在住の民間人に多数の犠牲者を出し[19]、女性たちは強姦された[19][20]。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。この上陸の2日前、6月4日にイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。
連合軍のフランス上陸を許すなど敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により、ヒトラー暗殺計画が決行されたが失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。また、国民的英雄エルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した[注釈 8]。
またこの頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。なお、7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
ドイツ軍は、フランス上陸後の連合軍の進撃を辛うじて食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦の結果、ついにドイツ軍の戦線を突破し、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。8月頭にイギリス軍やカナダ軍、アメリカ軍を筆頭に連合軍は東へ進み、パリ方面へ進撃を開始した。
ドイツ軍も8月7日にディートリヒ・フォン・コルティッツ歩兵大将をパリ防衛司令官に任命しパリを防衛するも、8月16日には南フランスにも連合軍が上陸し(ドラグーン作戦)、ドイツ軍のパリ防衛も時間の問題であった。
ヒトラーはパリが陥落する際、パリを焼きつくして撤退するよう言明した。パリを防衛するドイツ軍は崩壊し、8月25日に自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。しかしドイツ軍はヒトラーの指令に反しパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。フランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。
フランスを占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行した。さらに、ココ・シャネルのようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、スイスなど国外へ亡命する者もいた。
8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。
また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦でハンガリー全土を占領、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田の喪失でついにドイツの石油供給は逼迫する。
9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。
またこの頃、ドイツ軍は、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262やジェット爆撃機アラドAr234、同じく世界初の飛行爆弾V1、次いで世界初の弾道ミサイルV2ロケットなど、開発中の新兵器を次々と実用化し、実戦投入した。しかし、西からイギリスとアメリカ、東からはソ連を中心とした3か国の圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるのは、ドイツ1国ではもはや不可能だった。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使するほか、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[21]。
その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で反攻(バルジの戦い)を試みた。アルデンヌ地方の冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍はパニック状態に陥り、ドイツ軍により戦線は一時的に約130km押し戻された。
また、オットー・スコルツェニー指揮のコマンド部隊がアメリカ軍に偽装し、後方撹乱を行った。しかし、ドイツ軍は連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合軍の反撃で後退を余儀なくされる(バストーニュの戦い)。
1945年
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。
ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦および南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
1月にはイタリア社会共和国 (RSI) 軍の攻勢終了によって再び防戦へと戻り、ムッソリーニは厳冬の中で絶望的な戦闘を続けるRSI軍の前線を訪れ、閲兵式を行って兵士達を激励している。少年兵を含めた兵士達はムッソリーニの期待に応えて希望の失われた状況下で戦いを続け、冬の間は連合軍の攻撃も停滞した。しかし春を迎えた4月になるとゴシックラインは完全に突破され、C軍集団とRSI軍はポー川ラインにまで戦線を後退させ、ミラノでの市街地戦が視野に入り始めた。これを裏付けるようにムッソリーニも「ミラノを南部戦線のスターリングラードにしなければならない」と演説している。
西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。
ハンガリーでは1944年12月に赤軍・ルーマニア軍によってブダペストが包囲され、1945年2月13日に残存していたブダペスト防衛部隊が無条件降伏した。ソ連軍はここでも一般兵士から将官までもが略奪・暴行に参加し、10歳から70歳まで、およそ目に付くほとんどの女性が強姦された[22]。ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(ネロ指令)を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。
これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に立てこもり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。

4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され(ベルリンの戦い)、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンの総統地下壕から動こうとしなかった。
4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲した(詳細はベルリンの戦いを参照)。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵や、まともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。
ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。
一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザンの蜂起により、4月25日、C軍集団はイタリア臨時政府・国民解放委員会 (CLN) の代表団との直接会談に望んだが、C軍集団の休戦交渉を知ったCLNは無条件降伏の要求以外は受け入れなくなった。ムッソリーニは会談の中でC軍集団の降伏交渉について知らされ、最後の最後にヒトラーから裏切られたと感じた。しかし2日後に総統地下壕のヒトラーから戦局の逆転を確信しており、「独伊同盟の最終的勝利」に希望を持っているという電報が届き、ヒトラーもまた周囲から欺かれていることを知った。ここにイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。
ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。捕えられた一行はムッソリーニと愛人ペタッチ、それ以外の閣僚や将兵と分けられ、残されたムッソリーニはペタッチと共にミラノ方面へ車両で移動させられ、しばらくの間ジャコモ・デ・マリアという人物の所有する民家に幽閉されている[23]。
程無くしてパルチザンはムッソリーニについても略式裁判による即時処刑を決定、ムッソリーニはミラノ近郊のメッツェグラ市の郊外にあるジュリーノ・ディ・メッツェグラに設置された処刑場へ護送された。4月28日の午後4時10分にペタッチと共に射殺され、懸念されうるムッソリーニの生存説を払拭することや、依然として残る威厳を失わせることを図って、その死を公布することを計画した。ドンゴで射殺された何人かの重要な幹部の遺体と一緒にムッソリーニの遺体を貨物トラックに載せ、辺境のメッツェグラ市から主要都市の一つであるミラノ市へと移送した。
4月29日朝、ミラノ中央駅にトラックが到着すると駅にある大広場であるロレート広場の地面の上に遺体を投げ出した[24][25]。続いてパルチザンは反乱者への見せしめである「遺体を建物から吊るす」という行為への意趣返しとして逆さ吊りにした。括り付けられたのはスタンダード・オイル社のガソリンスタンドの建物だった[26]。ただし逆さ吊りについては中世時代に行われていた懲罰を再現したという説や、むしろこれ以上死体が損壊することを避けたという説もある[27](ベニート・ムッソリーニの死)。イタリア駐在のC軍集団も5月4日に降伏している。

ムッソリーニが殺害された2日後、4月30日15時30分頃にヒトラーは、ベルリンの総統地下壕で前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って総統地下壕脇に掘られた穴で焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官に海軍元帥デーニッツを、首相に宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを、ナチ党担当相および遺言執行人に党官房長マルティン・ボルマンを指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
イギリス軍とアメリカ軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ドイツの犯罪が明るみに出された。なお先にドイツ軍を駆逐したソ連軍は各地で行われていたホロコーストを先に知っていたが、イギリス軍とアメリカ軍はこれをソ連のプロパカンダと思い信じなかった。
またソ連が新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたといわれている。女性、果てや8歳の少女までもが強姦され、犠牲者総数は数万から200万と推測されている[28]。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた女性のうち、その後、約10分の1の女性が死亡し、その大半が自殺だった[29]。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。
政府と軍の無条件降伏
ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったカール・デーニッツ海軍元帥はフレンスブルクに仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍と政府は連合国に無条件降伏することが決定した。これはドイツ政府と軍による完全な無条件降伏であった。
アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書 (en))。翌午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト (Karlshorst) の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。なお日独伊三国同盟には、降伏前に同盟国の日本と協議を行う決まりであったが、いまやドイツは日本政府と協議する余裕はもうなかった。
なお連合国はフレンスブルク政府に対し、政府としての承認は行わなかった[30]。5月23日には全閣僚が連合国に逮捕され[30]、その機能を失った。その後6月5日のベルリン宣言により中央政府がドイツに存在しないこと(中央政府=ナチ党であり、ドイツ国の降伏とともに消滅したこと)が確認された。敗戦後に中央政府がドイツに存在しない点は、敗戦と占領後に中央政府が存在し続けた日本と大きく異なる。
これによりドイツ国、イタリアの2国の枢軸国が連合国側に降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。その後も欧州では小規模かつ局地的な戦闘は続いたものの、国家間での戦闘行為は最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国による東南アジアと東アジア、太平洋地域のみとなった。
停戦後
5月8日午後11時1分に停戦が発効され、8日と9日の2日間はヨーロッパ全土は祝日となった。各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はドイツが無条件降伏したにもかかわらず、プラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様であり、戦時国際法に明らかに違反するものであった。
ドイツ占領下のノルウェー南端から日本へ向かっていたドイツ海軍のUボート「U-234」が、大西洋上でアメリカ海軍の艦船に降伏しようとした矢先の5月14日に、便乗していた庄司元三と友永英夫の2名の海軍中佐が服毒自殺した。2人の持ち物の中には、当時日本も開発していた原子爆弾の開発に欠かせないウラン235が560キログラム含まれていた。
なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人、ファシスト党員が、潜水艦や船舶、徒歩でバチカンやスペイン、ポルトガルやノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリやボリビアなどの南アメリカ諸国に逃亡し、その後も数千人が身分を隠して逃亡を続けた。またナチス親衛隊員やドイツ軍人が、残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの報道もあったが、これは上記のような事件と混合した誤りであった。
ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[3][31]。
この後、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦諸国の将兵が残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。
ポツダム会談
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。イギリスの首相ウィンストン・チャーチル(会談途中、7月25日の総選挙でチャーチル率いる保守党が労働党に敗北し、クレメント・アトリーと交代する)。4月12日のルーズベルトの急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカの大統領ハリー・S・トルーマン、ソビエト連邦のヨシフ・スターリンが出席した。
この会議で、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が7月26日に行われた。さらに、この会談のさなかには残る枢軸国の日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表も英米中の3か国の合意の元行われ(中華民国の蔣介石総統は無線電話での承認。日本と開戦していないソ連は開戦後の8月9日に承認)、日本に向けて送信され、日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。ポツダム宣言の受託とその行使により、ドイツと違って、敗戦と占領後にも日本には中央政府が存在し続けることとなった。
背景(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)
満州事変(1931年-1933年)から、日中戦争と日本の参戦までの経緯(1937年-1941年)
満州事変と満洲国

1931年9月18日に南満州鉄道が爆破されたとして、日露戦争の勝利後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた日本陸軍の関東都督府陸軍部が前身の関東軍と中華民国軍の間で戦闘が勃発。日本が勝利し関東軍が奉天、南満州を占領する(満州事変)[32]。
12月に中華民国政府の提訴により、国際連盟では満州での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる6ヵ国、事実上4四ヵ国の調査団の結成が可決された。日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満州における匪賊の討伐権が日本に認められた[33]。
1932年1月28日に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突する第一次上海事変が勃発し、3月1日に、中華民国軍が上海から撤退し、同日、満州国が中華民国から独立して建国宣言をした[32]。3月3日に、中華民国国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった英仏伊独の国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。
3月に国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。この調査団は、半年にわたり満洲国と日本、中華民国を調査し、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀とも面会し9月に報告書(リットン報告書)を提出した。翌1933年2月24日、このリットン報告を基にした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項[34] および6項[35] についての条件が成立した。
前後して上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、1932年3月22日の下院審議において、与党保守党の重鎮オースティン・チェンバレンは、「労働党議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しない」とした上で、中華民国には「国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたこと」を指摘し、「銃剣はボイコットへの適切な対応ではない」としつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。国際連盟の対応を受けて5月5日に上海停戦協定が結ばれ、日中両軍が上海市区から撤退し、騒ぎは収まるかに思えた。
国際連盟脱退
だが、翌年の1933年2月23日に日本軍が熱河省に侵攻するなど、中華民国との関係がさらに悪化すると、日本に対する国際連盟加盟各国の態度も硬化した。
翌日にはジュネーブで行われた国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で勧告が採択された。さらに満州国建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表以下日本代表はこれを不服として、あらかじめ準備していた宣言書を朗読して会場から退場し、日本のマスコミからは大喝采を受けた。
日本代表はジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは首相ベニート・ムッソリーニと会見している。帰国後の3月27日に国際連盟を脱退する。またドイツも同年脱退した。
なお、日本脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日となり、脱退宣言から1935年までの猶予期間中に日本は分担金を支払い続けていた。また正式脱退以降も国際労働機関 (ILO) には1940年まで加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関であった)。そのほか、アヘンの取り締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。
五・一五事件と二・二六事件
1932年5月15日には、海軍の軍人らに首相の犬養毅らが殺害されるという「五・一五事件」が起きていた。さらには、内大臣官邸や立憲政友会本部を攻撃し、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う計画であったが、未遂のままで鎮圧された。
後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望に対して後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために元海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。
西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば「憲政の常道(=民主主義)」に戻すことを考えていたが、ともかくもここに8年間続いた「憲政の常道」の終了によって、まともな政党政治は大戦後まで復活することはなかった。
さらに1936年2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らはクーデターを図り、1,483名の下士官兵を率いて、首相官邸や大蔵大臣高橋是清私邸、内大臣斎藤実私邸や教育総監渡辺錠太郎私邸などを襲ったが、このクーデターは未遂に終わる(「二・二六事件」)。首相の岡田啓介は辛くも大丈夫だったが、大蔵大臣の高橋や内大臣の斎藤、教育総監・陸軍大将の渡部などはこの事件で殺害された。
この事件の結果広田弘毅が首相に就いたが、組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平が出た。「好ましからざる人物」として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務した。さらに陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。
1931年には「三月事件」、1934年には「陸軍士官学校事件」が起こり、当時の日本では、このように選挙で選ばれたわけでもない単なる軍人(役人)が、国が自分の気に入らない方向に向かうと、武力でクーデターを起こして自らの向かう方向に仕向け、さらに陸海軍が組閣に口を出すことが度々起き、まかり通るようになった。
軍部大臣現役武官制復活
さらに1936年5月に軍部は広田内閣に圧力を加え、一度は廃止された軍部大臣現役武官制を復活させた。この制度復活の目的には、「二・二六事件への関与が疑われた予備役武官(事件への関与が疑われた荒木貞夫や真崎甚三郎が、事件後に予備役に編入されていた)を、軍部大臣に就かせない」ということが挙げられていた。
広田内閣は腹切り問答によって陸軍大臣と対立し、議会を解散する要求を拒絶する代わりに1937年2月に総辞職に追い込まれた。その後、宇垣一成予備役陸軍大将に対して天皇から首相候補に指名されて大命降下があった際、陸軍から陸軍大臣の候補者を出さず、当時現役軍人で陸軍大臣を引き受けてくれそうな小磯国昭朝鮮軍司令官に依頼するも断られ、自身が陸相兼任するために「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、同意を得られなかったため、組閣を断念した。この様に、1910年代以降日本に浸透してきていた議会制民主主義は、1930年代中盤以降急激に軍国主義に傾いていく。
西安事件と国共合作
1933年5月31日の塘沽協定により満州事変は停戦したが、中華民国政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、日本軍や中国共産党軍との散発的な戦闘は続いていた。1936年10月に蔣介石は共産党軍の根拠地への総攻撃を命じたが、国民党軍の身分ながら共産党と接触していた張学良と楊虎城は、共産党への攻撃を控えていた。
12月12日に張学良と楊虎城はいわゆる「西安事件」を起こし、張学良の親衛隊第2営第7連120名で蔣介石を拉致、拘束した。蔣介石の拘禁は、上海や国外で「張学良のクーデター」と報じられ、その後の動向が着目された[36]。
張学良と楊虎城は日本軍に対して中国共産党との共闘をするよう要求したが、監禁された蔣介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶した。さらに国民政府は張学良の官職剥奪と軍事討伐を検討し、軍事委員会の緊急強化を決定した[36]。また、中華民国全国の将軍から中央政府への支持と張学良討伐を要請する電報が国民政府に続々と到着していった[37]。
張学良の目算通りに人民戦線派および各地将領が動かず、世論は張学良と反対の立場であった。形勢が不利となった張学良は、北支の閻錫山の下に特使を派遣して調停を依頼、妥協条件と旧東北軍の処置について協議を求めた。また事情を知った世論からも張学良は強い批判を浴びることとなった。
12月23日にいったん蔣介石と張学良の和解が成立したが、2日後の12月25日に張学良は「西安事件」の敗北を洛陽で認め、その後に西安に戻った。反逆罪により張学良は逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。
しかし張は極刑や国民党から永久除名にされず、12月31日に軍事委員会高等軍法会議により懲役10年の刑を受けたが、結局1991年まで国民党から軟禁の身で過ごし、軟禁解除後の2001年にハワイのホノルルで生涯を閉じた。しかしこの事件をきっかけに、国共合作が進むことになる。
日中戦争

1937年2月に開催された中国国民党の三中全会の決定に基づき、中華民国の南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[38]。地方軍閥に対しては山西省の閻錫山に民衆を扇動して反閻錫山運動を起こし[39]、金融問題によって反蔣介石側だった李宗仁と白崇禧を中央に屈服させ[40]、四川大飢饉への援助と引き換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[41]、宋哲元の冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[42]。
一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[43]。上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊と何ら変わるものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[44]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[45] 対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[46]。この他にも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[47]。
しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし[48]、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取り調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[49]。
盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[50][51]、国民党からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[52]。副参謀長張克侠[53] をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた[52]。
第二十九軍は盧溝橋事件より2カ月余り前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日にはすでに対日抗戦の態勢に入っていた[54]。
そしてついに1937年7月7日、第二次世界大戦がヨーロッパで始まる約2年2か月前に、日本軍と中華民国軍の衝突である盧溝橋事件が勃発、ここに全面戦争である日中戦争が始まった。

一旦中華民国側は遺憾の意思を表明し、「責任者を処分すること」、「盧溝橋付近には中華民国軍にかわって保安隊が駐留すること」、「事件は藍衣社(青シャツ隊)、中国共産党など反日暴力団体が指導したとみられるため今後取り締る」という内容の停戦協定が締結されたが、その後中華民国側でも日本軍を挑発し対日武力行使決定が決定、通州事件や第二次上海事変、北平占領など日中戦争は瞬く間に中華民国全土に拡大していく。
1937年8月に中華民国は中ソ不可侵条約を結んで、ソ連空軍志願隊とともに在華ソビエト軍事顧問団を再招聘し、1941年に日ソ中立条約が結ばれるまで中華民国軍を援助し続けた。しかしその後もソ連は中国共産党などへ様々な援助を続けた。
アメリカの新聞の論調は、未だ直接介入を主張するものは少なく、その多くは対日強硬策を支持するものの、論説は非常に穏やかであった。反対に、孤立主義の立場から、中華民国からのアメリカ勢力の完全撤退論を主張するものもあった。1938年1月のギャラップ調査によると、約70%のアメリカ人が中華民国からの完全撤退を望み、孤立主義的態度を示していた[55]。
しかし1938年3月に起きたドイツのオーストリア併合(アンシュルス)の翌週、第1次近衛内閣の下で野党は反対勢力を失い、日中戦争を鑑みた国家総動員法が成立した。さらに日中戦争が激しさを増す中、陸海軍の強い反対を受けて、日本政府はベルリンオリンピックに次いで1940年に開催される予定であったアジア初、有色人種初のオリンピックである札幌・東京オリンピックを7月に返上した。
欧米諸国でも中華民国内に租界を置く国は多く、自国の権益を守るためもありイギリスやフランス、アメリカ、イタリア、そして日本と「五大国」はこぞって租界を置いた。そして日本と同盟関係にあるにもかかわらず、租界があるイタリアやドイツなど親中的な政策をとる国も多かった。
さらに日中戦争が起きると日本陸軍とこれら列強の駐留軍との間にいざこざが起き始め、例えば上海でのヒューゲッセン遭難事件、揚子江のパナイ号事件、蕪湖のレディバード号事件等が起きたが、近衛内閣の外相広田弘毅(元首相)が何とか善処し、イギリスのロバート・クレイギー大使とアメリカのジョセフ・グルー大使から高く評価された。
日独伊の急接近
なお上記のように、ナチス政権下のドイツの極東政策は、1936年に広田内閣下の日本と日独防共協定を結ぶ一方で、中独合作で中華民国とも結ばれていた。中華民国は孔祥熙をドイツに派遣しヒトラーと会談、ドイツ軍は日中戦争を戦う中華民国軍に、蔣介石の個人顧問として中将アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンをドイツ軍事顧問団団長として派遣するなど、日本と中華民国との間で大きく揺れていた。
ナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は日本との連携を重視していたが、外務省では日本との協定に反し中華民国派が優勢だった。さらにドイツはモリブデンやボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために、中華民国とバーター取引を行っていた。
しかし1937年7月に日中戦争が始まると、日本からの抗議を受け中華民国に派遣されていたドイツ軍事顧問団は撤収、イタリアに続きドイツ製武器の供給も停止することになり、完全に親中派は止めを刺された。しかし、ドイツ製の武器の現金調達は日本の抗議を受けながらも、中華民国との契約が完全に切れる1938年中頃まで続いた。
一方、天津に租界を持つイタリアも、1930年代中盤に元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問として、さらに空軍顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問を中華民国に常駐させ、フィアットやランチア、ソチェタ・イタリアーナ・カプロニやアンサルドなどのイタリア製の兵器を日本からの抗議を受けつつも大量に輸出した。
しかし、1935年に始まった第二次エチオピア戦争での対イタリア経済制裁に中華民国が賛同したことに対して、上海総領事として勤務した経験もあった伊外相ガレアッツォ・チャーノは「遺憾」とし、1937年11月には日独に次いで防共協定に調印し、ここに日独伊三国防共協定となった。
さらに1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を日本と満州国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、天皇や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。その後8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。完全に日本重視となった。さらに同年11月、イタリアは満州国を承認し、両国は公使館を置き正式な外交関係を開始している。
これらの返礼もあり、日本陸軍や満州陸軍はイタリアからの航空機や戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入した。またイタリアも満州国からの大豆の全輸出量が5%を占め、アメリカからの輸入を停止するなど、イタリアもドイツも完全に同盟関係にある日本重視となる。
なお、中華民国はドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、すぐさまこれらとのこれらとの関係が悪化している、アメリカやソ連、イギリスやフランスとの武器調達契約を結び、1939年以降はこれらの国が主な武器の調達先となった。
オトポール事件
ドイツでは、ナチ党政権は国民からの絶大な支持を受け、国単位で反ユダヤ主義政策を進めていたが、同盟国の日本ではヨーロッパ各国のようなユダヤ人差別などは皆無であり、むしろ日本では官軍によるユダヤ人擁護がドイツ政府の反対を受けつつ、1930年代後半から終戦まで行われた。
1937年12月に第1回極東ユダヤ人大会が満州国で開催された際に、この席で日本陸軍の陸軍少将樋口季一郎は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と言い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。これを知ったドイツの外相リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。さらに1938年には五相会議でユダヤ難民の移住計画である「河豚計画」が日本政府の方針として決まった。
また同年3月8日に、ユダヤ人18人が害下から逃れるため、満蘇国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅(現:ザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らと共に即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、さらには膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。これで逃れることができたユダヤ人の数は数千人から2万人ともいわれる。
日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満州鉄道の総裁松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[56]。これは「オトポール事件」と呼ばれることとなる。この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツの外相リッベントロップからの抗議文書が届いた[57]。また、陸軍内部でも樋口への批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[57]。そのような中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東條英機中将と面会した際には「ヒトラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[58]。この言葉に理解を示した東條は、樋口を不問とした[59]。東條の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[60]、独国からの再三にわたる抗議も、東條は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[61]。
ノモンハン事件
1939年5月から同年9月にかけて、関東軍とソ連軍の間で、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)が断続的に発生した。
なお満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に警備を委ねていたが、日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連軍が日本軍の3倍以上の軍事力を有していた。これに対し日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年時点では日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。
8月に発生したノモンハン事件は満州国軍とモンゴル人民軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった日本陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。結果はソ連側が優勢なまま、第二次世界大戦が勃発した直後の9月15日に双方で戦闘終結で合意、戦闘は収まった。
第二次世界大戦開戦
そのような中で起きた8月23日の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与えた。これを受けて、当時の首相平沼騏一郎は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残し政治責任から8月28日に総辞職した。
また大島浩大使も、ノモンハン事件が起きる中でこの締結を前もって知らされなかった責任を取り、ベルリンより帰朝を命ぜられ(帰国後の12月27日に大使依願免職した)、これ以後のドイツとの交渉は中止となるなど、日本の政界も揺るがす大混乱となった次の駐独大使にはドイツとの対独同盟に懐疑的で「親米」といわれた来栖三郎が継いだ。しかし続く阿部内閣も短命に終わり、対独同盟派の勢いは停滞した。
9月1日にドイツがポーランドに侵攻した。これに対して9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ついにヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。ノモンハン事件が9月15日に終結し日本との戦いの心配もなくなったソ連は、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日にソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄し、ポーランドへ東から侵攻した。
南京国民政府/汪兆銘政権成立


日中戦争の勃発に伴い、中華民国の蔣介石は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。汪兆銘は「抗戦」による民衆の被害と中華民国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった[62][63][64][65]。汪は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた[65]。
1938年3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、国民党に初めて総裁制が採用され、蔣介石が総裁、汪が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された[64][66]。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである[64]。
一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している[64]。こうした中、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった[67]。この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した[64][65][67][68]。
6月に汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触。高宗武自身は日本の和平の相手は汪以外にないとしながらも、あくまでも蔣介石政権を維持した上での和平工作を考えていた[67]。10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蔣介石との対立は決定的となった[65]。
1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心の曽仲鳴を射殺するという事件が起こった(汪兆銘狙撃事件)[69]。蔣介石が放った暗殺者は汪を狙ったが、その日はたまたま汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が犠牲になった[69]。ハノイが危険であることを察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした[69][70]。4月25日、影佐と接触した汪はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで5月6日に上海に到着した[70][71]。ハノイの事件は、汪が和平運動を停止し、ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという選択肢を放棄させるものとなった[72]。
日本は蔣介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていた汪の擁立を画策した。しかし1940年1月に、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた[73]。最終段階で腹心とみられた部下が裏切ったことに汪は大いに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった[73]。
汪は日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日に蔣介石とは別個の国民政府を南京に樹立、ここに「南京国民政府」が成立した。
汪は自らの政府を「国民党の正統政府」であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。国旗は、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えたもの、国歌は中国国民党党歌をそのまま使用し、記念日も国恥記念日を除けば、国民党・国民政府のものをそのまま踏襲した。
政府発足後に、イタリア王国やフランスのヴィシー政権、満州国などの枢軸国、バチカンなどが国家承認した。しかし蔣介石政権とのしがらみがあったドイツが最終的に承認したのは1941年7月になってからだった[74]。さらに日本との間で日泰攻守同盟条約を結んでいたタイ王国が汪の南京国民政府を承認した[75] のは、対英米戦が始まってからの1942年7月になってからであった。
第2次近衛内閣
その後ドイツとフランス、イギリスの間で戦闘は起きなかったが、1940年に入りドイツがベルギーやオランダに侵攻しすぐに降伏するなど、枢軸国の勢力が拡大しヒトラーの快進撃が伝えられるようになると、日本でもマスコミが騒ぎ出し、右派の朝日新聞も「バスに乗り遅れるな」という言葉で国民と軍とを積極的に煽った。
そのような中、1月には日米通商航海条約が失効し、日米関係は両国開国以来の無条約時代に突入した。悪化しつつある日米情勢の打開が求められたが、後の祭りであった。同年7月には参謀総長閑院宮載仁親王と陸軍三長官会議により、親英米派の米内内閣は辞任に追い込まれた。
日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣の後を受け、7月22日に誕生した第2次近衛内閣では、勢いのいいドイツやイタリアなど枢軸国との提携を再度主張する外相松岡洋右らの声が高まった。
同じ日には第2次近衛内閣により「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定され、日独伊の関係はより密接になってゆく。
命のビザ
1939年9月に第二次世界大戦の発端となるドイツのポーランド侵攻が始まると、ソ連はドイツほどではなかったがユダヤ人には冷淡で、同国のユダヤ人は亡命を余儀なくされ、その一部は隣国リトアニアへ逃れた。だが、独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵攻を開始する。10月10日にリトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。
さらに1940年6月15日にソビエト軍がリトアニアに進駐する。当時、ドイツ占領下のポーランドなどから逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていたが、ソ連が各国に在リトアニアのカウナス領事館・大使館の閉鎖を求めたため、もはや逃げ道はシベリア鉄道を経て極東(日本と満州、中華民国)に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。ユダヤ難民たちはまだ業務を続けていたカウナスの日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。
在カウナスの杉原千畝領事は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。しかし杉原領事の権限でこれらのユダヤ系難民たちにビザを出すことを決め、1940年8月31日までの間にソ連によってカウナスの日本領事館を退去させられ、杉原領事がカウナス駅を出る直前まで、杉原領事と妻、スタッフたちによって発行された日本を経由するビザに救われることとなった。
1940年7月からユダヤ系難民は、シベリア鉄道でソ連のウラジオストク、および満州国の満州里[76] 経由で、約6,000人が通過ビザを手に敦賀港などを経由して日本に入国した。そして1941年9月には、全員が神戸港などを経由し出国しアメリカ、もしくは中華民国の上海の国際共同租界にある「上海ゲットー」や虹口地区などに亡命した[77]。
さらにドイツは「上海ゲットー」の存在に対しても、日本政府へ1945年5月のドイツ敗戦に至るまで再三抗議していたが、日本政府はこれを黙認し、エリアこそ狭いながら亡命ユダヤ人の安全な滞在を認めて保護していた。
日本軍の北部仏印進出
フランスでは、1940年に入りドイツの猛攻が続く中、フィリップ・ペタンがマキシム・ウェイガン陸軍総司令官と共に対独講和を主張した。6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、翌6月17日に独仏休戦協定が成立した。その後7月10日にペタン率いる親独のヴィシー政権が成立した。
これを受けて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した[78]。当時のフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー将軍は、シャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関)の受け入れを行った[79]。
ヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任してジャン・ドクー提督を後任の総督とした[80]。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、むしろヴィシー政権はこれを進め、日本の外務大臣松岡洋右とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し松岡・アンリ協定が締結された。その後9月22日に日本はフランス領インドシナ総督政府と「西原・マルタン協定」を締結し、これを受けて平和裏に日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。
また、フランス海軍の船舶は武装解除の上サイゴンに係留されることになったが、日本政府は仏印植民地政府との間で遊休フランス商船の一括借り上げの交渉を開始していた[81]。フランス側のドクー総督は、イギリス海軍による拿捕のおそれや、仏印とマダガスカル島や上海との自国航路の維持に必要なこと、フランス海軍が徴用中であることなどを理由に難色を示し[82]、交渉は1942年まで持ち越すことになった。
なお、同様に仏印領内に残ったフランス船籍・仏印船籍の商船は、1941年末時点で500総トン以上のものが27隻(計10万総トン)、うち10隻は4000総トン以上の船であった[83]。
日独伊三国同盟締結
日独の関係も「オトポール事件」や「命のビザ」などユダヤ人問題で対立を見せたが、1940年初頭のドイツ軍のヨーロッパ戦線の好調から持ち直した。9月7日に新同盟締結のためにドイツから特使ハインリヒ・ゲオルク・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。9月27日にはイタリアを含めた日独伊三国同盟が締結された[84]。
これは実質的に対英米同盟となり日独伊三国同盟は拡大し、1940年11月にハンガリー、ルーマニア、スロバキア独立国が、1941年3月にはブルガリア、6月にはクロアチア独立国が加盟した。これに対してアメリカの大統領ルーズベルトは「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけた。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。
しかし、三国同盟実現には「親米」といわれた来栖三郎では「力不足」との声が上がり、そこで1940年12月に、これまで左遷されていた陸軍の大島浩が駐独大使に再任された。
また枢軸国の一員となったフィンランドは1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたタイも1941年12月日本と日泰攻守同盟条約をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満州は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化していた。中華民国南京政府と防共協定に加盟したスペイン(フランコ政権)も三国同盟には加わらなかったが、フランコ政権は戦争の前半期においては協力的な関係を持った。
泰仏戦争勃発
1940年6月にフランス本国がドイツに敗れたこと、独仏休戦(1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、その上に日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイはフランスに対して旧領回復への行動を開始した[85]。
タイのプレーク・ピブーンソンクラーム政権は、フランスのヴィシー政権に対し、1893年の仏泰戦争でフランスの軍事的圧力を受けて割譲せざるを得なかったフランス領インドシナ領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオスの領土と主権や、フランス保護領カンボジアのバタンバン・シェムリアップ両州の返還を求めたが、ヴィシー政権下の仏印政府はこの要求を拒否した。
ついに11月23日にタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、物量と地の利に勝るタイ軍は仏印軍に対して優位に戦いを進め、本国が占領下に置かれ武器や兵士の追加もままならない仏印軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。
戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、日本は、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイと同じく友好国のフランスが戦い国力が疲弊することを憂慮し、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。しかし両国の主張は平行線をたどり、タイとフランスの間の戦いは日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。しかしタイ王国はこの紛争でフランスが奪った旧領を回復し、事実上の勝利を収めた。
アメリカの対日禁輸とレンドリース
1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、アメリカは、日本にとって最大の輸出国であることを逆手に取り、日中戦争を戦う日本へ圧力をかけてくることとなった。7月26日に日本への輸出切削油輸出管理法を成立させる。8月に石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)などの輸出を許可制にし、10月16日に屑鉄を輸出禁止にするなど次々と禁輸攻勢を打ち出した。
これに対して日本海軍などでは民間商社を通じ、ブラジルやアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、年内に民間ルートでの開拓を断念した。
さらにアメリカは中立法に現れていた非介入主義を米大統領フランクリン・ルーズベルトがさらに緩和し、1941年3月にはレンドリース法を設置し、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。1945年8月の終戦までに、総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中華民国へ提供された。
なお日中戦争中の中華民国は、日本からの抗議を受けて1937年から1938年にドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、すぐさまアメリカとの武器調達契約を結び、その後も第二次世界大戦に参戦しなかったアメリカとレンドリース法案を結び、大戦を通じてアメリカが主な武器の調達先となった。
アメリカの日中戦争への軍事介入
さらにアメリカは、1940年8月に蔣介石総統と宋美齢夫人からの数度にわたる軍事支援の要請を受け、大統領ルーズベルトの指示を受け設立された「ワシントン中国援助オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍 (American Volunteer Group, AVG) を設立し、ここに日中戦争へのアメリカによる本格的な軍事介入を開始した。
アメリカ陸軍将校のクレア・リー・シェンノートはルーズベルトの後ろ盾を得て、その後アメリカ軍内でパイロットの募集を開始したが、なかなか人が集まらず「日本軍の飛行機は旧式である」というならまだしも、「日本人は眼鏡をかけているから、操縦適性がない」と人種差別的な見通しを述べてまで募集する面接官もいた[86]。
最終的に、カーチスP-40などの約100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機と、日本を刺激せぬようシェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め、1941年3月に中華民国に送った。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。またシェンノートは健康上の理由により軍では退役寸前であったが、蔣介石は空戦経験の豊富な彼をアメリカ義勇軍航空参謀長の大佐として遇した。義勇兵は月給1000ドルであった[87]。
シェンノートらAVGのメンバーは、日本を刺激せぬようあくまで「民間人」として、友好国イギリスの植民地のビルマに向け渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊し、イギリス−領ビルマのラングーン(現:ヤンゴン)の北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし日本軍と対峙した。ここでのAVGの目的は、中華民国軍への援助物資の荷揚げ港であるラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援蔣ルート(「ビルマ・ロード」)上空の制空権を確保することであった。
だがフライングタイガースは、日本軍の最新鋭の零式艦上戦闘機をはじめとした最新の航空機と練度が高い戦闘機乗りの多さ、さらに中華民国軍の事故の多さに悩まされて苦戦を強いられた。さらに、撃墜数による出来高制の給与(日本軍機を1機撃墜することに500ドルのボーナス)のために、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の撃墜報告をする有様であった。さらに1941年12月に正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって「義勇軍」の意味はなく、1942年7月3日にアメリカ軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。
独ソ戦と外相松岡の更迭
1941年2月、アメリカが管理するパナマ運河の利用がアメリカ船とイギリス船のみに制限されたが、4月からは東京とワシントンD.C.で行われていた日米交渉が本格化され、「全ての国家の領土保全と主権尊重」、「他国に対する内政不干渉」、「通商を含めた機会均等」、「平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持」という「ハル四原則」を提示し、首相の近衛ら日本政府側はこれを歓迎した。
しかしドイツやイタリア、ソ連を訪問中で、この4月に日ソ中立条約を結んだばかりの外相松岡洋右は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったため、強硬な反対によって提案を白紙に戻させた[88]。
さらに松岡は、日独伊三国同盟にソ連を加えた「ユーラシア四ヶ国同盟締結」を構想していたが、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだばかりのわずか1年10か月しか経たない6月22日にドイツがソ連を奇襲攻撃し独ソ戦が始まり、その望みは打ち砕かれた。なお松岡の考える「ユーラシア四ヶ国同盟締結」も、ドイツのソ連への奇襲計画も、3月にヒトラーと会談した時には伏せられていた。
松岡はドイツのソ奇襲攻撃に合わせ即時対ソ宣戦を主張し、ドイツも強くそれを望んだが、そもそも日本が日ソ中立条約を結んだばかりのソ連に参戦する大きな根拠もなく、さらに先に起きたノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、閣内にあって「暴走状態」にあった松岡の更迭は、政権存続のための急務となっていた。
ここに近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上で第3次近衛内閣を発足させ、松岡はここで内閣から完全に外された。
しかし、松岡は常々からイギリスやソ連との戦争は避け得ないと考えていたが、自らのかつての留学先でもあり、知人も多かったアメリカと日本との戦争は望んでいなかった[89]。松岡は「英米一体論」を強く批判し、たとえイギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた[89]。
日本軍の南部仏印進駐
1941年6月25日の大本営政府連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」が策定され(南進論)、フランスの同意の下で南部仏印への進駐が決まった。一方、7月に対ソ連の戦争(北進論)準備行動として関東軍特種演習を発動した。その中で仏領インドシナを日本にとられることを危惧したアメリカは、日本に対する石油の輸出許可制を敷くことで日本を揺さぶった[90]。
この措置に対向するため、日本は石油などの資源買い付け交渉を、本国がドイツ軍の占領下に置かれ、ロンドンに置かれた亡命政府の下にあるオランダ領東インドと行っている。一時は交渉成立したが、その後アメリカの圧力により、オランダ植民地政府側が供給する量は日本が求めた量の1/4に留められ、日本は6月に交渉を打ち切った。このせいで当時の日本では高オクタン価の航空機用燃料の貯蔵量が底を尽きかけた。
さらに7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し日米間の航路も遮断、同日日本はフランスの同意の下での南部仏印進駐をアメリカに通告した。アメリカは石油の輸出の全面禁止をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた[91]。しかし当時の仏印では現在のベトナムとは違い油田は見つかっておらず、石油は掘れなかった。
インパール作戦現在では「史上最悪の作戦」と言われており、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよぶ。
日英米蘭関係の悪化
8月1日にイギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等を廃棄。亡命先のイギリスの圧力を受けたオランダ植民地政府は、対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止。アメリカは、南部仏印進駐に対する制裁という名目の下石油輸出の全面禁止をそれぞれ決定した。
日本にとっては、中でも石油輸出の全面禁止は深刻であり、約8割をアメリカから輸入していた。このままではジリ貧になるため、開戦を早期にすべきとの強硬論が陸軍を中心に台頭し始めることとなった。これらの対日経済制裁は併せて、アメリカ (America)・イギリス (Britain)・中華民国 (China)・オランダ (Dutch) の頭文字を取って「ABCD包囲網」と呼ばれるようになった。
なおアメリカは、8月に大西洋憲章を締結した大西洋会談で、イギリス首相のチャーチルからドイツに対する参戦要請を受けていたがこれを保留していた。また日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。
開戦準備決定
これを受けて9月3日に御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、1941年10月末を目処とした開戦準備が決定された[92]。
その一方で、8月7日に近衛首相は昭和天皇から「首脳会談を速やかに取り運ぶよう」との督促を受け、野村吉三郎大使に「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は、此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」と宛て、米大統領ルーズベルトとの首脳会談を提案するよう訓電した[93]。首脳会談の申し入れは野村からコーデル・ハル国務長官に行われたが(ルーズベルトはチャーチルとの大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった[94]。しかし実のルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、「ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうか」と返事をした[94]。
さらに近衛首相は、8月27日、28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』で、総力戦研究所より日米戦争は「日本必敗」との報告を受ける。 しかしその一方で、中華民国との戦争が4年たっても勝利が見えない中、イギリス(とオーストラリアやニュージーランド、英領インドなどイギリス連邦諸国)とアメリカ、オランダという、日本に比べて資源も豊富で人口も多く、さらに明らかに工業力が大きい国家、それも複数と同時に開戦するという、暴挙とも言える政策に異を唱える者の声は益々小さくなっていった。
なおイギリスやアメリカとの開戦に関して日本の東条ら陸海軍首脳は、「アメリカ国民は厭戦気分が強く、緒戦で日本軍が圧倒した場合、日本に有利な条件で講和に応ずるであろう」、「イギリスはドイツと間もなく講和に向かい、日本に有利な条件でマレーや香港も手放さざるを得なくなるだろう」といった安易(または勝手)な想像と思いこみを根拠に開戦の準備を進めた。さらに東条らが言うように、日本陸海軍に攻撃されたイギリスやアメリカ、オランダが、その後簡単に停戦、講和交渉に応じるという根拠はどこにもなかった(なお東条陸相は駐在武官としてスイスに駐在し、ドイツに訪問したことこそあるものの、イギリスやアメリカを訪問したことは1度もなく、英語もできないため両国の首脳陣に知人もいなかった。これは海軍ならともかく、当時の日本の陸軍官僚や政治家では標準的な事であった)。
いずれにしても、このような日英米蘭関係の悪化を受けて、日本海軍はホノルルやサンフランシスコ、メキシコ、サイゴン、マカオ、マドリードなどにスパイを送っている。例えば3月26日にホノルルに送られた吉川猛夫少尉は「森村正」の変名を名乗りホノルル領事館に勤務した。吉川が収集した情報は、真珠湾におけるアメリカ海軍の艦船の動向など多岐にわたり、喜多長雄総領事の名で東京に暗号にして打電していた。吉川の正体は総領事以外誰も知らされなかった。
東條軍事内閣成立

陸軍はアメリカ(ハル)の回答をもって「日米交渉も事実上終わり」と判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一を荻外荘に呼び「五相会議」を開き、対英米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。
そこでは中華民国からの撤兵を行うことで、日米交渉妥結の可能性があるとする首相・近衛および外相・豊田と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする陸相・東條の間で対立が見られた[95]。
近衛首相は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。(戦争をやるなら指揮を)自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した(これには直前の10月14日に内閣嘱託がソ連のスパイとして2人も逮捕され、自らの関与も疑われた「ゾルゲ事件」の責任を取っての辞任との噂もある)。
近衞首相と東條陸相は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は、戦争になれば皇族に累が及ぶことを懸念する木戸幸一内大臣らの運動で実現せず、東條陸相が次期首相となった。
この推薦には「現役陸相の東條しか軍部を押さえられない」という木戸内大臣の強い期待があったが、その「期待」により、「軍人(=官僚)が選挙の洗礼を受けていないで首相という全権を得てしまう」という民主主義国家としてはあり得ないことが起こった。このことは、軍部の暴走がますます止まらなくなり、さらに日本が「文民(=党人)政権」から「軍事政権」へ移行し国家が「戦時体制」となったと民主主義国家から受け止められかねないという、2つの点を完全に無視していた[95]。
またこれまで日本では、岡田啓介や米内光政、桂太郎のように、選挙を経ないで選出された軍事官僚が首相になることはあったものの、このように陸海軍が好きに国をコントロールする「軍事(=官僚)独裁体制」はかつてなく[95]、しかしこの体制は結局敗戦時の鈴木貫太郎まで続くことになる。
ゾルゲ事件
このような中で、1941年9月27日のアメリカ共産党員の北林トモや10月10日の宮城与徳、10月14日の近衛内閣嘱託である尾崎秀実や西園寺公一の逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・逮捕された[96]。その後ドイツの「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の記者で、東京府に在住していたドイツ人のリヒャルト・ゾルゲなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内でソ連並びにコミンテルンの諜報活動および謀略活動を行っていたことが判明した。
捜査対象に外国人、しかも友好国のドイツ人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では、特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。その後に宮城と関係が深く、さらに近衛内閣嘱託である尾崎や西園寺とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ、容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などによる逃亡、証拠隠滅が予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず総理退陣が間近な近衛文麿と近い尾崎、西園寺の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。
その後尾崎が近衛内閣が総辞職する4日前の10月14日に逮捕され、東條英機陸相が首相に就任した同18日に外事課は、検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼンと妻のアンナ、ブランコ・ド・ヴーケリッチの外国人容疑者を検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、いわゆる「ゾルゲ事件」が明らかになった[97]。
ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることができたといわれる[98]。
ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、スパイを取り締まる責任者のヨーゼフ・マイジンガーは、ベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[99]。さらにゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオイゲン・オット大使や、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[100]。またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。
しかし友邦ドイツの大使館付の私設情報官という、万が一の時には外交的にも大問題となる場合に対し万全を尽くした警察の調べにより、逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた[101]。間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。その後の裁判で、ゾルゲやクラウゼンなどの外国人特派員や宮城や北林らの共産党員、そして尾崎や西園寺などの近衛内閣嘱託が死刑判決や懲役刑を含む有罪となった。なお当然ながら尾崎や西園寺と非常に近い近衛の関与も疑われたが、その後の辞職と英米開戦で不問となった。
なおオット大使は1941年12月に日英米が開戦し、ドイツもアメリカに宣戦布告したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続けた。オット自身からリッベントロップにゾルゲ逮捕についての報告はなかったとみられ、ドイツ外務省には満州国の新京駐在総領事が1942年3月に送った通信でゾルゲ事件の詳細がもたらされたと推測されている[102]。これを受けてリッベントロップはオットに、ゾルゲに漏洩した情報の内容や経緯、ゾルゲが身分をカモフラージュしてナチス党員やドイツの新聞特派員になりおおせた事情の説明を求めた[103]。これに対して、オットはゾルゲのナチス入党の経緯や大使館が新聞社に推薦をしたかどうかはわからず、ゾルゲには機密情報と接触させなかったと弁解した[103]。さらに、事件が日独関係に支障をもたらしていないと述べた上で、自らの解任もしくは休職を要請した[103]。
オットは1942年11月に駐日大使を解任され、後任は駐南京国民政府大使のハインリヒ・ゲオルク・スターマーとなった[104]。解任通知には「外務省に召還」とする一方で、ドイツへの安全な帰還が確保できないとして、私人として一切の政治的活動を控えながら当面日本にとどまるよう指示されていた[104]。その後華北政務委員会の北京へと家族とともに向かった。
対するソ連は、ゾルゲが自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲが自国のスパイであったことを戦後まで拒否し通していた[105]。ゾルゲの死刑は、第二次世界大戦末期の1944年11月7日、関与を拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。
なお、第二次世界大戦後日本に連合国軍最高司令官総司令部の参謀第2部の責任者として駐在したアメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビーは、ゾルゲ事件とソ連やコミンテルン、またその関係者と、アメリカ共産党とそのシンパとの親密な関係に注目し、大掛かりかつ綿密な調査を行った[106]。
南方作戦準備
10月15日と22日に相次いで太平洋航路に着いた臨時便の「龍田丸」と「大洋丸」は、択捉島沖からアリューシャン列島沖を通るなど、後の真珠湾攻撃と似通ったルートを取った変則的な航路を採った。また両船ともにホノルルに外務省や船員などの名目で海軍の諜報員を送っており、ハワイ沖でアメリカ海軍の哨戒機に遭遇したほか、真珠湾の哨戒、防衛の現状をつぶさに調べており、アメリカ海軍の北太平洋の哨戒や真珠湾の防衛の現状、さらに現地諜報員の情報を海軍本部に持ち帰るなど、南方作戦の準備は着実に進んでいた[90]。
なお当時の日米間の関係悪化を受けて1941年8月に太平洋航路の定期便は運休されており、それ以降の太平洋航路の旅客船は「臨時交換船」扱いであった。さらに日本船は在米日本資産としてアメリカ政府に差し押さえられることを避けて、日本郵船や東洋汽船から日本政府が貸切る形となった。このために横浜発の便はアメリカへ帰国するアメリカ人で一杯になっており、逆にホノルルやシアトル発の便は日本へ帰国する日本人で一杯だった。なお日本郵船のロンドン線やハンブルク線などの欧州路線は、欧州戦域の悪化ですでに運休となっており、そのため太平洋路線でアメリカ経由でアジアとヨーロッパを行き来する乗客も大勢いた。
東條首相の下で10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[107]。10月14日に日本は対アメリカの最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した(これは当時の日本陸軍ができる最大の譲歩であった)。

11月6日には、日本政府は帝国国策遂行要領に基いて、南方軍にイギリス領マラヤやシンガポール、ビルマ、香港など、またオランダ領ジャワやアメリカ領フィリピンなどの攻略を目的とする「南方作戦準備」が指令され[108]、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[109]。なお11月11日に、イギリス首相のチャーチルは「もしアメリカに日本が宣戦布告をした場合、1時間後にはイギリスも日本に宣戦布告する」と述べ[110]、マレーの哨戒を強化した。
日米交渉の期限切れを受け、11月26日早朝に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「瑞鶴」、「飛龍」などからなる日本海軍機動部隊の第一航空艦隊は、南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からアメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地に向け出港した。なおこれは、日米交渉のアメリカの出方により途中で引き返す可能性があることが、あらかじめ海軍上層部には伝えられていた。なおこの日本海軍の動きは、アメリカ側には全く察知されなかった。
さらに、太平洋航路の最後の臨時便となった龍田丸の航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルスへ入港する予定であった。だが、この時点で日本は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、対英米開戦とともに龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった。しかし大本営海軍部(軍令部)は、開戦日を秘匿するために龍田丸をあえて出港させることにする。ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は龍田丸の木村庄平船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した。
龍田丸は12月8日に開戦の報を受けて即座に引き返し、12月15日(戦史叢書では12月14日着)に横浜に帰港した[111][112]。上述のように、龍田丸のこの航海は、まさに南雲機動部隊による12月8日の真珠湾攻撃をカモフラージュするための航海であった[111]。
ハル・ノート
11月27日(アメリカ時間11月26日)に、裏では日本軍による南方作戦準備が着々と進む中で、アメリカのコーデル・ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使と、対米交渉担当の来栖三郎遣米特命全権大使に通称「ハル・ノート」(正式には:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略/Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)が手渡された(なお、これの草案を手掛けた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトは、第二次世界大戦後にソ連のスパイであることが判明し、1948年に自殺している)。
この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」といった譲歩を求める内容もあった。
この文章はあくまでハルの出した「基礎提案 (Outline of Proposed Basis)」であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし (Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)」と明確に書かれてあり[113]、題名の「基礎提案」通りに、ここから日米両国の当事者で落としどころを探るものであったものの、内容としては日本側の要望を全て無視したものであったことから、日本側は事実上の「最後通牒」と誤訳と意訳、解釈し、そして最終的に認識した。
そしてこの中にある日本側が最重要視する「満州国を含む全中国からの撤退」か、それとも「満州国を含まない全中国からの撤退」を求めているか否かなど、肝心かつ重要な点をハルをはじめ全くアメリカ側に対し明確にしないまま、12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定する。
暗号機の廃棄
対英米蘭開戦が決定すると、1日に外務省は、ロンドンやワシントンD.C、シンガポールやマニラ、香港などの日本大使館や領事館に、開戦で接収される恐れのある暗号機を廃棄するよう命じた。さらにワシントンD.Cの日本大使館に暗号機を1機残して廃棄を命じた上で、館員が庭で残存文書を焼却した[114]。
イギリスやアメリカ側では、こうした動きに気づいて不審に思い警察に報告した者もいたが、それは「イギリスやアメリカが攻撃することを恐れて日本側が機密文書の焼却を行っている」と、一方的に勘違いしているものであり、イギリスやアメリカでは大きな騒ぎにならなかった。
マレー方面出撃
そのような中で、日本は本土からアメリカのハワイに比べ比較的近い対イギリスやオランダの植民地に対しても隠密裏に進軍を開始し、12月4日、中華民国の三亜で、作戦の全船団の出撃を確認した日本海軍の馬来部隊指揮官・小沢治三郎海軍中将も出撃した[115]。
さらに山下奉文陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船も艦艇に護衛され、ついにイギリス領マラヤとオランダ領東インドを目指して進撃を開始した。対するイギリス軍やオランダ軍は全く油断しており、これらに気づく者は皆無であった。
このように対英米蘭開戦を決定しながら、その裏ではマレー半島とハワイに向かう日本海軍機動部隊をいつでも反転できるようにしたまま、日本政府はぎりぎりまで来栖三郎と野村吉三郎の両大使にコーデル・ハル国務長官との交渉を進めさせたが、ついに打開策は見つけらなかった。
対英米開戦と宣戦布告遅延
12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は首相東條英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げた[要出典]。これを受けて東條は外相東郷茂徳に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った(厳密にはこれは開戦通告ではなく、当時行われていた野村・来栖両大使による特別交渉の成果達成諦めの通知である。また、英国相手には初めから何か行うことは考えられていない。)東郷から駐米大使館の野村吉三郎大使宛に、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」が、現地時間12月6日午前中に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。
「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃(以下は全てアメリカ東海岸現地/ワシントンD.C.時間)から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日午前7時までに到着したとみられる。
九〇四号は機密保持の観点から「覚書の作成にタイピストを利用しないように」との注意があり、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。しかし、「タイピストを利用しないように」との注意に忠実に、解読が終わったものから順にタイプが不得意な一等書記官の奥村勝蔵により修正・清書され、そのために時間を浪費してしまう。その上に館員の多くは6日夜には、ブラジルへ赴任する館員の送別会も兼ねてワシントンD.C.市内の中華料理店「チャイニーズ・ランタン」に向かい、多くはそのまま自宅へ戻ってしまう。

さらに12月6日午後9時(日本時間7日午前10時)に米大統領ルーズベルトは昭和天皇へ親書を送り、ジョセフ・グルー駐日大使に暗号文の翻訳を急がせた[116] ものの、親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇の元に届いたのは開戦直前(日本時間8日未明)で手遅れであった[117]。
12月7日の朝9時(日本時間7日午後11時)に日本大使館に出勤した電信課員は、午前10時頃に14分割目の解読作業を開始し、昼の12時30分頃(日本時間8日午前1時30分)に全文書の解読を終了した。14分割目も奥村により修正・清書され、そして午後2時20分(日本時間8日午前3時20分)に特命全権大使の来栖三郎と大使の野村吉三郎より、国務省にてコーデル・ハル国務長官に手交された。しかし、これはそもそも日本政府の設定した「手交指定時間」から1時間20分遅れで、日本陸軍のイギリス領マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、日本海軍のアメリカのハワイの真珠湾攻撃の1時間後だった。そのために、日本政府は後にアメリカ政府より宣戦布告の遅延が非難されることになる。
こうして日本(外地含む人口:約1億人)は、中華民国と(人口:約4億人)の戦いを続けながら、ついにイギリス(オーストラリアやニュージーランド、イギリス領マラヤやイギリス領インド帝国なども含む。大英帝国とそれらの植民地含む人口:約5億人)、アメリカ(アメリカ領フィリピンなども含む。植民地含む人口:約1億5000万人)、オランダ(正式には植民地であるオランダ領東インド。なお本国はイギリスへ亡命。植民地含む人口約2億人)、カナダ(人口:約1500万人)などとの間にも開戦することとなり、ここで、ヨーロッパ戦線やアフリカ戦線から、アジア戦線やアメリカ・太平洋戦線へと全世界に戦域が広がり、まさに世界大戦となる。
経過(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)
1941年
1941年12月8日午前1時35分(日本標準時)に行われた日本陸軍とイギリス陸軍との戦い(マレー作戦)により、太平洋における戦闘が開始され、アジア太平洋戦線が第二次世界大戦へ発展した(「アメリカ・ハワイに対する真珠湾攻撃がはじまり」というのは間違い、もしくは虚言である)。
当初予期されたイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も認めない状況を鑑み、小沢治三郎中将は予定通りの上陸を決意した。「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下奉文中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した[118]。7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた[119]。日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、12月8日午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領マラヤ北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。
しかし、マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、日本軍の上陸に備えていたイギリス陸軍の水際陣地に苦戦した。日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、両基地の占領に成功した。さらに、多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃し、マレー半島をシンガポールに向けて南下した[120]。
イギリス陸軍はかねてから国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島およびシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600人、イギリス領インド帝国兵37,000人、オーストラリア軍15,200人、その他16,800人の合計88,600人に達していた。兵力数は日本陸軍の開戦時兵力の2倍であったが、イギリス軍やオーストラリア軍は訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。さらに軍の中核となるべきイギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスより地中海を避けて喜望峰とインド洋を通りドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島に輸送途上であった。
イギリス空軍マレー半島司令部は、開戦前に本国へ幾度も増強の要請をしたが、本国ではドイツ空軍のイギリス本土猛攻に対する防衛(バトル・オブ・ブリテン)に手一杯であり、遠いマレー半島の空軍増強の要請に対応できなかった上、上記の陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦攻撃を避けて運搬したため、時間が大幅にかかった。その結果、開戦当時のマレー半島のイギリス空軍の中心は、ブルースター・F2Aバッファローやブリストル ブレニムなどの、当時としても二線級機とならざるを得なかった。
さらにイギリス空軍は日本軍の技術に対する研究が不十分であり、「ロールス・ロイスとダットサンの戦争だ」と、人種的な偏見により日本軍の航空部隊を見くびっていた。その結果、日本軍の零式艦上戦闘機や一式陸上攻撃機、九六式陸上攻撃機などの新鋭機に、よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。
また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要である香港への攻撃を開始したほか、中華民国の上海のイギリスやアメリカ租界を瞬く間に占領した。日本に占領されたものの、残ったイギリスやアメリカ、オランダやオーストリア、デンマークやフランスなど連合国の職員と評議員は、その職から解任されたにもかかわらず、1943年に日本陸軍に抑留されるまで職の管理存続に動いていた。


日本軍のイギリス領マレー半島上陸開始の約1時間半後、日本海軍6隻の航空母艦により、ハワイのオアフ島(当時のアメリカ自治領で、アメリカが1898年に武力で統合)にあった、真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に、攻撃(真珠湾攻撃)が行われた[90]。日本海軍は山本五十六大将指揮の下、当時世界最大の空母機動部隊を保有していた。
前日12月6日(ハワイ時間)の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍のハズバンド・キンメル大将とウォルター・ショート中将にも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせると判断し、真珠湾にいる艦隊をそのまま在港させることとした。
また同日、パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方に米大統領ルーズベルトに翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ[90]。しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントは全くなかった。
しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後に、在アメリカの日本の外交団は全ての暗号機を破壊せよとの指令も付しており、攻撃時間を十分連想されるものであった。その「ワシントン時間午後1時30分」が、「ハワイ時間午前7時30分」であることを思いつく者はいなかった。さらに結果として日本陸軍のマレー上陸の報が、イギリス軍からハワイに展開するアメリカ軍に伝達されるのはコタバルへの攻撃開始のはるか後のことになり、その結果、ハワイの真珠湾ならびにアメリカ領フィリピンを含む太平洋地域のアメリカ軍の迎撃体制の緩みに影響することはなかった。
ハワイ時間の7日の7時10分に日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「ワード」から攻撃を受けたが(ワード号事件)、ハワイ周辺海域では日本の漁船などへの誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されなかった[90]。また、その直後にはアメリカ軍の哨戒機が湾口1マイル沖で潜水艦を発見し爆雷攻撃を行ったとの報告もなされたが、その報告を聞いた海軍参謀らは駆逐艦「ワード」からの報告も含めて長々と議論するばかりで結論を出すことができず、陸軍に連絡することすらしなかったため、陸軍は警戒態勢の強化を図ることができなかった。さらに、これが大規模な日本海軍の攻撃開始とは気づかなかった真珠湾のアメリカ海軍の将兵のほとんどが、日米間の緊張した状況を知らされず、ほとんどが演習だと信じ込んでいた。
日本海軍の最初の魚雷は8時前に「ウエストバージニア」に命中し、8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中した[121]。以降は日本海軍機は一方的な攻撃を展開し、9時前には第2次攻撃も開始し、オアフ島真珠湾上の「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17やカーチスP-40など陸海軍航空機328機破壊をはじめ2400人以上の死者を出し、これに対しわずか29機の未帰還機と特殊潜水艇5隻の未帰還の被害で終えた[90]。
その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ海軍太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ海軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという[122] 作戦目的を達成した[123]。なお激しい戦闘の最中に、ホノルル港に停泊していたオランダ海軍の「ヤーヘルスフォンテイン」が日本軍機に向けて搭載している対空砲の射撃を行い、大東亜戦争において最初のアメリカ軍の友軍による参戦となった[124]。
アメリカ海軍太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカ海軍空母が出港中で、空母と艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる[90]。なお、当時日本軍は短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、大統領のルーズベルト以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ諸島上陸を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイ諸島のアメリカ利権の廃棄を想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。さらに、7日昼にはサンフランシスコなどアメリカ西海岸に非常事態宣言が出された上、さらにルーズベルトは日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土西海岸から中西部への侵攻の可能性が高い、と分析していた。
また、日本が日米交渉の一方で戦争準備を進めていたこと、さらに宣戦布告の遅延があったことは、その後アメリカ政府による「卑劣なだまし討ち」というプロパガンダとして、長年後世に渡って使用されることとなった。ただし、先に開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかった上、1939年9月のドイツとソ連のポーランド侵攻の際も完全に宣戦布告が行われなかったなど、当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであり、このように喧伝されることはなかった。アメリカは、レンドリース法でイギリスやオーストラリア、中華民国に武器を与えていることに加え、米比戦争やシベリア出兵、第二次世界大戦以後もベトナム戦争などで宣戦布告なく戦争を行っている[注釈 9]。
かねてよりイギリスの後押しもあり参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に対日宣戦布告を行い、連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。また、すでに日本と日中戦争(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。なお、満洲国や中華民国南京国民政府[注釈 10] も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。しかしアメリカは瞬く間にグアムやアッツ島、フィリピンを日本軍の手により失い、その上に本土西海岸も数度の爆撃や砲撃を受けるなど敗走を続けることになる。さらにその後日本海軍は、真珠湾攻撃のアメリカ側の軍艦の損傷と修理の状況を、スパイであるベルバレー・ディッキンソンを通じて中立国のアルゼンチンにいる海軍情報部に送らせた。
12月8日夜半にイギリス空軍司令部がコタバル飛行場から撤退したこともあり、イギリス海軍は哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった。にもかかわらず、イギリス海軍東洋艦隊のトーマス・フィリップス中将は、シンガポールの空軍司令部に戦闘機の艦隊支援に対する要望を書簡にして送付し、シンガポールにいる当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いて出撃した。9日中に日本軍に発見されない場合は、10日早朝に日本軍の船団を攻撃することを決心して北上を続けた[125]。
しかし12月10日に日本海軍により発見され、マレー沖で日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の攻撃が開始され、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。この攻撃でプリンス・オブ・ウェールズは魚雷7本、爆弾2発。レパルスは魚雷13本、爆弾1発を食らった。日本陸軍側はわずか3機を失い、それに対してイギリス海軍側は2隻併せて将兵840名が死亡した[90]。これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。
なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した[126]。なお、日本軍航空隊は救助作業を行うイギリスの駆逐艦を攻撃せず、救助作業を妨害しなかった。さらに戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いてアナンバス諸島電信所爆撃へ向かう[127]。途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した[128][129]。
この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるシンガポールを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲に、後ろ盾になるはずの東洋艦隊を失ったイギリス軍は敗走を続けた[130]。
次いで日本陸海軍機がアメリカの植民地のフィリピンのアメリカ軍基地を攻撃し、12月10日には日本陸軍がアメリカ軍最大の基地があるルソン島へ上陸し、破竹の勢いでマニラへ向かった。さらに太平洋のアメリカ領のグアム島も占領。なおグアムにおける戦闘はわずか1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民合わせて650名であった。
12月11日、日本の対連合国への宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。
なおこの年にイタリア紅海艦隊の残存艦の「エリトレア」と「ラム2」が、スエズ運河が閉鎖されたために来日し、やむなく神戸港に停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一員となり、これらイタリア極東艦隊は日本からの燃料や食料などの供給を受けて、日本や満州国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、東南アジアとの間の輸送を担当し大活躍した。
これに先立ち12月8日に、イギリス領土の東アジアの要である香港へ攻撃を開始した日本陸軍は、ストーンカッター海軍基地などがある中心の九龍半島の攻略を開始した。啓徳空港もこの際に攻撃され、イギリス空海軍機や、サンフランシスコから到着したばかりのパンアメリカン航空のシコルスキー S-42をはじめとする民間機など14機が日本陸軍に破壊された[131]。これによりイギリス軍が使用できる全航空機を失ってしまう。なお日本軍は攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され13日には九龍半島から撤退した。
さらに12日に日本陸軍が攻撃を開始した香港島では、中心地の中環を中心にイギリス陸海軍は頑強に抵抗し、日本陸軍にも多くの死者を出したものの、兵站に大切なレサボア(貯水池)を占拠されて25日に全面降伏し、日本陸軍は香港一帯を占領した[90]。降伏の交渉は日本軍が司令部を置いていた九龍半島の「ペニンシュラホテル」の3階で行われた。
日本陸軍は700人を超える戦死者を出したが、対するイギリス軍も1,700人を超える死者を出し、捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、英領インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了した(香港の戦い)。
日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地マカオには、中立国植民地を理由に侵攻せず、結局終戦まで進攻は行わなかった[注釈 11]。しかし12月17日[132]、ポルトガル領ティモールは日本軍による利用を警戒したオランダ軍とオーストラリア軍に保障占領の名目で占領された。ポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、イギリスに対し抗議し、12月19日にポルトガルの議会でイギリスへの糾弾演説を行った。
12月17日には、伊7潜水艦とその積載偵察機がオアフ島を偵察し、アメリカ海軍が昼夜を問わず真珠湾の基地を修繕していることを確認。もう一度オアフ島の真珠湾をたたくことを検討する(K作戦を参照)。
12月23日には、井上成美海軍中将指揮の下で同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も、2隻の駆逐艦を失うなど苦戦したが日本軍が占領した。このような状況下で、日本海軍は真珠湾攻撃の援護を行っていた巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26[133]。10隻との記録もある)を、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコなどの西海岸沿岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカやカナダに通商破壊戦を展開し、中でも商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れるほどの距離で砲撃、撃沈し、西海岸の住人を恐怖のどん底においた[134]。
さらには、太平洋のアメリカ西沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、カリフォルニア州のサンディエゴ、モントレー、ユーレカ、オレゴン州のアストリアなどの複数の都市の海軍基地などの軍事施設を一斉に攻撃するという作戦計画があった。しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある[134]。
1942年

東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、1月8日にイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。また日本が進出したフランス領インドシナでは、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている[135]。
1月に日本は、母国がドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命および植民地政府とも開戦し、ボルネオ島(カリマンタン)[注釈 12]、ジャワ島とスマトラ島[注釈 13] などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。
1月30日には、オランダ領東インド・西ティモール沖の戦闘区域で、カンタス航空のショートエンパイア機が日本海軍機に撃墜され、乗客乗員13名が死亡する事件が起きている。なおこれは、2022年現在同社での最大の死亡者数の事故となっている。また同航空は、この後も日本軍との戦闘で機材を失っている。
南米においては、ブラジルが、アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、1942年1月に連合国として参戦することを決定した。ただし、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ヨーロッパ戦線に参戦した。また、ドイツやイタリアと友好関係にあったアルゼンチンは中立を保った。
日本海軍は、2月に行われたジャワ沖海戦でオランダ海軍とアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。2月8日にマカッサル[136]、2月10日-11日にバンジャルマシンに上陸しこれを攻略した[137]。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。このような中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「ファン・イムホフ号事件」が発生している。
日本軍は9日にイギリス領マレー半島のセランゴールを占領、11日午前12時にクアラルンプールの外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した[138]。イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた[139]。
ジョホール州に迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールに迫った。2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールへの攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった[140]。8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡航開始[141]。11日朝、第25軍司令官はイギリス軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた[142]。しかしイギリス軍の最後の軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後にアーサー・パーシバル中将は山下奉文中将に降伏した[143]。
日本陸軍第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、イギリス軍捕虜が約10万人、約5,000名が戦死し、同数が戦傷した[144]。日本の戦死1,713名、戦傷3,378名[145] に上った。陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで日本軍の占領下に置いた。
2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍 (RAAF) のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。オーストラリアに日本軍は上陸しなかったものの、オーストラリア北西への爆撃は1943年11月まで続き、軍民に深刻な被害を出すこととなる。
2月20日[146] に、日本軍は、イギリス軍が占領下に置いていたティモール島全島を占領した。ディリの守備にあたっていた連合軍約1300名の大部分は山中に逃亡し、ポルトガル軍は日本軍に対して抵抗しなかった[147]。以降、ポルトガル領ティモールも事実上は日本軍の統治下になった。
2月24日に、日本海軍伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃し、製油所の施設を破壊した。これで日米戦においては、先に日本がアメリカの本土を攻撃することとなり、日本軍の攻撃におびえたアメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。日本は他にもカナダとメキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による通商破壊戦を繰り広げた。アメリカ政府および軍は本土への日本軍の攻撃はおろか西海岸への上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、日本軍側にはその意図はなかった。
さらに翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行い6人の民間人が死亡するという事件(「ロサンゼルスの戦い」)が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であるとし、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったともいわれる。
また、まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。これ以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」が実質終了した。3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝した。日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現:ミャンマー)首都ラングーン(現:ヤンゴン)を占領。連合国は日本軍に連戦連敗し、アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊は完全に壊滅した。
前年の12月17日にオアフ島の真珠湾を偵察した日本海軍は、1月5日にも伊19より搭載機によるオアフ島の偵察を行った。これによりアメリカ軍が灯火管制もせずに急ピッチで真珠湾攻撃の損害の復旧をしていることを知った[148]。これを受けて大本営]軍部(軍令部)は、真珠湾の復旧活動を妨害すると同時に、当時各地で負け続けであった上に、本土さえ攻撃されているアメリカ軍の士気に更なる損害を加えるため、一三試大型飛行艇(二式大艇)による空襲計画が立ちあげる[148]。
1月17日、連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第六艦隊(司令長官清水光美中将)と第四艦隊(司令長官井上成美中将)に、一三試大艇による作戦研究および計画立案を行うよう伝え[148]た。本作戦は「K作戦」と命名され、補給任務につく潜水艦3隻(伊15、伊19、伊26)は水偵格納筒を改造して、航空燃料補給装置を装備した。 その後2機の二式大艇が横須賀基地からマーシャル諸島ウオッゼ島を出発し、途中フレンチフリゲート礁で潜水艦から燃料補給を受け、3月4日に再度真珠湾のアメリカ海軍基地の爆撃を行ないこれに成功した。
さらに日本海軍航空母艦の翔鶴や瑞鶴を中心とした機動艦隊はインド洋に進出し、海軍空母搭載機がイギリス領セイロン[注釈 14] のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。
イギリス艦隊は、第五航空戦隊などの日本海軍機動部隊に全く反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニ港まで撤退した。さらにイギリス艦隊は日本海軍が勢いを増して追いかけてくることを懸念し、マダガスカル島まで撤収を余儀なくされるが、日本海軍はイギリス艦隊をさらに追い詰めた。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[注釈 15] へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。
アメリカ領フィリピンの日本軍は、4月9日にバターン半島を攻略、アメリカ軍の大量の捕虜を獲得したが、多数の死傷者を出したバターン死の行進事件が発生している。もはや日本軍に追い込まれ、食料も銃弾も尽きていたバターンのアメリカ軍兵士全てが病人となったといっても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた[149]。

マッカーサーは嘘の公式発表をするのと並行して脱出の準備を進めており、コレヒドール島にはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた[150]。5月6日にアメリカ軍のコレヒドール要塞を制圧したが、日本軍がコレヒドール島を攻略したとき、極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーの姿はすでになかった。3月12日にマッカーサーと家族や幕僚たちは、魚雷艇とボーイングB-17でコレヒドール島を脱出しミンダナオ島経由でオーストラリアへ逃亡した。
4月18日にはアメリカ海軍は、アメリカ西海岸攻撃の仕返しに、空母ホーネットから発進したアメリカ陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)を実施、損害は少なかったものの日本の軍部に衝撃を与えたが、これ以降の日本空襲は2年半皆無であった。
5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。
日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月31日には、オーストラリアのシドニー港に停泊していた連合国艦隊に向けて、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われた。
伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を2発発射した。2発とも外れたと見えたが、岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも爆発の衝撃で損傷した。なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍のシカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。
イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地である南アフリカ沿岸のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性があったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃し[151]、南アフリカのダーバン港の他、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。
その結果、5月30日から6月4日にかけて、搭載した特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、攻撃によりイギリス海軍の戦艦ラミリーズに魚雷1本、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty, 6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された[注釈 16][152]。
さらに、南アフリカ沿岸のマダガスカル島に上陸した特殊潜航艇の艇長の秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名が、6月4日にイギリス軍と陸戦を行い、両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀と拳銃で戦いを挑みイギリス軍兵士を死傷させるなどの戦果を上げている。
日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でイギリス軍兵士1名の死者と5人に重軽傷を負わせるなど一定の戦果を上げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し東南アフリカ沿岸まで追いやるなど、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、また友邦のドイツ軍もいなかったことから、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。
日本海軍は、同年6月3日から行われたアメリカのアラスカ準州のアリューシャン列島西部要地の攻略または破壊を目的として行われたAL作戦で、アラスカのベーリング海における漁業や通商の拠点となる重要な港であるダッチハーバーのアメリカ軍基地への空母「龍驤」「隼鷹」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。
また6月6日には、アラスカ準州のアッツ島に北海支隊1,200人が上陸したが、同島に敵の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する(日本軍によるアッツ島の占領)。これは第二次世界大戦においてアメリカ本土に日本軍を含む枢軸国軍が上陸、占領した初めてのことで、続いて7日にキスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。日本軍にとってキスカ島、アッツ島上陸は戦略的には重要ではなく、実際に占領後も少ない守備隊しか置かなかった。
アメリカ合衆国本土が外国軍隊により占領されたのは1812年の米英戦争以来初めてのことであり、アメリカ軍にとっては自国の本土を取られた屈辱の日となった。なお第二次世界大戦で日本本土(沖縄県)に連合国軍が上陸するのは、1945年4月の事である。
しかし同時に行われた6月4日-6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失い、加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。アメリカ海軍機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失するにとどまった。
アメリカ海軍は初めての海戦での勝利で、日本海軍によって瀬戸際に追い詰められた状況に一段落することが出来た。また日本海軍もミッドウェー経由でのハワイ攻略を中止させられることになる。この海戦は太平洋戦線で初の日本海軍の敗北となったが、日本のマスコミに緘口令を指揮、反対にアメリカは国威発揚のためにマスコミを総動員し、映画や新聞、ラジオを使いこの勝利を世紀の大勝利のように喧伝した(それは現在も続いている)。
しかし実際は、この後も日本軍との海戦でのアメリカ海軍の相次ぐ敗北やアラスカ準州の領土の占領、さらにアメリカ本土空襲と本土砲撃を受けるなど、アメリカ軍の敗北と後退は各地でまだまだ続いた。なおこの海戦後日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。またアメリカ海軍も虎の子の正規空母を撃沈され、以降は数少ない体制で1943年中盤のエセックス級航空母艦の大量就役までを乗り切ることを余儀なくされた。
さらに6月20日には乙型潜水艦の「伊号第二十六潜水艦」が、第二次世界大戦で初めてカナダ本土を攻撃し、バンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかった。
翌21日には「伊号第二十五潜水艦」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった(フォート・スティーブンス砲撃)。当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の河口を入った所にあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたA-29ハドソン攻撃機が出撃している。ハドソン攻撃機は伊25へ爆撃を行ったが、巧みに攻撃をかわす伊25に損傷を与えることはできなかった[153]。
この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にあるアメリカ軍基地への攻撃としては米英戦争以来のもので、日本軍の破竹の攻撃がついにアメリカとカナダ本土の軍の施設まで及ぶことになった。

駐日ドイツ大使館付警察武官として東京に赴任したヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐は、6月にヒムラー内務大臣の命を帯びて上海に赴いた。マイジンガー大佐は日本に対し、上海におけるユダヤ難民の「処理」を迫り、以下の3案を提示した。「黄浦江にある廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する」、「ユダヤ人を岩塩鉱で強制労働に従事させる」、「長江河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする」。しかし日本政府は、悪質な上に人道にもとるドイツ側の提案を完全に拒絶した。
しかし、ドイツ政府からの再三の圧力を受けた日本政府により、上海のユダヤ人は特定の地区に居住することを強いられ、そこから出ることを禁じられた。亡命ユダヤ人は財産を処分するために日本政府の許可を必要とし、他の者もゲットーに移住する許可を必要とした。それまでゲットーには有刺鉄線も外壁も無かったが、これ以降は外出禁止令が敢行され、地域は警邏された上食料は配給制になり、区域からの出入りにはパスが必要になったが、いずれにしても日本政府により大戦中を通じて上海の亡命ユダヤ人の命は守られた。
この頃イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画した。6月29日にグイドーニア・モンテチェーリオからイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦を避けて、ドイツ占領下のウクライナのザポリージャ、アラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空、モンゴル上空を経由し、6月30日に日本占領下の内モンゴル、包頭に到着した。しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過してしまい銃撃を受けてしまう。その後東京の横田基地へ向かい7月3日から7月16日まで滞在し、7月18日包頭を離陸してウクライナのオデッサを経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、7月20日にこの任務を完遂した。
しかし、日本にとって中立国の(イタリアにとっての対戦国)ソビエト連邦上空を飛ぶという外交上の理由によって、滞在するアントニオ・モスカテッリ中佐以下の存在を全く外部に知らせないなど、日本では歓迎とは言えない待遇であった。また、事前に日本側が要請していた、辻政信陸軍中佐を帰路に同行させないというおまけもついた。しかも、案件の不同意にも関わらずイタリアは8月2日にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった[154]。
なお、開戦後両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者、留学生とそれらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。その後1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満州国やタイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間についてはこの年の6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回の交換船が運航されることになった。
また開戦以降、ドイツ側は生ゴムやスズ、モリブデン、ボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために海上封鎖突破船を大西洋とインド洋経由で、昭南やジャワなど日本の占領する東南アジア方面に送ったが、大西洋とインド洋のアフリカ沿岸を拠点に活動するイギリス海軍や南アフリカ連邦軍の妨害に遭うことが多くなり、作戦に支障をきたすことが多くなった。
そこでドイツ側は酸素魚雷や無気泡発射管、水上飛行艇などの最新の軍事技術情報を日本から、日本側からもウルツブルク・レーダー技術、ジェットエンジン、ロケットエンジン、暗号機等の最新の軍事技術情報をドイツから入手したいという思惑があり、両国の利害が一致し、ここに日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった。遣独潜水艦作戦の1回目として、伊号第三十潜水艦が8月6日にフランスのロリアンに入港した。2回目は駐独大使館付海軍武官横井忠雄海軍少将が便乗帰国するなど、その5回にわたり行われた。
8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦を繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。さらに同月に行われた第一次ソロモン海戦では、日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカとオーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。
9月9日と29日には、日本海軍の伊十五型潜水艦「伊二十五」の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまで外国軍機によるアメリカ合衆国本土への唯一の空襲となっている。日本軍によりアッツ島の本土上陸に続く、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないためにアメリカ政府は、ラジオや新聞などのマスコミに徹底的な緘口令(情報操作)を敷き、日本軍の本土爆撃があった事実を国民に対しひた隠しにする。実際アメリカ政府は、このことを連合軍の攻勢が強くなる1944年頃まで隠し通した。
その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北したものの、10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破、駆逐艦ポーターを撃沈するなど大勝した。
先立つミッドウェー海戦でアメリカ海軍は正規空母1隻を失い、さらに8月にサラトガが日本潜水艦による雷撃を受けて大破、9月にワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、南太平洋海戦の敗北で太平洋戦線での稼動正規空母が「0」となる危機的状況へ陥った。
上記のように連合国は太平洋戦線での稼動正規空母が皆無という厳しい立場にあったが、日本海軍はミッドウェー海戦で4隻を失ったものの瑞鶴や翔鶴以下5隻の稼動可能正規空母を有てしおり、1942年末では「5対0」と数の上では圧倒的優位な立場に立ち、他にも隼鷹や飛鷹など年内に竣工した新鋭艦もあった。しかし、日本軍も度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、しかも連合軍の敗北に次ぐ敗北で予想以上に補給線が延び切ったことにより、新たな攻勢に打って出ることができなかった。
さらに11月に行われた第三次ソロモン海戦では、アメリカ軍とオーストラリア軍は2隻の巡洋艦と7隻もの駆逐艦を失ったが、日本海軍は戦艦2隻を失うなど、両軍ともに大きな痛手を負った。
日本軍の攻勢は各地でその後も続いた。2月より日本海軍機により実施されていたオーストラリア北部のダーウィンやケアンズなどのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、冬になってもその勢いはとどまらず行われ、同地のオーストラリア空軍ならびに連合国の基地、政府の建物に大きな被害を出した。最終的に日本軍によるオーストラリア空襲は、対オーストラリア戦開始から2年後の1943年11月まで続いた。
インド洋一帯では、イギリス海軍は日本海軍艦船と航空機の勢いを恐れてほぼ完全に放逐され、連合国軍船舶は日本海軍艦船を避けて大幅に航路を変更するなど、その勢いは全く落ちてはいなかった。なお、その結果イギリス海軍がインド洋に戻れたのは、連合国の勝利がほぼ確定した終戦の年の1945年2月だった。
1943年
昨年暮れより行われていた「第一次アキャブ作戦」で、ビルマ方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、日本軍が占領したビルマ南西部のアキャブ(現:シットウェ)の奪回を目指すとともに、特殊部隊「チンディット」(いわゆるウィンゲート旅団)によりビルマ北部への進入作戦を試みた。しかしイギリス軍インド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。さらに日本側はイギリス軍の戦車、装甲車40両および自動車73両の捕獲に成功した。
またこの年に入っても、オーストラリア北部への日本軍の空襲や機銃掃射などの攻撃は優勢なまま継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を撃沈したほか、ダーウィンの燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を上げた。
さらに1月29日に日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖海戦で、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃で打ち損ねたアメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」を撃沈するという大きな戦果を上げたが、2月に日本陸軍はオーストラリア上陸への足掛かりと考えていたガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍とオーストラリア軍とイギリス軍、アメリカ軍ら連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。
前年にラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟が昭南で設立された。連盟の指揮下にはイギリス領マラヤや昭南、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シンと、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた[155]。前年11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者を求めるようになった。
国内外に知られた独立運動家であり、ドイツにいたスバス・チャンドラ・ボースはまさにうってつけの人物であり、またビハーリー・ボースと共に行動していたインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。

その結果、日本とドイツを結ぶ空路よりは潜水艦での移動の方が安全であると結論が出て、2月8日に、チャンドラ・ボースと側近アディド・ハサンの乗り込んだドイツ海軍のUボート U180はフランス大西洋岸のブレストを出航した。その後大西洋を南下し、イギリス軍の海軍基地のある南アフリカの喜望峰を大きく迂回し、4月26日にマダガスカル島東南沖[156]でU180と日本海軍の伊号第二九潜水艦が会合し、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ[157]。5月6日に伊号第二九潜水艦は、スマトラ島北端に位置する海軍特別根拠地隊指揮下のウェー島(サバン島)サバン港に到着した。現地で1週間ほど休養を取った後に日本軍の航空機に乗り換え、5月16日に東京の羽田飛行場に到着した[157]。
3月に「ラジオ・トウキョウ放送」で、連合国軍向けプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」が開始された。音楽と語りを中心に、アメリカ人捕虜が連合国軍兵士に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。英語を話す女性アナウンサーは複数存在したが、いずれも本名が放送されることはなく愛称もつけられていなかった[158]。放送を聴いていたアメリカ軍兵士たちは声の主に「東京ローズ」の愛称を付け[158]、その後太平洋前線のアメリカ軍兵士らに評判となった。同様の放送「日の丸アワー」も同年12月より行われた。
4月7日から15日に、日本軍はガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行う「い号作戦」を行った。この作戦は日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将自ら指揮し、自らはわずかな損失で、アメリカ海軍の駆逐艦アーロン・ワードやオーストラリア海軍のコルベット艦、油槽船やオランダ商船ヴァン・ヘームスケルクなど4隻を沈めるなど完全に勝利し、航空機による船舶への攻撃が有効であることを証明した。
作戦の成功に満足した山本海軍大将[注釈 17] は、4月18日に「い号作戦」前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキード P-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
この頃日本陸海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており(もちろん日本軍もアメリカ軍の暗号を傍受、解読していた)、アメリカ軍は日本陸海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。またアメリカ軍は、日系アメリカ人二世や三世などをオーストラリアの連合国翻訳通訳局などで暗号の解読に従事させ、日本軍の暗号の解読や捕虜の尋問などに役立てた[159]。
5月には北太平洋アリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸。日本軍に占領されたアメリカ領土を初奪還すべく、日本軍の5倍近い人員と強力な陸海軍で及んだアメリカ軍に対し、戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。しかしアメリカ軍はこれ以上の南下をすると日本軍の強力な反撃が予想されるため、南下はしなかった。

前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、5月に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてノーザンテリトリーのみならず、西オーストラリア州内の基地に対しても空襲が行われ大きな損害を与えた。北西オーストラリア各地の空軍基地が大きな損害を受けた結果、オーストラリア軍やイギリス軍、アメリカ軍などからなる連合国軍への後方支援を決定的に弱体化させる結果となった。
これ以前から昭南やペナン、ジャカルタに置かれた日本海軍基地を拠点に、ドイツ海軍の潜水艦や封鎖突破船がインド洋において日本海軍との共同作戦を行っていたが、1943年3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」や「レジナルド・ジュリアーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。またイタリア海軍は、日本が占領下に置いた昭南に潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。8月には「ルイージ・トレッリ」もこれに加わった。
しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった[160])。なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国(サロ政権)成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋およびインド洋の警備にあたった。
なおイタリアの降伏後には、天津のイタリア極東艦隊の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、海兵隊「サン・マルコ」との間で小規模な戦闘の後に降伏した。この後多くのイタリア極東艦隊の将兵はサロ政権側について以降も日本軍と行動を共にするものの、サロ政権につかなかったものは日本に送られ、名古屋の収容所に入れられた。なお天津のイタリア租界は汪兆銘政権の管理下に置かれた。
南方のソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で日本海軍は軽巡洋艦神通を失うも、アメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を、アメリカ海軍駆逐艦グウィンを撃沈、軽巡洋艦ヘレナとホノルル、セントルイス、ブキャナン、ウッドワースとニュージーランド巡洋艦リアンダーを行動不能にさせた。また、10月にベララベラ島沖で行われた第二次ベララベラ海戦でもアメリカ海軍の駆逐艦1隻撃沈、同2隻を大破し連合軍に完勝する。
なおベラ湾夜戦では後のアメリカ大統領のジョン・F・ケネディがアメリカ海軍の魚雷艇 (PT-109) に乗船中、日本海軍の吹雪型駆逐艦天霧に8月2日未明と遭遇し、衝突して真っ二つにされてしまう[161]、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された[162][163]。2名が戦死したものの、残り11名と共に近くの小島に漂着の後[163]、1週間後に救助された[164]。
ニューギニア島でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から10月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるラバウルは孤立化し始める。しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。
一方、連合軍が依然として劣勢であったビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、新たに10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍への攻撃を開始したが、これは小規模なもので日中両国に大きな影響を与えることはなかった。また中国戦線ではアメリカ軍も加わり11月から常徳殲滅作戦が行われた。
外相重光葵の提案を元に、11月に日本の首相東條英機は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、イギリスやアメリカ、オランダなどの白人国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章」に対抗して「大東亜共同宣言」を採択し、大東亜共栄圏の結束を誇示する。
なおこれに先立つ10月には、先にドイツから潜水艦で到着後インド独立連盟を引き継ぎ、イギリスからの独立運動を昭南を中心に行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となった自由インド仮政府が設立され、ボースは同時に英領マラヤ、昭南や香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。
一方、初戦の敗退を何とか乗り越え戦力を整えた連合国軍は、この11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、11月にはギルバート諸島のマキンの戦い、タラワの戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が敗北、同島はアメリカ軍に占領された。また同月から12月にブーゲンビル島で行われた一連の戦い(ろ号作戦、ブーゲンビル島沖海戦、ブーゲンビル島沖航空戦)では日本軍は敗北したに見えたが、ブーゲンビル島を巡る戦いは均衡したまま1945年8月の終戦まで続いた。
大量な空母と艦上機を日本海軍との2年間の戦いで失ったアメリカ海軍は、前年から本格的に就役したエセックス級航空母艦の引き渡しが矢継ぎ早に進み、この後23隻が1946年までに引き渡された。またインディペンデンス級航空母艦の他にも、サンガモン級航空母艦やカサブランカ級航空母艦などの50隻に上る護衛空母の就役も始まった。また新鋭機のグラマンF6Fやチャンス・ヴォートF4Uの引き渡しもようやく1943年に始まり、これらの空母に搭載され、太平洋や大西洋の各戦地に送られた。
また11月には、去年の2月から連続して行われた日本軍のオーストラリア空襲が終わりを告げるなど、ようやく態勢を立て直したイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドからなる連合軍と、アメリカ本土からオーストラリア、インドから東アフリカまで、戦線を延ばし過ぎて兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じながら、事実上1国で戦わなければいけなかった日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は開戦後2年を経てついに後退を余儀なくされていく。
1944年

ビルマ方面では日本陸軍とインド国民軍の共同軍と、イギリス陸軍で地上戦が続いていた。3月、インド北東部アッサム州の都市で駐留するイギリス領インド陸軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入し、昭南からスバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入した大規模な作戦であった。当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。兵站を無視し精神論を重視した杜撰な作戦により、7月までに約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。同作戦の失敗により翌年、アウンサン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
しかし日本軍は5月頃、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で、日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦を開始し、ここに日本陸軍の建軍以来最大の攻勢である「大陸打通作戦」が開始された。
作戦自体は、京漢鉄道の黄河鉄橋の修復を1943年末に開始し、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通させるなど、周到な準備が行われた。対する河南の中華民国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたため、現地住民の支持を得ることができなかった。これが中華民国軍の敗北の大きな一因になったといわれる[165]。蔣鼎文によるとほとんど一揆のような状態だったという。
日本陸軍の攻撃を受けて、4月にアメリカ軍は最新鋭爆撃機である出来たばかりのボーイングB-29の基地を成都まで後退させている。また長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の中華民国軍とアメリカ軍の共同飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり連合国軍は撤退していた。日本軍は、中華民国軍とアメリカ軍を12月まで相手に、計画通りに連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、結果として日本軍の最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。連合国軍は航空基地をさらに内陸部に撤退せざるを余儀なくされた。
ルーズベルトは中華民国の蔣介石を開戦以来一貫して強く信頼しかつ支持していた。カイロ会談の際に、蔣介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、大陸打通作戦作戦により蔣介石の戦線が総崩れになったことでその考え方を改めたという。実際、これ以降蔣介石が連合国の重要会議(「ヤルタ会談」と「ポツダム会談」)に招かれることはなくなった。
5月17日に、イギリス海軍とアメリカ海軍の合同機動部隊は、ジャワ島スラバヤの日本軍基地へ航空攻撃を開始し(「トランサム作戦」)、日本軍の航空機や艦船、陸上施設に打撃を与えることに成功した。これは極東でのイギリス海軍航空隊による最初の大規模な反撃で、以降アメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も日本に対して反撃に転じることになる。また6月にポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、日本に対しティモール島からの日本軍撤退を正式に要請した。しかし日本軍は即座に撤退は行わず、日本軍が撤退したのは日本の敗戦後であった。
日本の陸海軍、緒戦の予想以上の勝利で延び切った補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあったため、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である「絶対国防圏」を昨年9月に御前会議で設けた。
しかし6月に、早くも絶対国防圏の最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。旗艦大鳳以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。これらの島では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。
また6月に、中華民国の成都より九州の官営八幡製鐵所を主目的としてアメリカ軍の新型爆撃機であるボーイングB-29による日本初空襲が実施された。この空襲の主な目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。その上6機が撃墜されている。しかしこのB-29による日本本土初空襲が両国に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側はその出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対して面目を失うこととなった。一方、アメリカでは本格的な日本本土初空襲成功の知らせは、素晴らしいニュースとして大々的に報じられ、ニュースが読み上げられてる間は国会の議事は停止されたほどであった。しかしその後の中華民国からの爆撃は九州を標的とした小規模なものとなり、本格的な本土空襲は11月にサイパン島とテニアンの基地が出来るのを待つこととなる。
戦況悪化とともに憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。サイパン島が陥落した7月に、岸信介国務大臣兼軍需次官(開戦時は商工大臣)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。これに対し、東條英機は岸信介に「ならば辞職せよ」と辞職を迫った。ところが、岸信介は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。

さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったといわれている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、7月22日に東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。しかしながら、憲兵隊を配下にもち陸軍最大の権力者でもある東條英機が内閣総辞職をして、次の内閣の背後に回ったため、その後の内閣も陸海軍の意向で大東亜戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸信介が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら大っぴらには検討しにくいという状態が続く[166]。
ヨーロッパでは連合国軍がフランスに再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍がフランスの大半を奪還したことで、同年8月25日にヴィシー政権が事実上消滅した。これに対して日本政府は「フランス領インドシナ政府はすでに本国に政府が存在しない」という見解を採り、新たな正統政府に対応を一任する考えを明らかにした[167]。これを受けて9月14日の最高戦争指導会議では「フランス領インドシナ政府が日本に対して離反・反抗する場合には、武力処理を行う」ことを定めた「情勢の変化に応ずる対仏印措置に関する件」が決定されたが、これは原則として現状を維持するものであった[168]。
8月にはアメリカ軍は占領したテニアン島とサイパン島の日本軍の基地の改修を解消し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。これにより、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がアメリカ空軍の最新鋭爆撃機であるボーイングB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。実際に11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったボーイングB-29が初めて首都圏を爆撃、東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃した。しかし日本軍もサイパン島から撤退したもののサイパン島のアメリカ軍基地への奇襲攻撃を続け、大きな被害を出し続け、アメリカ軍は基地増設に4か月かかってしまう。その分本土空襲が本格化するのも1945年初頭になってしまう。また、この頃には既に戦争終結と戦後処理に向けた連合国の会合「ダンバートン・オークス会議」がアメリカ・ワシントンDCで行われていた。
ビルマ戦線でイギリス軍とアメリカ軍の攻勢により完全に劣勢となる中、10月には沖縄に十・十空襲が行われ、続いてアメリカ軍とオーストラリア軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した(レイテ島の戦い)。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、アメリカ軍機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。

この海戦でアメリカ海軍とオーストラリア海軍も空母3隻、駆逐艦3隻などを失うものの、日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、アメリカ海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ陸軍は日本陸軍が占領していたフィリピンのレイテ島へ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった上に多数を失った去年までとは違い、今やM4中戦車や火炎放射器、P-51戦闘機やP-47戦闘機など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ陸軍に対し、物質的に乏しい日本陸軍は敗走した。
日本は大量生産設備が整っておらず、その生産力はイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油や鉄鉱石などの物資のみならず、バナナやコーヒーなどをほぼ外地や勢力圏からの輸入に頼っていた。それさえも1944年末頃には、連合軍による通商破壊戦で外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。また、このことによる日本本土の生活への衝撃は大きく、これまではレストランや旅館、ホテルなどは大幅な配給を受けて成り立っていたものの、これ以降はこれらへの配給も制限されていくことになる。

アメリカやイギリスでの10,000メートル上空を飛ぶ大型戦略爆撃機の開発と、それを打ち落とすことのできる高度攻撃機の開発に遅れていた日本は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。11月3日からアメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害はオレゴン州市民6名の死亡と、ネバダ州やカリフォルニア州の数か所に山火事を起こす程度であった。
ただし風船爆弾による心理的効果は大きく、アメリカ陸軍は風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し[169](特にペスト菌が積まれていた場合の国内の恐慌を考慮していた[170])、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用した。
また、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。アメリカ政府は厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽した[169]。
また日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四百型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。
なお、1942年に国防保安法、治安維持法違反などで死刑の判決を受けたソ連のスパイのリヒャルト・ゾルゲは、11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された[171]。
1945年
1月にアメリカ軍はルソン島に上陸した(ルソン島の戦い)。2月から3月にかけてフィリピン最大の都市であるマニラを奪回する戦いが日本軍との間で行われた(マニラの戦い)[172]。
マニラの戦いでは市民をも巻き込んだ市街戦となり、10万人以上が死傷した。また日本軍とアメリカ軍との戦闘に巻き込まれたドイツ人神父など数十人、スペイン人200人以上、スイス人10名が死亡し、旧市街のドイツやスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けた。この時はアメリカ軍による被害も多かったにもかかわらず、「この際の日本による対応に抗議する」という名目(実際は日本とドイツの敗北を見越した乗り換え)で、4月12日にスペインは日本と断交し(ただし、元々スペインは太平洋方面に関しては中立的姿勢であり、日本に対してそれほど協力的というわけではなかった)、中立国のスイスも一時は日本に対して強硬な態度に変わった。
日本は南方の要所であるフィリピンの大半を失い、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源および食糧輸送の安全確保はより困難となった。実際日本本土では、この頃より急激に食料の流通が厳しくなっていく。
フィリピンの戦いの最中の2月4日から始まったソ連のリゾート地のヤルタで行われた「ヤルタ会議」は、主に対独戦についてスターリンとチャーチル、ルーズベルトの3か国の連合国首脳により東欧諸国の戦後処理が取り決められた。併せて、アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦、および千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇も決定した。
フランス領インドシナにおいては、日本陸軍は1940年以来ヴィシー政権との協定の下に駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放によるヴィシー政権崩壊と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、駐屯していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動して戦闘を開始。連合国軍の支援を受けられなかったフランス植民地政府および駐留フランス軍はすぐさま降伏し、日本はバオ・ダイを皇帝に3月11日にインドシナを独立させた。
この頃においても中華民国との大陸打通作戦において優勢にあったインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥ることは少なく、またかなりの戦力と燃料、さらに豊富な食料を維持していたのでイギリスやアメリカ、オーストラリアなどの連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行わなかったため、マレー半島や昭南、ジャワやラバウルなどの占領地などとともにこのまま終戦までの間大きな戦闘もなく終わる。
この頃、元外相の松岡は旧友であり終戦工作に奔走していた吉田茂から、和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。また吉田は、牧野伸顕や近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、殖田俊吉を近衛に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって2月の近衛上奏に協力したことが露見し、憲兵隊に拘束される。また、終戦工作はドイツの趨勢がほぼ決まったヨーロッパでも活発になり、駐スイス公使館駐在武官の藤村義一海軍中佐らが、アメリカのジョン・フォスター・ダレス率いる「ダレス機関」を通じた終戦工作を開始するが、海軍本部からの支持を得られず不調に終わった。

2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。島を要塞化した日本軍守備隊とアメリカ海兵隊との間で大東亜戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(アメリカ軍の死傷者は日本軍を上回った)を出した[173] 末に、硫黄島は陥落した。これ以降アメリカ軍は死傷者を多く出すことに慎重になり、イギリス軍やオーストラリア軍を前面に出すことになる。
前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイングB-29爆撃機による小規模な日本本土空襲が行われていたが、この年に入り本格化していた。またそれまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになった。3月10日未明、これまで一度も本格的な空襲を受けなかった台東区や新宿区、江戸川区など、東京の市街地を狙った東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。その後も東京は、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回大規模な空襲に見舞われた。
アメリカ軍は占領した硫黄島を、ボーイングB-29護衛のノースアメリカンP-51DやF6F戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のボーイングB-29の不時着地として整備した。この結果、低高度であっても、護衛がついたB-29への高射砲などによる迎撃は困難となった。また航路に沿ってアメリカ海軍は潜水艦を配備し、往復時に不時着する航空機に備えた。
これに対抗すべく日本軍は有効射高16,000mの五式十五糎高射砲と連動した高射指揮装置付き防空陣地を築き、ボーイングB-29の撃墜に成功したほか、新型迎撃機の生産、開発を急ぎ、新型戦闘機の四式戦闘機や烈風の生産を進め、ジェット機「橘花」を開発し8月7日に初飛行に成功し、1945年秋の量産開始を予定していたが終戦に間に合わなかった。
3月26日に沖縄の慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し、さらにアメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は4月1日に沖縄本島に上陸して沖縄戦が勃発、凄惨な地上戦となる。沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・大和も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。残るはわずかな戦艦と十数隻の空母、巡洋艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、空母や戦艦などの主要船艇を本土決戦のために保管する。ここに日本海軍連合艦隊は事実上その外洋戦闘能力を喪失した。
連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリス、オーストラリアなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は貨物機や練習機さえ動員して必死の反撃を行うが、少数ながらも戦果は大きく、3月26日の1日で駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「ビロクシ」と駆逐艦2隻を損傷させている[174]。その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日には誠第39飛行隊の一式戦「隼」が、レイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊の旗艦重巡「インディアナポリス」に命中、大破・航行不能にさせている[注釈 18]。
アメリカ海軍やイギリス海軍は潜水艦攻撃や機雷敷設を行い、日本は沿岸の制海権も失っていった。さらに戦艦などからの艦砲射撃や、空母機動部隊の艦載機による日本沿岸への空襲、機銃掃射を頻繁に行った。しかし対する日本軍はこれらに戦闘機や対空砲火で反撃し、連合国の爆撃機や艦載機の被撃墜数も比例して急増した。多い日は1日に日本上空で数十機が撃墜され、その分連合軍の死者や捕虜が出る状況になった[175]。
沖縄への連合国軍の上陸を許すなど、戦況悪化の責任をとり4月7日に辞職した小磯國昭の後継に、近衛文麿や岡田啓介らは鈴木貫太郎を首相に推したが[176]、先にサイパンを失った責任を取り首相を辞任した東條は、「陸軍が本土防衛の主体である」との理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し[177]、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った[178]。これに対して岡田が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條をたしなめ[179]、東條は反論できずに黙ってしまった[176]。こうして鈴木を後継首班にすることが決定された[180]。
鈴木の就任後、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトが亡くなり訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により深い哀悼の意をアメリカに送った。同じ頃、ドイツのアドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた[181]。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスBBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた[182]。
4月30日にドイツの国家元首であるヒトラーが自殺した。日本政府は、ラジオでヒトラーの死を伝えるとともに、同時にデーニッツが国家元首の座に就いたことと、東郷茂徳外務大臣が「ドイツは三国同盟に違反した」ことを述べるにとどまった。さらに新しい外務大臣のルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクより、駐日ドイツ大使館に対して、海軍の通信経由で「ドイツ政府が同盟国としての義務を果たせなくなったことに対して残念なことと、連合国と停戦に向けて交渉を行っている」ことを日本政府に外交文書で伝えるように依頼したが、東郷外務大臣は受け取ることを拒否した。5月9日に、東京の駐日ドイツ大使館は、判明している限りでは世界の公的機関で唯一ヒトラーの追悼式を行った[183]。

5月に入ると連合国による空襲は激しさを増し、東京や横浜、大阪などへ再び空襲が行われたほか、これまでは空襲を受けてこなかった百万都市の他、仙台、小田原、福岡、静岡、岡山、富山、徳島、熊谷、熊本、佐世保、四日市、奈良、北九州、彦根など、全国の60を超える中小各都市も終戦に至るまで空襲や機銃掃射にさらされることになる。だが、それに比例して日本軍の反撃も激しさを増し、戦闘機や対空砲火による連合軍の爆撃機や戦闘機の被害も増大した。しかし、大都市でも京都市、新潟市、金沢市、札幌市は空襲や艦砲射撃などの連合国軍の攻撃をほぼ免れた。
地上戦となった沖縄戦において、5月になりコマンド部隊である義烈空挺隊を編成した。連合軍に占領された読谷飛行場と嘉手納飛行場を急襲し、伊江島の飛行場も猛爆するなど日本の軍民総動員による持久戦で連合軍を苦しめたが、6月23日に第32軍司令官牛島満中将が自決し沖縄は陥落する。18万8,136人が死亡し、うち一般住民は3万8千人に上った。アメリカ軍は7月2日に沖縄作戦終了を宣告したが、日本軍によるゲリラ戦は7月後半まで続いた。
沖縄や硫黄島での日本軍の徹底的な持久戦の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を無期限中止せざるを得なくなる。またアメリカやイギリス、オーストラリアやカナダ、ニュージーランド軍を中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦(「コロネット作戦」)も計画されたが、沖縄戦や硫黄島での反撃で予想されるような日本の軍民による強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、最終的に計画は実行されなかった。
また、日本の領土であるものの、沖縄よりも本土に遠い台湾は、この頃より台南や高雄などがアメリカ軍やイギリス軍の空襲や艦砲射撃に度々遭うようになったが、日本軍の反撃の激しさに、連合国軍は台湾への上陸を諦めた。また同じく外地の朝鮮は、北部こそ連合軍の空襲に遭うことがあったものの、京城や釜山などの中心都市はほぼ無傷であった。また満洲国は南方戦線から遠く、また日ソ中立条約によりソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のアメリカ軍のボーイングB-29の空襲を受け始めた。
同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは、開戦以来元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国民軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウンサンはビルマ国民軍をラングーン(現:ヤンゴン)に集結させたが、集結後日本軍へ攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にはラングーンから日本軍を放逐した。
5月7日にドイツが連合国に降伏。同盟国である日本に対して事前協議も行われなかった無条件降伏であった。これで枢軸国で残るは日本だけとなり、その日本は1946年4月25日まで有効な日ソ中立条約を根拠に中立を保つソ連に頼るしかなかったため、ドイツの降伏後はソ連を通じた和平工作に注力する。しかしこれに先立つ2月、ヤルタ会談の密約で、ドイツを破った後のソ連軍は3か月後に満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。
また10日には、ウランなどを積んで大西洋上日本に向かっていたドイツ海軍のU-234がドイツの降伏を受けてアメリカ海軍に投降し、その直前に友永英夫技術中佐と庄司元三技術中佐が艦内で自決している。なお3,000人いた在日ドイツ人は、5月7日以降終戦まで日本国内に軟禁された。
6月初頭には、疎開先だった箱根の強羅ホテルでソ連のヤコフ・マリク大使は、元駐ソ連大使の広田弘毅元首相の2度の訪問を受け、非公式での終戦交渉を行ったが当然ながら良い返事はもらえず、さらに月末にも広田はわざわざ港区麻布のロシア大使館のマリク大使を訪れている[184] が、その後マリク大使は病気を理由に会談を拒否している。
7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿において3カ国の首脳(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー[注釈 19]、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談)。

7月26日には、イギリス首相、アメリカ大統領、中華民国主席の名において、全13か条からなる宣言である日本軍の降伏に関する「ポツダム宣言」が発表された[185](8月9日に対日参戦したソビエト連邦は、同日に後から加わり追認した)。ポツダム宣言を受けた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は(13条からなる)有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言し[186]、注意を喚起した。なお7月27日に日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。しかし鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連に一層の和平仲介を期待し、ポツダム宣言を黙殺する態度に出た[187]。
アメリカ大統領のトルーマンは、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的から、史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下が行われ、投下直後には十数万人もの犠牲者が出た[188]。なお、当時日本でも独自に原子爆弾の開発が行われていたが、アフリカやドイツなどからウランなど必要な資材・原料の直接の調達が不可能で、ドイツやイタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのマンハッタン計画の進捗には及ばなかった。
しかし、日本政府と軍は本土決戦とまだ中立を保っていたソビエト連邦を介した和平交渉に望みの綱をおいており、その意味では原子爆弾の使用はトルーマン大統領が期待したように、終戦を早める効果は全くなかった[188]。
実際、日本政府と軍は連合軍との本土決戦に運命を託すと同時に、連合国の1国ながら、これまで日本との間に開戦していなかったソ連との中立条約の維持を唯一の根拠にした和平交渉に、いまだに望みの綱をおいていた。しかし、ソビエト連邦は上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を一方的に破棄、8月8日午後11時(以下日本標準時)に対日宣戦布告し、翌9日の午前1時に満州国と日本へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ポツダム宣言に署名していないソ連政府は、日本への侵攻と同時にポツダム宣言に署名した。
9日未明に、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、ソ連軍が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街がソ連軍の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分頃に新京郊外の寛城子が空爆を受けた。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、ソ連軍に対する市民含む地上戦が行われ必死に反撃を行うも総崩れとなった。関東軍総司令部は急遽対応に追われ、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令。しかし日本政府がソ連の対日宣戦の事実を知ったのは、9日午前4時にソ連のタス通信がその事実を報じ始めてからで、外務省では午前5時頃に外相の東郷に報告が上げられた。

これはソ連との中立条約の維持を根拠に和平の道を辿ろうとしていた日本政府にとって、最後の頼みの綱が切れた瞬間であった。この日以降日本政府と軍は急激に降伏への道を進んでいく。
ソ連の参戦を受けて9日昼前に行われた最高戦争指導会議では「国体の護持」、「保障占領」、「自発的な武装解除」、「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、ポツダム宣言を受諾をするという方針が優勢となった。しかし「国体の護持」のみに絞るとする外相・東郷茂徳と、4条件にこだわる陸相・阿南惟幾との間で意見が激しく対立した[189]。
特に陸相の阿南は、海相米内光政とのやり取りで「戦局は5分5分、負けとは見てない」、「海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍で感覚が違う」と主張し、さらに外相である東郷からの「交渉が決裂したらどうするのか」との質問に「一戦を交えるのみ」と答えるなど[190]議論は平行線をたどり、さらに徹底抗戦派の軍令部総長豊田副武が、招かれてもいないのに軍令部次長大西瀧治郎を同席させるなど問題行為があった。結論は9日未明に開催される天皇臨席の御前会議に持ち越された。
そして、ソ連軍の参戦に続いて、9日午前11時02分(最高戦争指導会議の最中であった)に、アメリカ軍のボーイングB-29により長崎市へ原子爆弾が投下された。原子爆弾の投下直後に当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡[注釈 20] し、長崎市の建物は約36%が全焼または全半壊し、インフラストラクチャーは停止し復旧までに多くの時間がかかった。この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された最後の核兵器となった。
ポツダム宣言受諾(8月10日-15日)
- 8月10日
8月10日午前0時3分[191]から行われた御前会議での議論では、外相の東郷茂徳、海相の米内光政、枢密院議長の平沼騏一郎が、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し陸相の阿南惟幾、陸軍参謀総長の梅津美治郎、海軍令部総長の豊田副武は「ポツダム宣言の受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。


しかし唯一の同盟国であったドイツ政府は無条件降伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダなどの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった元中立国のソ連も先日の開戦により日本領土へ迫っており、北海道上陸さえ時間の問題であった。ここで鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で承認された[192]。
日本国の首脳陣の中で、中立国であったソ連の参戦が最終的にポツダム宣言受諾を受託する理由となったが、実際に昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「(対日中立国の)ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[193]。
日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。なおスウェーデンなど一部の中立国では、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、日本が降伏したと早とちりし、一部マスコミがこれを報じた場合があった[194]。
ソ連大使館側の要請により、10日午前11時から貴族院貴賓室にて外相東郷と駐日ソ連大使ヤコフ・マリクの会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ連軍による南樺太および千島列島への進攻、つまり沖縄に次ぐ日本固有の領土内での、市民を巻き込んだ市街戦も開始された[195]。
なおポツダム宣言は日本政府により正式に受諾されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われておらず、それは「ポツダム宣言受諾=降伏ではない」ことから、完全な停戦を行っていないのはイギリスやアメリカ、ソ連などの連合国も同様であった[196]。なお実際10日にはアメリカ軍により花巻空襲が行われ、家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名の被害を出した。
- 8月11日と12日
11日と12日の両日においては日本、連合国の双方の首脳陣において大きな動きはなかった。唯一12日午前0時過ぎに連合国は、日本のポツダム宣言受託を受けて、アメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による返答、いわゆる「バーンズ回答」を行った[192]。
その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に『subject to』する」というものであった。外務省は「subject to」を「制限の下に置かれる」だと緩めの翻訳、解釈をしたが、12日午前中に原文を受け取った参謀本部は、これを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、またアメリカ1国だけの回答ということもあり鈴木首相も再照会について同調した。
- 8月13日

13日午前9時から行われた軍と政府の最高戦争指導会議では、「バーンズ回答」をめぐり再度議論が紛糾した上、この日の閣議は2回行われ、2回目には宣言の即時受諾が優勢となった。しかし1日以上経っても「バーンズ回答」に対して日本政府側からの回答がなかったため、アメリカ軍とアメリカ政府では「日本の回答が遅い」、「政府と軍部で停戦の同意がなされていないのではないか」という意見が起きており、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむアメリカ軍が、東京に早期の申し入れと「バーンズ回答」を記したビラを散布している[197]。
さらにイギリスやアメリカ、そして中立国の多くも日本政府のポツダム宣言受諾をラジオや新聞などで一般に伝えたが、日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民および前線に伝えなかったために、日本政府と軍の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍、ソ連軍との戦闘や爆撃は継続され、その後も千葉(下記参照)や小田原、熊谷や土崎などへの空襲や、南樺太および千島列島、満州国への地上戦も行われた[195]。が継続された。
- 8月14日
14日午前11時より行われた再度の御前会議は、昭和天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南陸相は午後1時が都合がいいと申し出していたが、昭和天皇はなるべく早く開催せよと鈴木首相に命じて、午前11時開始となった[198]。
御前会議では依然として阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争継続を主張したが(この時阿南や梅津は陸軍内でクーデターが起こることを認知していた)、昭和天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、阿南陸相も了承し、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承した。
これを受けて夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音放送が皇居内で録音され、録音されたレコードが放送局に搬出された。また加瀬スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた[195]。
また、昭和天皇によるラジオ放送の予告は、午後9時の全国および外地、占領地などのラジオ放送のニュースで初めて行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」、「15日正午に天皇自らの放送がある」、「国民は1人残らず玉音を拝するように」、「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」などが報じられた。なお昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのはこれが初めてのことであった。
阿南陸相は14日の御前会議の直後の午後1時に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い、御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」[199]、「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」[200]、と諄諄と説いて聞かせた。
しかしクーデター計画の首謀者の一人であった井田中佐は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南陸相は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」[201]「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた[202]。
この期に及んでも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南陸相はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している[203]。なお終戦詔勅への署名の後、日本軍の上層部ならびに情報部などそれらの直属の部署には、終戦の連絡が伝わっていた[185]。
- 8月15日
しかし8月15日未明には、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍軍人らにより、玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生し、森赳近衛師団長が殺害されたが、15日朝に鎮圧される(宮城事件)など、昭和天皇の元ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍内で争いが起きていた。また、午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。なお、クーデターか起きる中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自殺している。


また午前7時21分より全国および外地、占領地などのラジオ放送で、正午に昭和天皇自らのラジオ放送が行われる旨の2回目の事前放送が行われた[204]。
正午に昭和天皇はラジオ放送(玉音放送)をもって、日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、ここに全ての日本軍の戦闘行為は停止された[205]。
なお早稲田大学教授の有馬哲夫やその他多くの研究者が、NHKをはじめとする一部マスコミが主張する「日本が無条件降伏した」というのは間違いで、日本はドイツのような軍と政府を含む無条件降伏ではなく、政府が「ポツダム宣言」での英米中蘇の連合国側の諸条件を受諾した上での降伏であったと指摘している(「調印後」参照)[185]。
公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF アヴェンジャーら日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉が無事パラシュート降下し陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。
なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら8月9日に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停止の8月15日正午のみならず、9月2日の日本との降伏文調印をも完全に無視して継続された。南樺太と千島列島、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。
また満州ではソ連軍と中華民国軍との戦いの中、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく戦闘攻撃を終了した。
停戦後(8月15日-28日)
8月15日正午からの玉音放送終了後、直ちに終戦に伴う臨時閣議が開催され、まず鈴木首相から「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露した。閣僚たちは、1つだけ空いた陸軍大臣の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けていた[206]。
また午後に大本営は大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、自衛のための戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した[207]。しかし、日本の敗戦を知った厚木基地の一部将兵が16日に徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。他は大きな反乱は起こらず、外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。
15日早朝の陸軍によるクーデター発生最中に自決した阿南陸相をはじめ、「武人としての死に場所を与えてくれ」と11機23名(うち5人が生還)とともに玉音放送を受け特攻機で命を絶った宇垣纏中将、ウルシー環礁から伊401で内地へ帰投する途中アメリカ軍に拿捕される直前、艦内で自決した有泉龍之助大佐[208]、陸軍省参謀本部の大正天皇御野立所で切腹した晴気誠少佐など、日本の降伏を受け入れられず、また降伏の責任を負って、または連合国からの逮捕を逃れ、皇居前や代々木練兵場、内外の基地、自宅などで自ら命を絶った軍人や政治家、民間人は数百人に渡った。また東條英機のように9月になってから連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命ざれたあと、自殺に失敗し逮捕される者もいた。
なお17日には日本本土を偵察に来たコンソリーデーテッドB-32を、厚木基地の日本軍機が襲い翌日アメリカ人搭乗員1人が死亡するなどのトラブルが起きた。しかし本土では同じような連合国とのトラブルはこれ以降起こらなかった上、すぐにイギリス軍やアメリカ軍が陸海空軍の相当数の部隊を上陸できる体制にあった。
しかしわずか20数年前の第一次世界大戦で負けたばかりで、その時と同様に本土が崩壊し首都が陥落、中央政府が崩壊したドイツとは違い[209]、およそ2千6百余年の歴史上始まって初めての敗戦で、さらに今だに本土と首都が陥落していなかった上に、中央政府は存続しており[209]、まだ相当の軍人と武器や航空機、船舶が残っていた日本に対する連合国軍の動きは慎重に慎重を重ねた。連合国軍の日本占領部隊の第一弾であるアメリカ軍やイギリス軍が日本本土に上陸するまでは、結果として約2週間という異例の長さであった。
なお、沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下、勢力下にあった。また、中四国はイギリス連邦占領軍が後に駐留することが決まり、結果的にアメリカ軍とイギリス連邦軍だけで正式に日本を占領することとなった。
しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたヨシフ・スターリンは、北海道の北半分のソ連軍による分割占領をアメリカ政府に提案したが、当然のことながら拒否され、駐在武官のみを送るにとどめた。しかしスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続し、22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島での戦いは9月上旬になってからも続いた。なお、中華民国も軍事占領を検討したが、占領時の食料の大部分を日本に頼ろうとしたために、イギリス軍とアメリカ軍から正式に拒否された。

17日に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、皇族である東久邇宮稔彦王が首相を継いだ。皇族が首相に就いたのは武器解除を速やかに進めるためともいわれ、皇族の首相は初めてのことであった。副総理格の国務大臣には近衛文麿、外務大臣には残留した重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には元首相の米内光政が留任した。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が23日に帰国するまでの間、東久邇宮が兼任した。
この時点でも、日本は連合軍に占領された沖縄県を除く日本本土と樺太、千島、台湾、朝鮮半島などの開戦前からの元来の領土の他に、中華民国の上海をはじめとする沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモール島などの北東アジアから東南アジア、ウェーク島からラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満州国などの友好国、スイスやスペイン、アフガニスタンやチリなどの中立国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き揚げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。
そこで16日に連合軍は中立国のスイスを通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。これを受けて19日に、日本政府側の停戦全権委員が2機の緑十字飛行の塗装をした一式陸上攻撃機で木更津から伊江島に飛行し、そこからダグラス DC-4でマニラへと向かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー少将らなどと停戦および全権移譲の会談や、さらに日本本土進駐の際の安全の確保と情報提供を要求するなど、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍やフランス軍、オランダ軍に対する停戦と武装解除、日本進駐の準備は順調に遂行された[210]。

また、引き揚げを受け入れず「欧米諸国からのアジアの解放」という、大東亜戦争の理念を信じて、ジャワやビルマ、マレーなどで勃発したイギリスやオランダからの独立戦争に協力する日本軍の将兵や、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの(通化事件)、のちに個人の意思で中華民国国軍や中国人民解放軍に編入されたものもいた[注釈 21]。また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(九九式襲撃機や九八式直接協同偵察機など)や戦車、銃器など接収した武器がそのまま利用されることも多かった。
さらには、アメリカ領フィリピンのルバング島で1974年まで日本軍の残留兵として戦い続けた小野田寛郎少尉のように、日本軍の将兵として戦闘行為を継続していた者や、アナタハン島のように島単位で引き揚げから取り残される者も発生した。
日本の後ろ盾を失った満洲国はソ連軍の侵攻を受けて崩壊し、18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀や愛新覚羅溥傑ら満洲国帝室と、関東軍の吉岡安直中将や橋本虎之助中将などはその後日本への亡命を図るが、奉天に侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。なお日本と同盟下にあったタイは、16日の日本降伏後に日本側の内諾を得た上で「宣戦布告の無効宣言」を発し、連合国側と独自に講和した。
この様に日本側と連合国側の上記のような準備と混乱を経て、さらに22日から23日にかけて台風が日本を襲い上陸予定地の厚木飛行場も滑走路が水に浸かってしまい、さらに連合国軍の占領は遅れた[211]。
占領開始(8月28日-30日)
ようやく停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。同基地を占領した。全面戦争において首都の陥落がなく、また停戦から首都占領まで2週間も時間がかかったのは、近代戦争のみならず史上でも初めてのことであった。
また、同日東京の大森にある連合軍の捕虜収容所に、アメリカ海軍の軽巡洋艦「サンフアン」から上陸用舟艇が手配され、病院船「ビネボレンス」に、イギリス軍やアメリカ軍の病人や怪我人などを収容していった。
30日午前、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として、連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も、専用機「バターン号」で厚木基地に到着、一行は午後に横浜市内のホテルニューグランドに宿を取った。続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍の占領軍と、中華民国軍、フランス軍、オランダ軍、ソ連軍などの他の連合国軍の代表団も到着した[212]。
降伏文書調印

降伏文書調印式は9月2日に、東京湾(内の瀬水道中央部千葉県よりの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上[213] で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われた。
午前8時56分にミズーリ艦上に日本側全権代表団が到着した。日本側代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵、大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将、随員は終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(軍令部総長豊田副武海軍大将は出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、大本営海軍部参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐、内閣情報局第三部長加瀬俊一、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎らであった。
先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日に参戦したばかりで、しかも15日の日本軍の停戦を無視して、満洲や択捉島、朝鮮などで進軍を続けていたソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。
9時2分に日本側全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式の終了が宣言され、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。
しかし、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。しかし、次の代表であるフランスのフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果としてカナダ代表の欄が空欄となった。
その後各国代表は祝賀会のために船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてこれを拒否。結局、マッカーサー元帥の代理としてサザランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した。
調印後
さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部は、アメリカの大統領ハリー・S・トルーマンの布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。
これに対して日本の外相重光葵は、マッカーサー最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは(フレンスブルク政府のように)政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時に重光の抗議を認め、トルーマンの布告の即時取り下げを行い、英米による占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本も参照)[214][注釈 22]。
また、当日には連合国軍最高司令官総司令部よりすべての航空機の飛行が禁止されたほか、漁船を含む船舶の一切の移動が禁じられた。なお、マッカーサー最高司令官は9月8日まで横浜のホテルニューグランドに宿泊している。
連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し[215]、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。日本での戦犯逮捕を指揮したエリオット・ソープCIC部長は、遡及法でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサー最高司令官に「戦犯を亡命させてはどうか」と提案したことがあったが、マッカーサー最高司令官は「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという[216]。さらに後年、「極東国際軍事裁判は失敗であった」と悔やんでいる[217]。最終的に逮捕したA級戦犯の容疑者は126名となった。

一方、中華民国やイギリス領香港、マレー、シンガポール、ビルマ、インド、またはアメリカ領フィリピンやオランダ領ジャワ、フランス領インドシナ、オーストラリアなどにいた日本軍人、軍属はそれぞれの現地で捕虜となり、その後現地でB級ならびにC級戦犯として裁判に掛けられる者が多かった。これらの軍人、軍属に対する連合国のB級ならびにC級軍事裁判は1946年まで行われ、その結果、収容所に入れられるか[218] または現地で死刑となった。
さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、まともな裁判もないままにシベリア抑留などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。その後帰国してきた軍人も、共産党の教育下で赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍のスパイ(スリーパー)として仕込まれている者も多かった[219]。
民間人や外交官、軍属などは1945年8月より帰国を開始する。自国領土の台湾や朝鮮、またマレーやインドシナ、タイなどからは比較的順調に帰国したものの、中華民国や満州国では内戦やソ連の占領下にあるなど混乱が多く、中国残留孤児など戦後の混乱でやむなく置いていかれる者も多かった。
犠牲者
軍人と民間人の犠牲者数の総計は世界で5〜8千万人に上るといわれている。
戦争裁判
第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所憲章に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。、日本に対しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が、ドイツに対してはニュルンベルク裁判が開廷された。
日本では、戦争開始の罪、連合国のイギリス、フランス、オランダ、中華民国、アメリカとオーストラリアと、なぜかソビエト連邦への侵略行為を犯したとして、東條英機ら軍人や官僚、政治家など28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。なお、民間人は訴追されなかった。
ドイツでは、ヒトラーやゲッペルス、ヒムラーやボルマンなど主要な人物が裁判を前に自殺、もしくは逃亡したが、ヘルマン・ゲーリングらナチスの閣僚や党員だけでなく、軍人や官僚、民間人ら24人が捉えられ、訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。
しかし、広島・長崎への原爆投下、東京大空襲、大阪大空襲、ドレスデン爆撃、ハンブルク空襲など、連合国側の民間人への大規模な無差別戦略爆撃は、枢軸国側より遥かに悪質であり、また大戦初期のソ連によるポーランド[注釈 23]、フィンランド、バルト三国への侵略行為、大戦末期のベルリンの戦い、ブダペスト包囲戦などのソ連兵のドイツなど枢軸国内への虐殺・暴行、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為、さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国への侵攻・暴行・略奪行為、降伏後の日本の北方領土への侵攻・占拠などについての責任追及は全く行われていない。
また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留[注釈 24]、ビルマでの降伏日本軍人の抑留等の事例について、国際法違反の人道犯罪として戦勝国側の加害責任を訴える声も大きかったが、この裁判では、戦勝国の行為については審理対象外とされたため、以上の事例全てが不問とされている。
サンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむを得ず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であったとする報告がある。さらに「人道に対する罪」という交戦時にはなかったいわゆる「遡及法」で裁くなど、刑事責任を問う裁判の根本的規則に反する疑義が、枢軸国だけでなく連合国からも指摘されている。
さらに、敗戦国側では、それら連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかったことを、戦勝国側のエゴ、勝者の敗者に対する復讐裁判として否定する意見が存在する。また、敗戦国側に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及に反することを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら戦争犯罪を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道に対する罪を否定した場合、大量虐殺などの戦時人道犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。
戦後処理
日本やドイツ、イタリアや満州国など、敗戦国となった枢軸諸国には、イギリス軍やフランス軍、アメリカ軍やソ連軍、中華民国軍やカナダ軍、オーストラリア軍やニュージーランド軍などを中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。
敗戦国の処遇は第一次世界大戦の戦後処理に対する反省に基づいた判断となった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦という世界大戦を引き起こすことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、やや日本やドイツ、イタリアなどの敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは2022年現在では不可能となった。
一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われ、ドイツやイタリアなどの西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施された。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、日本とドイツ、イタリアは戦後75年以上が経っても軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている(再軍備も参照)。
ドイツ東部を含む東ヨーロッパおよび外蒙古や満州国、朝鮮半島北部や樺太などにはソ連軍が進駐した。ソ連はバルト三国を併合する[220] とともに、東ヨーロッパの戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。
日本がいなくなった中華民国でも内戦が起き、1949年には毛沢東率いる中国共産党が国共内戦に勝利し、1950年代前半の世界はアメリカ・日本・西ヨーロッパを中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中華人民共和国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も2つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。
第二次世界大戦の原因の一つとなったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことにより、最終的解決を見た。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなど(旧ドイツ東部領土)を喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。
日本に進駐した連合軍の中で最大の陣容は、約75%の人員を占めるアメリカ軍で、その次に約25%の人員を占めるイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍をはじめとするイギリス連邦の諸国軍であった。オランダ軍や中華民国軍、カナダ軍やフランス軍、そして終戦土壇場になり日本へ侵略したソ連軍は、国力の問題や英米の反対により部隊を置かず、東京など日本国内数か所に駐在武官のみを送るにとどめた。
戦勝国となったイギリス、アメリカ、ソ連、フランス、中華民国(1970年代以降は、中華民国から戦勝国の座を「引き継いだ」中華人民共和国)は、その後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。イギリス、フランス、ソ連、中華民国、アメリカの5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。
だが戦勝国も国力の疲弊に見舞われた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をイギリス、フランス、アメリカ、オランダが奪回し、戦後しばらくは宗主国の地位を回復したものの、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、残留日本兵がインドネシア独立戦争、第一次インドシナ戦争などに加わって近代戦術を指導するなどし、疲弊した宗主国は勢力を失い植民地帝国の維持は困難となり、1940年代後半から1960年代前半には、その多くが独立することになった。
リチャード・アーミテージは、「世界でどの国が優れているか聞いた調査によると、アジアの人々の82%が『日本』と回答しました。彼らは(第二次世界大戦の)日本軍による占領は独立への機会になったと考えています」と述べている[221]。
1940年代後半から1960年代までの間に、インド(旧イギリス植民地/以下同)やパキスタン(イギリス)、フィリピン(アメリカ)やイスラエル(イギリス)、インドネシア(オランダ)、ベトナム(フランス)やラオス(フランス)、ケニア(イギリス)やマレーシア(イギリス)など多くの植民地が、独立戦争や独立運動の結果、多くの血を流したものの無事に独立を果たした。第二次世界大戦での日本による占領を経て、香港(イギリス)やマカオ(ポルトガル)、東ティモール(ポルトガル)などを除いて東南アジアの植民地のほぼ全ては戦後独立した。しかし、ウクライナ、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)などのソ連領のほとんどは、1991年のソ連崩壊まで独立できなかった。
戦争状態の終結と講和
イタリア
イタリア王国は1943年に「共同参戦国」として連合国と共に戦った経緯もあり、政府の存続が認められた上に、政権が自ら戦犯を裁き処罰する権利が与えられており、1946年までに戦犯裁判は終了している[222]。
ドイツ
ドイツにおいては中央政府の不在がベルリン宣言で宣言され、東西二つのドイツ政府が誕生したため、講和条約を結ぶ国家が決まらなかった。1951年7月9日と7月13日にイギリスとフランスが、10月24日にアメリカが西ドイツとの戦争状態終結を宣言した。1955年にはソ連がドイツ民主共和国(東ドイツ)との戦争状態終結を宣言し、西ドイツからは占領軍が撤退し、東ドイツも占領状態が形式上解除されたものの、ドイツ駐留ソ連軍が駐留を続けている。
また首都ベルリンにはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国軍が駐留を継続している。1990年になってドイツ再統一が確実視される情勢となり、9月12日には東西ドイツとソ連・アメリカ・イギリス・フランスによるドイツ最終規定条約が結ばれた。1991年3月15日にこの条約が発効したことによりドイツの領域が確定して事実上の講和が実現し、1994年になってドイツ駐留ソ連軍が撤退した。ただしドイツ連邦共和国政府は「最終規定条約」を正式な講和条約とはしていない。
ポーランドは旧ソ連の影響下にあった1953年、ソ連と東ドイツの賠償免除協定で、東ドイツに対する賠償請求権を放棄させられている。ポーランドは、先の大戦においてユダヤ人300万人を含む600万人が亡くなるなど、ドイツによる最大の被害国である。しかし東西、また統一ドイツ政府による賠償は行われていない。
なお、2010年代においてもギリシャやポーランドに戦後賠償を求める動きがあるが、ドイツ側はドイツ最終規定条約や東ドイツが各国と結んでいた賠償放棄の合意などを根拠に応じていない[223][224]。2019年、ギリシャ議会は第二次世界大戦中にドイツから受けた損害賠償をドイツ政府に要求することを可決している。
ドイツの謝罪は当時の政府がドイツの名で行った行為に対するもので、補償対象も国内の被害者に限っている。現在のドイツは「戦後に成立した別な国」だという考えで、ドイツはポーランドやチェコなど周辺国の賠償要求には応じていない[225]。
ドイツ以外の欧州枢軸国
旧枢軸国のうちイタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーと連合国の講和は1947年2月10日、パリにおいて個別に行われた(パリ条約)。これらの条約は1947年の7月から9月にかけて発効している[226]。
パリ条約の締結後、占領は解除される予定であったが、ハンガリーとルーマニアにおいてはオーストリアとの連絡路を確保するという名目でソ連軍による駐留が継続され、共産主義政権成立につながっていくことになる[227]。
日本
第二次世界大戦に参戦した大多数の連合国と日本との講和は、1952年4月28日に発効した日本国との平和条約(通称「サンフランシスコ講和条約」)により行われ、日本は6年以上にわたり行われたイギリスやアメリカをはじめとする連合国からの軍事占領状態から、ようやく解放された。
しかし、この条約にはソ連などの一部対戦国が参加しておらず、特に冷戦下で日本と対立したソ連および継承国となったロシアと日本の平和条約は現在も締結されていない。
しかし、現在のロシアを含む平和条約に参加していない各国と日本は、各国で個別に第二次世界大戦終結に関する合意・条約を交わしており、1957年5月18日に発効したポーランドとの国交回復協定によって、旧連合国諸国との戦争状態は法的に全て終結している。
戦時下の暮らし
日本
- 日用品・食料
- 日中戦争の開戦後に施行された国家総動員法以降、軍需品の生産は飛躍的に増加し、これを補うために自家用車や贅沢品などの生産や輸入が抑えられ、「国民精神総動員」政策の下に「ぜいたくは敵だ」との標語が多く見られた。さらに1938年よりガソリンの消費を抑える目的で木炭自動車が導入され、1939年にはカフェなどの営業が23時までに制限された。
- 1938年には車両、部品、燃料など物資統制から全てのタクシー営業を法人格を持つ者に限ることとし、175社へ集約統合を行った。その後、メーター制も復活し、料金は初乗り2km30銭、1kmごとに10銭となった。
- 1920年代後半から1930年代には、日産やオオタ自動車、オースティンやフォード、シボレーなどの自家用車が都市部の大衆にも広まりつつあったが、1940年に外貨の流出を防ぐため個人利用目的の欧米からの自動車の輸入が禁止され、翌年にはアメリカによる経済制裁で日本フォードや日本ゼネラル・モータースも生産停止となり、さらに日産やオオタ、トヨタ自動車などによる自家用車の生産も中止された。
- 電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。さらに、戦時下において団結や地方自治の進行を促し、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行うことを目的に、1940年に「隣組」制度が導入された。
- しかし、生活必需品や食料の生産および流通はこれまでと変わらず、また首都圏や阪神を中心に遊びや贅沢に慣れた生活はなかなか変わらず、営業時間が制限されたにも拘らずレストランやビヤホール、料亭や食堂車などの営業は通常通りに行われ、繁華街や観光地、遊園地や野球場では相変わらずの賑わいを見せた[228]。
- 1941年12月に対英米戦が開戦すると、1942年に食糧管理制度が導入され物価や物品の統制がなされた。政府に安い統制価格で生産品を売り渡すことを嫌った地方の農家が売り渋りを行ったため1944年以降は農家などによる闇取引が盛んになった[229]。
- また生産量は変わらなかったにも関わらず食糧の流通量が減った[230] ほか、米など一部の食糧は配給制度が実施された。
- 食料の配給の優遇を受けていたレストランや食堂、ホテルや旅館などで外食をしたり、闇で食料を調達することもできた上、新たに占領下に置いたジャワやマレー半島から原油などの資源や食料の調達も可能になり、さらにこれらの占領地から自動車やレコードなども輸入された。
- 1941年以降も、石鹼やマッチなどの生活必需品や米や魚など食料が極端に不足することはなかった[231]。1944年4月まで国鉄の食堂車も廃止にならず、このように大戦が終結する1945年の初め頃までは、NHKや民放のテレビドラマで好き好んで描かれるような、「戦中の飢えた姿」は真実ではなかった。
- 1945年初め頃になると、南方とのルートの制海権を連合国側に握られ、本土への空襲が本格的に始まると、コーヒーやバナナなどの外地からの食料のみならず、肥料などの生産に必要な各種原料の輸入、漁船を動かすための燃料の供給が急激に減ったことや、漁船も潜水艦や航空機のターゲットとされたことから、食料の生産や魚類の生産、配給量も急激に減りその質も悪化していった[229]。
- 連合国軍の潜水艦は日本の商船を532万トン撃沈した。攻撃対象のほとんどが攻撃しやすい商船であったことから、連合国が通商破壊を意図していたことは明確であった[注釈 25]。しかし、電気やガス、水道については、燃料や原料の石炭が日本国内で自給できたため滞ることはなかった。
- 1945年春過ぎに入ると、連合国軍機による本土空襲が相次ぎ、発電所や工場、鉄道や国道が破壊され、電力の供給がたびたび滞るようになった。そのほか、空襲や機銃掃射を受けて鉄道の遅延や停電が常態化した。
- 終戦後の1945年冬から1946年春に配給やその遅延による窮乏生活はピークに達し、ララ物資など諸外国の民間団体による助けも行われた。ただし、ララ物資などの食料は贅沢な日本人の口に合わず受け取りを拒否される場合も多く余剰物資となり、1948年にはそのほとんどが保護施設などの食料に回された[232]。
- もともと日本は食料の産出量は農業、漁業ともに多く、イギリスやドイツ、ポーランドなど国によっては食料統制が1950年代まで続いたヨーロッパ諸国に比べると回復は早く、1947年頃には生活必需品や食料の配給が次々に終了し、通常に戻った[232]。
- 軍需産業
- 日中戦争から英米開戦に至り、航空機や船舶など、軍需の生産数はかつてないほどの量に達したが、徴兵年齢に達した多数の男性が徴兵されたために多くの熟練工も動員された。そのため英米開戦後1943年頃には多くの女性や大学生を含む非熟練工が現場に動員された。
- 1944年後半に入るとさらに多くの男性が徴兵されたため、中高校生までもが非熟練工として現場に動員された。
- 政治
- 1942年の第21回衆議院選挙は、1941年の衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって1年延長の措置が第2次近衛内閣によって採られていた。対英米戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあったが、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。
- 1942年2月23日に元首相の阿部信行を会長に頂く翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者議員定数いっぱいの466人を選考・推薦していった。もっとも既成政党出身者全てを排除することは実際には不可能であり、既成政党出身の前職の推薦に翼賛会内部の革新派が反発する動きもあった。
- 推薦を受けた候補者は選挙資金(臨時軍事費として計上)の支給を受け、さらに軍部や大日本翼賛壮年団をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補そのものを断念させられた場合や、選挙運動で候補者や支持者に有形無形の妨害を受けた場合が知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。
- 言論
- 日中戦争当時から対英米戦の開戦前までは、ある程度の政府や軍批判や、枢軸国のドイツやイタリアの批判、それに反してイギリスやアメリカを好意的に見た言論も、マスコミや国民の間で自由に行われた[233]。
- しかし対英米戦の開戦前後には、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等といった国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、朝日新聞や報知新聞など当時の極右の新聞や、さらに「隣組」を通じて言論、情報管理を行うことで、国民には積極的に戦争に協力する態度が要求された。しかし、1942年に行われた第21回衆議院選挙の際など国民の間では政府に対する批判も行われたほか、雑誌などでは政府批判も比較的自由に行われた[230]。
- 東條内閣下で言論統制が徐々に厳しくなり、スパイと思われるような発言や戦争に反対する言論、また特に思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧した。この対象は政治家や官僚も例外ではなく、1945年2月には終戦工作を行ったとの理由で元駐英大使の吉田茂が憲兵隊に逮捕されている。
- 教育
- 日中戦争当時から小学生は「少国民」と呼ばれ、小学校でも基礎的な軍事訓練を受けるほか、欧米諸国同様に戦争や軍隊への親近感を抱かせるような教育が行われた。また日中戦争最中の1938年にはヒトラーユーゲントが来日し、東京市民から大歓迎された。1941年には国民学校令に基づいて国民学校が設立された。対英米戦の開戦以降も国民学校による初等教育、中等教育は変わらず行われた。しかし本土への連合国軍機の空襲の本格化を予想し、1944年8月4日には学童疎開が開始された。
- 対英米戦の開戦以降も大学や専門学校などの高等教育も変わらず行われていたが、対英米戦の戦局が悪化しつつあった1943年11月には、兵士の数を確保するために大学生や理工系を除く高等専門学校の生徒などに対する徴兵猶予が廃止され、学徒出陣が実施された。
- 熟練工が戦場に動員された代わりに学生や女性が工場に動員された(学徒動員)。また日中戦争開戦後、徴兵年齢に達した多数の男性(大学生などや軍需生産、開発に従事した者を除く)が徴兵されたために医師の数が不足した。このために戦時中の医師不足対策が実施された。
- 対英米戦の開戦以降はドイツ語やイタリア語などの同盟国語以外の多くの外国語は、民間の間で「敵性語」とされ、新聞や雑誌などのマスコミにおける使用が自粛された。しかし、東條内閣は「英語教育は必要である」とし、戦争中も高校以上での英語教育は続いた[230]。
- 娯楽
- 日中戦争当時より日本の娯楽映画作品は変わらず製作されていたものの、1930年代後半のこの頃より『上海陸戦隊』(1939年)や『燃ゆる大空』(1940年)をはじめ、欧米諸国同様にプロパガンダ映画が多数制作、上映されるようになった。また、多くの歌手や芸人、俳優などが戦地や工場への慰問活動を行っている。
- 日本の娯楽映画は英米開戦後も多数制作され、1945年に当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め喜劇への検閲を廃止した。1945年の正月の東京の東横映画劇場は、喜劇役者古川ロッパの新作が満入り御礼の賑わいであったが、翌月から東京も空襲を受けるようになりついに4月には上映中止となった。しかし、東京宝塚劇場や日本劇場、横浜オデヲン座などは営業を続け、さすがに数は減ったものの1945年夏の終戦直前まで日本では娯楽映画が作られ、横浜オデヲン座は9月30日に、東京宝塚劇場は12月に営業を再開した。
- 1941年夏に日本の資産がアメリカ政府により凍結されるまでは、アメリカの映画会社の日本支社も営業していただけでなく、対英米開戦後にもアメリカ映画の上映は禁止していなかったものの、さすがに1941年12月27日に英米映画の上映は禁止になり[234]、映画配給社により映画の配給が統合され英米の映画が配給禁止となった。しかし香港や昭南などで没収された最新作が上映されたりした。なお、同盟国のドイツやイタリア、フランスの映画は変わらず上映されたが、人気が低い上に配給の制限により上映数は激減した。
- 1940年に、ディック・ミネなどの英語風の芸名や藤原釜足などの皇室に失礼に当たる芸名は、内務省からの指示を受け改名を余儀なくされ、また取り締まり対応の警察の自主規制も多く、例えば上記の「ロッパ」から、「緑波」に改名された。
- 日中戦争以降は欧米諸国同様に子供の遊びにまでも戦争の影響が現れ、戦意発揚の意図の下戦争を題材にした紙芝居や漫画、玩具、中でも「のらくろ」は大ヒットし、空き地では「のらくろ」をもとにした戦争ごっこが定番になったが、「のらくろ」は1941年に「兵士を犬に例えるとは不謹慎」とされ連載中止された。
- スポーツ
- 1940年夏に開催される予定であった東京オリンピックと同年開催の札幌オリンピックは、日中戦争の激化と国家総動員法のあおりを受けて開催権返上を余儀なくされたが、代わりに東亜競技大会が開催された。なお1940年のオリンピックは第二次世界大戦により中止された。
- 高校野球は英米戦の開戦後の1942年から開催が中止されたが、日本プロ野球はその後も継続して開催され、選手が戦場に持って行かれながらも1944年夏まで開催された。
- ゴルフは戦争中でもプロの大会がしばらくは行われたが、1943年中盤には軽井沢のコースが閉鎖され、以降プロの大会が禁止されてしまった。
- テニスは戦争中でも行われ、大戦末期までアマチュアのプレイは自由に行われた。
- スキーは大戦末期までは自由に行われた。
- モータースポーツも1936年にオープンした多摩川スピードウェイで盛んに行われたが、ガソリンやオイルを使うことから4輪レースは1939年に日中戦争の激化で中止、2輪レースも対英米戦開戦で1942年に中止された。
- 競馬は戦争中でも国営競馬を中心に盛んに行われ、1944年中盤まで開催された。
- 大相撲も選手が戦場へ持って行かれながらも大戦末期まで変わらず行われたが、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年は10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。これ以降の本場所は中止となった。
- 空襲
- 日中戦争時代より国民の意識を高めるために防空訓練が行われ、1942年にアメリカ海軍の艦載機の最初の空襲が行われた後は盛んに行われたが、この空襲が小規模なものに過ぎず、これに続く空襲もなかったためにこれを真剣に行う国民は少なかった[230]。
- しかし連合国軍機の空襲が1944年6月の九州北部への小規模なものから始まり、さらに同年11月からは東京、名古屋、大阪方面にも本格的な空襲が始まった。これにより空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯を設けるために、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する「家屋疎開」が京都や静岡、新潟など中規模都市に至るまで行われる。
- 1945年春に入ると空襲の回数が増え、室蘭や釜石、沖縄に限らず全国の沿岸地域では、アメリカ軍艦やイギリス軍艦による艦砲射撃や、イギリス海軍の艦載機による機銃掃射なども加えられるなど、戦争の災禍があらゆる国民に及ぶようになった。空襲による発電所の破壊などで停電が増えたほか、爆撃や機銃掃射などにより鉄道の遅延も相次いだ。
- 地上戦
- 1945年春以降の大戦末期では、沖縄ではアメリカ軍とイギリス軍の上陸による地上戦が行われた。さらに8月に入りソ連軍により侵攻が行われた南樺太や北方領土の島々では、8月15日の停戦後にも関わらずソ連軍の侵攻による地上戦が行われ、沖縄同様に一般市民が最前線に立つことを余儀なくされた。
- 外地・南洋諸島(空襲と地上戦)
- 日本の主要な外地で、重要な軍事戦略拠点であった台湾島は英米戦の当初戦火を受けず、日中戦争当時から英米開戦後まで本土の食料原産地として賑わった。しかし、台北や台南、基隆などの大きな軍港や基地があったため、大戦終盤には連合国軍機の空襲や艦砲射撃を受けた。

- もう一つの日本の主要な外地であった朝鮮半島は、日中戦争から大東亜戦争に至るまで大きな戦禍に見舞われなかった上に、戦争中を通じて日本海を通じた本土との交通も比較的順調だったものの、大戦終盤には一部に連合国軍機の空襲を受ける地域があったほか、1945年8月15日以降は、かねてから朝鮮半島への領土的野心を持っていたソ連軍が北部に侵攻した。
- 南洋諸島は英米戦の末期にそのほとんどが戦場となり多くの戦死者を出した。一連の戦いの嚆矢となったのは、1944年2月に行われたクェゼリンの戦いからで、1週間の戦闘の末同島の守備隊は玉砕した。1944年6月のサイパンの戦いは凄惨を極め、在住日本人1万人および島民700人が戦死または自決した。7月にはテニアンの戦いが行われ、テニアンでも多数の民間人が犠牲になった。
- 1944年にアメリカ軍はパラオ諸島への侵攻を開始し、第1海兵師団をペリリュー島に上陸させた。このペリリューの戦いにおいて、日本軍は従来の戦術からゲリラ戦と縦深防御戦術に転換したためアメリカ軍に出血を強要し、73日間の戦闘で日本軍の戦死者とほぼ同数である10,786名の死傷者を出している[235]。
- ペリリューの戦い以後、1945年8月15日の日本の降伏まで、連合国軍による南洋諸島での大規模な軍事行動は起こらなかった。しかし、連合国軍によって日本本土との補給線と連絡網を断たれた孤島では飢餓に見舞われ、ウォッジェ環礁やウォレアイ環礁などでは多数の餓死者を出した。
占領地
日中戦争で日本軍の領土となった中華民国の他、対英米蘭戦で日本軍の領土となったイギリス領シンガポール、香港、マレー半島やビルマ、オランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの占領地は即座に軍政が敷かれ、また、そのいくつかの地ではそれまで使用されていた中国語や英語、オランダ語名が即時に廃止され、「シンガポール」が「昭南」、香港の「ハッピーバレー競馬場」は「青葉峽競馬場」などと改名された。
また、教育ではそれまでの英語やオランダ語などが廃止され、日本語が第一外国語として教育の場で使われるようになった。また多くの地で軍票が発行され、それをもとにした切手や宝くじなども発行された。
さらに民間の企業も多くが現地に渡り、日本風の旅館やレストラン、料亭などが営業を開始し、これらを楽しむ軍人や官僚、民間人などで賑わった。また香港で接収されたイギリス系の百貨店「レーンクロフォード」には「松坂屋」が開店した。
またイギリス領マラヤに住むイギリス人、アメリカ領フィリピンやグアム、アッツ島などに住むアメリカ人、オランダ領東インドに住むオランダ人の民間人は、1941年12月以降の日本軍の進出後はそれぞれの地の日本軍の保護下に置かれ、その一部は交換船によって返され、軍人はそれぞれの地域の捕虜収容所か日本の捕虜収容所に、民間人は日本の収容所に運ばれて終戦まで置かれた。
在日外国民間人
ここでは第二次世界大戦中(主に記述がない限り、1941年12月7日の開戦から1945年8月15日の終戦まで)に日本に永住していた外国人および無国籍人の民間人、および企業派遣や研究者、留学生および通信社などのジャーナリストなど一時滞在の民間人、外交官の処遇について記載する。戦時国際法における軍人の捕虜は、特に記述がない限りは除く。
立場による違い
在日外国民間人は、警察による分類では大別して枢軸国人と中立国人、無国籍人そして敵国人に分けられる。当然のことながら枢軸国人、同盟国人と中立国人は「友好国」ということもあり優遇された立場に置かれ、例えば食料配給も日本人よりもかなり優遇されていた(これも相互主義に基づき同盟国に住む日本人も同様であった)。また白系ロシア人をはじめとする無国籍人はイデオロギーで対立することがなかった上に、ソ連に対抗する目的で満州国軍に浅野部隊という日露満の混成部隊が設立されるなど「友好国民」扱いであった。
敵国人(適性国人)は開戦から終戦に至るまで男性のほとんどが抑留所に入れられ、性差別がひどい地方では女性が入れられることも多かった(これは相互主義に基づき敵性国に住む日本人も同様であった。しかし人種差別が酷かったアメリカやカナダ、ペルーのように、日本の大使館員や駐在員などの一時在留者を除く、現地の国籍を持つものや、永住権を持つ男女の多くが強制収容所に入れられるという酷い場合もあった)。また、開戦から終戦に至るまですべての外国人は臨時措置法により、旅行する際に地元警察への届けが必要になった[105]。
なお1942年から1943年にかけてイギリスとアメリカとの間に3回運航された交換船[236] で、イギリスやアメリカ、カナダやオランダ、ブラジルやオーストラリア、ニュージーランドや英領インドなどの敵性国民は、これらの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本やタイ、満州国、ドイツ、イタリアの駐在員や外交官、留学生と交換される形で帰国した[237]。
1943年9月29日以降は、全ての同盟国人や敵性人を含む外国人の住んではいけない場所が決められ、神奈川県横浜市中心部や神奈川県横須賀市、千葉県木更津市など軍機が多い都市がこれに指定された。その後多くの西洋人が自主的に東京市内や横浜市内の指定地域外、または西洋人が多い別荘地の箱根や軽井沢に移ったが、これは結果として1945年以降の連合国の空襲から逃れられるという利点があった。
1945年初頭には神奈川県の全ての外国人の住人は箱根へ移るように通告され、同年7月には全ての同盟国人や敵性国人を含む外国人が地方への移動を通告されたが、これも同様であった。なおこれらの居住地の移動に掛かる予算は、個人的なもの以外全て国費から払われ、これは同盟国人、中立国人、無国籍人、敵性国人いずれも全て同様であった。また1944年冬には、ドイツ、イタリア、タイ、中華民国(南京国民政府/汪兆銘政権)、満州国、ソ連などの大使館の一部施設が、激しくなると予想される連合国の空襲から逃れ東京から神奈川県箱根に移った。
なおイタリアやフランス、そして大戦末期にはドイツなど、戦況やどの政権につくかで同盟国人から敵性国人と立場が一変するケースがあったものの、ドイツは1945年5月に枢軸国として敗北し、すなわちその後即座に敵性国人として抑留されるべきであったが、元は同盟国で友好的な在日ドイツ人が多いことや、日本側の都合で終戦に至るまで河口湖や箱根などへの軟禁程度で済んだ場合もあった。
枢軸国人
ドイツやイタリア、タイ王国や中華民国、満州国、フランス(ヴィシー政権)、自由インド仮政府などの同盟国の外交官や駐在員、ジャーナリストや留学生は、日中戦争後や英米間との開戦後もこれまで通りの生活を送ったが、1939年以降はヨーロッパ各地も戦火に見舞われたことから、同地域の同盟国の外交官や駐在員の多くも本国への帰国もままならなくなった。
さらに1941年の独ソ戦、同12月の日英米の開戦で、本国との連絡も潜水艦やそれによる手紙、無線に限定されることになった。しかし満州国や南京国民政府、タイ、フランス(仏印)や自由インド仮政府の国民は、同盟国であり距離的な問題も少ないことから英米の開戦後も比較的自由に移動できた[105]。
なお、ドイツ、イタリア、ブルガリア、フィンランド、タイ王国、ルーマニア、ハンガリーの「旧枢軸国国民」の国民は、1945年9月には凍結されていた銀行口座から生活費として限られた金額を下すことを連合軍から許可される[238] など、いくつかの記録が残っているが、中華民国や満州国、自由インド仮政府の国民と外交官については、戦後の連合国の占領時や帰国時の混乱からか明確な記録が残されていない。また自由インド仮政府のA.M.ナイルのように、連合国政府からの逮捕を逃れるべく地方に逃れたものもいた[239]。
ドイツ
約3,000人の在日ドイツ人は外交官のみならず、第二次世界大戦開始後オランダ軍に抑留されていたオランダ領東インドからの引揚者や、シーメンスやボッシュ、バイエルやコメルツバンクなどの駐在員、大学院や大学の教員、留学生の多くが対英米戦開戦後も同盟国である日本に残留した。
またドイツ人は、食料の配給では1945年に入り日本人への配給が厳しくなってからも、優先的に食料品や缶詰などを配給されていた(これはドイツにおける日本人についても同様であった)[101]。また、日本やその占領地を拠点にしていた仮装巡洋艦やUボート、封鎖突破船などが拿捕したイギリスやアメリカなどの貨物船より、ソーセージやコンビーフ、ピーナツバターなど一般の日本人が好まぬものを廻してもらうことも多くあった[101]。
東京だけで500人いたナチ党を中心とした住人組織が置かれ、相互監視が行われた。また、反ナチス的なドイツ人を取り締まるために、駐日ドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部の将校であるヨーゼフ・マイジンガーが駐在し、反ナチ的なドイツ人は捕えられ18人が収容所に入れられたほか、ヴィリー・ルドルフ・フェルスターのような在日ドイツ人が危険人物として監視下に置かれた。また、1943年6月にジャーナリストのイヴァル・リスナーは、マイジンガーの調査により友人のヴェルネル・クローメ、日本人秘書およびドイツ人秘書と共にスパイ容疑で逮捕された。リスナーは憲兵に引き渡され日本の刑務所でドイツ敗戦までの2年間を過ごした。またこれに先立つ1936年に、東京の大森にある独逸学園はナチ党配下に入っていた[240]。
1942年11月、横浜港に停泊中のドイツ海軍の仮装巡洋艦「ウッカーマルク」が大爆発を起こして轟沈する「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」が起きた。多くのドイツ海軍の乗組員が被害を受けたが、爆発の原因は、大規模な被害により物証となるものが破壊されてしまった上に、戦時中のことであり現在でも明らかになっていない。連合国のスパイの犯行とも噂されたが、目撃者の証言などからウッカーマルクの油槽の清掃作業中の作業員の喫煙との説が有力である[241]。この事故により、ドイツ海軍の将兵ら61人、中国人労働者36人、日本人労働者や住人など5人の合計102名が犠牲になり、周辺の住民や労働者、ドイツ海軍艦船を見学に来ていたドイツ大使館員のエルヴィン・ヴィッケルトをはじめ多数の重軽傷者を出した[241]。

また、ウッカーマルクとその近辺に停泊していたドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」、およびトールに拿捕されたオーストラリア船籍の客船「ナンキン」(拿捕後「ロイテン」と改名)、中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」の合計4隻が失われ、横浜港内の設備が甚大な被害を受けた[242]。なお、1944年秋に300人の生徒を持つ独逸学園が軽井沢に疎開し[240]、ハウプトシューレは解散された。
1945年5月のドイツの敗戦後は、ドイツ本国が連合国の占領下に置かれたことで法的に「敵国人」扱いになり、外務省の命令でナチ党の解散、さらに党員バッジもつけることが禁止された。また占領地で日本軍への協力の継続を表明したドイツ軍人以外の在日ドイツ人が軟禁状態に置かれ、さらに6月8日、日本政府は「ドイツ政府はもはや存在しない」として、ドイツ大使館ならびにドイツ領事館の職務執行停止を正式に通告した[243] ことで、駐日ドイツ大使および外交官としての地位を喪失した。なおこの際に日本政府はハインリヒ・ゲオルク・スターマー旧駐日ドイツ大使宛に、5月25日の東京大空襲で焼失した[244] 旧ドイツ大使館の跡地を外務省の管理下に移すことを通知している[245]。
東京や関東にいたドイツ人は、6月以降戦争終結まで富士五湖近辺や軽井沢などの地方の別荘地などに送られた[231]。その頃はもはや日本人よりこれらの地に「収容」されている感じはなく、旧同盟国人が「軟禁」されている状況で、行動は許可が必要になったが軍機以外の場所は比較的自由で、撃墜された連合国軍のパイロットと間違われるのが唯一避けるべき行動であったという。

今や国家として存在しなくなったドイツが日本にとって事実上の「敵国」となり、スターマー旧大使以下全ての大使館員らが軟禁された6月以降も、マイジンガーは日本の憲兵隊や特高と一種の協力関係を持ち、自動車の利用も許され、東京と大使らが軟禁されていた箱根の富士屋ホテル、他の大使館員らが軟禁状態に置かれた河口湖の富士ビューホテルを行き来しつつ、「反ナチス的」と目された在留ドイツ人の情報を憲兵隊や特高に流した[246]。
ドイツの敗戦後に河口湖や箱根、軽井沢に軟禁されたドイツ人は、8月の日本の終戦後に今度は関東を占領地域に置いたアメリカ軍により監視下に置かれた。その後連合軍によりナチス党関係者や軍関係者、マイジンガーら約50人が逮捕され、マイジンガーはヨーロッパに返されその地で死刑になった。またこれまでの日本政府でのような自由な行動は厳しく制限され、居住県外に出る際は理由と許可が必要になった[101]。
最終的にユダヤ系、もしくは日本に第二次世界大戦前から住んでいた者を除くドイツ人(在日ドイツ人や日独戦ドイツ兵捕虜の残留者など)は、1947年までに所有していた不動産は売られ、強制的にドイツに帰国させられた[101]。
イタリア
約300人の在日イタリア人は、1943年9月のイタリアの降伏後まではドイツとともに同盟国の国民として安泰な地位にいたが、その後枢軸国と連合国との2つに分かれたイタリアの、イタリア社会共和国(ムッソリーニ/枢軸国)側につくか、イタリア王国(連合国)側につくかで、民間人や外交官を問わず、その地位が明確に振り分けられた。
民間人のうち190人はイタリア社会共和国につき、イタリア王国側についたために抑留されたのはわずか10人にも満たなかったが、イタリア大使館内でイタリア王国側についたものはマリオ・インデルリ大使以下武官を含む50人で、2人のみがイタリア社会共和国側についた。イタリア王国側についた商務参事官のローモロ・アンジェローネは、抑留されたことを日本政府に強硬に抗議したが、これは敵国側についた者として当然のことと跳ね付けられた。アンジェローネ参事官自身は元々熱心なファシスト党員であり、日伊の通商に大いに貢献した外交官であるが、日本にとって敵国であるイタリア王国側についたものに対する態度は当然ながら冷徹であった[247]。
また、1943年9月当時日本の占領下にあった上海に停泊中の「コンテ・ヴェルデ」は、イタリア人船長以下船員が、連合国に降伏したイタリア王国政府の指令に基づいて船底を爆破し横転した。この時、日本占領域にあった「コンテ・ヴェルデ」を含む合計17隻の軍民イタリア艦船がイタリア社会共和国につくことを拒否し自沈している。この事件は日本政府ならびにイタリア社会共和国の心証を悪化させ、その後イタリア王国側についた在日イタリア人に対する冷徹な処遇の一因になったとされる[248]。
日本が認めたイタリア社会共和国側につくことを拒否したものは、イタリア社会共和国側についたオメロ・プリンチピニ代理大使の要請の下で、警察の監視の下で外交官は東京の田園調布にあるサンフランシスコ修道院に、民間人は京都大学講師であるフォスコ・マライーニのように、名古屋とその後は秋田の収容所で終戦までの間を過ごした(なお1943年9月9日に自沈したイタリア特務艦「カリテア2」の150人ほどの軍人のうち、イタリア王国側についたほとんどは兵庫県姫路市広畑区の捕虜収容所に収容された)。
イタリア王国側についたイタリア人は、当然食料などの配給は同盟国であった頃に比べ少なくなり、大戦終盤は田畑で自分たちの分を自給自足することを余儀なくされた[247]。また、ミルコ・アルデマンニ館長の下、九段に1941年3月にオープンしたばかりのイタリア文化会館も閉館を余儀なくされた。
ヨーロッパ終戦以降の1945年8月以降に運航される予定であった第三次日米交換船には、イタリア社会共和国側につくかイタリア王国側につくかは関係なく、1943年9月に連合国に降伏した後に日本で抑留されていた駐日イタリア大使館員や、第一次日米交換船に使用されたイタリア客船「コンテ・ヴェルデ」の乗組員ら民間人、さらに降伏に伴い日本海軍に接収された(その後ドイツ海軍に貸与。乗組員の多くはイタリア社会共和国側についた)イタリア海軍潜水艦の「ルイジ・トレッリ」などのイタリア海軍の軍人も含まれることになっていた。しかし第三次日米交換船は8月の終戦により運航されなかった。
なお、イタリア社会共和国は5月のドイツ降伏時に消滅し、その後はイタリア社会共和国側についていた者もドイツ人同様軟禁扱いされ、同国の代理大使オメロ・プリンチピニも、富士屋ホテルで抑留されたまま終戦を迎えている。また、マリオ・インデルリ元大使やカルロ・バルサモ元提督、ローモロ・アンジェローネ元商務参事官以下、イタリア王国側についた大使館と軍関係者50人弱と民間人10数人、また横浜から疎開した27人のイタリアの民間人が、秋田の敵国人抑留所で終戦を迎えている。これらのイタリア人外交官や将官、民間人の多くが、1945年の暮れから1946年初頭にかけて帰国している。
大戦後も日本に残ったイタリア人もおり、カルロ・バルサモ元提督の専属料理人のアントニオ・カンチェーミは、戦後神戸に在留後、東京都港区に本店を構えるイタリア料理レストラン「アントニオ」のオーナーとなった。
満州国
日中戦争中より日満の交流は友好国らしく皇室から軍官民共に活発に行われ、海運と航空による自由な交流は終戦まで続いた。なお満州国の大使館は東京の麻布区桜田町の広大な敷地内にあり、日中戦争中よりその場所で大使館として機能していたが、他の国の大使館同様に連合国の空襲を避けるため1944年秋より軽井沢に疎開し、そのまま終戦を迎えた。
フランス(ヴィシー政権/インドシナ植民地政府)

数百人の在日フランス人は、1940年7月のヴィシー政権の成立後や1941年12月の英米開戦時も、駐日大使館とフランス領インドシナの植民地政府がヴィシー政権につき日本との友好関係を保っていたために、自由フランス(ドゴール派)につくことを表明した少数の外交官以外の在日フランス人は、中立国民と同様の扱いを受けていた。
さらに、1944年8月に行われた連合国軍によるフランス本土解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー=日本間の協定無効宣言の後も、フランス領インドシナ植民地政府は日本とともにインドシナ統治を継続するという微妙な位置についていたため、敵国人となることは逃れた。
その後の1945年3月の日本軍による仏印政府への攻撃(明号作戦)以降は、敵国人となり、軽井沢などで警察の監視の下事実上の軟禁状態に置かれることとなった。原則としてフランス人以外との接触は禁止されたが、軽井沢にいた数千人の中立国人との接触は自由に行われ、また地元の住人との接触も寛容であった。8月15日以降は自由となり、8月下旬以降に「戦勝国民」として連合国と接触した[249]。
中立国人および無国籍人
在日人数が約200人以上に上ったスペインやポルトガル、バチカンや、チリやアルゼンチンなどの遠方の中立国の外交官や駐在員、通信員や船員、留学生の多くは、1939年以降はヨーロッパ各地も戦火に見舞われたためヨーロッパ経由での帰国が困難になり、さらに1941年12月以降はアメリカやカナダなどが参戦したために、これらの国経由での帰国も全くままならなくなってしまった。
ただしソ連だけは、日本海およびシベリア鉄道経由で1945年8月9日の開戦まで自由に行き来できた。またこのルートは、ビザが発行される限りアフガニスタンやトルコ、スウェーデン、スイスなどの中立国への帰国にも使われた。また巨人軍のヴィクトル・スタルヒンなど白系ロシア人は無国籍扱いであったが、幸いなことに日本ではソ連人と同様中立国人の扱いであった。またポルトガル公使館とマカオ、ティモールとの交流は、両地が日本の占領下に囲まれていたことから、比較的自由に行うことができた。
これらの中立国の国民はこれまで通りの生活、仕事を続けられ、配給以外の食料も潤沢に与えられた。駐日スイス公使であったカミーユ・ゴルジェ以下スイスの外交官は、対英米開戦後に日本政府が委託した中立国の外交官として、赤十字国際委員会の中央捕虜情報局の傘下に置かれ、日英米交換船の運航がきちんと行われているかどうかの同乗確認や、日本全国に及んだ連合国の国民の抑留所の監視などを行うなど、その信頼は高かった。

1943年9月以降外国人に居住不可地域が設けられたり、1944年夏に連合国軍による本土への空襲が増加すると予想した後は、中立国人の多くは軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルや別荘へ疎開して活動した。もちろんこれに伴う引っ越し費用は全て日本政府が負担した。
特に、これらの中立国と枢軸国の約300人の駐日外交官と、およそ2000人以上の一般外国人の疎開地となった軽井沢では、利便性を考え三笠ホテルに外務省軽井沢出張所が設置され、1944年8月には民間の貸別荘だった深山荘にスイス公使館が置かれることとなった。
ソ連の大使館は1944年末以降は同じく疎開を主な目的に、箱根の強羅ホテルに置かれた。1945年当時、ソ連を通じた終戦交渉を模索していた外相東郷茂徳の意を受け、広田弘毅元首相がヤコフ・マリク大使と数度にわたって接触したことが知られている。
また1945年初頭には、軽井沢にフランス(ヴィシー政府)大使館、トルコ大使館(同年2月に対日宣戦布告)、アルゼンチン大使館(同年3月に対日宣戦布告)、アフガニスタン公使館、ルーマニア公使館、ポルトガル公使館、スウェーデン公使館、スペイン公使館、スイス公使館、デンマーク公使館(同年5月に対日宣戦布告)と赤十字国際委員会などが置かれ、または疎開していた。
終戦により日本が連合国の占領下に置かれたことで、これらの中立国の外交官は、日本が連合国の占領下に置かれ「対象となる国家が存在しなくなった」ため、家族ともども連合国の船で帰国した[250]。
敵性国
1937年の日中戦争開戦後も、イギリスやフランス、オーストラリアやアメリカ、オランダやカナダ、英領インドなどその後の連合国とその植民地の駐在員や外交官、宣教師や留学生などの民間人の多くは、日本や外地などで戦前と変わらない生活を行った。
しかし1941年12月の対英米開戦後は、これらの国の国民は敵性国民となった。日本と香港やジャワ、シンガポールなどの日本の占領地、そして枢軸国側になったタイ王国や満州国に取り残された、イギリス人やアメリカ人、オーストラリア人やカナダ人、ギリシャ人やオランダ人、グアテマラ人やアルメニア人、ノルウェー人や英領インド人などの敵性国側の民間人は、開戦後次々と抑留所に収容され軟禁された。また、日本や香港などにいた民間の船舶やパンアメリカン航空などの航空会社の乗組員も抑留所に収容された。
ただし、抑留されるのは男性のみで、女性は抑留されなかった。また日本の大学などで教員に就いていたイギリス人やアメリカ人、オランダ人などの敵性国人は、開戦後も抑留されず、しばらくの間は警察の管理の下で仕事に就き、通常の給与が与えられた。
抑留された男性は戦時国際法に則り軍に管理された捕虜とは異なり、主に警察によって管理された。警備は厳重であるが、しかし民間人抑留者に対する取り調べや取り扱いでの暴力を伴う違法行為、国際法違反などは皆無であった[130]。また妻や娘など家族がいるもののみ外出も認められた。日本という海に囲まれた国にあるため脱走は皆無であった。
全ての民間人抑留者の情報は、戦時国際法に則りスイスのジュネーブの赤十字国際委員会に置かれた中央捕虜情報局に置かれることとなった。委員会駐日代表フリッツ・パヴァラッツイーニ博士が各地で数回にわたり中立国の局員の収容所の見学や聞き取りを行ったが、生活や食事、医療や待遇などについての言動は日本側からは制限を課されず自由に行われた[130]。その結果、苦情は皆無ではなかったものの、おおむね良好であった[130]。
抑留、逮捕されるのは45歳以上の男子に限り、女性や子供は対象外であったが、男子でも45歳以上というのは地方では無視されがちであった。また福島県や秋田県、青森県や島根県などの地方では、田舎にありがちな人種差別的、宗教的差別的そして性差別の観点から、独身女性(その多くが修道女であった)も開戦後に抑留された[247] が、女性の抑留といった逸脱した地方警察の暴走および国際法違反は本部から問題視され、1942年5月13日に解除、開放の命令がなされている。
しかし1942年9月以降方針が変わり、修道女や教師などの女性独身者と、宣教師や教師などの男性高齢者も抑留された。これはアメリカやイギリスなどが、僧侶や教師も関係なく、日本人の抑留者を男女年齢問わず強制収容所に入れていたためであり、これらの国との相互主義に基づくものであった。なお、結婚女性や娘などは例外のままであった[247]。これは男女年齢差別なく収容所に入れる例がほとんどであったイギリスやアメリカ、オーストラリアやカナダなどと違い、日本が連合国に比べ圧倒的に紳士的であったといえる。
また、戦時中に日本海軍やドイツ海軍、イタリア海軍の軍艦によって拿捕されて、横浜港や神戸港などに連行された連合国の軍艦の民間の乗務員や、民間船の船員や搭乗者なども、民間抑留者として抑留先に入れられた。

これらの敵性国抑留者の多くは、1942年から1943年にかけてアメリカとイギリスとの間に3回運航された交換船[236] で、同じくイギリスやアメリカなどの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本人やタイ人、ドイツ人の駐在員や外交官などの民間人と交換される形で帰国した[237]。だが、フォード・モーターやワーナーメディア、パンアメリカン航空やP&Oなどの大企業勤務の者も、妻や息子、娘などの家族が日本人であることなどの個人的都合や、病気などの理由から帰国せず終戦までの間自主的に抑留された者もいた[130]。宣教師や修道女の多くも、信者を残して帰国できないなどの理由で日本に残った。
なお、戦前より日本に進出していたIBMや香港上海銀行、ゼネラル・モーターズやフォード・モーター、スタンダード・オイルなどの企業の資産は、戦中は日本政府により没収され、全て三菱信託銀行をはじめとする信託銀行に管理された。売却されることなく、戦後にきちんと返還された。
首都圏ではバンドホテルやブラフホテルなどの洋風ホテル[130] や、横浜ヨットクラブや根岸競馬場などのクラブハウス、船員会館やバターフィールド・アンド・スワイアーの社宅、神戸ではイースタンロッジなどのホテルやカナディアン・スクールの寄宿舎などの洋風施設など、全国34か所が民間人抑留先に指定されたが、広島県や長崎県、北海道や福島県などの地方では洋風の施設がある抑留先を探すのはままならず、教会や修道院、保育園または自宅などが多かった[247]。
また、1943年中頃の第二次日米交換船の行き来により民間人抑留者が劇的に減った後、同年暮れに抑留先が再編され、同時期にバンドホテルがドイツ海軍に借り上げられたことなどから、神奈川県の抑留所が横浜市戸塚区や神奈川県箱根、厚木市七沢、足柄の暁星学園の寮などに抑留先が移ったり、自宅に残っていた無職の老人や、妻などの家庭婦人、子どもまで対象になるなどの変更があった[251]。最終的には、日本国内の連合国の民間人抑留所で一時的なものを含むと、北海道から九州まで全国50か所以上に上った。なお、これらの民間人抑留施設の家賃(から引っ越し代や食事代、治療費に至る)まで全て日本政府から終戦に至るまで支払われていたか、政府により施設そのものが買い取られていた。
食事は当初、都会のホテルやクラブハウスでは洋食をベースにした豪勢なものが提供されることも多く、他の民間人抑留先でも外国人であることを考慮し肉やパン、スープなどもあった上に、1日3食で量も比較的考慮されていたため、日本人から「豪勢だ」と批判が出たり、太る者も少なくなかった[130]。なおこれらの代金は全て日本政府から払われていた。なお妻などの家族や知人の日本人、信者からの差し入れも自由に行われた[247]。1943年中頃の日英米交換船の終了までは、先方に抑留されている日本人や同盟国人への配慮もあり、量や質もそれなりに配慮されたが、1944年以降はその量と質も外の配給とともに少なくなっていった上に、配給だけでは足らずに、愛知県のイタリア人向け民間人抑留所をはじめ、抑留者自ら農作業をし自らの食料を調達することも多くなった。また抑留所外に住む妻などの家族などの差し入れに対する警察官による横領も多くなっていった[247]。
娯楽が無く、男性しかいない中で、民間人抑留所内では、野球やサッカー、ジョギング、卓球、チェスやカードゲームなどが盛んに行われた。また横浜など抑留先が複数ある場合は、抑留先同士の交流を図るため野球などの交流戦が三渓園などで開催された[130]。なお、横浜球場では連合国軍人の捕虜収容所が置かれていたが、民間人と軍人捕虜の間は明確かつ厳密に区別され、それらとの交流は一切なかった。
また民間人抑留所内では、新聞の購読(しかし英語の新聞は、当時日本政府の管理下にあった「ジャパンタイムズ&アドバダイザー」だけであった[252])や信仰の自由が保障され、プロテスタントやカトリック、長老派教会、またユダヤ教の僧侶や牧師などによるミサなども自由に行われた[253]。
医療も日本側として十分なものが行われており、また病気のために抑留を解かれ病院や自宅などで療養するものも多かった。しかし1944年の末以降は、戦況の悪化とそれによる感情の悪化により医療などの環境が悪くなり、また高度な医療を受けられないことや、長期にわたる療養で亡くなる例もあった[247]。また1945年以降は連合国軍の空襲を受けて被災する抑留所も増えた。
さらに1945年5月7日のドイツの敗戦や8月9日のソ連による日本への侵略以降、満州国などの数少ない同盟国、そしてスイスやアフガニスタン、スウェーデンやポルトガルなどの中立国を除くほとんどの国が敵対国となってしまったが、15日の降伏まで抑留は続いた。15日にほとんどの民間人抑留所と連合国の捕虜収容所で日本の降伏と解散が申し伝えられたが、16日以降も治安維持の観点や、抑留所や捕虜収容所に対して慰問袋や食料品などが連合国軍機から投下されたことから、数日間から数週間は抑留先へとどまるものも多かった[251]。なお全国11か所の抑留所や、数十の捕虜収容所に対して慰問袋や食料品などを落とす連合軍機などが、停戦後の8月中旬から9月初旬にわたり5機も墜落している。
戦時中に3度に渡って行われた日英米交換船により、終戦時には抑留所に置かれた民間人抑留者は609人に減っており、一部のドイツ人やフランス人など、戦況により敵国人となり、新たに「軟禁」された者を含めると民間人抑留者は850人以上が確認されている(抑留所に入れられた者のみ。ホテルや旅館、自宅などに軟禁されていた者数千人は除く)。また、数千人の規模のイギリスやアメリカ、オーストラリアやニュージーランドなどの連合国軍の戦時捕虜が、終戦時に日本とその占領下の収容所に収容されていた。
ドイツ
総統アドルフ・ヒトラーは大戦中、できるだけ国民生活水準の維持を考慮せざるを得なかった。これは第一次世界大戦の敗北が、国民の社会主義への裏切りによるもの、とヒトラーが見なし、同じ失敗を繰り返すのを懸念したからだった。しかし、食糧や生活必需品が配給制となることは避けられなかった。敗戦間際までドイツの喫茶店ではコーヒーを飲むことができたが、実際に供されたのは代用コーヒーであった。しかし、ソ連軍が侵攻する直前まで、牛乳配達や新聞配達が途絶えることはなかったという。
そして、国民の裏切りを防止するため、各地に強制収容所を設置し、秘密警察ゲシュタポが国民生活を監視し、反政府・反戦的言動を徹底的に弾圧した。スターリングラード攻防戦でドイツ軍が大敗すると、ミュンヘン大学生の反戦運動が表面化した(白いバラ)。その時期、宣伝大臣ゲッベルスは有名な「総力戦演説」を行い、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始された。軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力により、1944年には激しい空襲下でもドイツの兵器生産はピークに達した。
連合軍の空襲は1940年に開始され、1942年5月にはケルン市が1,000機以上による大空襲に遭った。1943年には昼はアメリカ軍爆撃機が軍事目標を、夜はイギリス軍爆撃機がドイツ各都市を無差別爆撃した。そのためドイツ国民は、「自宅のベッドに寝ている時間よりも、地下室や防空壕で過ごす時間の方が長い」とまでいわれた。1944年のクリスマスの時期には、プレゼントを巡って「実用性を考えれば、棺桶が一番だ」というブラックユーモアが流行した。
総力戦体制の確立後、歌劇場、劇場、サーカス、キャバレー等、庶民の娯楽の場が次々と閉鎖された。そのような状況にもかかわらず、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団等、ドイツのみならず世界を代表する楽団は敗戦直前まで何とか活動を続けた[254]。ナチスが支援していたバイロイト音楽祭も、規模を縮小しながら1944年まで行われた。芸術の町ドレスデンが1945年2月、徹底的な無差別爆撃に遭い、それがドイツの芸術に与えた衝撃は計り知れない(ドレスデン爆撃の項目を参照)。
敗戦間際、ソ連軍による侵攻した地域での民間人へのレイプや虐殺などの噂を耳にすると、残虐な報復から逃れるため西部へ避難するドイツ人が続出した。ベルリンの戦いには、少年や老人までもが動員され、ソ連軍と戦った。そのような中で、ゲシュタポや親衛隊は、逃亡兵や敵への内通者と見なした市民を即席裁判で処刑して回ったという。また各地の強制収容所では、敗戦間際には劣悪な環境と食料不足から伝染病が蔓延し、多数の死者を出した。その惨状は進駐した連合軍に強い衝撃を与えた。
また1945年5月の終戦時に駐在していた数百人の日本人は、当時すぐに日本にとって中立国のソ連に占領された側と、日本と戦っていた英米側のどちらに付くかで明暗が分かれた。ドイツ降伏後の5月中旬、ソ連軍の占領下にあったベルリン西方のマールスドルフに逃れた200人弱の日本人外交官や駐在員は、その後中立国の国民として手厚く扱われ、ソ連軍と政府の手引きでソ連経由でシベリア鉄道で満州国経由で無事に帰国した。
しかしドイツ降伏後に英米軍側に捕まった外交官や駐在員は、すぐに敵国の抑留者として収容された。ドイツからフランス経由でアメリカに送られ、さらにアメリカでも抑留所に入れられ、1945年8月の日本の敗戦後に帰国した。なお大島浩ドイツ大使は横浜港よりそのまま戦犯として収容所に送られた。
フランス
- 本土と植民地
開戦後、ドイツ軍の侵攻を受けるまでは平穏な日々が続いた。日本人は開戦前は600人程いたが、その後多くが戦火を避けてフランスを後にした。ドイツによる占領後、徴兵された農民の多くはそのまま捕虜となり、植民地との貿易が途絶し、ドイツの戦時経済体制に組み込まれて農産物の生産量が激減、食糧や生活物資の供給は逼迫し、生活は困窮した。また戦場となった地域では、多くの民間人が戦闘に巻き込まれ死亡した。
ヴィシー政権成立後、インドシナやモロッコ等多くの植民地はヴィシー政権についた。しかし同政権の植民地政府に対する拘束力はほとんどなく、フランス領西アフリカ等は、自由フランス側に参加していった。シリアとレバノンは独立し、連合国に加わった。一方、インドシナは1940年にヴィシー政権の了解の下で日本軍の駐留を受け入れ、フランス植民地政府と日本軍による支配が1945年まで継続された。
- ドイツ占領下の本土

パリを含む北部と西部地域は、行政機構はドイツの軍政下に置かれ、道路標識などはフランス語とドイツ語の両国語併記となった。ドイツはフランスでもユダヤ人迫害政策を実施し、ユダヤ人は外出時にダビデの星を衣服に付けることを義務付けられ、強制収容所に送られた者も多かった。ドイツの支配に不満を持つ市民はレジスタンスを結成し、その動きはマキのように、右派から共産主義者までの広範囲な層に広がった。一方、ドイツ側も対抗して親ナチス的民兵団を結成させ、レジスタンスを弾圧した。また、自己保身や利害のため、自発的にドイツ軍に協力(対独協力者)したり、様々な形でドイツ軍と関係を持つ一般市民や経済人、芸術家も多かった。
非武装都市として破壊を免れた中心都市パリでは、ドイツの軍政下でインフラの維持が図られ電力やガスの供給が継続され、食糧や生活物資の供給は減少したが、多くの市民は闇市で不足分を補った。戦場とならなかったので、占領開始からしばらくの間は多くのドイツ人が観光目的で訪れ、また制限は有ったが、オペラ等の芸術活動も継続された。アンドレ・ジッドやパブロ・ピカソなどの独創的な作家・芸術家にとって、ドイツ軍占領下のパリはヴィシー政権統治下と比べ自由だと感じられたという。ヴィシー政権の検閲はナチスより対象が多かったためである。
1942年に北アフリカのフランス植民地が連合国の勢力下になり、フランス全土は枢軸国側に占領された。ドイツによる経済収奪は激化し、ドイツ経済の4分の1がフランスからの収奪で成り立っている有様だった。また、食糧事情も悪化し強制労働に従事させられる国民も多かった。一方、レジスタンス運動も激化し、サボタージュや破壊活動が増大した。
1944年6月以降、フランス本土からドイツ軍は敗走。8月のドイツ軍撤退後、対独協力者たちは糾弾され、住民から報復、リンチされた者も少なくなかった。なお、ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルはスイスに亡命し、「売国奴」、「売春婦」といわれ戦後長くその行為を非難された。
- パリ解放前後の日本人
開戦後も帰国しなかった150人から200人といわれた日本のうち、外交官や企業駐在員、留学生など多くが、連合軍によりパリが解放される前の1944年8月13日から14日にドイツに去った。その後パリには連合軍が進出してくるが、パリに残留した日本人は出頭するよう指令が出る。多くが抑留の身となった。
しかし早川雪洲や薩摩治郎八は、ドイツ軍占領と南部にヴィシー政権が設立された後もパリに住み、特に治郎八は戦前より日仏交流のために尽力しフランス人のみならず、在住邦人たちにも頼られていた。さらに2人ともに日本人ではあるものの対独協力に積極的でないために、連合軍によるパリ解放後も自由フランスや連合国軍による逮捕や追放を逃れた。なお早川は日本人であったがアメリカのパスポートも所持していたこともあり、抑留を逃れた。
イギリス
- 大戦初期
開戦当初は戦争とは思えないほど平穏な日々だったが、1940年のベルギーやオランダ、フランスの降伏後は単独でドイツと戦った。1940年8月下旬からはロンドンをはじめ、各都市がドイツ空軍爆撃機の夜間無差別爆撃に遭い、多くの市民が死傷し、児童の地方への疎開や防空壕の設置、地下鉄駅への避難が行われた。なおイギリスのほぼ全土がドイツ軍の爆撃圏に入った。
また1942年頃まではドイツ軍の本土進攻が伝えられたことから、ドイツ軍の上陸を想定し、沿岸地域の住民に対し様々な対策を試みた。なお1939年11月には、ロンドン航路についていた当時中立国の日本の日本郵船の照国丸が、テムズ川河口で機雷に触れ撃沈されている。
ドイツ海軍Uボートによる通商破壊により食糧や生活物資の供給は逼迫、さらに燃料の枯渇と近海での軍事作戦のために漁業活動にも影響が出たことで、食料品をはじめとする生活必需品は配給となり国民は困窮した生活を余儀なくされ、ガソリンやタイヤ、肉などあらゆるものが配給された。
- 大戦末期

1944年には戦局がイギリス有利になり、国民生活にもわずかながら余裕が出てきたが、同年6月8日からはドイツ軍が新たにV1飛行爆弾でロンドンやイギリス南東部を攻撃し、さらに9月13日からはV2ロケットでの攻撃も加わり、市民に多数の死傷者が出た。V1のイギリスの被害は死者および重傷者24,165人を出した。
戦争が有利に展開したのに再度防空壕への避難を余儀なくされ、特にV2は当時の戦闘技術で迎撃不可能だったので、ロンドンを中心とした大都市市民への心理的影響は決して小さくなかった。なおガソリンや食料品の配給は長く続き、菓子類への砂糖の統制は戦後の1953年まで続いた。
アメリカ
- 本土への攻撃と防衛体制
ハワイの真珠湾にある海軍基地が日本海軍艦船の艦載機による空襲を受けて壊滅状態に陥り、またオアフ島内の民間施設が被害を受けたほか、開戦後から1942年下旬にかけて、カリフォルニア州からオレゴン州、ワシントン州までの本土西海岸一帯、そしてアラスカ州のアリューシャン列島が、日本海軍艦船の艦載機による数度に渡る空襲や、日本海軍の潜水艦による砲撃を受けたほか、西海岸一帯からハワイ、アラスカやメキシコにかけての広い地域で日本海軍の潜水艦による通商破壊戦も盛んに行われた。
これを受け、開戦後から終戦にかけて西海岸一帯およびハワイ、アラスカ州では、日本陸軍部隊の上陸を恐れ厳戒態勢に置かれ続けたほか、1942年末までは学童疎開の実施が検討された。また、西海岸一帯でロサンゼルスやサンフランシスコなどの西海岸の都市圏では防空壕の設置や灯火規制、対空砲の設置が行われたほか、「ロサンゼルスの戦い」のような誤認攻撃が起き市民に死者が出る有様であった。
さらにハワイでは、日本軍による占領に伴い島内で流通している紙幣が日本に押収され、物資調達などの決済に使用されることを恐れ、島内で使用されている2億ドルのアメリカドル紙幣に「Hawaii」とスタンプが押された[255]。また、このような対日戦に対する恐怖と日本人に対する人種偏見をもとにした日系人の強制収容が、西海岸一帯を中心にしたアメリカで行われた[256]。
ドイツやイタリアからは、軍による本土への攻撃は行われなかったが、ドイツ海軍潜水艦による東海岸やメキシコ湾沿岸での通商破壊戦や、メキシコ湾などから潜水艦で上陸した工作員による破壊工作がいくつか行われた[257]。しかし、ドイツ系やイタリア系などへの人種差別は皆無であった。
1942年に行われた日本海軍機による本土空襲以降は本土への攻撃が行われることはなかったものの、西海岸一帯の厳戒態勢は終戦に至るまで継続されたほか、東海岸一帯やカリブ海沿岸においても軍民による警戒態勢が継続して行われた[258]。また、1944年から1945年にかけては日本陸軍の風船爆弾による攻撃を受けて民間人が死傷したほか、本土内の軍施設にも被害が出た。
- 日用品と食料配給制
1941年12月に対日戦、続いて対独伊戦が始まると、アメリカでも他国同様に肉類[255] や砂糖、チーズなどの食料品や、靴やストーブなどの日用品の配給制の導入が全土で行われた。また、食料の需要を満たすために「勝利農場 (Victory Garden)」と呼ばれる家庭農園が全国で行われた。
また、1941年12月以降、全土の一般家庭からの鉄やアルミニウムの回収、供用が行われたほか[258]、ガソリンやオイル、タイヤの配給制の導入も行われた。さらに、民需向け自動車の生産制限[259] も行われ、生産台数および販売台数が激減した。
当時世界最大の食肉産出国であるアルゼンチンやブラジル、メキシコやカナダとは、同盟国もしくは中立国で、地続きでもあり、さらに船舶での運行も比較的安全に行われたため、食肉の輸入ができた。加えて、本土で原油生産ができたこと、本土が日本軍の空襲や砲撃以外に大きな戦災を受けることがなかったこともあり、食糧をはじめとする生活必需品の生産と供給が、1940年以降のイギリス本土やドイツ、ポーランドなどのヨーロッパ諸国、1945年以降の日本本土のように極端に滞った状況に置かれることはなかった。
しかし、肉類や砂糖の購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[260]。また、ガソリンの配給制は終戦後間もなく解除されたものの、ゴムの供給がひっ迫したため、タイヤの購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[260]。
- 国民の動員
アメリカの参戦をきっかけに多くの若者を中心とした男性は徴兵され、志願する者も少なくなく、最終的に兵士の数は1200万人になった。これは当時のアメリカの人口10.5%に当たる。
単純作業者から熟練工まで戦場に動員されたことを受けて、軍需品の生産現場では人員不足になることが危惧されたため、多くの軍需工場で女性が工員として働くことになり[261]、他の大国に比べ遅れていた女性の社会進出を後押しすることになった。
また、全米で医師の多くが軍人として戦地へ軍医として取られたため、一般的な医師の往診が難しくなった。また太平洋沿岸では、日本軍による空襲や上陸に備えて学童疎開の実施が検討された。
- 人種差別
当時のアメリカで法により人種差別が認められていた中で、差別を受け続けていたアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種も多くが戦場へ狩り出された。
アフリカ系アメリカ人兵士が戦線で戦う場合は下級兵士として参加し、「黒人部隊」としての参戦しかできなかった上に、海軍航空隊および海兵隊航空隊からアフリカ系アメリカ人は排除されていた。さらにアフリカ系アメリカ人が佐官以上の階級に任命されることはほとんどなかった。また、ある陸軍の将官は「黒んぼを通常の軍務に就かせたとたんに、全体のレベルが大幅に低下する」と公言した[262] ように、アメリカ軍内には制度的差別だけでなく根拠のない差別的感情も蔓延していた。しかしアフリカ系アメリカ人兵士は勇敢に戦い、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げ、アメリカの勝利に大きく貢献した。

敵国であるドイツ人やイタリア人をルーツに持つ者は、その主義主張が反米的でない限りこれまでと同様の生活を続けたものの、同じ敵国である日本人をルーツに持つ日系アメリカ人は、有色人種であるがゆえに人種差別を元にした政府の差別的方針を受けて、その主義主張は関係なく強制収容されることとなった。

しかし、強制収容されていた多くの日系アメリカ人の若者がアメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団に志願した。ヨーロッパでの戦いで、死傷率31.4%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残したほか、対日戦においても暗号解読や通訳兵、兵士の日本語教育として貢献した。これらはアメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、戦後の日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。
しかしそれでも戦後も日系人アメリカ人に対する差別は続いた。1978年に、日系アメリカ人市民同盟は強制収容に対する謝罪と賠償を求める運動を立ち上げ、1988年に当時の大統領ロナルド・レーガンは「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名することとなった。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償を行った。
また、同じく人種差別を受けていたネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)の多くの若者も戦場へと向かい、同じくアメリカの勝利に大きく貢献した。しかし、これらの少数民族に対する差別は銃後でも行われ続けていた上に、差別が合法化された状況は終戦後も続き、そのような状況が終結するのは終戦から20年近く経った1964年の公民権法制定まで待たねばならなかった。
- 娯楽・スポーツ
バーやダンスクラブなどは全土で営業制限が行われた。これは1943年まで続いた。また、日本軍の上陸が危惧された太平洋沿岸で行われた灯火管制の実施時には、レストランや映画館などの夜間営業も制限された。
『カサブランカ』をはじめとする、戦意高揚を目的とした娯楽プロパガンダ映画が多く製作された。
メジャーリーグベースボールは日本のプロ野球同様継続されたが、多くの有力選手が戦場へと向かったほか、終戦の年の1945年にはMLBオールスターゲームが中止を余儀なくされるなど、戦争の影響を大きく受けることになった。
ポルトガル
- 本土
アントニオ・サラザール政権下で中立国となったポルトガルの首都であるリスボンは、ヨーロッパの枢軸国、連合国双方と南北アメリカ大陸、アフリカ大陸を結ぶ交通の要所となり、さらに開戦後にはヨーロッパ各国からの避難民が殺到した。
中立国ではあるものの、ポルトガルからスペイン経由でドイツの占領下にあるフランスやドイツ本土へ流れる各種物資の流れを止めることを目論んだイギリス海軍による海上封鎖が行われたために、生活物資をはじめとする各種物資の輸入が激減した[263]。
- 植民地

中立国であるにもかかわらず、大戦勃発後に大西洋上にある植民地であるアゾレス諸島を、イギリスとアメリカによる圧力により連合国軍の物資補給基地として提供させられることを余儀なくされたほか、大東亜戦争勃発後には、アジアにある植民地であるマカオもポルトガルの植民地として中立の立場を堅持したまま日本軍の影響下に置かれることを余儀なくされた。
さらに同じアジアにある植民地である東ティモールは、大東亜戦争開戦後の1942年にオランダ領東インド駐留オランダ軍とオーストラリア軍が「保護占領」し、その後両軍を放逐した日本軍が同じく「保護占領」下に置くなど、あくまで名目上は中立国としての立場を尊重されたまま、枢軸国と連合国の間の争奪戦の中に置かれた。なおこれらの植民地との交易は、上記のイギリス海軍によるポルトガル本土周辺海域の海上封鎖や戦禍の拡大を受けて激減した[263]。
新たに登場した兵器・戦術・技術
第一次世界大戦では工業力と人口が国力となっていたが、第二次世界大戦ではこれに科学技術の差が明確に加わることとなった。戦争遂行のために資金、科学技術が亡命者を含み投入され、多くのものが長足の進歩を遂げた。
電波兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、ジープなどの四輪駆動車、核兵器などの技術が新たに登場した。電波兵器と四輪駆動車を除く3つは大戦の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは大戦初期のバトル・オブ・ブリテン辺りから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。
既存兵器の変化
- 兵器
第一次世界大戦で実用化が進んだ航空機は、大戦前から近代的な全金属製戦闘機であるドイツのメッサーシュミット Bf109やイギリスのスーパーマリン スピットファイア、日本の零式艦上戦闘機が実用化され初期から中期の戦場で活躍した。各前線での戦闘の激化に伴い、日本やイギリス、ドイツやアメリカなどで新たな航空機の開発が進められた。
発動機の出力は著しく向上した。レシプロエンジンで1,000馬力程度の出力であったのが、過給機を含めあらゆる技術がつぎ込まれ、戦争中には小型で2,000馬力、大型で3,000馬力を超えた。レシプロは限界を迎え、大戦中にドイツ、イギリス、イタリア、アメリカ、日本の5国はジェットエンジンの開発までたどり着いてしまう。
ジェット機の実用化は、ドイツとイギリスが1944年に実現した。日本でもジェットエンジン「ネ0」搭載の新機種の開発などが急ピッチで行われたが、ジェット戦闘機の完成はアメリカと同じくぎりぎりで終戦に間に合わなかった。
爆撃機としては、ショート スターリング、ハンドレページ ハリファックス、アブロ ランカスターやボーイングB-17、B-24、B-29等、発動機4発の大型戦略爆撃機が連合国側で多数登場した。またイギリスのデ・ハビランド モスキートや日本の三菱一〇〇式司令部偵察機等の高速偵察機、さらに末期にはイギリスの